おほきみは神にしませば~と詠まれた歌は、六首
六首の中に「大王は神にしませば天雲の雷の上に…」の歌があります。この歌の雷岳はどこなのか、下の写真の明日香の小さな丘なのか、様々に取りざたされましたね。
では、6首を見てみましょう。
Ⓐ 王(おほきみ)は神にしませば天雲の 五百重が下に隠りたまいぬ (巻二~205)
Ⓑ皇(おほきみ)は神にしませば 天雲の雷(いかづち)の上に廬せるかも (巻三~235)
©皇は神にしませば 真木の立つ荒山中に海を成すかも (巻三~241)
Ⓓ皇は神にしませば赤駒の腹ばう田井を京(みやこ)となしつ(巻十九~4260)
Ⓔ大王(おほきみ)は神にしませば 水鳥の巣だくみぬまを皇都となしつ(巻十九~4261)
これらの歌はどんな状況で詠まれたのでしょうね?
Ⓐは、「弓削皇子が薨ぜし時、置始東人(おきそめのあづまひと)の作る歌一首 ならびに短歌」という題がある「長歌」の後に置かれた「短歌」です。つまり、弓削皇子のための挽歌なのです。そこに「王は神にしませば」と使いました。
Ⓑは、巻三の冒頭歌で、人麻呂の作歌です。「天皇、雷岳に御遊(いでま)すとき、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」とあり、歌の後に「右は或本に忍壁皇子に献ずる歌というなり。その歌に曰く、『王は神にし坐せば雲隠るいかづち山に宮敷き坐ます』」という脚が付けられています。
この天皇は誰か分かっていません。説明の文章がないからです。さて、誰でしょうね。
©は、人麻呂の長歌「長皇子、狩路池にいでます時、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首」の後に付けられた「反歌」の更に後に「或本の反歌一首」がありますが、其の或本の反歌として載せられているものです。
ⒹとⒺ は、「壬申年の乱平定以後の歌 二首」そして、Ⓓのあとに『右一首、大将軍贈右大臣大伴卿作』とありますから、大将軍の役職にあった大伴旅人(薨去の後に『右大臣』の称号を送られている)の作です。しかし、Ⓔは『作者未詳』とあります。
壬申の乱後の二首とはいえ、大伴旅人は壬申の乱の頃はまだ生まれたばかりで、次の作者は未詳ということですね。そうすると、「大王は神にしませば~」という言葉を造り出したのは、人麻呂でしょうかねえ。
天武天皇の皇子だけに使われた「おおきみは神にしませば」
この言葉は、天武朝と天武天皇の皇子に使われた言葉です。弓削皇子は、天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)の間に生まれた男子です。軽皇子(文武天皇)の立太子の時、異議を申し立てたと伝わります。兄の長皇子を皇位継承者と考えての意義申し立てだったのでしょう。そのためか、弓削皇子は若くして薨去しています。同じ年に、母の大江皇女も薨去しました。
弓削皇子は、額田王と歌のやり取りをしました。額田王も歌を返しています。
いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥 けだしや鳴きし吾が念(も)へるごと(巻二~112)
むかしを恋しがった鳥は、きっと霍公鳥でしょう。ひょっとしたら私の思いのように懐かしそうに鳴いたのでしょうね。
若い皇子には悩みも多かったことでしょう。皇子に対して、額田王は優しく接したのですね。しかし、弓削皇子は、常に身に危険を感じていたのでしょうか。自分の命が長くないことを意識していたようです。
このような弓削皇子が薨去した時、置始東人が挽歌を詠んでいます。
後日、この歌も読んでみましょうね。