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万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

天の香久山を詠んだ三人の天皇

2017-06-28 10:57:50 | 61万葉集時代の天地創造の神々

天の香久山を詠んだ三人の天皇

香具山は小さな山です。神代より信仰されていたようで、ヤマト攻略の時に香具山の土が使われました。香具山は藤原宮の東に在ります。藤原宮の北には耳成山。

耳成山は藤原宮のシンボルでした。なにしろ「耳に成す山」なのですから、〇〇ミミのように「耳」のつく大王がおられましたね。耳成山の麓に住む王こそ「大王」だったと云うことです。さて、藤原宮の西には畝傍山でしたね。

畝傍・耳成・香久山がヤマト三山です。では、天樫の丘は? 藤原宮の南にあるはずですが…

さて、天の香久山を詠んだ三人の天皇とは、もうご存知ですね。何度か紹介しましたから。

持統天皇と天智天皇と舒明天皇です。では、舒明天皇の歌を読みましょう。

舒明天皇の国見歌ですが、天の香具山から見渡す限りが舒明天皇の勢力圏であり、香具山こそが息長氏が神山とする氏族の山だったと詠めませんか。和風諡号は息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇となっています。

すると、天(アマ)氏には息長氏がつながり、タラシ系の王族だったということになりますね。そうしたら、子どもたちの和風諡号はどうなっているでしょうね。

既に紹介した中大兄(天智天皇)の三山歌覚えておられますか。

天智天皇の和風諡号は天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇で、「天」が諡号に入っていますから、天氏には違いないでしょう。

持統天皇の和風諡号を見ると、高天原廣野姫(たかまのはらひろのひめ)天皇となっていますから、高天原で「天」の文字はひとまず入っています。

では、持統天皇の夫だった天武天皇の和風諡号を見ましょう。天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇でやはり「天」の字をおくられています。天智帝と天武帝の母の斉明天皇はどうでしょうね。

斉明天皇天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇で、「天」の文字が入ります。すると、天地・天武の両天皇は、母の斉明天皇の血族として意識されていたことになりましょう。斉明天皇の同母弟の孝徳天皇は、天万豊日(あめよろずとよひ)天皇でした。明らかに、舒明天皇の系譜ではなく斉明天皇の系譜に意味があるようです。★と★、☆と☆は兄弟です。

欽明ー敏達★―押坂彦人大兄舒明ー古人大兄  

欽明ー桜井皇子★ー吉備姫女王・(茅渟王☆)ー皇極・(舒明☆)―天智・天武

父・舒明の系譜であれば、古人大兄が有力な後継者となるでしょう。天智・天武の皇位継承は母の系譜でつないだと云うことですね。それで、息長の文字を入れなかったと思うのですが…

天の香具山が詠まれた歌には、氏族の結束や系譜をしめす意味があったのですね。

では、持統天皇の「高天原廣野姫」にはどんな意味があるのでしょうね。

それは、また後日。


大巳貴こそ天地創造の神

2017-06-27 10:47:48 | 61万葉集時代の天地創造の神々

欅が素晴らしい府中の大國魂神社の参道です。

創立は景行天皇四十一年とされ、当時は武蔵国造が代々奉仕しましたが、大化改新によって武蔵国府がこの地に置かれたので、国司が国造に代わって奉仕するようになったと略誌に書かれています。

大國魂神社のご祭神は大国魂大神ですが、この大神は出雲の大国主神と御同神です。

大昔、武蔵国を開き、人民に衣食住の道を教え、また医療法やまじないの術も授けられたと伝わります。

 大國魂神社は国府が置かれた後国司が国造に代わって奉仕するようになり、管内神社の祭典を行う便宜上、武蔵国中の神社を集め祭祀を行って来たという経過があり、武蔵総社と云われています。

本殿の左右の相殿に神社六社を合祀したので、六所宮とも称せられています。

(西殿)

