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16  朱鳥四年の持統天皇の紀伊国行幸(2)

2017-02-15 16:28:35 | 16朱鳥四年の持統天皇の紀伊国行幸

16 朱鳥四年の持統天皇の紀伊国行幸の目的

持統天皇は、この年の紀伊国行幸に阿閇皇女(あへのひめみこ)を伴いました。そして、川嶋皇子(かはしまのみこ)も従駕していました。川嶋皇子は天武天皇の皇子ではなく、天智天皇の皇子です。

その川嶋皇子は、紀伊国行幸で有間皇子ゆかりの「結松」を詠んでいます。

紀伊国にいでます時の川嶋皇子の御作歌

34 白波の濱松が枝の手向け草幾代までにか年の経ぬらむ

白波が寄せて来る浜の結松、その手向けのものは いったいどのくらい年を経たのだろうか。あの有間皇子事件から何年たったというのだろう。(何年経っていても、あの事件を思い出すと胸がいたむのだ)

(あるいは、山上臣憶良の作というと脚注があるのは、巻九の1716番歌が憶良の作で、よく似ているからです)

川嶋皇子の歌はこの一首のみです。この歌の後に置かれているのは、阿閇皇女の「これやこの倭にしては我が恋ふる…」の歌です。阿閇皇女も川嶋皇子も天智天皇の子どもでした

川嶋皇子は、天智八年(679)の吉野盟約に参加した六人の皇子の一人です。吉野盟約とは「草壁皇子を皇太子とすることを認めさせるための儀式だった」とか「先々謀反など引き起こさないように約束をさせるための儀式だった」とか、様々な説があります。日本書紀にも、天皇・皇后が襟を開いて天智天皇の皇子と天武天皇の皇子とを抱き、盟約の儀式をしたと書かれています。

六人の皇子とは、草壁皇子・高市皇子・大津皇子・刑部皇子・川嶋皇子・志貴皇子です。この中で、川嶋皇子と志貴皇子が、天智天皇の皇子でした。

吉野盟約があったからでしょうか。川嶋皇子は大津皇子の謀反を密告しました。「懐風藻」には親友の契を結んでいたとあります。「莫逆の契」を結んだ相手を裏切ったのです。その為、大津皇子は死を賜りました。

天武天皇崩御(九月)の前の八月に、川嶋皇子は封百戸を受けています。金銭授受のようなものです。天武天皇崩御後に大津皇子の謀反(十月)、川嶋皇子の密告後に皇子大津に死を賜るという、即断でした。大津皇子の妃の山辺皇女は裸足で髪を振り乱して駆けつけ殉死しました。

その様子に廻りのものは皆泣いたのです。その一部始終を川嶋皇子が知らないわけは無いでしょう。誰かがこまごまと語り聞かせただろうし、世間は噂を流しただろうし、川嶋皇子の耳に入らないわけは有りません。

朱鳥四年(持統四年)紀伊国行幸は、大津皇子事件から四年目の九月でした。

有間皇子の謀反事件の結松を見て、川嶋皇子が何も思い出さないはずは有りません。そこで詠まれたのは「白波の濱松が枝の手向け草…」なのです。

この歌は公の場での詠歌になっています。川嶋皇子の詠歌であることが重要でした。

あの大津皇子は謀反事件を起こしたが、有間皇子は無実だったに違いない。大津皇子を密告した川嶋皇子でさえ、有間皇子を偲んでいるではないか。有間皇子は無実だった、だからこそ、何年たっていてもその霊魂を鎮める儀式をしているのだ、というメッセージになったことでしょう。

翌年(691)、九月、川嶋皇子は薨去しました。年は二十五歳、まだ若かったのです。

大津皇子の賜死に関わった天智天皇の忘れ形見、その川嶋皇子は何故にこのような若さで薨去しなければならなかったのでしょうか。運命から逃げられなかった皇子の悲しさを感じます。

また明日

バイモ・アミガサユリ・春の花