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万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

倭は国のまほろば・古事記・倭建命の国偲び歌

2017-07-26 13:10:53 | 64木梨軽皇子の周辺に万葉集

平群を詠んだ古代の英雄・倭建命

平群で少し寄り道しましょう。奈良県平群町には長屋王墓だけでなく、様々な伝承があります。聖徳太子ゆかりの信貴山や、松永久秀の信貴山城もありますね。

倭建の国偲び歌ヤマトは国のまほろば

父の都は纏向の日代の宮です。命尽きる時、偲んだのはヤマトです。

そして、平群の熊白樫の葉をよみました。

なぜ平群の熊白樫なのでしょう。この人は、如何なる星の下に生れたのでしょう。

まず、小碓命は少年なのに西に熊襲建二人を討ちに行きました。女性に化けて兄を殺し、次に弟を殺します。その時、熊襲建の弟から「倭建御子」の名をもらうのです。上のものが誅殺される者から名をもらいました。名付け親とかは、ほとんどが目上の人ですが、不思議です。
この時の武器は剣です。

山の神、川の神、穴戸の神を言向け和し、帰りに出雲国で出雲建の友になり、だまして殺します。
この時の武器は大刀です。

大刀と剣は違いますね。弥生時代の初期は剣が威信財でしたが、後期には五尺刀などの大刀が移入しています。
さて、倭建命は九州の熊襲建、出雲の出雲建を倒したことになります。

では、古事記にある歌謡ですが、東西に遠征し疲れた倭建命の歌です。

 

「古事記」の倭建が詠んだ歌は、国偲び歌と呼ばれていますが、5・7・5・7・7の短歌の形式とは違います。もちろん短歌の形式の歌もありますが、様々ですね。

 

倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(こも)れる 倭しうるわし

やまとは国で最も優れた所 青垣のように山々に取り囲まれた所、 倭こそうるわしい

命の全(また)けむ人は 畳薦 平群の山の 熊白樫の葉を 髻華に挿せ その子
わたしの命はやがて終わるが、無事なものは、薦を畳のように広げた平群の神山の熊白樫の葉を髻(もとどり)に挿して、神に感謝をするように、なあお前たち。

 倭建命は、続いて詠みました。


愛しけやし 吾家(わぎへ)の方よ 雲居立ち来も

ああ懐かしいなあ、吾家の方から雲が立ち、祖先霊が迎えに来た

 

嬢子(おとめ)の床の辺に我が置きし つるぎの大刀 その大刀はや

あの子の(ミヤズ姫)の枕元に置いて来た剣 あの刀剣があったならなあ。 こんな目に合わなかったかも ああ

 そうして、倭建命は亡くなりました。「かむあがりましき」と崩の漢字が使われています。

「崩」は、天皇の死去に使われる漢字ですね

倭建命は白鳥となって飛び立ちました。妃や子供たちは竹の切り株の足を破られながらも必死で追いかけました。道々歌った四歌(ようた)は御葬(みはふり)の歌として、その後、天皇の大御葬に歌うというのです。

白鳥は河内の志幾に留まったので御陵を作りました。白鳥の御陵です。しかし、またそこを飛び去ったのでした。

と古事記には書かれています。

いったいどこへ? 平群の神を尊んだのに、倭にも帰らず…何処へ行ってしまったのでしょう。先祖の霊雲がお迎えに来ていましたよね。

 

古事記は意味深な歌が多いですね。


長屋王に殉じたのか、丈部龍麻呂!大伴三中、挽歌を詠む

2017-07-23 21:35:14 | 長屋王事件の悲哀・その後先

長屋王事件の年・神亀六年=天平元年の己巳

丈部龍麻呂は長屋王の賜死に殉じたのでしょうか

万葉集巻三「挽歌」には、気になる歌が並んでいます

神亀六年己巳つちのとみ)左大臣長屋王賜死の後倉橋女王の作る歌一首」と、

「膳部王を悲傷する歌一首」に並んで、

天平元年己巳、摂津国班田の史生丈部(はせつかべ)龍麻呂自ら経(わな)きて死にし時に、判官(じょう)大伴宿祢三中(みなか)が作る歌一首併せて短歌」があります。長屋王事件の年の歌です。読んでみましょう。