六ノ宮 杉山大神(神奈川県横浜市緑区西八朔208)

五ノ宮 金佐奈大神(埼玉県児玉郡神川町750)

四ノ宮 秩父大神(埼玉県秩父市番場町1-3)

(中殿)

             御霊大神

          大國魂大神

          国内諸神 

(東殿) 

一ノ宮 小野大神(東京都多摩市一ノ宮1-18-8)

二ノ宮 小河大神(東京都あきる野市二宮2252)

三ノ宮 氷川大神(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407)

不思議なことに、ここには伊弉冉・伊弉諾尊も、天照大神も、八幡大神も神功皇后もおられません。地域の神々を祭祀しているからですが、此処ではもともと出雲の神を祀っていた、ここは出雲と深い関係があったから畿内につながりの深い神は祀られていないと云うことです。大化改新の頃の七世紀半ばの武蔵国の神は大国主でした。政治的には朝廷の支配を受けても、祭祀は僅かながら古代の形が残っているようです。

万葉集の時代、国土創生の神はオオナムチノ神でした。万葉集では、大汝、大穴道、於保奈牟知と書かれ、古事記では大穴牟遅、書紀では大巳貴と書かれ、大國主命、八千矛神などの別名もあります。

万葉集に詠まれた大巳貴神と少彦名神

詩歌の冒頭に「おおなむち少彦名」が詠まれています。その中で、大伴坂上郎女は「おおなむち少彦名の神であるからこそ、始めて名付けられた名を名兒山という、その名を負う名兒の山と聞いても、わたしが(都に置いて来た)我子を恋しく思う心、その心には千重の一重も慰めにはなりません」と、筑前国の名兒山を越える時、詠みました。兄嫁が大宰府で没したので、太宰帥の兄を支えるために都から筑紫に来ていた大伴坂上郎女が、都に帰る時に船を下りて名兒山を越えて宗形神社に旅の安全を祈りに行ったのでした。その時の歌なのです。

この歌で大事なのは「名付けそめけめ」です。名兒山と始めて名付けたのは、おおなむち少彦名神だったというのですから。その土地の神だからこそ山川の名をつけることができたのでしょう。

柿本人麻呂歌集の歌も同じです。「おおなむち少名御神がお造りになった妹山と勢山を見るのは、心から嬉しく良いものだ」和歌山県の妹山・勢山を作られたのは、おおなむち少彦名の神だというのです。*妹背山は若の浦の同名の小島を詠んでいるかも知れません。

万葉集の時代は、九州でも和歌山でも天地創生の神は、大巳貴命(大国主)だったのでした。

と云うことは、どういうことでしょう。

案外、大国主は我が国の隅々まで統治していたのかも知れません。それが、六・七世紀に統治者が変わる政治的社会的変化が起こったと、そう考えてもいいかも知れませんね。日本書紀やや古事記と若干のずれがありますが。

古代の神と祭祀は、朝廷の意向や、武士の台頭による祭祀の変更や祭神の入れ替え、さらに明治維新による合祀や祭神交代等により、もう今ではもともとの姿が分からなくなっていると思います。

しかし、府中市の大國魂神社は、はるかなる古代を少しだけ見せているかも知れません


悲しみの王妃・祟り神となる(2)

2017-06-24 10:44:38 | 60十市皇女と天武朝の姫

十市皇女は祟り神となった

十市皇女は天武天皇と額田王の間に生まれた皇女です。そして、天智天皇の一子・大伴皇子の妃になり葛野王をもうけました。しかし、壬申の乱で夫は破れて自経しました。乱後は、敵将の高市皇子の下に嫁ぎ、ついに宮中で突然死(自死)に至りました。天武七年(678)当時の人は悲運の王妃の彷徨える霊魂を畏れたと思います。

