気ままに何処でも万葉集!

万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

柳沢吉保も知った有間皇子と間人皇后の物語

2018-09-07 22:50:54 | 78柳沢吉保は万葉集編纂の意味を知った

 江戸時代になっての話ですが、側用人柳沢吉保(1658~1714)が徳川五代将軍・綱吉に仕えたのち隠居して六義園という庭園を駒込に造りました(1702年)。「回遊式築山泉水」の大名庭園です。

江戸時代の大名庭園の中でも代表的なもので、明治になり三菱の創業者である岩崎彌太郎の別邸となりました。その後、岩崎家より東京市に寄付され、昭和28年に国の特別名勝に指定された文化財になっています。

「六義園記」は、『大名庭園の最高傑作・六義園の理念を高らかに宣言し、「八十八境」と呼ばれる名所のネーミングの由来を記したものである』ということです。この「六義園記」ついて注釈を加えた本がありますから、現代の私たちも柳沢吉保の名文に触れることができます。

この庭園は散策しながら源氏物語の世界や万葉集の世界を偲ぶようにできていていますが、庭園の中心に造営されたのは、富士山でも嵐山でもありません。池にしても琵琶湖でも須磨でも宇治川でもないのです。

庭園の中で一番高い築山は標高35mありますが、庭園を一望できる藤白峠です。一番高い築山が藤白山でした。わたしは深く心ゆすぶられました。柳沢吉保はやはり只者ではなかったのだと思いました。側用人としての気を抜けない年月の後、和歌の世界を偲んだ庭を造ったのです。それも、万葉集の真意を悟ったのです。

万葉集は何を伝えようとしたのか、たくさんのインテリに囲まれてはいたのでしょうが、理解したのですね。

当時の人々も、池をめぐり山を登り、藤白峠で古の物語と歌の謎解きをしながら万葉集に浸ったのです。

万葉集の中で藤白が出てくるのは一か所だけで、「藤白坂」のみです。和歌山県海南市藤白から海草郡下津町橘本に超える坂ですが「藤白のみ坂」と書かれた其処は、有間皇子が追っ手により刑死となった地なのです。

  藤白のみ坂を越ゆと白栲のあが衣手はぬれにけるかも

藤白の坂に「み」が付いていますから高貴な方にまつわる「坂」ということですが、「その坂を越える時、あの方の運命を思い出してわたしは涙を流してしまうのだ」という歌です。この歌を詠んだのはだれか、または詠ませたのは誰かということですが、この歌は、持統天皇と文武天皇の大宝元年行幸時の「紀伊国行幸十三首」のうちに有りますから、二人の高貴な方に献じた寵臣の歌に他なりません。

万葉集中にただ一首しかない地名「藤白坂」を庭園に取り入れたのですから、有間皇子事件を彷彿とさせる仕掛けになっているのです。柳沢吉保は万葉集について十分に理解していたか、彼の取り巻きのインテリ学者たちが吉保に万葉集を解釈し感動させたということになりましょう。

六義園に造られたのは藤白山ばかりではありません。紀ノ川(吉野川)からその河口の和歌の浦や玉津島が表現されていますから、まさに万葉集の王家の悲劇の物語がたどられているのです。

六義園については、また明日。

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万葉集巻一の最終歌が外され巻八に移動された、其の理由

2018-07-09 00:52:41 | 77万葉集巻一の最終歌に選ばれた歌は何か

人麻呂が編集した初期万葉集・巻一の冒頭歌と最終歌は何だったのか 

巻一の冒頭歌は雄略天皇の御製歌でした。では、巻一の最終歌は何だったのでしょう。

ちょっと興味が湧きますね。現存する巻一の最終歌は長皇子の歌になっています。

 

以前にも書きましたが、長皇子は持統天皇のお気に入りでたいそう大事にされていました。ですから、巻一の最終歌には長皇子の歌が選ばれることに異存はないのですが、ちょっと変です。

それは、長皇子が佐紀の館で宴会をしてる時の歌で、わざわざ「長皇子、志貴皇子と佐紀の宮にしてともに宴する歌」と題詞が在るのに、志貴皇子の歌がないのです。題詞に名が在れば、その人の歌がもともとは置かれていたのではないかというのが、万葉集学者の意見でもあります。

わたしもそう思います。

では、元々あったのに外された…その理由は何でしょう。

おかしな歌だったから人麻呂が外したとは考えられません。そうであれば志貴皇子の名も出さず歌も当然掲載しないでしょう。後の人が意図的に外した、そうしか思えません。

しかし、それは何故でしょう。

ここで長皇子と志貴皇子の立場を考えてみましょう。

長皇子の母は、大江皇女で天智天皇の娘で、壬申の乱の後、皇女は天武天皇の后となり、二人の皇子を生んだと云うことです。人麻呂が歌を献じたことでも分かるように、長皇子は持統天皇にも愛されました長皇子にとって志貴皇子は叔父にあたります

志貴皇子は天智天皇の第七男子です。壬申の乱後、天武天皇の吉野盟約に選ばれた六人の皇子の一人でもあります。天智天皇の第七皇子でありながら天武朝でも大事にされ、天武の皇統が絶えたとき皇位を継承した光仁天皇は志貴皇子の王子でした。

どうやら、この辺りが志貴皇子の歌が外された理由だと思います。

志貴皇子は宝亀元年御春日天皇と追尊され、同年十月に田原天皇と追尊されました。平安時代の人にとって、志貴皇子はただの皇子ではないのです。光仁天皇・桓武天皇の直接の父であり祖父に当たります。

万葉集を手にした平城天皇は、自分の先祖の天皇の歌を「巻一の最終歌」としたくなかった! のではないでしょうか。

 つまり、志貴皇子のその歌は大事にされて外されたのです。然し、別のところに目立つように置かれた…と、仮定すると該当する歌が一つ見つかります。探してみてください。

万葉集に掲載されている志貴皇子の歌の中から。

 

万葉集巻八の冒頭歌です。

1418 石はしる垂水の上の さわらびの もえ出る春に なりにけるかも 

この歌を置いて他には相応しい歌は見つかりません。

「その時が来た。ああ、やっと来たのだ」という歌です。

岩の上を走る水が滝となってしぶきを上げて落ちていく。其の滝の上の岸に早春のワラビがたち始める、そんな春になって来たのだなあ。いよいよ春なのだ。

 平城天皇は是を読んで感動したでしょう。そして、めでたくも巻八の冒頭に置いたのです。

時が流れて、皇統が天智朝に移ったという意味でこの歌を巻八の冒頭に置いた、そう考えると万葉集が本当に魅力的になりませんか。

歌の再編集をさせて移動したのは、もちろん平城天皇だとわたしは思います。

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柿本朝臣人麻呂の妻に人麻呂の死を告げたのは誰か

2018-05-30 09:25:00 | 76柿本人麻呂の妻、依羅娘子、挽歌を詠む

依羅娘子は人麻呂の死を知って、直接には会えないと悟った

巻二の223は、人麻呂の「臨死の時の歌」でした。その歌を伝え聞いた後に、妻の依羅娘子(よさみのをとめ)が歌を詠んでいます。

今日は帰って来るかも知れない、今日こそは、と私が待っている貴方は、石水の貝に交じっているというではありませんか。

もう、あなたに直にお会いすることは、とてもできないでしょう。石川に雲よ立ち渡れ。その雲を見ながらあなたを偲びます。

依羅娘子(よさみのをとめ)から石川は見えているのでしょう。しかし、現代の私たちには石川が何処なのか分かりません。人麻呂が刑死したと思われる「鴨山」も分かりません。

石川が何処なのか色々説があります。石見国(島根県)の江川・高津川・浜田川・女良谷川のいずれであるかとかです。更に、人麻呂を偲んでいる娘子が居る所、そこは島根県ではなく、ヨサミと言う地名と石川が一緒に在る場所となると大阪なのかも知れません。(この方が自然ですが)むしろ、河内の石川説もあるほど、島根では石川が見つからないのです。

娘子が摂津か河内に居るのなら、石見の国の妻・人麻呂が残してきた妻と依羅娘子は別人と云うことになりますね。

依羅娘子は何処で人麻呂の死を知ったのか

歌の通りであれば、依羅娘子は石見の国ではない処で人麻呂の死を知ったのです。誰がその事を伝えたのでしょう。「石水の貝に交じっているというではありませんか」と、人麻呂の死を聞き及び深く揺さぶられました。死の状況が伝わったのです。

死後その墓も分からず「貝、又は谷に交じっている」状況とは、まさにどこかで行き倒れて所在不明状態です。が、知らせたのは誰でしょう。(人麻呂の行倒れ説があるのは、他に死の状況を説明する適切な解釈ができないからですね。)

依羅娘子は人麻呂の死の知らせを聞いて深く驚き、せめて霊魂が雲になって立ち渡ってくれたら偲ぶこともできようと歌を詠みました。もはや雲と言う形でしか逢うことができないのです。(古代の人にとって雲は、亡き人の意思や霊魂でありました。無念や恋心やため息も漂う霧や霞となりました。だから、人麻呂がすでに亡くなりもう直に逢うことはできない時、依羅娘子(よさみのおとめ)は「石川に雲よ立ち渡ってくれ、それを見て亡き人を偲ぼう」と詠んだのです。夫の死を覚悟していたようにも感じられます。)

河内に居る依羅娘子に人麻呂の死を知らせた人物は誰か…

 

 それは、丹比真人ではないでしょうか。つまり、丹比真人は、人麻呂とも依羅娘子とも親しい間柄だったのでしょう。人麻呂の死を伝え、その妻の歌を知りえた人物は限られます。

丹比真人の226挽歌は、「人麻呂に成り代わって歌を詠んで」います。彼は人麻呂の死の場所が荒海であることを理解しているし、人麻呂の「臨死」の歌、

223 鴨山の 岩根しまける 吾れをかも 知らにと妹が 待ちつつあるらむ

という歌や、妻の歌にも対応しています。

人麻呂の死の状況を十分に知ったうえで、妻の歌も読んで、人麻呂になりかわって226番歌を詠んだのです。「ああ、わたしが荒波にもまれながら横たわっていると、妻に誰が知らせてくれたのだろうか」と。

226 荒浪により来る玉を枕に置き 吾れここに有りと誰か告げなむ 

人麻呂は自分を待っている妻に思いを伝えたかったに違いないと、丹比真人は思ったのでしょう。では、丹比真人とは、誰なのでしょう。

丹比真人とは、丹比真人島の関係者でしょうか

日本書紀、天武十年に次のような記事があります。 

 二十九日に、田中臣鍛師(かぬち)、柿本臣猨(さる)、田部連国忍(くにおし)、高向臣麻呂、粟田臣真人、物部連麻呂、中臣連大島、曽禰連韓犬(からいぬ)、書直智徳(ふみのあたいちとこ)、併せて壱拾人に小錦下位を授けたまふ。この日に、舎人造糠虫(ぬかむし)、書直智徳に姓を賜ひて連と曰ふ。(柿本臣猨が人麻呂であるなら、従五位そうとうの地位を与えられています

天武十一年四月二十一日、筑紫大宰丹比島真人等、大鐘を貢れり。

天武十二年正月弐日、筑紫大宰丹比真人島等、三足の雀を貢れり。 

持統三年、直広壱(じきこういち)を以ちて、直広弐丹比真人島に授く。

持統三年、丹比島真人と布勢御主人朝臣と、賀騰極(ひつぎよろこぶること)を奏す。

持統四年、正広参を以ちて、丹比島真人に授けて右大臣とす。

持統五年、正広参右大臣丹比島真人に三百戸、前に通せば五百戸。*川嶋皇子と変わらない封戸

持統十年、十月十七日に右大臣丹比真人に輿(こし)・杖を賜ふ。

持統天皇の丹比真人に対する厚遇には、改めて驚かされます。この丹比真人が柿本人麻呂と親しかったと考えるのは自然ではありませんか。どちらも持統天皇の忠臣ですから。その人が人麻呂に成り代わって歌を詠んだとしたら、誰もが納得するでしょう。然し、彼は「大宝元年(701)七月、左大臣正二位にて没」しているのです

人麻呂(柿本朝臣猨)が和銅元年(708)没だとすると、丹比島は先に没しているので代わって歌を詠むことはできません。では、丹比真人とは誰でしょう。親しかった丹比島の関係者なら息子の直守か広成でしょうか。

