倭姫太后は、何処へ行ってしまったのか
天智天皇の最後をみとった皇后の、その後の消息は分かりません。何処へ行かれたのでしょう、不思議です。
広い琵琶湖の南の対岸と少し近くなるところに楽浪の志賀の大津京はありました。天智天皇の都です。園城寺の辺りに大友皇子の屋敷があったそうです。
若干の柱跡が見つかっているだけですが、この辺りを額田王も天智天皇も歩いたかも知れませんね。天智天皇は近江大津宮での崩御でした。
御病、崩御、殯宮、埋葬と一連の流れが挽歌として万葉集に九首掲載されています。歌を詠んだのは後宮の女性達でした。なかでも皇后の歌は四首あります。謎の皇后倭姫の歌を読んでみましょう。
天皇、聖躬不予(せいきゅうふよ)の時に太后奉れる御歌一首
147 天の原ふりさけ見れば大王の御寿(みいのち)は長く天足らしたり
天の原を振り仰いで見上げると、わが大王の御命ははるかに長く天に満ち足りております
病に臥した天皇の傍で、皇后はその命の長くあることを祈ったのでしょう。しかし、御病は重篤になり天皇の意識は薄れてしまいました。
一書に曰、近江天皇聖躰不豫(せいたいふよ)御病急なる時、太后奉献る御歌一首
148 青旗の木旗の上を通ふとは目には見えれど直(ただ)にあはぬかも
大王の魂が青々とした木幡の木々の上を行ったり来たりしているとわたしの目には見えます。でも、魂はお体を離れているので、もう直にお会いすることはできません。
木幡の山に風が吹いて木々が騒いでいたのでしょう。木々を震わせて大王は何か伝えようとなさっている、そう思っても既に話は出来なくなっているのです。太后と天皇の深い結び付が偲ばれます。
遂に天皇崩御となりました。皇后はぼんやりと来し方とこれからを考えました。そして、深く天皇を愛していたことを思うのです。
天皇崩(かむあが)りましし後の時、倭大后の作る御歌一首
149 ひとはよし思い止むとも 玉蘰 影に見えつつ忘らえぬかも
人は忘れることはあっても、まるで神の依り付く玉蘰のようにあの方の御姿が目の前にちらついて忘れようにも忘れられないのです。
殯宮(あらきのみや)の前でしょうか。皇后は天皇の面影を追っていました。
いよいよ大殯(おおあらき)の儀式が始まりました。近しい者は声をあげて泣き、天皇の蘇りを願います。殯宮は淡海の見える所に造られたのでしょうか。船の歌が続きました。
皇后も船を詠みました。「太后御歌一首」です。
広く大きな淡海の海を、遥かな沖から漕いで近づいて来る船。岸辺近くを漕いで来る船。沖の船の櫂よ、ひどく撥ねないでほしい。岸辺の船の櫂もひどく撥ねないでほしい。私の大切な嬬(夫)の魂が鳥となった、その魂の若い鳥が音に驚いて飛び去ってしまうから。
天智天皇の霊魂は鳥となりました。大王は鳥となり淡海を見ている若い鳥なのです。その神霊を驚ろかしてはならないと、太后は詠んだのです。
ここまで深く天智天皇に仕えた倭皇后でしたが、この後どうなったのでしょう。消息はないのです。
わたしは倭皇后はこの後も生き抜いたと思います。この後もいろいろあったことでしょうが。
倭皇后の人生は、人麻呂歌集の中にしっかりと読み込まれているのではないかと、わたしは思っているのです。
万葉集は天智天皇の挽歌を九首残しています。持統天皇が勅によって人麻呂に編纂させたのなら、人麻呂は女帝の意思を十分に承知して天智天皇の歌を掲載したことになりますね。持統天皇にとって天智天皇は懐かしく恋しい人だったのですね。
では、また。