それが比賣塚の伝承と重なったと思うのです。何時の時代か、比賣は十市皇女となっていた。土地の人はその伝承を守って来たと。

では、書紀には十市皇女が祟り神になったと考えられる記述はあるのでしょうか。

十市皇女の葬儀(4月)の後に、9月に五茎の稲が献上されたり、10月に「甘露」という綿のようなものが降ったり、12月アトリが天を覆い西南より東北に飛ぶとい記事があり、この月に筑紫大地震の記事が在ります。家屋の倒壊・地割れ・がけ崩れなど甚大な被害が記述されていますから、詳細な報告が有ったのです。皇女の死と直接かかわる記述は有りませんが、大地震と薨去を臭わせてあるのかも知れません。書紀が政変や王朝の衰退を天変地異で暗示するのは、珍しいことではありませんから… 

筑紫大地震の甚大な被害は都に報告されたのですが、人々はどう思ったでしょうね。人々は十市皇女と結びつけたでしょうか。やはり、はっきりしません。

前回紹介したように、新薬師寺の門前に比賣神社が昭和五十六年に鏡神社の摂社となってました。鏡神社は806年(平安時代の平城天皇の即位年)の勧請でした。

比賣神社の横に幾つかの石(神像石)が置かれていて、その謂れが書かれています。

神像石(かむかたいし)由来

弘文天皇の御曽孫淡海三船公は本邦最初の漢詩集「懐風藻」を編集せられ、四面楚歌の中にありながら、曽祖父なる弘文天皇(大友皇太子)いませし日を 顕彰せられ、孝養を讃え四代にわたる御姿石を勧請し永く斎き奉らんと願うものなりと、由来があるのです。

この文面だけでは誰が石を何処から勧請したのかとか、神像石が置かれた時期がいつか等、特定できません。たぶん確かな伝承や文献がないのでしょう。上記の淡海三船は、桓武天皇・延暦四年(785)に64歳で没した人で、刑部卿大学頭因幡守まで上り詰めた学者です。天智天皇→大友皇子→葛野王→池辺王→淡海三船と続く家系で、天平勝報三年に「淡海真人」の姓を賜わりました。「淡海」ですから、天智天皇の近江朝を十分に意識した姓なのです。

天智朝につながる四代の御姿石をここに置いたのは、比賣塚があったからなのか、御姿石があったから比賣塚が祭られたのか、前後も分かりません。しかし、一つ分かることがあります。比賣塚と御姿石はセットなのです。どちらも他方の意味を補完し合っています。十市皇女と大友皇子です。二人を共に奉ろうとする意図が地域に在り、鏡神社が祭祀を執り行ったと云うことです。

二人は共に無念の生涯を閉じた夫婦でした。ともに祟り神となり、強い霊力を持っていると 人々に信じられたのです。そして、光明皇后の薨去の後、淡海三船が御姿石をこの地に祭ったのかもしれません。その後、三船も没し皇統も変わり、806年に鏡神社の勧請となった。更なる祟り神が南都の悪霊を鎮めることになったのでしょう。

淡海真人三船は、三十代に「人臣の礼を欠く罪により大伴古慈悲と共に禁固刑を受けました。他にも、独断で下野国司の罪を責めたため巡察使を解任されています。それでも文字博士・大判事・大学頭などを歴任しました。そうとうに賢い人だったのですね。

鏡神社は、806年に唐津の鏡神社からの勧請され、本殿には藤原氏の氏神である春日神社の本殿社の部材が使われていました。春日神社も本気で祟り神を守護神に変えようとしたのですね。

 


悲しみの王妃、祟り神となる?

2017-06-22 20:49:40 | 60十市皇女と天武朝の姫

悲しみの王妃、祟り神となる?