443 天雲の 向伏す国の武士(もののふ)と 云われし人は 皇祖(すめろき)の 神の御門に 外重に立ちさもらひ 内重に仕え奉りて 玉葛(たまかづら) いや遠長く 祖(親)の名も 継ぎゆくものと 母父に 妻に子に 語らひて 立ちにし日より たらちねの 母の命は 斎瓮(いはひへ)を 前に据え置きて 片手には 木綿取り持ち 片手には 和栲(にぎたへ)奉り 平らけく ま幸くませと 天地の 神を祈ひのみ いかにあらむ 年月日にか つつじ花 にほへる君が にほ鳥の なづさい来むと 立ちて居て 待ちけむ人は 王(おおきみ)の 命かしこみ おしてる 難波の国に あらたまの 年経るまでに 白栲の 衣も干さず 朝夕に ありつる君は いかさまに 思ひいませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜の 置きて去(い)にけむ 時にあらずして

天雲の垂れる国の強い男子と云われた人は、皇祖の神殿のような立派なお住まいの警護に、外に立って仕え、又は内に入ってお仕えし、いついつまでも祖先の名を継いでいくものだと、父母にも妻子にも語り聞かせて、故郷を立って来たその日より、国の母は神祭りの甕を前に据えて、片手には木綿を持ち、片手には和栲を奉げて、どうぞ平安でご無事で居てくださいと、天地の神々に祈り、貴方はどうしているだろうか、いつの年かいつの日か、元気なあなたが 苦労を乗り越えて帰って来ると、立ったり座ったりしながら待っていたであろう。待たれているその人は、天皇のお言葉をかしこまって聞き、難波の国で何年も年を経るまで、濡れた衣も干さないで、朝夕務めていた貴方は、いったいどのようにお思いになったのか、たった一度のこの世での暮らしを捨てて、はかなく逝ってしまわれた、まだその時ではないのに。

反歌

444 昨日こそ 君はありしか 思はぬに 浜松の上に 雲にたなびく

 昨日こそ貴方は生きていたのに、思いもしなかった、貴方が浜松の木の上の雲になって棚引いているなんて。

445 いつしかと 待つらむ妹に 玉梓の 事だに告げず 去にし君かも 

何時だろうかとあなたの帰りを待ち続けているだろう愛しい人に、一言も告げずに逝ってしまった貴方なのだなあ。

わたしはこの大伴三中(みなか)の歌を読んだ時、ハッとしました。

丈部龍麻呂は何故自経したのか、もしや長屋王のために殉死したのではないかと思ったのです。

彼はごくごくまじめに主人の王の警護をし、内でも外でも懸命に仕えていたのです。

龍麻呂という人物について、何の落ち度もこの長歌からは窺えません。

難波で仕えたと云うことは、後期難波宮の役人だったのです。

行政職のトップは長屋王でしたから、当然その人を知っています。

大伴三中は、龍麻呂の自経を悲しみました。そして、その忠誠ぶりを詠みあげました。班田の史生(ししょう)ですから、班田司の書紀として事務的な仕事を懸命にしていたモノノフともいうべき龍麻呂が死んだことを、ただただ嘆いているのです。でも、それだけでしょうか。

この歌は、「442 世間は空しきものとあらむとぞ此の照る月は満ちかけしける」の次に掲載されています。

読者は、長屋王の死を嘆く441~2番歌と切り離して読むことはないでしょう。

一連の歌としてつづけて読むと思います、同じ年ですから。

神亀六年は天平元年と改元されました。読者はその意味も理解しています。

長屋王を倒したことで「天下は平らかになった」というのですから。

そのあまりな元号のおぞましさと理不尽さを、長屋王は無罪だったという真実を、長屋王事件が陰謀であったと、一連の歌は訴えていると思うのです。

大伴宿祢三中の歌は「意味のある自経をした男をモノノフと表現した」のだと思うのです。大事な家族がありながら、彼は長屋王の賜死に殉じたのだと。

長屋王は誰にも尊敬された人だったのかも知れません。

平群町の長屋王の墓は、古代氏族の平群氏が丁寧に葬ったのでしょう。前方後円墳の後円部の中に長屋王の墓は造られていると、何かで読んだことがあります。何であったか忘れましたが、たぶん平群氏は自分の先祖の墓を王の為に提供したのだと思います。

長屋王は謀反の罪での賜死ですから、大きな墳丘墓は築けません。だから、敢て自家の祖先の墳丘の上に王墓を造ったのではないかと。その傍らの微高地に吉備内親王の墓を築いたと思われるのです。

今なお、小さな墳丘に平群氏の心使いが偲ばれます。

万葉集の巻三の挽歌441~5は、非常に意味深な五首ですね。

貴方はどう読まれましたか?