父親と人麻呂が親しかったなら、子どもも人麻呂の顔も業績も知っていたでしょう。深いかかわりのある人物が226番歌を詠んだとすると、丹比真人島の家族以外には考えられません。そして、刑死した人物が人麻呂であるかどうかの確認をしたかも知れません。そうであれば、ことの顛末を十分に承知していたはずです。

そう思って「荒浪により来る玉を枕に置き 吾れここに有りと誰か告げなむ」の歌を読むと、鬼気迫る思いがします。人麻呂の青ざめた亡骸が胸に迫るのです。

では、この辺で。

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柿本人麻呂の妻依羅娘子、挽歌を詠む

2018-05-26 23:45:08 | 76柿本人麻呂の妻、依羅娘子、挽歌を詠む

人麻呂の死を知った時、依羅乙女は何処にいたのか

柿本朝臣人麻呂が、死に臨んでの「自ら傷みて作る歌」が223番歌です。有間皇子と同じように人麻呂も「自傷歌」を残しました。旅の途中で「人麻呂は行き倒れ」死したという説がありますが、そうでしょうか。
「自傷歌」という文字からして死に臨まされて、有間皇子と同じように刑死となったと、わたしは思います。万葉集の人麻呂の挽歌とその妻の歌を読んでみましょう。


万葉集・巻二の223番歌
  柿本朝臣人麻呂、石見の国に在りて死に望む時、自ら傷みて作る歌一首
223 鴨山の磐根し巻ける吾をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ

  柿本朝臣人麻呂が死にし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)が作る歌二首
224 今日今日と吾が待つ君は石水(いしかわ)のかいに交じりて有りと云わずやも 
225 直(ただ)の相は相かつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ

 丹比真人、柿本朝臣人麻呂が意(こころ)に擬(なずら)へて報ふる歌一首
226 荒浪により来る玉を枕に置き吾ここに有りと誰か告げなむ

  或本の歌に曰く
227 天離る鄙(ひな)の荒野に君を置きて想いつつあれば生けるとも無し


 

上の歌から分かることは、

 

 

 

人麻呂は石見国で死んだ。

その妻の依羅娘子は、夫の死に目には会えず死の知らせを聞いた。直に会えないから魂が雲となって石川に立ち上ってくれれば、それを見て偲びたいと詠んだ。

不思議なことに、依羅娘子は石見の国に住んでいたはずである。人麻呂の131~139番歌は、石見国の依羅娘子と別れる時の歌である。二人は同じ石見国に在りながら逢うことができず、死後でさえ亡骸にも面会できなかった…その死を知っているにかかわらず、面会できていない。これも、人麻呂の死は尋常ではなく、刑死と考える所以である。)

人麻呂終焉の地は 石見国の海か、はたまた荒野のどちらかだろう。
 

224~7の一連の歌、人麻呂の死に対する三人の挽歌が万葉集に残されたのには、必ず意味がある。

死に臨んで自傷歌を詠んだ人麻呂に対して、少なくとも三者が時期を遅れて場所は違うが挽歌を詠んだ。このような例は、「有間皇子の挽歌」以外にあっただろうか。わたしは、記憶していない。)

妻の依羅娘子(よさみのをとめ)と丹比真人(名は不明)と或本の歌の三人は、人麻呂の地位と身分と状況を十分に知って歌を詠んだ。*丹比真人の「真人」は、八色の姓の第一位であるから、この人は高貴な家柄で身分の高い人となる。

依羅娘子は、人麻呂が「石見国より妻と別れて上り来る時の歌二首、併せて短歌」(131~9)の歌群の後にある140番歌の女性である。

「柿本朝臣人麻呂が妻依羅娘子、人麻呂に与うる相別るる歌一首」

な念(おも)ひと君は言えども相はむ時何時と知りてか吾が恋ずあらむ

依羅娘子は相聞歌が詠める身分の高い女性であろう。

以上のことは読み取れます。

 では、いったいこの三人は、何処の如何なる人たちなのでしょう。

それは、次回に。

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万葉集は文武天皇のために人麻呂が編纂した歴史書

2018-05-22 00:20:04 | 人麻呂は歴史を歌物語にした

人麻呂は謎だらけの歌人なのか? 

  否! 彼は大王の忠実なしもべだった

そうなのです。人麻呂の歌は率直で誠実です。

「もののふの やそ宇治川の…」の歌は、人麻呂が、個人的な思いを詠んだと編集されています。近江大津宮を見て春草に被われた荒れた旧都を見て古に心を寄せ、瀬田川では身を投げた近江朝に仕えた娘を偲び、更に宇治川まで下って命を落としたあまたの武人を思ったのです。

余りに感傷的な歌ですが、人麻呂がここまで近江朝を偲ぶ歌を披露したのは誰に対してでしょうか。「柿本朝臣」という姓の「朝臣」は、壬申の乱に功績のあった氏に送られた姓でしたから、天武側に立って壬申の乱を乗り切った氏のはずですね。それなのに、倒した相手の天智朝を偲ぶのです。いつ読んでもなんだか違和感が残ります。

これまでの流れから言えることは、人麻呂は持統帝の忠臣であり、すべてを持統帝に捧げていたのですから、歌を披露した相手は持統天皇です。近江の旧都を偲んだ歌を詠み、持統天皇を慰めたのでした。

 さて、わたしは昨日(5月8日)の筑紫古代史の会で、「人麻呂が持統天皇の詔勅で万葉集を編纂した」と云う内容のプレゼンをしました。参加したほとんどの人が「年表と系図も無いので難しかった」と云うことでした。ですが、ゆっくり読んでいただければ、分かりにくくはないと思いますので、紹介します。

 

もみじばのすぎにし人の形見とぞ 

 万葉集こそが歴史を解く鍵である。

 わたしがこれから紹介するのは「万葉集の謎」であり、「秘密」なのであるが、もともと原万葉集には謎も秘密もなかったと思っている。

 万葉集は持統天皇の詔勅により「皇統の正当性を示すために編纂された」帝紀であり、「若い文武天皇の精神的よりどころとなるよう、皇統の歴史を歌物語にした」史書だった。つまり、万葉集は読みやすく分かりやすい歴史書だったのである。更に、王家の出来事や先人の業績を語る叙事詩であり、婚礼・葬儀・即位の場で使われた儀式歌集であり、祖先霊を鎮める「鎮魂歌集」だったということもできる。また、現代の私たちにとっては、日本書紀では読めない歴史を知ることができる稀有の文学書でもある。

 

今日、万葉集は謎だらけになってしまっている。それは、後世に手が加えられたからで、時の為政者には不都合な内容だったようだ。皇統の正当性や歴史的な部分を再編集して真実が見えなくする必要があったのである。手を加えさせたのは平城天皇で、806年の即位の後、大伴家持の官位を復し「万葉集」を召し上げた。平城天皇(桓武天皇の長子)は「万葉集が如何なる歌集かうすうすしっていた」し、召し上げたのち十分に内容を理解したはずである。それが故に「奈良に京を戻すこと」を主張し、薬子の乱まで引き起こした。が、弟の嵯峨天皇に敗れ、平城天皇が出家したので、万葉集が勅撰集として世に出る機会は再度失われた。しかし、公に出せるように再編集して「万葉集」という形に整理されていたのである。

もちろん、大きく再編集されたのは「初期万葉集」である。可能な限りの配置換えと「題詞の書き換え」が行われ、家持が付け加えた「後期万葉集」に歌が移動したりしたと考えている。

それでも、万葉集で歴史を解くことはできるのである。歌は「言霊」であるから、むやみに歌を書き換えることはできなかった。できなかったからこそ、配置を入れ替えても題詞を操作しても歴史の真実が見え隠れするのである。

➁だから、万葉集を読めば読むほど正史との間にズレが生じ、謎が膨らんでくる。

持統天皇が「万葉集の編纂」の詔勅を出し、誰が実際に編纂したのか。人麻呂編集としても、勅撰歌集にはなっていないから、何があったのか。編纂を命じたのが持統天皇なら、なぜ夫の天武天皇に関する歌が少ないのか。持統帝は息子を失った後、何を目指したのか。心から愛したのは誰だったのか。なぜ天智天皇を偲び、有間皇子の霊魂を鎮め続けるのか。持統帝にとって高市皇子とは何者なのか。天武帝の皇子が極位に着けなかったのは何故か。孝徳天皇の御代の歌がないのは何故か。万葉集が謎の歌集となったのは何故か。後世、手を入れられた理由は何だったのか。などなど、次々に膨らんでくる。 

今日は巻一を通して、万葉集の謎にせまりたいと思う。例えば、 

万葉集の冒頭歌は、何故に雄略天皇の「乙女に呼び掛ける歌」なのか、中大兄が耳成山と争った女性はほんとうに額田王なのか、人麻呂は持統天皇の恋人だったのか……下世話な謎もあるけれど、舒明天皇の国見はなぜ香久山なのか、香具山は小さな150mほどの山なのだから天皇が国見するにしては低すぎる。なのに、持統天皇も香具山を詠んでいるが、それは何故なのか、など。

 

全てに上代という扉が閉まっていて謎すらも見えにくいのだが、持統天皇は誰の娘なのか、草壁皇子は何故薨じたのか、人麻呂の刑死のわけは何か、額田王は誰を本当に愛していたのか等々噂話の元本のようではあるが、しかし、これらはひたすら万葉集を読み込むことで解けてしまうのである。

 

③和歌山県の玉津島神社の写真を冒頭に持って来たのは、ここが万葉集を解く重要な鍵の一つだからである。持統天皇・元明天皇はもちろん、聖武天皇・元正天皇も行幸した場所であり、今は島ではないが、古代には連なる嶋のひとつだった。もちろん、柿本朝臣人麻呂も此処を訪れ、『こと上げ』の決心をしたところでもある。万葉集を解く鍵穴だと私は思っている。

④(のちの世の天皇が此の地を愛し、仮宮を作り、行幸を重ねた玉津嶋。光孝天皇(宇多天皇の父)が、我が子に皇位継承権を与えないようにすべての子女を臣籍降下した天皇だが、彼がわざわざここに衣通姫を祀ったのはなぜか。人麻呂と並ぶ歌の三神となった衣通姫、これは何を意味するのか。玉津嶋の意味も万葉集が教えてくれる。)万葉集を解く鍵であることを、今日の話の前に提起しておくことにする。

⑤ まず、心に停めてほしいのは、「万葉集は歴史書である」ということである。それは、若くして極位に着く文武天皇の為に編集された教科書(歴史書) でもある。だから、政変・事件が記録されている。

現代の私たちには、「政変に巻き込まれた人の生の声が残されている叙事詩。歴史上の人物の心情がリアルタイムで残された比類なき歌集」と云うことになる。」 

スライドが60余りありますが、数日かけて紹介したいと思います。

良かったら読んでくださいね。

 

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人麻呂が編集した初期万葉集に残る皇統の歴史

2018-05-22 00:19:21 | 75人麻呂が編集した万葉集は歴史書だった

「すぎにし人の形見ぞと」という題で話した時の資料を紹介しています。

今日は⑥からで、万葉集の1番歌(冒頭歌)です。

 

では、万葉集の冒頭歌の紹介。泊瀬朝倉宮御宇天皇=雄略天皇の歌である。

 

(なぜ万葉集の冒頭歌が雄略天皇なのか、持統天皇の祖先と云うのだろうか。それにしても、雄略天皇の祖先は応神・仁徳天皇であるが、この王統は武烈帝で滅びて「継体天皇」に変わっている。)

 

ただ、この冒頭歌で雄略天皇は、菜を摘む娘に敬語を使っている。『菜摘ます子=菜をおつみになっている娘』と『家をおっしゃってください。名を名のってください』 求婚の儀式だろう。 

 

古代では名前を呼べるのは、特別な間柄か親族で、他人に名を知られるのを嫌った。

 

此の菜を摘む女性は高貴な家柄の姫で、儀式により婚姻が整おうとしている瞬間である。

 

これは「雑歌」=儀式歌の冒頭歌にふさわしい歌なのである。

 

 

 

三人の天皇は、なぜ小さな香具山を詠んだのか

 

⑦ では、万葉集の2番歌、舒明天皇の歌を読もう。舒明天皇は天智帝・天武帝・間人皇后の父であった。

 

舒明天皇の2番歌『国見歌』、天香具山に登って国見をしたという歌である。

 