この小さな神社のご祭神は十市皇女、天武天皇と額田王の間に生まれた長女になります。比賣神社に十市皇女が鎮座されたのは、昭和五十六年五月九日となっています。脇座には、市杵嶋比賣が寄り添っています。市杵嶋比賣は、女神として十市皇女の周りを祓い清めているのでしょう。

この小さな神社は、奈良の新薬師寺の門前に在ります。新薬師寺は、聖武天皇の病気平癒を願って光明皇后が建立した寺院です。有名な十二神将像がある寺院です。

十市皇女は額田王の娘なのですが、母と違って万葉集に皇女自身の詠歌はありません。が、十市皇女のために詠んだ歌は四首あります。一首目は22番歌です。22番歌の前にある20番歌と21番歌は、額田王と天武帝の歌です。十市皇女の両親の歌が、20・21番歌なのです。

20 あかねさす紫野行き標野行き 野守は見ずや君が袖振る

21 むらさきのにほへる妹を憎くあらば 人嬬ゆゑに我れ恋ひめやも

次は、22番歌です。「十市皇女、伊勢神宮に参赴ます時に、波多の横山の巌を見て、風芡(ふふき)刀自が作る歌」と題があり、ふふき刀自については詳細は分かりません。

22 川の上のゆつ岩群に草生さず 常にもがもな常処女(とこをとめ)にて

川の中にある岩は常に清められていて草が生えないが、常にそうであったらいいですね。そうであれば常乙女でいられるのですから。

書紀によると天武天皇の四年(675)春に、十市皇女・阿閇皇女が伊勢神宮に参赴しています。当時、伊勢神宮には大伯皇女(大津皇子の姉)が斎宮として赴任していました。そこへ出かける時の歌ですが、何をするために二人の皇女は出かけたのでしょう。

十市皇女は壬申の乱(六七二)の時の、敵将・大友皇子の妃でした。阿閇皇女は天智帝の皇女で、後に草壁皇子の妃となる人です。十市皇女は大友皇子が勝利したら皇后になっていたかもしれない女性です。しかし、大友皇子は天武帝に破れました。父が夫を倒したのでした。大友皇子の忘れ形見の息子(葛野王)を連れて明日香に戻った十市皇女の心は晴れなかったことでしょう。そこで、同じ天智帝を懐かしむ皇女(阿閇)と一緒に伊勢に参赴させたと云うことです。身も心も再生するようにと、天武帝の娘への心使いだったのではないでしょうか。

祟り神となっていた藤原 広嗣

さて、案内板によりと、比賣神社は鏡神社の摂社でしたね。

十市皇女を祀る比賣神社は、新薬師寺の門前に在りますが、そこは鏡神社の鳥居の前でもあります。鏡神社と云えば、九州の唐津に「鏡神社」があり、藤原広嗣を祀っています。ここは、その鏡神社から806年に勧請されました。

806年に、鏡神社は光明皇后所縁の寺・新薬師寺の守護神として勧請された…のです。広嗣は祟り神から守護神へと転身しました。806年は、桓武天皇の没年であり、平城天皇の即位年です。平城帝の御代が平安であるように、祟り神を鎮めようとしたのでしょう。奈良教育大の辺りまであった新薬師寺の境内は、火災により縮小していたので、鏡神社が現在地に造られることになったのでしょう。

で、では、十市皇女は祟り神の神社の摂社であれば、 十市皇女は祟り神だったのでしょうか? もともと比賣塚があったらしいのです。そういう謂れのある塚だったと思います。

天智帝の後継者・大友皇子の王妃だった十市皇女ですから、大きな悲しみを背負っていたのは間違いありません。なのに敵将の妃となり、苦しんだ挙句の自死ですから、祟り神となったでしょう。恨みを持って没したと、誰もが思ったでしょう。

 悲しみの王妃の霊魂をどのように慰めたらいいのか、当時の人は悩んだと思います。残された息子の葛野王だけでなくその末裔も悩み続けたでしょう。そのささやかな名残が、比賣神社の横に残されていました。

