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47人麻呂は知っていた・高市皇子の薨去の意味

2017-03-17 22:06:24 | 47人麻呂が献じた高市皇子の挽歌

人麻呂は高市皇子の不審な死を知っていた!

高松塚古墳の被葬者と耳成山

 

持統天皇は、高市皇子をどのように葬ったのでしょうか。死後の葬儀や陵墓はその被葬者の立場をそのまま示すものです。万葉集で一番長い挽歌を奉られたのは、高市皇子です。最高権力者としての葬儀だったのです。

 高市皇子は天武天皇の第一子で、妻は天智帝の皇女・御名部皇女でした。
草壁皇子は死後に日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)と諡され、高市皇子は後皇子尊(のちのみこのみこと)とされました。草壁の跡継ぎの立場で、権力の中枢に居たことになります。そして、持統天皇十年(696)七月・薨去

 高市皇子の陵墓は、高松塚古墳という説がありますが定説ではありません。

壁画装飾で知られる高松塚古墳の被葬者は誰なのでしょう。高松塚古墳は、耳成山の真南に位置します。将に、「耳に成す山」の真南ですから、「ミミ」とは「時の最高権力者」のことでしょう。発掘された骨は、40才過ぎの壮年の男性でした。では、草壁皇子ではなく、若い弓削皇子でもなく、7世紀後半なら高市皇子となります。

 高市皇子は最高権力者だったのです。書紀では「太政大臣」となっていますし、妃は天智天皇の皇女・蘇我氏系女子でしたから、最高の地位に在ってもおかしくありません。その高市皇子の挽歌(長歌)は草壁皇子の2倍以上あります。立場からすれば当然の事でしょうね。では、万葉集巻二「挽歌」ですが、長いので分けて読みましょう。

 高市皇子尊の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首併せて短歌

199 かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも定めたまいて 神さぶと 磐隠ります 八隅しし わが大王の

ことばに出すこともはばかれる、言葉にして言うことも何とも畏れ多い、明日香の真神の原に ひさかたの天上の聖なる御殿を畏れ多くもお定めになって、神として窟におられる 世をお治めになった我が大王の

ここに歌われているのは、天武天皇のことです。人麻呂は、挽歌の冒頭には天武天皇のことを述べ、高市皇子の血統を示しました。明日香に王朝を建てた天武帝の皇子だと。

(わが大王の)きこしめす 背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮(かりみや)に 天降りいまして 天の下治めたまひ 食(お)す国を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く 東の国の 御軍士(みいくさ)を 召したまひて ちはやぶる 人を和(やは)せと 奉(まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任(よさ)した まへば 大御身に 太刀取り佩(は)かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士(みいくさ)を 率(あども)ひたまひ 

 我が大王のお治めになる北の(美濃)の国の 真木の立つ不破山を越えて、和射見の原の 行宮に 神のように天降りおいでになって 天の下をお治めになって、統治なさる国を鎮めようと、鶏が鳴く東の国の 軍勢をお集めになって、荒れる人々をおさえ鎮め、従わない国を治めよと、皇子であるからこそお任せになったので、皇子はその御身に太刀をお佩きになり、その御手に弓をお持ちになり、軍勢を率いられた。 

ここも、ほとんどが天武帝の命令を高市皇子が受けたことが語られているようです。壬申の乱の指揮官を任せられた皇子であると。この後に、戦で高市皇子が活躍したことが述べられています。

整ふる鼓の音は雷の声と聞くまで 吹き鳴せる小角(くだ)の音も 敵(あた)見たる 虎か吠ゆると 諸人のおびゆるまでに ささげたる旗の靡きは 冬こもり春さり来れば野ごとに つきてある火の 風のむた 靡くがごとく取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒ぎ み雪降る 冬の林につむじかも い巻き渡ると 思うまで聞きの畏く 引き放つ矢の繁けく 大雪の乱れて来れ まつろはず立ち向かひしも 露霜の消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに 渡会の斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を日の目も見せず 常闇に覆いたまひて 定めてし 瑞穂の国を神ながら 太敷きまして 

鼓の音はは雷の声かと聞き違えるほど 兵士が掲げる軍旗の靡きは、野火が風にあおられるように見え 弓はずの音は、大雪の降る冬の林につむじ風が吹き渡るように聞こえ飛んでくる矢があまりに多く、大雪が飛んでくるようだった 立向かう兵士も命がけで戦っていた時、渡会の伊勢の宮から神風が吹いてきて、その天雲で敵を覆ってしまったそうして、水穂の国を 神として大いにお治めになった

壬申の乱での活躍が語られました。天武帝は和射見が原の仮宮に居て戦には参戦していません。すべて若い高市皇子に任せたと歌われています。命がけで戦っている時、伊勢の神が助けてくれた。伊勢の神は高市皇子を助けたのです。

