「梅花の宴」の歌を紹介をしますと書いてから、もう何週間たったでしょう。
今日、5月に改元される新年号が発表されました。出典は万葉集の梅花の宴の序文、ということでした。
それは、読み下し分にすると、次のような文章です。
集英社の「万葉集釋注」(伊藤博)の訳文を紹介します。
今日は新元号の発表日。選ばれたのは『令和』。
万葉集を世に出された平城天皇の業績に深く感謝したくなりました。
延暦二十五年(806)、平城天皇は、即位するとすぐに、大伴家持(すでに20年前に死亡)の官位を復し「万葉集」を召し上げられました。それまで、大伴家持は藤原種継暗殺事件に連座して官位を剥奪されていました。万葉集も大伴氏と共に廃されていたのでしょう。
平城天皇は即位前から万葉集を知り、そこに書かれている内容を、十分に理解されていたのです。だからこそ、侍臣に編集させ「万葉集」を世に出されたのです。万葉集を埋もれさせてはいけないという意思がおありでした。
やがて、平城上皇となって「奈良の都に戻ること」を強く提唱し、譲位した弟の嵯峨天皇と対立されました。
自ら譲位していたにも関わらず、奈良遷都を強行しようとされたのを、誰もが不思議に思ったでしょう。
平城天皇の奈良の都への深い思いは、万葉集と無縁ではありません。万葉集の内容を読み解いたからこそ「奈良遷都」に固執されたのです。『奈良の都へ還るべきだ』と強く思われたのでした。
平城天皇を動かした万葉集とは何だったのか、それは大きな万葉集を解く鍵です。
万葉集には、皇統の正統性とその歴史が歌物語として編集されていました。
編集を命じたのは持統天皇、編纂者は柿本人麻呂を中心とした歌人・学者でしょう。
しかし、そこに書かれた史的な内容はインパクトが大きく、時の元明天皇(草壁皇子の妃・文武天皇の母)の逆鱗に触れ人麻呂の刑死となりました。そうして、宙に浮いた万葉集は、大伴氏の手に渡り守られて来ました。全てを承知して、大伴氏が元「万葉集」を引き受け、保麿・旅人・家持と受け継がれていたのです。
その流れをすべて承知していた平城天皇は、即位後に万葉集を大伴氏から召し上げ、世間に出せるように編集しなおし改竄されたのだと思います。
やがて譲位して上皇となっても奈良の都への回帰願望は日増しに大きくなり、遂に終始が付かなくなりました。しかし、嵯峨天皇の方が早く兵を動かしたので「薬子の変」と呼ばれる平城上皇の変は失敗に終わり、上皇は出家されました。万葉集はふたたび人々の目から遠のきましたが、その歌の力は人々の心に残っていきました。
「曰く付きの歌集」を召し上げた平城天皇は、何に気づき、どんな思いを抱かれたのでしょう。それは、平城天皇の元号で想像することができます。それが「大同」です。
大同…意味深な元号です。「前王朝も現王朝も本当は変わりはないのだと、根は同じなのだ」というメッセージ・意味です。
父の桓武天皇は、天武朝から天智朝の皇統に皇位が戻ったことを「易姓革命」だとされました。
しかし、その長子である平城天皇は、「大いに同じ」だと元号を定めたのです。
それは、万葉集を既に知っていたための元号の選択だったと思います。
失意のうちに世を去った平城天皇の無念、それが今日は晴れたと思います。
万葉集「梅花の宴」の序文から新元号の『令』と『和』が選ばれたからです。是から万葉集の姿が明らかにされていくでしょう。万葉集に掲載されていたのは、王朝の歴史歌であり、その正当性と弥栄を願う詩歌です。天智朝も天武朝も違って見えているが同じなのだ、それが皇統の歴史だったのだと、気が付かれた平城天皇の大きな業績が評価されると、私は思います。(さて、何処が同じだったのか、これからは書こうとは思っていますが。)
大伴旅人も万葉集を理解し、晩年になって歌に目覚めました。息子の家持は、父と柿本人麻呂と山上憶良を敬愛し、初期「万葉集を」守りました。後に付け加えたのは、万葉集の編集方針に倣った後期『万葉集」です。
平城天皇は「後期万葉集」にはあまり編集の手を入れておられません。その必要がほとんどなかったのです。
さて。
梅花の宴は、天平二年(730)の正月に、大伴旅人の館で行われた宴ですが、形式は「古王朝の正月儀式」だったと思います。旅人は大宰府に来て、古王朝の正月儀式を知り、再現したのです。
前年の神亀六年(729)、長屋王の変(二月)があり、長屋王家に悲劇が訪れ、半年後に改元(八月)されて『天平』となりました。天平とは「謀反者を滅し、世を平らげた」という意味なのです。天平二年は、改元後の初めての正月です。そこで、行われた梅花の宴。
梅花の宴はただの遊びではありません。尊敬していた天武朝の高市皇子の跡継ぎである長屋王家の悲劇を胸にしながら、九州にあった古王朝の正月儀式を大伴旅人が再現したのです。
そこには、長屋王へ深い追悼の思いがあったはずです。
「梅花の宴」は、正月に、役人のトップから無官の者までが集まって「王朝の寿ぎの歌を詠む」という前代未聞の正月儀式でした。その頃の都にはない儀式形式だったのです。人々は驚き、その宴を称賛し、息子の家持(やかもち)も書持(ふみもち)も長く誇りにしていました。
「令和」の世の弥栄を心から願っています。
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