それは、次に紹介しましょう。


衣通姫・軽太郎皇女は内部告発する

2017-06-18 14:02:50 | 59難波天皇

衣通姫は内部告発する・君が行きけ長くなりぬ

木梨軽皇子は仁徳天皇と磐姫皇后の孫で、允恭宇天皇(伊邪本和気命)の長子です。母は応神天皇(品陀和気命)の御子で大郎子(意富本杼王)の妹・大中津比賣です。仁徳天皇の後は、子の履中天皇(伊邪本和気命)、弟の反正天皇(水歯別命)、弟の允恭天皇と兄弟で皇位を継承したとされています。履中(64歳)反正(60歳)允恭(78歳)と長生きでしたので、木梨軽皇子が姦通の嫌疑をかけられたのは允恭天皇の崩御後、この時はどなたも相当にお年だったのではないでしょうか。その時、抑えられない衝動で妹と道ならぬ恋? ですか…

(古事記)あしひきの山田を作り 山高み 下樋をわしせ 下どひに 我がとふ妹を 下泣きに我が泣く妻を 昨夜こそは安く肌触れ

(また歌ひたまひしく)笹葉に打つや霰のたしだしに い寝てむ後は人は離(か)ゆとも うるわしとと さ寝しさ寝てば刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば

と謡ったので、百官人心が皇太子の木梨軽皇子に背いて穴穂皇子に傾いたというのです。事の起こりは歌謡なのです。書紀では、器の汁が凝ったので占って姦通が分かったという展開です。どちらも何とも理解しがたい展開でした。軽皇子は大前小前宿祢の大臣に逃げて兵器を備え、穴穂皇子も兵器を用意しました。どう読んでもクーデターですね。

木梨軽皇子が同母妹との姦通罪で皇位継承権を奪われ死地に追い込まれたのは、古事記でも書紀でも同じです。然し、古事記では大前小前の大臣が軽皇子を捕らえて献進し、皇太子は伊予の湯に流されました。その後を追って軽大郎女が詠んだ歌が「君が行きけ長くなりぬ 山たづの迎えを往かむ 待つには待たじ」なのです。85の磐姫の歌に似ていますね。書紀では「伊予に流されたのは皇女の方」です。

磐姫皇后と軽大郎女の歌は、愛しいあの方がお出かけになってからずいぶん日が経ってしまった、までは同じです。磐姫皇后は「迎えに行こうか、このまま待ち続けようか」と悩みますが、軽大郎女皇女は「お迎えに往こう。待っているだけなんてできないこと」と言い切っています。そして、古事記では「すなはち共に自ら死にたまひき」となりました。

万葉集には90番の歌の後に長い文章があります。まず、仁徳天皇が磐姫皇后の留守に八田皇女を召したことで、皇后が怒ったこと。しかし、恨んだ皇后が帰らない天皇を恋慕うという書紀とは矛盾する4首(85~8)が並びます。書紀では、帰って来なかったのは天皇ではなく皇后なのですから。

古事記の軽大郎女皇女の歌は「待ってなんかいないで迎えに行こう」という歌なので矛盾はないようにも見えます。書紀では伊予に流されたのは皇女の方でした。皇太子は流されていませんが、流されたはずの皇女が「お迎えに行こう」と詠んでいる歌が、万葉集にあるのです。ですから「今かんがうるに、二代(仁徳・允恭)二時にこの歌はない」と、脚注を長々と入れているのです。どう読んでもおかしいというのです。

衣通姫は内部告発した

では、古事記の展開ならば、「君が行き」の歌は矛盾がないのでしょうか? いえ、矛盾があるのです。「皇太子は伊予に流されましたから、待っていても許されて帰れるかどうかわかりません」し、迎えに行っても罪人であれば帰れませんし、皇女だから何とかなるわけはありません。でも、迎えに行くというのです。なぜ? 理由は一つ、罪はなかったと皇女は思っているからです。古事記の物語や書紀の話に対して、抗議しているのではないでしょう。万葉集の歌は、別の物語・事件を告発していると思われます。