やすみしし 我が大王の 天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと 綿花(ゆふばな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を 神宮に 装(よそ)い奉りて 遣(つか)はしし 御門の人も 白妙の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの いはひ伏しつつ 烏玉(ぬばたま)の ゆうべになれば 大殿を 振りさけ見つつ 鶉(うずら)なす いはいもとほり さもらへど さもらひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも 未だ過ぎぬに おもいも 未だ尽きねば 

 天下をお治めになった大王(天武帝)に、我が大王(高市皇子)が天下のことを申しあげられたので、いつまでもそうであろうと、結う花のように栄えていた時に、我が大王の皇子の御殿を 神殿(御霊殿)として飾りたて 仕えていた御殿の人も真っ白な麻の喪服を着て、埴安の御殿の庭に 一日中を鹿ではないが腹這い伏して、暗い夜になれば 御殿を仰ぎ見ながら 鶉ではないが 這うようにうろうろし、お仕えしているけれど、お仕えするかいはなく、春の鳥のように鳴き迷っているのに 悲しみも未だおわってはいないのに、皇子を想うこともまだ尽きてはいないのに

 しかし、突然、皇子に死が訪れた。何もかも受け入れがたく、気持ちの整理がつかないままなのに、皇子の霊殿から殯宮へと亡骸をお送りすることになってしまったのだ。

言さえく 百済の原ゆ 神葬(かむはぶり)り 葬りいませて あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大王の 万代(よろづよ)に 思ほしめして 作らしし 香久山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振りさけ見つつ 玉だすき 懸けて偲ばむ 恐こけれども

あの百済の原を通り抜けて、神として葬り奉り、城上の殯宮を 常にお住まいになる宮として 高くお祀りし 神として鎮坐されてしまった。しかれども、我が大王が「万代までも」と思われてお造りになった香久山の宮(藤原宮)、この宮は万代までいつまでも残って行くと思われただろうなあ、皇子の陵墓をみると。

天を仰ぐように皇子を振り仰ぎながら、玉だすきを懸けるように皇子のことを心にかけてお偲びしたい、畏れ多いことだけれど。

高市皇子は神として葬られたそこは神がお住まいになるにふさわしい所。そこは、藤原の宮を万代までも守るところ。それは高市皇子自身の願いだった。人麻呂は、高市皇子の陵墓が何処に祀られたか知っていました。だから、香具山の宮(藤原宮)のとこしえを詠み込んだんだのです。高市皇子は自分の墓所を決めていたのかも知れません。草壁皇子の所縁の地に挟まれた藤原宮を見守る位置に。

文武陵から谷に下りて丘を登ります。

文武陵の真南200mの丘には高松塚古墳があります。奥の岡が文武陵のあるところです。木がなければよく見えます。

高松塚は六角形の墳丘を持つそうです。

人麻呂は高市皇子を如何に詠み上げたでしょうか

①天武天皇が天下を治めた ➁高市皇子は天皇のために戦の前線にたった ③その戦いは、敵を圧倒した ④すっかり皇子の代になると思っていたのに ⑤皇子は亡くなり、誰もが混乱した ⑥皇子は城上の宮にお住まいになるが、お造りになった藤原宮は万代まで栄えてほしいのだろう ⑦皇子をこれからも偲んでいこう

という内容です。あまた言葉が並んでいますが……高市皇子は、確かに大王でした。天武天皇と同じ文字「大王」を同じ詩篇の中に人麻呂は使っています。草壁皇子の挽歌には、大王とは使わず「吾王」、明日香皇女の挽歌にも「吾王」でした。王と大王は使い分けられているのです。人麻呂が「大王」を使う人物は限られています。高市皇子こそ壬申の乱を勝利に導いた人でした。渡会の神も東国の兵も高市皇子に味方し集まったのです。彼らが集まる理由があったはずで、それは高市皇子の出自に関わることなのでしょう。

人麻呂は高市皇子が次の大王であることを知っていました。その大王が突然薨去したことに衝撃を受けました。皇子を失った怒りと悲しみの中で、「壬申の乱とは何だったのか。高市皇子が父の謀反を助けたのではないか」と指摘し、東国の兵を集められたのは高市皇子と云う旗璽があったからで、「大王だからこそ伊勢の神も助けたのだ」とぶちまけたのです。壬申の乱から既に二十四年がたっていますが、それでも意味のある出来事(天武天皇の謀反事件)で、過去の歴史になるにはまだ時間が必要でした。

高市皇子の挽歌を読むかぎり、天武天皇は「いやつぎつぎに天の下」を治めて来た大王ではありません。飛鳥で即位した大王で息子の高市皇子の手柄により「壬申の乱」に勝利した大王でした。新しい王朝だったから前方後円墳ではない墳丘を求めたのでしょうね。

高市皇子は耳成山の真南に葬られた大王でした。しかし、その耳成山との霊力は文武陵によって断たれます。そして、瓦などは運び出されて藤原宮も捨てられるのです。

 

また明日