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いつか素晴らしい世界になって、誰でもが望む旅を楽しめる、そんな世の中になりますように祈りつづけます。

残酷な歳月 35 (小説)

2015-12-30 15:25:01 | 小説、残酷な歳月(31話~42話)


残酷な歳月
(三十五)

だが、なぜか、混乱した中で、加奈子との約束の「アマダブラム」をどうしても見たくなって、ネパールへ出かけたのか、今になってジュノは不思議に思えるのだった。

ジュノの中で、加奈子の存在の大きさを思い知らされていたが、ジュノは孤独だったが、寂しさや切なさは耐えられていた。
『加奈子はきっと元気でいる!』

そう思うことで、どうにか冷静になり落ち着きを取り戻して、ジュノは、これからの生活を考えていた、ネパールから帰国して、ジュノは、小さな病院をはじめた。

外科と心療内科をメインに、いずれは、総合病院として運営していく準備を進めていたが、ジュノの計画よりはるかに、早いスピードで、多くの事が進んで行く!

だが、ジュノは、人の縁には恵まれているようで、スタッフも、ジュノを頼りにして来てくれる者も多く、又、経営の面でも、ジュノの外科医としての知名度があることで、開業と同時に、訪れる患者も多く、順調すぎるほどのスタートであった。

部屋数は少ないが入院患者用の部屋もあり、ジュノの考えていた事よりも、はるかに多い患者がおとずれてくる忙しさで、ジュノは対応に苦慮していたが、必死の思いで来る、患者さんのその気持ちを大事にしたい!
『出来るだけ患者さんの希望を受け入れたい』

だが、時間とスタッフの不足がジュノの想像をはるかに超えていて、以前よりも、ジュノ自身の体を休める時間も無いほどの日々だ。

だが、以前のジュノとはちがって、前にもまして、仕事の的確さと優秀さを発揮していた。

そんなある日、突然、ジュノの元に、荷物が送られてきた、差出人も住所も書いてなくて、だが、長野からの取り扱い印が記されていた。

荷を開けて、驚いたのは、母が最後まで大切に持っていた!
『あの詩集、反戦の詩が載っている!』

同じ本が、三冊と大杉さんからの長い手紙が入っていた。
『大杉さんから送られてきた荷物だった』

大杉さんの手紙には、
『今、自分がいる場所は、言えない!』

おそらくは、私は、もう、長くは生きられないだろうと思う。
『肝臓がんの末期のようだ!』

ながい間、君たちを避けて来たけれど、今しか、すべての事を話す機会がないと思い、ここに、すべての事を書き残す事にした。

だが、ジュノ(寛之)も樹里も、この伯父さんを信じてくれるかが、本当に心配です!
先ず、何から、話せばよいのか、思いばかりが、先走り、言葉にならない気持ちが辛い!

君たちへ、たくさんの許しを請う事があって、気ばかりが焦りますが、今、この頭に浮かんだ事から、ひとつ、ひとつ、書きますから
『必ず、読んでください、お願いします!』

一番に知らせたいのが、あなたたちの韓国の祖母!
『私と君たちの実の母、君たちの祖母は』
今、日本に住んでいて、元気に暮らしています。

そして、私、『大杉春馬』は、
『君たちの本当の、母方の伯父です!』

君たちの実の母
『イ・スジョン』
は、父親がちがうが、私、大杉の妹なのです!

君たちのおじいさんは
『イ・ゴヌ』
と言って、朝鮮半島が、日本に統治されていた時代に、小さな、出版社を営みながら、危険な状況の中で、密かに!
『朝鮮の民族が、日本の統治から独立する事!』
日本政府の厳しい監視の中で、独立運動をしていた人です。

その、独立運動の仲間だった、私、大杉の実の母、君たちのおばあさんは、十七歳の時に、『朝鮮総統府』に出入りしていた日本人なのか、それとも同胞の人間だったのかわからないが、拉致されて、ひどい拷問を受けた中で、暴行されて、その時に出来た子供が、私!『大杉春馬』です。

あまりにも、衝撃的な事で、驚いた事だろうけれど、すべての真実を、君たちには知ってほしい、知っておくべき事です。

私が生まれた何年か後に、私、大杉の母
『キム・ソヨン』

は君たちのおじいさんである
『イ・ゴヌ』さん

と結婚して、生れたのが、君たちの母
『イ・スジョン』なのだよ!

私の父は、誰なのか、確かな事ではないが、私が成人して、大分時間が経った頃に、私の父だと思われる人物が、外交問題を専門に研究した人物として、名をなした人物だそうで、つい最近まで、政治家として活躍していたのだと、人づてに聞いた事だ!

しかも、朝鮮問題を研究し、論文に書いて、発表して、絶賛された事を、今、日本に住む、私の母『キム・ソヨン』は、かなりショックを受けたそうだが!

私には、何一つ、話すことなく、耐え忍んで、日本で、生きて行く事を幸せな事と考えたようです。


                  つづく

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韓国を意識したのは1973年に「金大中氏」が日本のホテルに滞在中に拉致され、5日後に傷だらけの姿で、自宅前で解放された、ニュースを見た時、又、もうだいぶ昔ですが、日本の統治時代に子供で日本語を強制的に教えられた方が戦後、日本に来た在日韓国人のある方のインタービューを聞き「母国語より、先に、日本語で物事の判断をしてしまう事がとても悲しい」
この言葉がとても記憶に残ることでした。

今、韓国との関係も良いとは言えない状態の時、つたない小説として書く事が良いのかわかりませんが、日本と韓国の良い関係であるように願いながら、平和を願いながら、連載させていただきます。




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