香具山は、藤原宮の東の御門を守ると詠まれた山で、耳成・畝傍と並ぶヤマト三山と呼ばれる山の一つ。香具山を詠んだ天皇は、三人。舒明天皇・天智天皇・持統天皇。

 

 香具山の中腹には、舒明天皇の万葉歌碑がある。本格的に明日香に入った最初の男性天皇であるから、別に不思議ではない。つまり、歴代天皇の宮は明日香にはなかったのである。舒明天皇の祖父の敏達帝は河内長野や桜井に宮があり、陵墓は河内磯長中尾陵である。敏達帝の皇后だった推古帝が蘇我氏との関係で明日香と橿原を宮とし、明日香に女帝の宮が造営されたと書かれている。

 

推古帝の遺言で大王となった舒明王家にとって、香具山は天降りの山・舒明皇統の始まりの聖地となったので、神聖な氏山として天の香具山と呼んだと思われる。

 

すると、舒明天皇が「香具山からの国見歌を読んだのは何故か」の答えは簡単に分かってしまった。秘密でも何でもない。もちろん、これは謎でも秘密でもない。ただ、舒明天皇は何処の出身だろうか。

 

簡単にいうと、舒明天皇はよそ者である。飛鳥の地に侵入して来たから「国見」をしたと、なる。

 

⑧ 「天皇、香具山に登り国を望む時の御製歌」

 

2 (やま)常(と)はむら山あれど とりよろふ天の香具山のぼり立ち 国見をすれば国原は 煙立つたつ海原はかまめ立つたつ うまし国ぞ蜻(あきづ)嶋(しま)八間(やま)跡(と)の国は

 

「大和には群がるように山々があるけれど、鳥もよろけるという神の山・天の香具山に登り立ち、国見をすれば国原から煙が盛んに立ち上がっている。海原からはカモメが盛んに飛び立っている。豊かな素晴らしい国であるぞ。あきつしま大和の国は」

 

 足元に広がる国原を見渡す大王の国見歌である。 舒明天皇が詠まれた香具山は神山であるので、この天皇家は香具山を氏の守りの山としたといえる。今でも香具山に登ると山頂に国(くにの)常(とこ)立(たち)命が祭られていて、中腹の説明板『名称大和三山・香久山』には、『(略)天香具山、畝傍山と耳成山、この三つの山は古来、有力氏族の祖神など、この地方に住み着いた神々が鎮まる地として神聖化され、その山中や麓に天香山神社、畝火山口坐神社、耳成山口神社などが祀られてきました。(略)香具山は伊予国風土記逸文に「天から降ってきた」という伝承が残っており、「天の香具山」とも呼ばれています。万葉集において「天」という美称がつけられた山は香久山だけで、このことから多くの山の中でも特別な位置付けを持っていたと考えられます』と書かれている。

 

案内板にあった伊予国風土記逸文にある「天から降ってきた」という文は気になる。また、萬葉集の巻一の六番歌の脚に「舒明天皇は讃岐に行幸されたことはないが、天皇の十一年に伊予の湯に行幸されたことはある」とあり、八番歌「熟田津に」の額田王の歌の左脚に、「御船、伊豫の熟田津の石湯行宮に泊られた。(斉明)天皇、昔日の物が猶ものこれるのを御覧になり、その時たちまちに感愛の情を起され、その故に歌を作り哀傷された」とある。斉明天皇が亡き夫を想い出して歌を詠んだというのである。舒明天皇と伊予の結びつきは深いのではなかろうか。

 

 

⑨香具山の南に造営された寺だが、香具山の南に大官大寺跡がある。舒明天皇が建立したという百済大寺を、神聖なる香具山の南に移したと考えることができる。

 

「日本書紀」や「大安寺伽藍縁起」などによると、「だいかんだいじ」または「おおつかさのおおでら」と記されている。百済大寺から高市大寺からぢ官大寺に移り、平城京の大安寺へと変遷している。南から北へ中門・金堂・講堂が並び、中門と金堂をつなぐ回廊の中の東部に塔を配する伽藍配置である。

 

⑪ さて、香具山が神の山であることはわかったが、他の畝傍と耳成はどう読まれているだろうか。

 

では、巻一にある天智天皇の「三山歌」つまり「中大兄の三山歌」の長歌と反歌をみよう。

 

    中大兄、近江宮御宇天皇の「三山の歌」には脚注がある

 

「右の一首の歌は、今案ふるに反歌に似ず。ただし、旧本、この歌をもちて反歌に載す。

 

この故に、今もなおしこの次に載す。また、紀には『天豊財重日足(あめとよたからいかしひたらし)姫天皇の先の四年乙巳(きのとみ)に、天皇を立てて皇太子(ひつぎのみこ)となす』といふ。」

 

原文では、「畝傍を惜し」を万葉仮名で「雲根火雄男志」と表記されている。故に、解釈が二通りある。

 

長歌の大意を日本古典文学大系の万葉集では、『香具山は畝火山(男性)を男らしく立派だと感じて、その愛を得ようと耳梨山と競争した。神代からこうであるらしい。昔もこのようであったから、現世でも一人の愛を二人で争うことがあるものらしい』となっている。

 

万葉集釋注では『香具山は、畝傍(女性)を失うには惜しい山だとして、耳成山と争った。神代からこんなふうであるらしい。いにしえもそんなふうであったからこそ、今の世の人も妻を取り合って争うのであるらしい』と解釈し、両者は男女が入れ替わる読み取りになっている。読みの都合上(男性)と(女性)の言葉をを挿入してみた。

 

中大兄のこの歌は本来二人の男性が争ったのか、二人の女性が争ったのか、気になるところであるが、中大兄の歌で見逃せないのは、三山を擬人化していることである。これは、たとえて遊んでいるのではなく、現実を表現しているはずである。

 

⑫ つまり、三山に象徴される氏族があり、中でも香具山を神山とする新興勢力が政権を握っており、同じく耳成山を神山とする新興勢力と対峙している。そして、畝傍を神山する伝統的王族を取り込むことで権力が強固なものになろうという歌の意図なのだ。香久山は、畝部山一族の姫を妻に迎えようと耳成山と争っているのである。古代の権力の組み替えは、伝統的王家の血筋の娘を手に入れることで決まったというのだ。

 

たしかに、中大兄が額田王を大海人皇子と争ったという説がある。額田王は初め大海人皇子との間に娘をもうけ、後には天智帝のもとに仕え挽歌まで奉っている。すると、畝傍山に象徴される姫は額田王というのだろうか?

 

(更に、15番歌は反歌として他者が付け加えたとされている。「渡津海の豊旗雲に」の歌は堂々としていて、これほどの歌を詠める歌人は誰なのか様々な説があるが、額田王詠歌という学者もいる。古典文学大系は大意を「大海の豊旗雲に入日の射すのを見た今夜は、月も清かに照ってほしいものだ」と、三山の争いが終わったので、海神がたなびかせた豊旗雲を見た印南国原の神は晴れ晴れとした気持ちになったというのだ。が、三山歌の反歌として「わたつみの豊旗雲」は不釣合な気もする。

 

また、この歌の題「中大兄、三山の歌」であるが、何故か「皇子」の文字が欠けていて、御製歌とも書かれていない。これは、中大兄皇子がぞんざいな扱いを受けたということか。または、「長子という立場をあらわす大兄(古人大兄皇子)」の次という「二番目の長子」という意味と位置を「中大兄」が表しているだけなのか…)

 

藤原宮の西に畝傍山。この山を神山とする氏の姫を迎えることが重要だと、「三山歌」には詠まれている。

 

創建時の伽藍の大きさが想像できる礎石群。本薬師寺(もとやくしじ)は、奈良県橿原市の東南に位置する藤原京の薬師寺と呼ばれた寺院。後に持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って天武天皇が建立を誓願した官寺である。平城京遷都で薬師寺が西ノ京に移ると、西ノ京の「薬師寺」と区別するために「本薬師寺」と称されるようになった。本薬師寺は「元薬師寺」とも記されるほか、平城京に造営された薬師寺(平城京薬師寺)に対して、「藤原京薬師寺」などとも呼ばれる。これまでの発掘調査により、およそ11世紀初頭まで存続していたことが認められている(ネットでは上記のように紹介されている)

 

⑮耳成と香久山が争った畝傍山。では、畝傍姫とは誰なのか?

 

本薬師寺は、薬師寺が平城京に移動した後、11世紀まで残った。この寺が、持統皇后の病気平癒の為に建てられたのなら、その人は畝傍山の所縁の姫である。

 

なぜなら、現在は基壇しか残されてはいないが、その基壇は畝傍山と直線で結ばれるからである。本薬師寺の東西の塔は畝傍山の山頂と並ぶ。将に、畝傍の姫を争ったのは誰と誰なのか。(想像がつきますね。畝傍の関係氏族は、東西の太陽を祀る人々だったと考えられる。)

今日は⑮までとします。

畝傍姫が持統天皇を意味した地すると、かなり意味深です。しかし、わたしには納得の答えです。では、明日は耳成山について⑯から紹介します。

 

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持統天皇は孫の文武天皇に皇統の歴史を伝えようとした

2018-05-22 00:18:38 | 75人麻呂が編集した万葉集は歴史書だった

「すぎにし人の形見とぞ」の続きです。

「持統天皇は香久山を詠んで、舒明・天智の皇統であると主張し、文武天皇の皇統を示そうとした

⑯ では、巻一28番歌。これが、持統天皇の香具山の歌である。持統天皇が畝傍姫だとしたら、何故香久山を詠んだのか、不思議である。考えられるのは、畝傍姫である持統帝が「香具山の皇統の世を寿いで詠んだ歌」であるということだ。

もちろん、孫の文武天皇に教え諭すために。

28 春過ぎて夏来るらし 白妙の衣乾したり 天の香具山 

 誰もが聞いたことがある持統天皇の御製歌であるが、この歌の解説を読むとなぜか頭の中がすっきりしない。「初夏の風の中に翻る真っ白い衣が、青々とした夏の香具山に映える様子を詠んだはつらつとした叙景歌」だという。『万葉集には叙景歌はほとんどなく、出来事や行事を詠んだ詩歌のほとんどが叙事詩である』といいながら、万葉学者は「春過ぎて」は叙景歌で『万葉集の中ではかなり異質の新しい作風である』というのである。いえいえ、この歌は叙景歌ではないと、わたしは思う。

この歌を詠んだ持統天皇は四五才過ぎの老婦人なのだから、はつらつとした歌を詠んだとしてもやや違和感は残る。持統天皇は壬申の乱・天武天皇の崩御・大津皇子謀反事件・息子草壁皇子の死・高市皇子の薨去などを乗り越えて即位した女帝である。やがては孫の軽皇子に譲位しなくてはならないという重責もあった。その女帝が、耳成山ではなく、藤原宮の東に位置する天の香具山を詠んだ。女帝と香久山、畝傍姫が何ゆえ香久山を詠んだのか。そこにあるのは、舒明・天智の皇統をつなぐのだという意思。それしかない。

 

耳成山は藤原宮の北を守る守護神の山であり、高市皇子の神山である

⑰ 更に、耳成山である。

そもそも、持統帝の藤原の宮の北を守るのは、耳成山である。耳成山は何処からも見える神山である。

⑱ 耳成山の真南に、二つの墳墓が造営された。耳成山の真南に在るには、中尾山古墳と高松塚古墳だが、中尾山古墳が、真の文武天皇陵なのであれば、高松塚を遮るように作られたといえるのではないだろうか。

このように、寺社や陵墓の位置から読めるのは、皇統の人間関係であり、一族の中の地位なのである。

⑲ では、天武持統陵はどのような位置に在るのか藤原宮大極殿の南に在るのは野口王墓。(ピンクの直線は、山城の天智陵とつながる。同じ経度に大極殿と天智陵がつくられている

野口王墓は京都府山城の天智天皇陵の真南に位置する。何も意識しないで、測量もしないで、離れた二つの墓を造営することはできない。これを実行したのは、文武天皇である。文武天皇も持統天皇も、天智天皇を大事にした。これは、ゆるぎない事実である。

 

「天の香具山を詠んだ三人の天皇」の結論として言えること

持統天皇・舒明帝・天智帝は同じ皇統を主張している。

確かに、この三人の天皇は八角墳に埋葬されているし、陵墓の形式も共通する。

壬申の乱を経て成立した天武朝は明日香に宮を造営したし、持統帝は藤原宮御宇天皇なのである。確かに畝傍を西に香具山を東に置いて藤原宮が造営されていると、万葉集にも長歌が残されている。だが、天武朝の氏山は耳成山のはずである。野口王墓(天武持統合葬陵)、高松塚古墳(高市皇子説)、キトラ古墳(舎人皇子説)などは、耳成山・藤原宮の真南を意識して造営されている。畝傍でも香久山でもないのである。