武市皇子の男子・長屋王の悲劇・その2

2017-07-20 16:05:13 | 長屋王事件の悲哀・その後先

長屋王事件を悲しむ歌

神亀六年二月、長屋王の理不尽な賜死

父の死を嘆いた倉橋部女王・残された家族でした。

長屋王と共に死を強要されたのは吉備内親王とその子供たちで、他の女性との子ども達は残されました。とはいえ、ゆくゆくは有力男子の命を断たれていくのですが…

では、長屋王の死を傷む歌を詠みましょう。

巻三「神亀六年己巳、左大臣長屋王が死を賜りし後に倉橋部女王の作れる歌一首

441 大皇(おおきみ)の命かしこみ 大荒城(おおあらき)の時にはあらねど雲隠ります

大皇のお言葉をかしこんで承り、今はまだ殯宮(あらきのみや)などを建てる時ではないのに、わが父・長屋王は雲の彼方に逝ってしまわれたのです。(倉橋部女王は長屋王の娘です)

次に「膳部(かしわべ)王を悲傷する歌一首」

442 世間(よのなか)は 空しきものとあらむとぞ 此の照る月は満ちかけしける

世の中とはどうにも空しいものだと、この照る月は教えているのだろう、満ちたりかけたりしながら。それにしても、あの若い才能ある王子がお亡くなりになるとは、あまりに悲しい。

歌の後に、「右一首、作者詳らかならず」と脚があります。

誰が膳部王の死を嘆いたのか

(長屋王の室・吉備内親王の幸せを願った元明天皇は既に没していて、元正天皇には妹を救うことはできませんでした。)

膳部王(長屋王の長子)の死を嘆いた歌の作者不詳ですが、上の歌を詠んだのは身分のある官人で、役職もあった人でしょう。その名を明らかにはできない人だったと、わたしは思います。膳部王はこの事件がなければ、次の天皇だったかも知れないからです。官人としては、時の権力者を批判することはできなかったでしょう。

個人的には、「世間は空しきものと」の歌を詠んだのは大伴旅人だと思います。旅人の歌のなかに上の一首に非常によく似たものがありますから。または、旅人の近親者でしょうか。この時、家持はまだ子どもですから、作者は大伴家持ではありません。

それに、旅人は長屋王派だったといわれています。それが故に藤原氏によって大宰府に帥として遣られ、旅人が都を離れている間に長屋王事件は起こりました。長屋王の賜死を知った旅人はどう思ったでしょう。

都からの思いがけない知らせを受けて「いよいよますます悲しくなった」のではないでしょうか。

万葉集巻五の冒頭には「大宰帥大伴卿、凶問に報いる歌一首」があります。

793 よのなかは空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり

大伴氏は代々武人の家系でした。大将軍として旅人もふるまっていたと思われます。

七二〇年、征隼人持節大将軍として九州にも来ています。大宰府の帥になったのは最晩年になります。大伴旅人は大伴安麻呂の第一子です。大伴安麻呂と藤原鎌足は従兄弟でした。

旅人の妹の大伴坂上郎女は、藤原麿の妻でもありました。麿は藤原不比等の第四子ですから、大伴氏としては、藤原氏を批判することは難しかったしできなかったでしょう。

しかし、旅人としては長屋王とその家族の悲劇を悲傷せずにはおれなかったと思います。ですが、武人である以上、愚痴など誰にも言えず、酒を飲んで酒の力で泣いたのだと思うのです。

長屋王を罠にかけた権力者を嘲笑し、何もできない自分を情けないと酒の力で泣いたのでしょう。中学生の頃に、恩師からこの歌を紹介されたわたしは「なんて恥じな大人だろう。酒飲んで泣くなんて」と好きになれませんでした。ですが、

今は、この歌を読むと切なくなるし、泣けてきます。

348 生ける者 遂にも死ぬるものにあれば このよなる間は楽しくあらな

349 黙だおりて賢しらするは酒飲みて 酔い泣きするに尚しかずけり

万葉集の大伴旅人の歌を詠むと、雄々しく生きようとした男の悲哀が偲ばれます。

793 よのなかは空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり

 


高市皇子の男子・長屋王の悲劇

2017-07-17 21:10:21 | 長屋王事件の悲哀・その後先

長屋王事件の悲哀と、そのあとさき

万葉集には長屋王は無実だったと暗示されている

巻三の「長屋王の故郷の歌一首」

268 吾背子が古家の里の明日香にはちどり鳴くなり嬬待ちかねて

我が父の故郷である明日香には沢山の鳥が鳴いている。その声は妻を待ちかねているようだ。まるで古の都の人々の霊魂が新京へ去った人々の帰りを待ちかねているように聞こえる