ここに隠れた事件を引き出す鍵があるはずです。磐姫皇后から難波天皇、「君が行きけ長くなりぬ」から帰って来れない高貴な人・天皇、軽大郎女から導き出される軽皇子・皇太子、皇女は相手を思い迎えに行った、何より「軽」皇子です。軽皇子は孝徳天皇のことです。軽皇子という名を当時の人が忘れるわけはありません。難波宮の天子なのですから。

では、ここで衣通姫が誰をさすのか、云うまでもありません。有間皇子を迎えに行った間人皇后意外にはありません。万葉集は「衣通姫」の歌で事件を告発しているのです。

 

深く信頼し合い愛し合っていた二人の運命を、その悲しい物語を、万葉集は繰り返しなぞり告発しました。


難波天皇の御代を寿ぐ難波津の歌

2017-06-16 20:53:40 | 59難波天皇

難波天皇の御代を寿いだ歌

難波津に咲くやこの花冬ごもり 今は春べと咲くやこの花

この歌は、現代では「競技かるた」の開始時に詠まれることが通例となっているそうです。難波津に咲くやこの花冬ごもり 今を春べと咲くやこの花

また、「いろはにほへと」のように書道の手習いのはじめにも使われた歌で、徳島県の観音寺遺跡から万葉仮名で「奈尓波ツ尓昨久矢己乃波奈」と記された7世紀のものと思われる習書木簡が出土しました。他にも、この歌を記した木簡が出土しているそうです。平安時代には「難波津の歌」は誰もが知っていたのですね

この歌は、宇治若郎子と大鷦鷯尊が皇位を譲りあったため、極位が三年間空位となっていたが、難波高津宮に大鷦鷯尊が即位した時、治世の繁栄を願って詠まれた歌となっています。ここに詠まれた花は梅だということですが、この歌が仁徳天皇の御代を寿いだ歌と云うことに、とても違和感があります。実在さえはっきりしない仁徳帝の時代の歌が平安時代になって流行するというのも不自然だし、三年間即位しなかったうえに、更に三年間民から税を取らずにいた仁徳帝の御代をいつ寿いだのでしょう。皇位を譲りあっていた三年間は、皇太子は宇治若郎子ですから大鷦鷯尊に即位を促すのは変ですし、税を取らない切り詰めた生活の時の歌としても変です。

ですから、同じ難波天皇である孝徳天皇の御代を寿いだ歌だと考えると、違和感はありません。日本書紀にも「いふべからず」と言われた壮大な難波宮を構えた孝徳天皇の御代、難波津にみなぎる新しい時代の風を詠んだと。大化改新によって今までと違った時代が来る、物流の豊かな難波津にまるで春になったような期待感が漂う、という歌になるのです。

これが、孝徳天皇の御代を寿ぐ歌だとすると、万葉集に孝徳帝時代の歌が何故ないのか、気になってきます。わたしは孝徳帝の御代の歌はあったと思います。それは万葉集の中に在ったのだと。その事に、そろそろ触れなければなりませんね。

 また、後で。


仁徳天皇と鹿・政敵の暗殺を意味するのか

2017-06-08 17:06:20 | 59難波天皇

雄鹿が鳴かなかったのは、すでに殺されていたから

万葉集の巻九「紀伊国行幸十三首」の編集を思い出しますと、「鹿が鳴かなかったのは既に殺されていたからだ」という暗示になっていました。「鹿の死は政変」であったとも読めました。十二首目の「木の国の昔さつおのなり矢持ち 鹿とり靡べし坂の上にぞ或る」は、まさに鹿を弓で殺したことが辺りを平定したことになるという歌でした。