それなのに、持統天皇はなぜか政権を握った後に耳成山ではなく香具山を詠んだ。なぜ耳梨山を読まないのだ? そして即位の決意はどうなったのだ? なにゆえ持統帝は天智帝を大事にするのだ? と疑問が出てくるだろう。

香具山を「氏族の神祭りの山」とした舒明天皇(国見歌)、中大兄皇子(三山歌)持統天皇(香具山の歌)を紹介した後、香具山を氏のトーテムとする三人は同じ氏族とし、その結びつきは陵墓でもわかるとした。

しかし、持統天皇の漢風諡「持統」は、「天武天皇の皇統を草壁皇子から文武天皇につないだ」という意味とされている。だが、持統天皇自身は、天武朝ではなく舒明・天智の皇統であると「香具山の歌で」主張しているのである。すると、持統」という諡号は天武帝の皇統をつないだ意味ではなく、ほんとうは天智天皇の皇統をつないだ意味になってしまう。万葉集は、そのように解いてくれている。

また、あした。 

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額田王と中皇命は大事件を歌に詠んだ

2018-05-22 00:17:52 | 75人麻呂が編集した万葉集は歴史書だった

万葉集は「持統天皇が孫の文武天皇の為に編纂させた歴史書・皇統の歌物語」であるというスタンスでこの、回を通して紹介しています。歴史書として詠むと、どの歌も非常に分かりやすいし、何故その一に置かれたかがよくわかるのです。では「すぎにし人の形見とぞ」の続きです。

 

この歌は中皇命自身の儀式歌ではなく、臣下に献じさせた歌なのである

万葉集3・4番歌の中皇命とは間人皇后、難波天皇の儀式歌を間人連老に献じさせた

⑳ 万葉集巻一の3番歌「天皇、宇智の野に遊猟(みかり)したまふ時に、中皇命の間人連老(はしひとのむらじおゆ)をして献(たてまつ)らしめたまふ歌」を読む。

中皇命(なかつすめらみこと)とは誰か。舒明天皇の皇后の皇極天皇とも、娘の間人皇女とも、以前から様々な説がある。間人皇女であれば、十歳そこそこの少女と云うことになる。

うら若い姫だったので、代わりに間人連老に歌を献じさせたというのである。老(おゆ)は、同じ「はしひと」の姓を持つが、皇女の同族と云う意味ではない。間人皇女を守り育てる経済的支えを「間人氏」が担っていたので、皇女を「間人皇女」と詠んだのである。間人氏が、養育担当の壬生部だったのである

㉑ 万葉集の3番歌は、中皇命が奉らしめた歌である。高市岡本宮御宇天皇=舒明天皇への献上歌になっている。当然、公の儀式で使われた歌となる。何の儀式なのか? 単なる遊猟(みかり)には思えないが。 弓で中筈の音を立て邪気を払う儀式は、天皇即位の儀式で行われた。元明天皇の即位儀式の時の歌に「ますらおの鞆の音すなり もののべの大臣 楯立つらしも」という76番歌がある。

 ここで問題なのは、中皇命が本当は幾つなのかと云うことである。舒明天皇の遊猟ならば、十一、二歳である。其の年齢では幼ずぎるから、間人連老に代わりに献上させたという解説がある。だが、そもそも大切な儀式に若い姫を参加させたのなら、違和感がある。

題詞には「間人皇女」ではなく「中皇命」=「天皇の玉璽を預かった人」と書かれている。中皇命という立場の女性が歌を献じさせ儀式を行っているのなら、答えは一つ。これは、新大王の即位の行事の一つである…では、誰の即位なのか。もちろん難波宮御宇天皇、有間皇子に他ならない。

 

㉒ わたしの読み取りでは、これは孝徳天皇より玉璽を預かった中皇命が「次の大王となるべき遊猟の儀式」をする時、唐から帰った間人老に奉らせたとなる。間人皇后=中皇命としての解釈した理由であるが、他の巻の歌とも関わるのでその事は後述したい。

 

次の5.・6番歌は、讃岐国の幸す時に軍王が山を見て作る歌である

㉓ 次は、万葉集巻一の5~6番歌「讃岐国行幸」の時の歌である。ここは史実とのすり合わせが十分ではないので、紹介しない。しかし、この天皇と四国との縁は深いようだ。

 万葉集巻一の7・8・9番歌は額田王の歌

額田王は、皇極天皇の傍近くで大事件の歌を詠んだ

7番歌は皇極天皇の御代の歌である。額田王は「宇治の京」を詠んでいるが、「京」とは天皇=大王の住いが在る処 のはずなのに、宇治天皇は歴史には登場しない。では、なぜ、額田王は「宇治の京」を詠んだのか。「あの時、あの方が秋の野の美草を刈り取り、一夜の仮庵の屋根を葺いて旅宿リされた。あの宇治の京の仮庵のことが思い出されてならない。」と詠んだ。どんなことがあったのか。わたしは、ここにはある事件が詠まれていると思うのである。

架空の物語ではなく、ある出来事を詠んでいるのだが、万葉集では実態が見えないのである。脚注には「大化四年(648)年に皇極上皇が近江の比良の宮に行幸した時の歌の御製と類聚歌林にある」と書かれている。「宇治の京」の歌は額田王の作ではないかもしれないというのである。額田王の歌と題詞に書かれた四例のうち三例までが「或は天皇の御歌」となっている。

「宇治の京」の歌が額田王の歌だとしても、またもや年齢の問題が起こってくる。この時、十代の娘ということになるのである。額田王は非常に若い時から皇極天皇の傍で歌を詠み、この後は天智天皇の傍で歌を読み続けることになるという才女だったようだ。

7番歌に続く8・9番歌も、額田王の歌となっている。

 巻1の7~9番歌は、額田王の歌になっているが、それぞれ詠まれた時期が違うのである。

7番歌では、皇極天皇の時、宇治の都を詠んでいた。

8番歌と9番歌は重祚した斉明天皇だが、時期が逆になっている。百済救援(661)に出かけたまま斉明天皇は崩御となられるから、斉明天皇の紀伊国行幸(658)は船出の前の有間皇子事件があった時の行幸になる。本来は、9番歌・8番歌の順であったはずである。意識して入れ替えているのだろう。

9番歌が入れ替えられたのは、次の10・11・12番歌と関わらせるためである。

 9番歌は紀伊国行幸の時の歌である。二句には定まった読みがない。

読みが定まっていない漢字には「しづまりし うらなみさわく」という読みがつけられています。他に「ゆふつきの あふきてといし」「ゆうつきの かげふみてたつ」「みよしのの山みつつゆけ」「紀ノ國のやまこえてゆけ」「しづまりし 神ななりそね」「ゆうつきのかげふみてたつ」などなど。(紀ノ國のやまこえてゆけ? しづまりし 神ななりそね? ゆうつきのかげふみてたつ?などなど。)

 

額田王は斉明天皇の傍近くに仕えていた時、大きな事件を歌に詠んだ 

万葉集の巻一の7・8・9・10・11・12番歌から、万葉集が何を伝えようとしているのか。歴史の闇に消された事実が見えるのではないか。斉明天皇の御代の大事件は有間皇子事件であろう。それは、皇位継承にかかわる事件だったと思われる。

 

㉖ 9番歌は紀伊国行幸の時の歌である。二句には定まった読みがないというが、実は、額田王は故意に詠めなくしたのではないか、という解釈もある。此処に額田王の本音があるのではないか、というのである。 読めないような漢字を使ったのなら、漢字そのものを読んでみたいと思う。(個人的な読みの紹介)

忘れてはならないのは、この歌は「斉明天皇の紀伊国行幸に従駕しての歌」と云うことである。額田王の歌には「幸」と云う字があるから、天皇の行幸時の歌である。

 次が中皇命の紀伊温泉にいでます時の歌

斉明天皇の「紀伊国行幸」時の額田王と中皇命の歌が並んでいる。10番歌~12番歌は中皇命の歌で、紀温泉に往った時の歌なのである。ただし「幸す」と「往す」と「いでます」の字が変えてある。「中皇命、紀温泉に往す時」は、天皇の行幸について行ったのではない。

では、中皇命は、何をしに紀伊温泉に往ったのか。(また、12番歌には「天皇の御製歌」という、異説があるが、誰天皇の御製なのか。)

 

玉璽を預かった間人皇后は、護送された有間皇子を紀伊温泉に追って往った

㉗ 紀伊国行幸の10・11・12番歌の中皇命であるが、巻一には、中皇命という女性が二度登場する。同じ巻一に登場するので、同一人物と考えられる。別人であれば、脚注がつくはずだから、この巻一の中皇命は「斉明天皇」ではありえない。

そもそも、この歌の意味は、「あなたと私がいつまで生きられるか分からないけれど、この岩代の草はそれを知るかもしれない。さあ、草を結んで神に命永からんことを祈りましょう」という歌意である。「私の大切な方が借廬を作っておられます。草が足りないのであれば、先ほど神に祈った子松の下の草をお刈りくださいませ」この次に、12番歌。

しかし、後世の人は、12番歌の位置と意味が分からなかったらしい。「私が見せたいと思っていた野嶋は見せた。だが、底深い阿胡根の浦の真珠を拾いたかったのに拾わなかった」この歌は何だ? どういう意味で此処に置かれたのだ? と疑問を懐いたらしい。いえいえ、ここはポイントで、この歌を読んだのは「中皇命ではなく天皇だ」と脚注があるのをみのがしてはならない。ここには敬語も使われていないので、中皇命が目下の者に向かって詠んだと解すべきだろうか。いえ、ここは高貴な人(難波天皇)が中皇命に向かって読んだとするほかはない。

つまり、この三首は相聞歌ではないか、と思う。岩代に護送されてきた難波天皇と中皇命の相聞歌なのである。

 

㉘ 書紀では、斉明四年11月、有間皇子は蘇我赤兄の罠に落ちた。11月3日赤兄が有間皇子に近づき、5日密談をした夜中に、守君大石(もりのきみおほいは)、坂合部連薬(くすり)、塩屋連鯯魚(このしろ)と共に有間皇子は捕らえられ紀伊温泉に送られた。9日、牟婁の湯での中大兄との会見の後、いったん許されたように見えたが追っ手がかけられ、11日に有間皇子は藤白坂で絞刑に処された。舎人新田部連米麻呂と孝徳帝の忠臣であった塩屋連鯯魚は藤白坂で斬られ、他は流罪になったと書かれている。

孝徳帝の忠臣であった塩屋連鯯魚は殺される時に『願わくは右手をして、国の宝器を作らしめよ』と言ったという。』この書紀の記述の意味は何だろうか。文官の鯯魚がいう「国の宝器」とは、律令の仕事以外には考えられないではないか。彼は、文官として自分の仕事を続けたかった。それは、有間皇子に従って難波宮で行っていた仕事以外には考えられない。当然、有間皇子は文官をつかった行政のトップにいたと云うことになる。

 

7~12番歌(額田王と中皇命の歌)から読めることのまとめ

万葉集は「持統天皇が孫の文武天皇の為に皇統の正当性と歴史を分かりやすく編纂させた歌物語」歴史書であると、初めに述べている。すると、7~12番歌で詠まれた有間皇子事件は、皇統の歴史にとって重要だったと云うことになる。少なくとも、持統天皇はそのように考えたのである。

 

 また、明日。

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万葉集巻一・天智帝と天武帝の御代の歌の編集意図は、全く違っている

2018-05-22 00:17:14 | 75人麻呂が編集した万葉集は歴史書だった

初期万葉集は、皇統の正当性と歴史を文武天皇に伝えるために編纂された

「万葉集」の編纂の時期は、長期に渡ります。人麻呂による8世紀初頭、家持により8世紀半ば、平城天皇の臣下により9世紀初頭、といった具合です。人麻呂編纂のものを初期万葉集、家持編纂のものを後期万葉集とよび、平城天皇の勅により初期万葉集と後期万葉集が合体再編集されたと思っています。

