今日、8月15日は終戦記念日ですね、75年前、私は1歳でしたから、それに東北の山奥で育ち、父親はのんだけれで、あまり仕事をしない人だった。母が寝る間も惜しんで働き生活する、私は物心がつた頃にはたまに家にいる父が、「内地の奥様」と母を殴りながら言っていたことが、気がかりのひとつでした。後でわかったことですが父親は家族を連れて朝鮮で日本軍の仕事をしていて、その頃が父の人生でおそらく一番華やかだった、昭和20年の春に朝鮮から引き揚げて、帰国、かなりあったという財産は持ってかえれずわずか身の回りの着がえ位だったと、誰かに聞かされたことを、そして母が42歳の若さで亡くなった。
何処で観たのか忘れてしまったけど「北川民治」という画家の絵(たぶん本)を観たときに自分でどんな目的だったか忘れてしまったけど、東京へ行かなくてはと思った事だけは確かなことだった。
東京で仕事をしていた中で、あるご夫妻に私はなぜか優しくされた、そのご夫妻は父母とおなじ位の年齢だったこともあり親しみを感じたのかもしれないけど、とにかく私は優しさに飢えていたのかもしれない、旦那さんはいわいる学徒動員で戦場駆り出されて「シベリア抑留」を何年も耐えて帰国後大蔵省(今は財務省かな)お勤め、奥さんは専業主婦だったと思うが、なぜ私が知り合いになれたのか、どんなきっかけだったのか思い出そうとしても思い出せないけど、
何度かご自宅に招待していただきご飯を食べたがどんなものだったのか記憶にない、けれど、旦那様は物静かで、奥様はケラケラとよく笑う人だった、
ただ一度だけ、私の仕事はどんな事をするのかと聞かれた旦那様に、私は正直に答えて、小さな印刷所だから、外回りから、工場での印刷まで何でもやっていることを話したのを記憶している、何年のお付き合いだったかご夫妻からは一度もシベリア抑留の事、戦争の事は聞いた事がなかつた、
ただ、読んでいる本の事などを話した記憶がある、あの頃の私は生意気にもロシア文学に惹かれていて、読みかじっていた、特にプーシキンの詩が好きで読みかじった、好きなところだけを読んでいた、そんなことをたぶんご夫妻に話していたのだろうと今になって複雑な気持ちになる、私の憧れたロソア文学の世界と今のロシアは全く別の価値観なのだろう、プーチン大統領は生きている限り自分が大統領でいるつもりみたいだから・・・
考えてみると、海の向こう国々は何をしたいのかわからない怖さに満ちている、日本の若者よあなたの肩には多くの歳よりが乗っかっているのだ、そのじじ、ババは、良くも悪くも頑張って、頑張って、今のにっぽん国をつくってきた人々です、平和を守り、美しき日本でいられるかは、若き、君たちに託すしかないのだから・・・
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追記
青春の日のある日、東京大学のまえの通りの小さな画廊で本物「北川民治」画家の絵を見る事が出来ました、あの独特の画風にであえた、そして何十年もすぎて、長谷川恒男さんの(登山家)事務所のスタッフさんのお一人が北川民治」さんのお孫さんと美大一緒に学んだと聞いたときは驚きと懐かしさと、偶然なのか、必然なのか、ひとのめぐりあわせの不思議さを感じた、そのスタッフさんも今はこの世界にいないお人になりました。
私だけがしぶとく生かされている事のいみを常に考えてしまいます、まだ何かをしなさいと神という存在があるのであれば、何をすればいいのだろうか・・・