万葉集巻九の冒頭歌「ゆふされば小掠の山に臥す鹿は今夜は鳴かずい寝にけらしも」と響き合うと、「鹿が鳴かなかった=鹿は殺されていた」という暗示となりました。

鹿が鳴かなかった話が日本書紀「仁徳紀」にあるのです。当時の人は知っていた「兎我野の鹿」の物語です。「古事記」には 鹿の話はありません。

仁徳天皇は難波高津宮で八田皇女と鹿の鳴き声を聞いていた

 仁徳天皇は皇后と高殿で涼んでおられました。毎夜、兎我野から聞こえて来る鹿の声が澄み切っていてもの悲しかったのです。雄鹿が鳴く声を聞いて心慰められていた天皇は、或る夜に雄鹿が鳴かなかったので「今夜は鳴かないが、いったいどうしてなのか」と気になっていました。次の日、鹿肉が献上されました。「もしや」と思った天皇は、「何処で捕れた鹿なのか」と尋ねました。答は「兎我野です」という…毎夜天皇を慰めていた雄鹿であることを知るという展開です。

続いて、「昔、或人が兎我に行って野中に宿リした時に聞いた、二匹の夫婦鹿の会話」の物語があります。男鹿が見た夢は「殺されて塩にまぶされた姿」だったという、やはり「鹿と死」がつながる話です。この二つの話は仁徳紀に在りますが、そこにはどんな編集意図があるのでしょう。

聖帝と書かれた仁徳天皇は、宇治若郎子の自死によって即位した人です。八田皇后はその宇治若郎子の妹です。死に際に妹を献上しているのです。仁徳帝は八田皇女の妹の雌鳥皇女も後宮に望んでいます。倒した相手の血筋の女性を他に逃がさない為とも読み取れます。古事記では、「大后が強くて姉の八田皇女も後宮に入ることはできていない。だから、わたしは貴方の妻になりましょう」と、雌鳥皇女自らが隼別皇子を選んだことになっています。そして、二人は殺されたのです。

万葉集巻九・持統天皇の「紀伊国行幸」の歌群の前に置かれた「ゆうされば小掠の山に臥す鹿」の歌は、有間皇子の死を暗示したものだったと既に書きました。そうすると、巻八の鹿も、「鹿=殺された」という暗喩となります。1511は岡本天皇、1664は雄略天皇(*或本に岡本天皇御製歌という)どちらも岡本天皇かもしれませんから。

そうであれば、巻八・九の「鳴かない鹿=死」とは「有間皇子事件」を暗示したとなって、皇太子でありながら死なねばならなかったという事件になり、宇治若郎子ともつながるのです。

 万葉集には繰り返し『宇治若郎子』が読まれています。額田王『宇治の都の仮廬しおもほゆ』、柿本人麻呂「宇治若郎子の宮処の歌」などです。なぜ万葉代表歌人の二人が「宇治若郎子」を詠んだのかの答は「宇治若郎子が有間皇子と重なる運命だったから」なのです。二人は有間皇子を偲びました。

ここで、一つの疑問が出てきました。聖帝と言われた仁徳天皇は、弟の宇治若郎子と三年間極位を譲りあい、その弟の自殺によって即位したと、書紀に書かれていますが、日本書紀の完成は720年です。柿本人麻呂が柿本佐留であれば、彼の没年は708年となっています。12年も前に書紀の仁徳紀「兎我野の鹿」の内容を知っていたことになります。書紀の編纂は長きに渡っていますから、不思議ではないのかも知れませんが。たとえば川嶋皇子(691没25歳)は「帝紀及び上古の諸事を記定」という仕事を15歳から始めていますから、歴史や伝承は数多くちまたに伝えられていたのかも知れませんし、皇族貴族は自分の出自をはっきりと自覚していたでしょうし、それは口伝や文字として残されていたに違いありません。

むしろ日本書紀などのような「正史」こそ、ほとんどの人に知られていなかったのでしょう

万葉集の難波天皇とは誰か? 仁徳帝か孝徳帝か、謎はまだ解決されてはいません。