なぜ編集の手を入れたのか。それは、触れたくない事実が歌として詠みこまれていたからです。平安朝の王家にとって、今さら蒸し返したくないことが。そこで、歌を入れ替え、題詞に若干の手を入れた。言葉が悪いのですが、改竄したと云うことです。詩歌は言霊ですから変えられません。ですから、題詞と配置を変えた…と思うのです。

では、今日は「すぎにし人の形見とぞ」の㉙からです。

巻一「天智天皇の御代」と「天武天皇の御代」の歌は、真逆の扱いを受けた

まず、16~21番歌が天智天皇の御代の歌であるが、何が詠まれているか

額田王・大海人皇子・井戸王の歌に、宮廷の文化行事と近江遷都が詠まれた 

*ここには百済救援「白村江敗戦」は詠まれていない。

㉙ 巻一の「近江大津宮御宇天皇代・天命開別天皇・諡して天智天皇という」という標でまとめられ、此処に置かれている詩歌は、16~21の額田王四首と大海人皇子一首と井戸王一首である。

16番歌 「天皇、内大臣藤原朝臣に詔して春山の万花の艶(にほひ)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競(きほ)い憐れびしめたまふ時に、額田王が、歌をもちて判(ことわ)る歌 」

17番歌「額田王、近江国に下る時に作る歌」、18番歌 反歌 

19番歌「井戸王が即ち和(こた)ふる歌」

20番歌 「天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が作る歌」

21番歌「皇太子の答えたまう御歌」

額田王は天智天皇の御代で大きな活躍をしていたということである。娘の十市皇女は、大友皇子の妃となって御子をもうけていた。親子ともに近江朝では幸せだったのである。

 

㉚ 17番歌。おや、近江遷都の時、額田王が別れを惜しんだのは、天香具山ではなく、三輪山である。では、王家の本貫の山は三輪山だったと云うことになろうか。

饒速日の山だったことに。

 

㉛ ・天智天皇代に、額田王と大海人皇子の有名な蒲生野の歌もここに掲載されている。

20 茜さす 紫野ゆき 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る 

21 紫の にほへる妹を にくくあらば 人嬬ゆへに 吾れ恋めやも 

この歌は、天智天皇の遊猟(御猟)の時の歌である。宴の席で歌を詠むという文化的な宮廷生活が展開している。即位して4年で天智天皇は崩御となるが、その四年間は充実していたのである。

 

次の天武天皇の御代は、どのように詠まれているか

壬申の乱後の後宮の女性の悲劇・麻績王の流罪・天武帝の吉野脱出の思いで・吉野の盟約で天智帝天武帝の皇子達を家族として受け入れた喜びの歌、6首が選ばれている

 

㉜ 天武天皇御代。次の王朝の明日香清御原宮天皇代の歌は、22~27の六首で、十市皇女が伊勢神宮に参赴する時に吹芡刀自が作った歌、麻續王が流される時の人の哀傷歌、それに和する歌、天皇御製歌、或本の御製歌、更に天皇御製歌となっている。 

22番歌 「十市皇女、伊勢の神宮に参赴(まゐで)ます時に、波多の横山の巌(いはほ)を見て、吹芡刀自(ふぶきのとじ)が作る歌」で始まる。これを当時の読み手は、どう受け止めただろう。

 

㉝ 十市皇女が伊勢に参赴する時の歌

22 河の上の ゆつ磐むらに 草むさず 常にもがもな 常(とこ)処女(おとめ)にて

天武四年、大伯皇女が伊勢の斎宮となったので、阿閇皇女と共に十市皇女も伊勢を訪れた。この時、吹芡刀自が作って奉った歌である。壬申の乱後、近江朝の総大将の妃であった十市皇女が、夫を失い子の葛野王を連れて天武帝に引き取られた後に行われた伊勢神宮への参赴であった。「水量の多い河の中にある聖なる岩々には草も生えていない。その岩のように常に変わらずありたいものだ。ずっと乙女であるように」

十市皇女は常処女(とこおとめ)でいることはできなかった。それゆえ、天武7年に宮中で突然命を絶ったのだろう。天武天皇は、十市皇女の薨去に対し、嘆き悲しんだ。本来なら、近江朝の皇后となったかも知れない人の、はかない運命を嘆いたのかもしれない。天智朝を倒した天武帝は「敵将の妃だったとはいえ、娘に再び幸せになってほしい、やり直してほしい。」と願ったのか。十市皇女の運命を知る当時の人は、壬申の乱の悲劇を思い出し、胸を痛めたに違いない。

 読み手も、ここで近江朝が滅亡した「壬申の乱」の悲劇を思い出してしまう。

㉞ 天武天皇の御製歌25・26番歌は、吉野からの逃亡の歌である。壬申の乱は、天武天皇にとって、人生最大の難局だったのである。

27番歌の『芳野よく見よ』の歌は、十市皇女の薨去の翌年の天武八年「吉野行幸」の時の歌である。皇太子決めをするための「吉野盟約」が行われたとされる時の歌である。然し、この後の歴史の展開を見ると「皇太子決め」だったとは読めない。ただ、天武天皇の大喜び・歓喜の歌から、吉野行幸は特別だったに違いない。それは、暗黙の裡に皇太子となっていた草壁皇子のみならず、天武と天智の双方の皇子が兄弟の契を交わして対等になった「喜びの会合」だったからはないだろうか。永年の重荷を下ろしたという…更に、大津皇子も対等に極位を望むことができると、天武天皇は考えたとわたしは思う。

天武天皇の御代の歌は、壬申の乱を引き出すように編集されている。他の麻績王の歌も罪人として流される時の歌で、何があったのか分からないが、当時の読み手には事件の顛末が分かったのだろう。

 

天智帝と天武帝の御代の歌の扱いは、真逆である。短い天智朝では王家の行事が歌われ、長い天武帝の御代では「皇女の悲劇」など壬申の乱の後遺症が詠まれているとは、どうしたことか。此処に、持統天皇の本音が見えるのではなかろうか。

今日のまとめ

文武天皇のための教育書である「初期万葉集」には、天智帝の御代は幸福に満ちたように編集され、天武帝の御代は壬申の乱の後遺症が残っていたように編集されていると、わたしは思うのです。

また、明日。

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持統天皇の御代には、柿本人麻呂が登場し持統天皇に歌を献じた

2018-05-22 00:16:38 | 75人麻呂が編集した万葉集は歴史書だった

万葉集は、文武天皇の為に編纂された教育書であり、皇統の史書だったと書いた「すぎにし人の形見とぞ」を紹介しています。

持統天皇が 編纂させた「初期万葉集」の巻一に掲載された歌を読みながら進めてきました。今日は、㉟からです。

持統天皇の御代にはどんな出来事があり、どんな歌が詠まれたのか

 

 持統天皇の天香具山の歌と在位中の行幸から浮かんでくる謎

持統天皇には常に謎が付きまとう。その代表歌を再確認してみよう。

巻一の28番歌の題詞には「藤原宮御宇天皇代、高天原廣野姫天皇、元年丁亥十一年 軽皇子に譲位  尊号太上天皇と曰」と書かれている。そして御製歌。

28 春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣乾したり 天の香久山

 万葉集の秀歌であるが、叙事詩とすると『耐え忍んだ冬が終わりやっと春が来て、その春も過ぎいよいよ夏が来たらしい。氏神の香具山に神祭りのしろたえの衣を干しているではないか。やっとわたしの時代、天の香具山の皇統の時代になったのだ。』と読んだ。持統帝が実権を握ったのは晩年だったが、これから自分の思いを貫くのだという決意の表れた歌なのだ。だが、一体、いつ詠まれたのだろうか。歌の意味と即位後の持統帝の行動とがかなり結びつかないのである。

持統四年(690)即位、持統帝はそれまでの天武天皇の皇親政治を止め、律令による政治を目指したらしく、太政大臣(高市皇子)と右大臣(多治比嶋)と儀政官の任命をしている。自分の時代には天武天皇の政治は引き継がないと、やりたいように政(まつりごと)をするという決意の表れでもあろう。

だが、それにしては天皇が都に居ないのは何故だろうか。持統帝は常にお出かけしているのである。吉野行幸だけでも三十数回ある。他にも親しい明日香皇女の田荘に行幸、紀伊行幸や伊勢行幸と在位中に留守が多いのである。天皇が不在でも行政は役人が行うであろうが、宮廷の祭事や神事はどうだろうか。天皇の吉野行幸は多すぎて、即位後に持統帝による神事が定期的に行われたかどうか疑わしいのだ。即位は持統四年で称制期間の三年を経た後であるが、行幸の回数を見てみよう。

持統三年の三月から吉野行幸が記録されている。三年(1、8月)四年即位(2,5,8,10.12月)五年(1,4,7,10月)六年(5,7,10月)七年(3,5,7,8,11月)八年(1,4,9月)九年(2,3,6,8,12月)十年(2,4,6月)十一年(4月)、  年に三回から多い時には五回と、回数の多さに驚かされる。

持統三年、撰善言司を置く 

草壁皇子が薨去した年、持統天皇は皇子達の教育のために「撰善言司」を置き教科書造りを始めた(完成していない)

持統天皇は皇子達に良い教科書を与えようとした⇒万葉集に発展したのではないか

㊱ 持統天皇が即位したのか、しなかったのか、様々な説がある。年表を見ると天武天皇崩御の後、三年間空位であった。そこで持統帝は何を考えたのか。持統三年「撰善言司」を置くとあるが、目的は何だろうか。

草壁皇子の死後、皇統のための歴史書・文武帝や他の皇族の為の教科書が必要だと持統帝は思った。完成しなかったのは、他の方法を考えたからではないか。持統帝は真剣に教育書が必要だと思っていたのである。万葉集は、この「教育書としての役割を担って編纂された」と私は思う。

年表から、高市皇子太政大臣に任じすべてを委ね、紀伊国へ行幸したと読むことができる。

 

㊲ 持統天皇の御代は圧倒的に歌の数が多い。柿本人麻呂の活躍も大きい。柿本氏の出自は、天足彦国押人命の後、敏達天皇の御世家門に柿樹があったので氏名とした。(姓)祖は孝昭天皇皇子、天押帯日子命(記)。天武十年(681)十二月と、和銅元年(708)四月の柿本猿(佐留)との関係も論じられている。

万葉集で年次の明らかなものは、持統三年(689)の日並皇子殯宮挽歌、同十年、高市皇子殯宮挽歌、文武四年(700)明日香皇女殯宮挽歌が挙げられる。ただ、天皇に対する挽歌はない。また、人麻呂は、和銅三年以前に没したというのが定説である。

人麻呂作歌(長歌19、短歌69)人麻呂歌集(長歌2、短歌332、旋頭歌35)人麻呂の歌中(短歌3)此の数の多さから、万葉集の編纂者は人麻呂以外に考えられない。

㊳持統天皇代、圧倒的にこの御代の歌が多いので、「持統万葉」などと「初期万葉」が呼ばれている。

「藤原宮御宇天皇代・高天原廣野姫天皇・元年丁亥十一年 軽皇子に譲位す・尊号を太上天皇と曰」とあり、「春過ぎて」の有名な歌に始まる持統天皇代の歌が並んでいる。持統帝代の詩歌の題詞をあげてみよう。{☆は、人麻呂の作歌 △は、慶雲三年(706)持統天皇崩御後}

28番歌 天皇御製歌、

☆29番歌 近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌(長歌)と反歌二首(30,31番歌)

 32・33番歌 高市古人、近江の旧き都を感傷しびて作る歌 或る本には高市連黒人といふ

 34番歌 紀伊国に幸す時に、川島皇子の作らす歌 或は、山上臣憶良作るといふ

 35番歌 勢能山を越ゆる時に、阿閇皇女の作らす歌   ◎阿閇皇女は元明天皇

☆36・37番歌 吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌(長歌)と反歌 

◎持統三,四,五年のいずれかの従駕

☆38・39番歌(吉野の宮に幸す時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌)長歌と反歌 

☆40・41・42番歌 伊勢国に幸す時に、京に留まれる柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・三首

43番歌 当麻真人が妻の作る歌

44番歌 石上大臣従駕にして作る歌

☆45・46・47・48・49番歌 軽皇子、安騎の野に宿ります時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌 ・長歌と短歌四首

50番歌 藤原の宮の役民の作る歌

51番歌 明日香の宮より藤原の宮に遷りし後に、志貴皇子の作らす歌

52・53番歌 藤原の宮の御井の歌(長歌)と短歌

54・55・56番歌 大宝元年辛丑の秋の九月に、太上天皇、紀伊国に幸す時の歌・三首

57・58番歌  二年壬寅に、太上天皇、三河の国に幸す時の歌・二首(長忌寸意吉麻呂、高市連黒人)

59番歌  誉謝女王が作る歌

60番歌  長皇子の御歌

61番歌  舎人娘子、従駕にして作る歌

62番歌  三野連、入唐する時に、春日蔵首老が作る歌 ・大宝二年六月

63番歌  山上臣憶良、大唐に在る時に、 本郷を憶いて作る歌 ・大宝二年

64・65番歌 *慶雲三年丙午に、難波宮に幸す時 志貴皇子の作らす歌 長皇子の御歌 △  

66・67・68・69番歌 太上天皇、難波宮に幸す時の歌 ・四首(置始東人 高安大島、身人部王、清江娘子)・

70番歌  太上天皇、吉野の宮に幸す時に、高市連黒人が作る歌    ・大寶元年か?