この歌の前に、「志貴皇子の御歌一首」が置かれています。

267 むささびは木ぬれ求むとあしひきの山のさつおにあいにけるかも

むささびは木から木へと飛び移っていたが、その時にムササビを狙っていた山の猟師に会ってしまったのだなあ。まるで不運な人のようではないか

長屋王の歌(268)だけ詠むと父の活躍した飛鳥を懐かしんでいるように読めますが、志貴皇子の歌と並ぶと「長屋王は、まるで待ち構えていた猟師に狙われたムササビのようではないか」と読めるのです。志貴皇子(715没)は長屋王事件の前に没しています。ですから、267番歌は長屋王を詠んだのではありません。志貴皇子は罠にはまった誰かを詠んだものでしょう。大津皇子か、弓削皇子か、川嶋皇子か…不運な当時の誰かを。万葉集の歌は「叙事詩」であって叙景詩ではないのですから。

何らかの意図があって、万葉集編集者はこれらの二首を並べました。それは、長屋王が罠に落ちたのだと暗示するためでしょう。長屋王は無実だったと。 

長屋王の墓は、奈良県生駒郡平群町に在ります。

長屋王の父親は太政大臣高市皇子。

高市皇子は父の天武天皇を支え、壬申の乱でも大きな働きをして勝利に導きました。その後、皇親政治家として活躍し、持統天皇の御代には太政大臣になりました。

しかし、息子の長屋王は左大臣まで上り詰めながら、謀反の罪をきせられ自尽に追い込まれました。

(写真は平群町の長屋王墓です)

長屋王事件は、なぜ起こったのでしょう。

長屋王が自尽に追い込まれた理由は、長屋王が余りに恵まれていたからです。

既にこのブログでも書きました、高市皇子の墓は高松塚古墳と思われると。高市皇子は藤原宮の造営をし、太政大臣として活躍し、当代随一の権力者でした。

長屋王は天武帝の御子・高市皇子天智帝の娘・御名部皇女の間に生れましたから、当代随一の皇統を継ぐ家柄でした。更に、室には元明天皇の娘・吉備内親王を迎えていました。

吉備内親王は長屋王との間に、男子を四人もうけていました。皇女は幸せの絶頂で突然の事件に見舞われました。四人の子どもたちの母として、妻として、無実の夫が糾問されるのを見てどんなに絶望したでしょうか。御身は現天皇の叔母でありましたのに。

そして、ついに四人の男子と共に自殺に追い込まれてしまったのです。

吉備内親王の兄が文武天皇、姉が元正天皇でしたから、長屋王一家は高貴な選ばれた人たちでありました。だからこそ、長屋王事件は起こったのです。

 吉備内親王の母である元明天皇の愛が、逆に長屋王家の悲劇を生んだのでした。

元明天皇は娘の吉備内親王を愛し、皇女が生んだ子供たちを「皇孫扱い」にしました。

続日本紀・元明天皇、霊亀元年(和銅八年・715)二月に「丁丑(二五日)勅して、三品吉備内親王の男女(子供たち)を、皆皇孫の例(つら)に入れたまふ」とあります。長屋王は皇孫ですが、子供たち(三世王)は皇孫扱いではなかったので、元明天皇の勅により皇孫扱いとなったのでした。

同じ年(715年)、首皇子(聖武天皇)は十五歳になります。

父の文武天皇が即位した年令と同じ十五歳で、前年には元服し皇太子となっていました。藤原氏は光明子を首皇子の夫人に差し出し、外戚になる準備を整えていたことでしょう。天武天皇の有力皇子である長親王(六月没)穂積親王(七月没)志貴親王(八月没)の三人はことごとく死亡し、いよいよ首皇子の即位かと思われました。九月に譲位となり…

なんと、元明天皇が譲位したのは皇太子ではなく、娘の氷高皇女(元正天皇)でした。

この即位は特異だったようです。

続日本紀(岩波)脚注には「文武天皇以下各天皇の即位の宣命を収載しているが、元正の受禅・即位に関してのみは、漢文体の詔を載せるにすぎない。これは元明即位の特異性を物語るか」とあります。