71・72番歌  大行天皇、難波の宮に幸す時の歌・二首(忍坂部乙麻呂、式部卿藤原宇合)・文武三年

73番歌  長皇子の御歌

74・75番歌  大行天皇、吉野の宮に幸す時の歌 ・二首(或は天皇御製歌、長屋王)・大寶二年か?

 

即位の年、持統天皇は紀伊国の有間皇子の所縁の地を訪ね、歌を詠ませた

 持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしている。

持統四年(690)1月即位、2月吉野行幸、5月吉野行幸、6月泊瀬行幸、7月高市皇子太政大臣、多治比島真人を右大臣、八省百寮を選任。8月吉野行幸。9月戸籍を作らせ、紀伊国行幸。10月吉野行幸。11月元嘉暦と儀鳳暦を施行。12月吉野行幸。

 吉野行幸も不思議なのだが、持統四年(690)の紀伊国行幸も不思議である。持統帝の即位は四年一月、前年の四月に日並(ひなみしの)皇子(草壁皇子)を亡くした後、残された阿閇皇女を連れての行幸だった。

孫の軽皇子に皇統をつなぐには持統帝の即位しかなかったのである。が、その即位後の吉野行幸、紀伊國行幸とは、持統帝は即位後に何をしたかったのだろうか。行幸にどんな目的があったのだろうか。では、朱鳥四年の紀伊国行幸を読んでみよう。

 持統四年は即位の年だが九月には紀伊国行幸もしているので、ほとんど都にはいなかったことになろうか。これでは天皇としての仕事も滞ると思われ、「持統帝は即位していなかった説」も生まれようというものである。すべてが高市皇子にゆだねられ、太政大臣高市皇子が政権の中枢に座りほぼ天皇と同じ立場となっていたことになるのだろうか。そうなると、軽皇子(文武天皇)が成長した暁には高市皇子の存在がネックになるではないか。高市皇子はその権力の象徴として、耳成山を北にして藤原宮を造営している。絶大な財力も彼の手にあったのである。それが為に軽皇子の元服の半年前に薨去となったのだろうか。しかも、万葉集の高市皇子の扱いは微妙である。其の力を認めながらもどこかでおとしめているように思われるが、これは気のせいだろうか。

では、また、明日。

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万葉集巻一・持統天皇は近江朝を偲び、有間皇子の霊魂を鎮め続けた

2018-05-22 00:16:02 | 75人麻呂が編集した万葉集は歴史書だった

万葉集は持統天皇が「孫の文武天皇の為に編纂させた史書だった」という立場からブログを進めています。今日は「すぎにしひとの形見ぞと」の㊵からです。

孫の軽皇子に皇統をつなぐには持統帝の即位しかなかったのである。だから、持統天皇は即位した。が、その即位後の吉野行幸・紀伊國行幸とは……持統帝は何をしたかったのだろうか。行幸にどんな目的があったのだろうか。

朱鳥四年の紀伊国行幸の目的は、軽皇子の母・阿閇皇女に有間皇子事件を知らせ、ともに有間皇子の霊魂を鎮めるためだった。

 草壁皇子の妃・阿閇皇女は、前年に薨去した夫を偲ぶ歌を詠んだ

 ㊵ 持統四年の紀伊国行幸で有間皇子事件を詠んだ川嶋皇子と草壁皇子を偲んだ阿閇皇女

朱鳥四年(690)四月、持統天皇は草壁皇子妃の阿閇皇女を連れて紀伊國に行幸した。阿閇皇女は天智天皇と石川夫人(姪娘)の娘であり、後の元明天皇である。皇女は前年4月に夫・草壁皇子と死別していた。残された三人の子どもたちはまだ幼かったので、軽皇子が七歳、氷高皇女が十歳で末っ子の吉備皇女は五歳くらいだが、都に残しての行幸だったのだろうか。

 勢能山を越える時、阿閇皇女の御作歌

35 此れやこの倭にしては我()が恋ふる 木路()にありとふ 名に負ふ勢の山

  阿閇皇女は、背ノ山を越える時、草壁皇子を偲んだ。背ノ山を越えると紀伊国である。船で紀ノ川を下れば、背ノ山と妹山の間を抜けるとやがて川幅が広がり紀伊國の風景が広がる。

「紀伊国への路に有るという背ノ山のことは倭でも聞いていました。川を挟んで妹山と向き合っている背ノ山をぜひとも見たいと日頃から思っていたのです。これがその名のとおりの背ノ山、そうなのですね。(背ノ山をやっと見たのだが、我が身は背の君を失っているので、背ノ山と聞くと草壁皇子を思い出して切ない。紀伊國の背ノ山が川を挟んで妹山と向き合ってはいるのは、まるで川を渡れない私と夫のようではないか)」夫を失って一年、まだ皇女の歌には喪失感が漂っている。女帝と皇女は草壁皇子を偲んで紀伊国でともに泣いたのであろう。持統天皇が異母妹で息子の妻の阿閇皇女を連れて紀伊国に行幸したのは、皇女を励ますためでもあったろう。そして、もう一つ目的があった。

持統帝は未だ悲しみの癒えない嫁に、この行幸で伝えたいことがあったのだ。同じ持統四年の紀伊国行幸の時の川嶋皇子の歌が、その事を示している。川嶋皇子の歌は巻一の34首目で、阿閇皇女の歌の一首手前にある。そこには何と有間皇子事件が詠まれている。

㊶  紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌 或は山上臣憶良の作という

34 白波の濱松が枝()手向け草 幾代(いくよ)までにか年の経ぬらむ

川嶋皇子の父は天智天皇、母は色夫古(しこぶこの)(いらつめ)、姉は大江皇女である。大江皇女は天武天皇の妃となり、長皇子・弓削皇子を生んでいる。

「懐風藻」伝によると川嶋皇子は大津皇子と莫逆(ばくぎゃく)の契を結んでいたが、天武天皇崩御の後の十月、大津謀反を朝廷に密告した。その事で大津皇子は死を賜っていた。この密告の年・朱鳥元年八月には、川嶋皇子は「封百戸」を与えられている。持統天皇の信任厚かったということだ。持統五年(691)にも「封百戸」を与えられているが、同年九月に薨去した。それは、上記の紀伊国行幸の翌年のことである。

皇子川嶋のこの歌は、明らかに有間皇子事件の悲劇性を詠み、御霊を慰めている。「白波が寄せる浜辺の松の枝を神に手向けるように結んで祈ったという有間皇子。あの事件からいったい何年たったことだろうか。皇子のことを思うと心が痛む。幾年過ぎても皇子を忘れることはない」という大意になる。然し…

川嶋皇子は三十年前の有間皇子事件を生まれていないので知らないはずである。が、「幾代までにか年の経ぬらむ」と有間皇子を偲んだ歌を詠み、「紀伊国に幸す時」だから公的な場で持統天皇に献じたのであろう。すると、はたまた違和感が漂う。川嶋皇子の御作歌が詠まれた持統四年(690)は、前年に皇太子である草壁皇子を失った後の行幸であるのに、草壁皇子ではなく有間皇子を偲ぶとはどういうことだろうか。

 

有間皇子事件を知らない川嶋皇子が、なぜ岩代の「結び松」を詠んだのか

㊷ 川嶋皇子の歌は、天皇の行幸に従駕して献じたものであるなら、行幸先の土地を誉め旅の無事を祈る歌になるはずだが、持統四年の行幸では有間皇子の霊魂を鎮めているのだ。

この時の行幸に従駕して献じられた歌は巻二「挽歌」にも残されているが、やはり有間皇子を偲ぶ歌である。行幸の目的は、有間皇子の霊魂を鎮めるためだったことになる。題詞に『紀伊国に幸す時、川嶋皇子の御作歌。或は山上臣憶良作ると云う』とあり、歌の左下にも『日本紀には、朱鳥四年庚寅の秋九月に、天皇紀伊国に幸すという』という脚がある。『紀伊国行幸』が題詞と左脚の両方に書かれているのは、これが事実であることを強調しているのだろう。此処の朱鳥四年の紀伊国行幸に関しては、巻一には阿閇皇女の歌と二首だけしか見当たらないが、あとは巻二の「挽歌」に掲載されていて、この紀伊国行幸が有間皇子を偲ぶ旅だったのは揺るがないのである。

 また、川嶋皇子の一首(三四)とよく似た歌は、巻九の「山上の歌一首」である。

1716 白波の 浜松の木の 手むけ草 幾世までにか 年は経にけむ(巻九)

左下の脚に「或は川嶋皇子の御作歌という」とある。山上とは、山上臣憶良のことである。この年、憶良も持統天皇に従駕して紀伊国に旅をしているので、その時のものであろう。なぜ、二人の人物の名が必要だったのだろうか。元歌は山上の方だが、川嶋皇子の御作歌なら更に無実の有間皇子の悲劇性を強調する、と万葉集編者は考えたということか。川嶋皇子が有間皇子を思うという姿が必要だったということだろうか。

有間皇子の事件からは三〇年以上のかなりの時を経過しているが、大津皇子事件からはわずか四年である。その記憶は誰にも新しいはず、まして川嶋皇子には生々しい記憶のはずである。

万葉集の編集意図としては、有間皇子の無実を際立たせるために大津皇子謀反事件の密告者である川嶋皇子の歌が必要だと判断したから、巻一の「雑歌」34に川嶋皇子の歌が置かれたのだろう。それも、持統天皇の前で公的に詠んだというのである。

つまり、朱鳥四年の紀伊国行幸に従駕した川嶋皇子の歌には、『わたしは大津皇子の謀反を許さなかったが、有間皇子の謀反は無実であると知ったので、このようにあの結松を見て、何年たったのだろうかと古に思いをはせたのだ』と持統天皇に献じ、更に、『親友を裏切ったあの皇子川島でさえも有間皇子を偲んでいる。有間皇子事件は誰にも痛ましく思われるのだ』と周囲にも伝えているのだ。

それにしても、万葉集で「持統天皇の紀伊国行幸時」の詠歌となると従駕者が「有間皇子を悼む歌」となるのは、皇子の魂鎮めだけでなく、持統天皇との並々ならぬ因縁もありそうである。

 

わたしは度々持統天皇と有間皇子の関係を取り上げている。如何なる縁があるのか。

 

持統天皇は天智天皇の近江朝を偲び、その霊魂を鎮め続けた

㊸ 漂う霊魂を鎮めたのは持統天皇

 阿閇皇女と川嶋皇子の歌は重いが、これだけが重たいのではない。川嶋皇子の歌の前には、高市古人の二首があり近江朝を偲ぶ歌となっていて、その前には「近江の荒れたる都を過ぐる時に、柿本朝臣人麻呂が造る歌」の長歌と反歌が置かれている。持統天皇の御製歌「春過ぎて」の後には、何と近江朝を偲ぶ歌が続くのである。そして、阿閇皇女の歌に至る。勢能山(背の山)の歌まで「失った人=すぎにし人」を偲ぶ歌が続くのである。

  高市古人(黒人)、近江の旧(ふる)き都(みやこ)を感傷(かな)しびて作る歌

32 (いにしえ)人にわれあるや 楽浪(ささなみ)の故(ふる)き京(みやこ)見れば悲しき

33 楽浪の 国つみ神の うらさびて 荒れたる京(みやこ) 見れば悲しも

34 白浪の 濱松が枝の 手向け草 幾代までにか 年の経ぬらむ(川嶋皇子)

35 これやこの倭にしては我が恋ふる木路(きぢ)に有りとふ名に負ふ勢の山 (阿閇皇女)

 高市古人は「私は昔の人なのであろうか、まるで昔の人のように昔のものを見ると様々に思い出されて悲しい気持ちになる」と近江朝を追慕した。

32~35までの歌は、古(いにしへ)の人を思うという意味で並べられたものだろう。ここに云う古とは、「近江朝の天智天皇」と「紀伊国に護送された有間皇子」と「阿閇皇女の夫である草壁皇子」の時代で、持統天皇が繰り返し懐かしんだのはこの三人であり、近江国と紀伊国だったということ、それは万葉集の中で一貫している。持統天皇はひたすら近江朝を懐かしむのである。

 

㊹ 人麻呂は、公的な場で近江朝を偲んだ。そして、個人的にも近江朝を偲び続けた。本来なら、現王朝の臣下として前王朝を偲び続けるなんてありえない。然し、誰にも遠慮する必要がなかった。持統天皇が望んでいたのだから。

 

㊺ 巻三の人麻呂の歌の隣にある歌。264,265,266番歌を見よう。

真ん中に挟まれるのは、長忌寸意吉麻呂の歌になる。歌の中身も、場所も前後の人麻呂の歌とずれている。編集の仕方がイビツで、何らかの編集意図が働いていると思われる。人麻呂の歌は、何故か、万葉集中にバラバラになっているのである。

持統天皇の絶大な信頼を得ていた柿本朝臣人麻呂。だが、集中の人麻呂の歌はバラバラにされている。人麻呂の歌がバラバラにされた理由は、後世に再編集した為に他ならない

 

㊻ 人麻呂こそが勅を受けて万葉集の編纂をした。いよいよ、この事に迫らなければならない。

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万葉とは、すぎにし君=草壁皇子と軽皇子をつなぐ霊的な言葉

2018-05-22 00:15:19 | 75人麻呂が編集した万葉集は歴史書だった

前回のブログは、次のようにおわりました。今日は、初期万葉集の編纂に話を進めます。

㊻ 人麻呂こそが勅を受けて万葉集の編纂をしたいよいよ、この事に迫らなければならない。

今日は「すぎにし人の形見とぞ」㊼からです。 

万葉集巻一の主題は「軽皇子、安騎の野に宿リます時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌」

㊼ 万葉集の中心歌は45~49番歌である。原万葉集=初期万葉集は、この歌がクライマックスとなるように編集されていた。

「やすみしし我が大王 高照らす日の皇子」と、軽皇子を詠んでいる。「高光る」ではなく「高照らす」だから、統治者であると云っているのである。人麻呂は皇子や皇女のおかれた位置をはっきりと読み分けている。彼は、皇統とその継承者の立場と順位、すべてを承知していた、のである。

高照らす日の皇子と人麻呂は詠んだ 軽皇子、生まれながらの統治者だったのである

 

黄葉(もみじば)葉(もみじば)が意味する呪歌「安騎の野の冬猟」の歌は、草壁皇子と軽皇子をつなぐ赤い糸

 

㊽ 人麻呂の歌・人麻呂歌集の歌に「もみじば」は、下記の14首に使われている。そのうち6首は挽歌である。また、万葉集の挽歌★に使われた「もみじば」は12首で、12首のうちの6首が人麻呂の歌である。(モミジバ=人麻呂の作りだした詞、かも知れない)

38 春へは花かざしもち 秋立てば黄葉(もみじ)かざせり  

47 ま草刈る荒野にはあれど葉(もみじば)の過ぎにし君が形見とぞ来し  

135 大船の渡りの山の黄葉(もみじば)の散りのまがひに

137 秋山に落つる黄葉(もみじば)しましくは な散りまがひそ 妹があたり見む 

★196 春へは花折りかざし秋立てば黄葉(もみじば)かざし   

★207奥津藻のなびきし妹は黄葉(もみじば)の過ぎていにきと  

★208 秋山の黄葉(もみじ)を茂みまどいぬる 妹を求めむ 山道知らずも  

★209 黄葉もみじ)の散りゆくなえに玉梓の使いを見れば逢いし日おもほゆ  

★423 九月(ながつき)のしぐれの時は黄葉(もみじば)を折りかざさむと  

1094 我が衣色取染めむ うま酒三室の山は黄葉(もみじ)しにけり  

1306 この山の黄葉(もみじ)が下の花を我 はつはつに見て さらに恋ふるも  

1676 背の山に黄葉(もみじ)常しく 神丘の山の黄葉は今日か散るらむ 

1703 雲隠り雁鳴く時は 秋山の黄葉(もみじ)かた待つ 時は過ぐれど  

1796 黄葉(もみじば)の過ぎにし子らと携わり 遊びし磯を見れば悲しも (★) 

2178(題)黄葉(もみじ)を詠む *題詞に使われている 

(妻ごもる矢野の神山 露霜に にほひそめたり散らまく惜しも)

葉(もみじば)のすぎにし君=草壁皇子

㊾ 『葉(もみじば)の過ぎにし君が形見とぞ』この言葉に集約する万葉集の主題。万葉集巻一のクライマックスの一首なのである。もみじば=葉 集中には一か所しかつかわれていない。まさに、草壁皇子を象徴する詞である。魂をこめた呪語なのである。

49 日並皇子の命の馬なめて み狩立たしし 時は来向かう

 日並皇子尊の皇統を受け継ぐべき軽皇子(文武天皇)のために「万葉集」は編纂された!その皇統は、草壁皇子につながるものである。草壁皇子こそが日並皇子である。

45 国の四方をお治めになるわが大王であり、高くより統治なさる日の皇子が、神でありながらより神らしくなって、治めておられた都から、人郷を離れた泊瀬の山、その真木が立ち並ぶ荒れた山道を岩や木の根がさえぎるのを踏み越え、朝早くから夕方になるまでかかって、雪がちらつくような阿騎の大野に来て、ススキや小竹を押なべて旅の宿リとなさった。いにしえをお思いになりながら。

46 阿騎の野に宿りする旅人は、すっかり手足を伸ばして寐ることなどできないなあ。いにしえをいろいろ思うので眠ることはできはしない。

47 ま草を刈るような荒れた野ではあるけれど、ここは黄葉のようにお亡くなりになったあの方の形見の地。形見の地だからこそ、我々は此処に来たのだ。

48 東の野にかぎろいが立ち始めた。いよいよ日が昇り始める。振り返ると月が将に沈もうとしている。まるで、月があの方の魂で、皇子の魂である新しい日に全てを委ねるように、月が沈もうとしている。

49 日並の皇子の命が馬を並べて、遊猟の儀式にお立ちになった、あの瞬間が近づいた。あの時と同じ瞬間に、今まさに対面する。いよいよ皇太子霊を受け継ぐのだ。

 

草壁皇子の皇太子霊を受けて、軽皇子は立太子した

文武天皇は即位し、その御代は充実していた…人麻呂編集の万葉集は、着々と出来上がっていた。やがて奏上という時… が、持統天皇の崩御により王朝は揺らいだ。人麻呂は万葉集の奏上の時期を逸した。

そして、持統天皇を亡くした文武天皇の悩みも深く大きかっただろう。天武天皇の皇子達が生き残っている状況では、草壁皇子の後継者としての立場は強いとは言い難かった。こんな時の為に、持統天皇は「万葉集」を残したかったのだが。

 

㊿万葉集は、草壁皇子の御子・文武天皇の為に編纂されたのである。皇統の正当性、皇統の歴史を歌物語にし、 15歳で即位した文武天皇の心の拠所となるように、持統天皇が勅により編纂させた、という他はない。だから、万葉集には「語られなかった歴史の真実」が散らばっている。持統天皇の意思がしみ込んでいるのである。

 「安騎野の冬猟」の歌は、万葉集の巻一のクライマックスであり、主題である

葉(もみじば)は、万葉集全体で一か所しか使われていない。まさに、選び抜かれた 呪語=魂のこもった言葉 なのである。此処に万葉集の主題が絞り込まれている。

人麻呂は考え抜いて「万葉集」と名付けた。「すぎにし君を偲んで、すぎにし君の皇統の弥栄のために編集された歌集」なのである。それは、文武天皇の教育書として役に立つはずだった。皇統の正当性と、皇統の歴史が歌に詠まれていたからである。

 その事を大伴氏は十分に承知し受け止めた。平城天皇も十分に理解したのであろう。だからこそ、詔により再編集が成されたと思う。

歴史書として、万葉集を読みなおせば、そこに何が書かれているか分かるのである。

また、明日。

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柿本朝臣人麻呂が事挙げしたのは、王朝の弥栄だった 

2018-05-19 08:50:23 | 75人麻呂が編集した万葉集は歴史書だった

柿本人麻呂は「事挙げ」を決意し、万葉集を奏上

今回の時代状況 文武天皇の御代の弥栄を願い「皇統の正当性と皇統の歴史を文武天皇に伝えるために」万葉集は編纂編集された。文武天皇の崩御により万葉集は行き場を失った が、持統天皇の勅を貫くため即位したばかりの元明天皇(文武帝の母)に献上された。が、天武帝の皇子が生き残っている中での元明天皇の即位は、諸臣をまとめるには困難な時期だった。

巻十三の3254番歌人麻呂も元明天皇の状況は十分に理解していた。然し、人麻呂は紀伊国の形見の地(玉津嶋)に出かけ持統天皇の霊魂に触れた。人麻呂の「万葉集を奏上すべきや否や」の答えは「朕が意のままにせよ」だったのだ。「われはことあげす」の歌は、人麻呂の万葉集を奏上する時の決意の歌なのである。

和銅元年、人麻呂は元明天皇に献上した。(天皇は万葉集を理解し、故に、人麻呂を断罪した…)

今日は、「すぎにし人の形見とぞ」の最終回となります、㊿からはじめます。

 

万葉集は持統・文武天皇の御代に柿本人麻呂が編纂

㊿万葉集は、草壁皇子の御子・文武天皇の為に編纂されたのである。皇統の正当性、皇統の歴史を歌物語にし、 15歳で即位した文武天皇の心の拠所となるように、持統天皇が勅により編纂させた、という他はない。だから、万葉集には「語られなかった歴史の真実」が散らばっている。

歴史書として、万葉集を読みなおせば、そこに何が書かれているか分かるのである

 

 51  初期万葉集は、持統天皇・文武天皇の時代にまとめられたものである。巻一には長歌・短歌あわせて84首あるが、うちわけは、

雄略(1)舒明(5)皇極(1)斉明(8)天智(6)天武(6)持統(34)文武・持統太上(14) 元明(8)奈良宮(1)となっている。

巻一には、「挽歌」の部立はない。だから、どの天皇の御代の歌が多いのか、挽歌を含んだ巻二の数も必要であろうか。巻二の全150首のうちわけ、

仁徳天皇代(6)斉明(2)天智(21)天武(9)持統(105)奈良宮(7)

やはり、圧倒的に持統天皇代の歌が多い。

では、持統天皇代に活躍した歌人といえば、柿本朝臣人麻呂である。やはり、編集をした人物は人麻呂以外に考えられない。

持統天皇の崩御(702)後、人麻呂は初期万葉集の編集に励んだが、数年後に文武天皇の崩御(707)となった。人麻呂は「万葉集」を献上すべき帝までうしなったのである。

 

文武天皇崩御後の初期万葉集の行方

52 初期万葉集を奏上した人麻呂の運命

文武天皇の崩御(707年6月)の後、元明天皇即位(707年7月)。この時、天武朝は皇位継承問題で揺らいだことだろう。そこで、元明天皇が極位に着くには、相当の政治的困難があったと思われる。天武帝の皇子は多く健在であり、高市皇子の王子達もいるからである。頼みの持統天皇も既になく、元明天皇を支えた御名部皇女(高市皇子の妃)の力は大きかったことだろう。

和銅元年(708)戊申(つちのえさる)に儀式をするにあたって、元明天皇は不安に襲われたようだ(78番歌)。それを支えたのは御名部皇女で、大王を支えた歌(79番歌)を詠んだのである。

この年、和銅元年4月、柿本朝臣佐留が没している。

柿本佐留が人麻呂であるのなら、和銅元年に人麻呂を罰したのは元明天皇であろう。

 

初期万葉集の終焉

53 万葉集の巻一の終わり方は不自然である。

元明天皇の御代には、「即位」と「平城宮遷都」関係の歌が掲載されている。

巻一の最終歌は「寧樂の宮」代となっていて、題詞は「長皇子、志貴皇子と佐紀宮にしてともに宴する歌」であるが、一首のみの掲載である。長皇子と志貴皇子の歌が並んでいたというが、志貴皇子の歌が欠けている。突然の終焉ではなく、ここにもこれ以外にも歌があったのかもしれない。巻一は隅々まで第三者の編集が行われているのだ。

歌の数も大きく偏る。他の巻の歌の総数を見ると、

巻一(84首)、巻2(150首)、巻三(252首)、巻四(309首)、巻五(116首)、巻六(160首)、巻七(350首)、巻八(246首) 、巻九(148首)、巻十(539首)、巻十一(490首)などなど、これを見ると、巻一は少なすぎる。*長歌の数で巻ごとの歌の数には違いがあるとは思うが。

此処に何らかの編集の手が入ったと考えられる。それは、単なる恣意的な歌の並べ替えではなく、大きな権力を持った人の意思と思考による改造であったと思う。歌を変えることはできないので並べ変えと、若干の題詞の改竄があったと思われる。

 

54 初期万葉集の編纂者、一次は人麻呂だが

二次、旅人・家持の手を経て、三次、806年平城天皇の元へ召し上げられ編纂しなおされた。

平城天皇は、万葉集の意義と歌の意味を深く知り、世に出す為に「編集し人麻呂の編纂の意味を隠した」となる。その時点では世に明らかにできないことが多く含まれていたからである。「人麻呂があえてそれを編集し(事上げし)、文武天皇に歌で皇統の歴史の真実を知らしめようとしていた」肝心の皇統の正当性と歴史が読めなくなったのである。

 

55 人麻呂が万葉集を編集したその時期を元明天皇即位後と決めた理由は、文武天皇が「大行天皇と書かれているからである。

サキノスメラミコト(大行天皇)、天皇位を下りた天子のことをそう呼ぶ。文武天皇崩御後、正式の諡が定まらない時期の奏上であったと思われる。しかし、元明天皇は拒否し、人麻呂を罰した。人麻呂はその事を受け入れた。

 

56 多くの事実が書き残され奏上された初期万葉集を、元明天皇は大伴安麻呂に託したのではないか。蘇我系の石川郎女を妻にしていた大伴安麻呂に。

参議大伴安麿が薨去(和銅7年)した後、大伴旅人の手に渡った(旅人は父から万葉集の意図を聞き、晩年に歌に目覚める)。旅人の薨去(731)後、家持が受け取る(家持も、大伴坂上郎女と父の手ほどきで歌の道を知り、まい進する)。

家持は自家歌集を編纂し、初期万葉集のように年代順に歌を並べ、同じように歴史書として鎮魂歌集としての体裁とする。政変の為(藤原種継暗殺事件)、家持は冠位を剥奪され、死後にもかかわらず息子と共に流罪になる(万葉集は大伴氏の手により守られる)。

806年、平城天皇が家持の官位を復し、噂の『万葉集』を召し上げる。侍臣に命じて「万葉集」の編纂をするが、この時、家持編集の「後期万葉集」にはほとんど興味をしめさなかったので、そのまま年代順に編集されている。平城天皇の譲位により、万葉集は宙に浮いたが、長くその存在は語り継がれ、多くの文人・学者の耳目を集め、細々と書写され続けた。そうして、「古今伝授」により多くの噂と混然一体となって、「謎の歌集・万葉」は平安時代を生き延びた。

 

巻一の話のまとめ

万葉集巻一は、皇統の正当性と皇統の歴史を文武天皇に教え諭すために編纂編集された教育書である。編纂を命じたのは持統天皇であり、作り上げたのは人麻呂である。ここで、人麻呂個人だったかどうか問題であるが、彼のみが刑死しているので、その罪を一身に受けたといえる。

 

終わりに

57 人麻呂の詠んだ「阿騎野の冬猟歌」が初期万葉集のクライマックスであるが、初期万葉集の終焉を飾る象徴的な歌は、78番歌である。この歌をここに置いたのは、大伴家持か平城天皇か、それは分からないが。

「和銅三年庚戌(かのえいぬ)春二月藤原宮より寧樂宮に遷る時、御輿を長屋の原に停め、故郷を廻望みて作らす歌」

一書に云う 太上天皇御製(編集した時点で元明天皇は既に譲位していたことになる)

78 飛ぶ鳥の明日香の里を置きていなば 君があたりは見えずかもあらむ

    一に云う 君があたりを見ずてかもあらむ    

 長屋の原は、中津道の平城京と藤原京の中間点である。そこで、御輿を停めて明日香に別れの儀式をする。でき過ぎの演出である。

この時、左大臣石川麻呂は藤原宮に残されていた。元明天皇に従ったのは、藤原不比等右大臣である。「此処で元明天皇に泣いてもらって、藤原宮への未練を断とう」という……その演出をしたのは、藤原不比等を置いて他にはない。

 

時代はこのように変わっていったのである。

「人麻呂が編集した 万葉集は歴史書だった」は、並べ替えて読みやすくするつもりです。

また、明日。

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間人(はしひと)皇后は、間人(たいざ)に逃れたという伝承

2018-04-22 10:29:41 | 74丹後半島に間人皇后を求めて

間人皇后は、タイザに逃れた…という伝承

丹後半島北部の港町、間人(たいざ)には「聖徳太子の母・用明天皇の皇后である穴穂部間人皇后が蘇我物部戦争を逃れて、一次避難した」という伝承が残されています。

避難生活も終わり、ヤマトへ帰る時が来ました。皇后は御名である「間人」を土地に残されたのでした。が、郷人は「畏れ多い」として「皇后の退座」の意味から「退座=たいざ=間人」として地名を「たいざ」とした、のだそうです。

前回紹介した「間人皇后像」は画像の右端にあります。中央に間人皇后伝承の紹介文です。そして、左端に「御所の内」という字名(あざな)が残されているのです。

では、伝承の紹介文から訪ねましょうか。

役所でいろいろお訪ねした後、伝統の祭りが行われるところに行きました。

役所の筋向いの海の近くに、水月神社がありました。

 

水無月神社横の案内板に、間人皇后・東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)・穂見中江麿(ほみのなかえまろ)の名が書かれ、竹野川の運輸を司ったと書かれていました。

 

更に、新しい案内板が社の隣に在りました。

この案内板を建てた東氏が竹野川の「川すそ祭」を古来から執り行っているそうです。

毎年七月二十八日(旧暦六月二十八日)、立岩の上に御幣を立てかがり火をたき、斎宮神社(竹野神社)の宮司の司祭により神事を執り行ってきたが、この水無月祭も衰退してきたので、子孫に伝えるべく神社を立岩(行者岩)の境内地に遷宮した、と書かれています。

東氏は、このような神事を同族のみが執り行うことを不思議に思われていたとのことです。

案内板を読むかぎり、蘇我物部戦争とのつながりは読みにくいのですが。

間人=タイザと呼ばれること、その謂れが「間人皇后に由来」するという伝承は分かりました。

案内板の右手、砂浜の先に間人皇后像と立岩が見えています。

では、「御所の内」を訪ねましょう。

船泊の右手の住宅の中に「御所の内」と呼ばれる場所があるそうです。

三柱神社は小さな入り江を見下ろす丘の上に在ります。お寺の奥に見える鳥居がそれです。

さて、お寺の方に案内してもらって「御所の内」に行きました。

そこは、小さな空き地でした。お地蔵さんが集められていました。

 

石に刻まれた「阿波國二拾三箇所」の文字が読めました。ここで、四国八十八カ所巡りのうちの二十三カ所を廻れたというのですかね。

誰も手を付けない場所として、ここが残された、というのですかね。

と云うことで、間人の町においとまをしました。

伝承は、なかなか難しいものです。

わたしは間人皇后は、孝徳天皇の皇后だと思っています。万葉集を読むかぎり、そう思えるのです。

紀ノ國まで有間皇子を追って行った中皇命がその後どうなったのか、有間皇子を「わが背子」と呼んだ間人皇后は皇子の死後どう行動したのか。

中皇命として、母である斉明天皇に会ったのでしょうか。

中皇命とは「次の大王に玉璽を渡すために、玉璽を受け継いでいる 中継ぎの役目の女性」です。

その女性が紀伊國まで追って行ったのは、有間皇子でした。だからこそ、有間皇子に皇位継承権があったと思うのです。その皇子が殺された、事件のあとの中皇命の行動ですが、どうしたでしょう。

わたしは身を隠したと思うのです。孝徳帝の皇后として、玉璽を預かる中皇命として、最高の地位にある女性として、間人(たいざ)に身を隠した可能性はあると思うのです。

何度も書きましたが、穴穂部間人皇后がこの地に来たとしても、玉璽を預かっていたのではありません。用明天皇が病で伏せている時、蘇我物部の争いを理由に皇后のみ身を隠すのは 変です。

然し、タイザを去る時の皇后の歌を読むと、最高位の女性として「退座」しているのです。状況が穴穂部間人皇后とは、合致しません。それに、用明天皇崩御の後、皇后は義理の息子(用明天皇の皇子)の妻となるのです。

大浜の あら塩風に 馴れし身の またも日嗣(ひつぎ)の ひかり見るかな

大浜の 里にむかしを とどめてし 間人村と 世々につたへん

大浜に つとふみやこの ことの葉は 行末栄ふ 人の間人

間人皇后が大浜の里を退座するのに因んで、間人(退座)村と宛名したと、「間人村濫觴記録」が伝えている、そうです。
 

一挽歌は「大浜の荒い潮風に馴れた我が身が、またもや日嗣の光りを見るのだ(表舞台に立つのだ)」

二番歌は「大浜の里に、昔の伝えをとどめている皇后伝承の『はしひと』村だと後の世に伝えよう」

間人村の人は、伝承の意味を「聖徳太子信仰」に結び付けたと、わたしは思うのです。

個人的には、穴穂部間人皇后の伝承ではなく、孝徳帝の 間人皇后の伝承 だと思うのです。

今回は、ここまでにします。

いずれ、「柳沢吉保は知っていた有間皇子事件と間人皇后の物語」の紹介をしなければなりません。

では。

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丹後半島へ逃げた間人皇后

2018-04-14 14:13:04 | 74丹後半島に間人皇后を求めて

丹後半島に間人(たいざ)を訪ねました。

間人(たいざ)は、丹後半島の北にある美しい漁港です。

日本海の荒波の打ち寄せる間人(たいざ)の立岩(たていわ)。とても有名な岩場です。

立岩は玄武岩の柱状節理の岩場で、荒々しい岩肌が風にさらされていました。ここは、竹野川の河口です。竹野川は立岩にぶつかり、そっと日本海に注ぎ込みます。

河口が立岩に遮られているので、水は少しずつしか海に流れ出ることはできません。

この立岩の真正面に「母子像」が置かれています。

この母子像の前の石には「間人皇后」と刻まれています。

この砂浜の入り口にも碑が建てられていました。そこには、

第三十一代用明天皇の御后であり、聖徳太子の母君であらせられた穴穂部間人皇后は六世紀のおわりころ大和における蘇我物部の争乱をここ皇后の御領であった大浜の里に避けられた。やがて乱おさまり再び斑鳩の宮へ還幸される時、名残を惜しむ里人へ次の御歌を賜ったと伝えられている。

大浜の 里にむかしを とどめてし 間人邑と 世々に伝へん

 ふむふむ、日本海側の漁村に「間人」と云う漢字が用いられたのは、皇后伝承によるという、それを示す歌です。

 大浜の里を離れるに際して詠まれた皇后の歌は、三首あります。

大浜の あら潮風に 馴れし身の またも日嗣(ひつぎ)の ひかり見るかな

大浜の 里に昔を 留めてし 間人邑と 世々に伝へん

大浜に つとふみやこの ことの葉は 行く末栄ふ 人の間人

 間人皇后は「大浜の荒い潮風にも馴れた私ですが、宮に帰ればまたもや皇位継承の話を受けるのだろう」と思っているのです。

「この大浜の里に、昔の事を留めているという間人村という名を、長く世に伝えよう」

 「大浜に 集まった京の言葉は、いつまでも栄え残るであろう 人々の間で」

この三首には、物部蘇我の争乱の頃の古式の歌とは思えない、新しさがありますね。

この地に隠れた皇后は、穴穂部間人皇后でしょうか。それとも、わたしのいう孝徳帝の間人皇后でしょうか。

間人(たいざ)に残る伝承を探査します。

では、また明日。

 

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