即位した元正天皇は独身でしたから子孫を残すことはできません。次の皇統は長屋王の家族に引き継がれると、誰の目にもそのように映ったでしょうし、それは元明天皇の判断だったのです。

一方、草壁皇子の孫・文武天皇の皇子の首皇子(聖武天皇)の夫人は藤原光明子でしたから、かなりの点で長屋王の皇統が勝っていると時の人は心の底では思ったことでしょう。

高貴な家に生まれた長屋王が後々左大臣となるのは当然のことでした。

神亀六年(729)、長屋王謀反事件が起こるのです。それは突然の出来事でしたが、長い間練られた計画の実行だったのです。

長屋王と吉備内親王の墓は150メートルほど離れています。

むかしは、もっと墓域が広かったでしょうからお隣にあったのかも知れませんね。


古代天皇家と饒速日と天香久山

2017-07-04 16:33:28 | 62古代の神々と万葉集

天香具山と饒速日命と天皇家

前回紹介した三人の天皇御製歌に、天香具山が詠まれていました。さて、天香具山とは如何なる山なのでしょう。香具山は藤原宮の東に位置する山で、万葉集巻一「藤原宮御井の歌」にも『日本の青香久山は日経(ひのたて)の大御門に 春山としみさび立てり』と詠まれています。畝傍山は日の横の大御門、耳成山は背友(そとも北)の大御門、影友(かげとも南)の大御門には吉野山、このように神山が都を守ると歌われているのです。香具山は大王家にとって大事な山だったと云うことです。

他にも、

巻一 「2 とりよろう天の香具山 のぼり立ち…」「28…衣乾したり天の香久山」「13 高山(かぐやま)は畝傍をおしと…」「14 高山(かぐやま)と耳梨山と相しとき…」

巻三「257 天降りつく 天の香具山霞立つ…」「260 天降りつく神の香久山「何時の間も神さびけるか香山(かぐやま)の…」「334 わすれ草我が紐に付く香具山の…」

巻七「いにしえの事は知らぬを我見ても久しくなりぬ天の香具山

巻十「1812 久方の天の芳山(かぐやま)この夕べ霞たなびく春立つらしも」

巻十一「2449 香山に雲位たなびきおほほしく相見し子らをのち恋むかも」

そして、「香具山」には天が付きますから、香具山を詠んだ天皇は物部氏の皇統を主張しているのでしょうか。そうです、物部氏です。

「先代旧事本記」の「天神本記」によると、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあまのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)が東遷される時、三十二人の武将と二十五部の物部(軍隊)とその他の従者を従えてきました。三十二人の防衛の従者は
天香語山命(あまのかごやまのみこと)
天鈿賣命(あまのうずめのみこと)
天太玉命(あまのふとたまのみこと)
天兒屋命(あまのこやねのみこと)
天櫛玉命(あまのくしたまのみこと)
天道根命(あまのみちねのみこと)
天神玉命(あまのかむたまのみこと)
天椹野命(あまのむくぬのみこと)
天糠戸命(あまのぬかどのみこと)
天明玉命(あまのあかるたまみこと)
天牟良雲命(あまのむらくものみこと)
天神立命(あまのかむたちのみこと)
天御陰命(あまのみかげのみこと)
天造日女命(あまのみやつこひめのみこと)
天世手命(あまのよてのみこと)
天斗麻彌命(あまのとまみのみこと)
天背男命(あまのせおのみこと)
天玉櫛彦命(あまのたまくしひこのみこと)
天湯津彦命(あまのゆつひこのみこと)
天神玉命(あまのかむたまのみこと)
天三降命(あまのみくだりのみこと)
天日神命(あまのひのかみのみこと)
天乳速日命(あまのちはやひのみこと)
天八坂彦命(あまのやさかひこのみこと)
天伊佐布魂命(あまのいさふたまのみこと)
天伊岐志邇保命(あまのいきしにほのみこと)
天活玉命(あまのいくたまのみこと)
天少彦根命(あまのすくなひこねのみこと)
天事湯彦命(あめのことゆひこのみこと)
天表春命(あまのうははるのみこと)
天下春命(あまのしたはるのみこと)
天月神命(あまのつきのかみのみこと)


続いて、五部人、天降りに従った人
天津麻良(あまつまら)、天會蘇(あまつそそ)、天津赤占(あまつあかうら)、富々侶(ほほろ)、天津赤星(あまつあさほし)
更に天降りに従ったミヤツコ(造)
二田造(ふつだのみやつこ)、大庭造(おほばのみやつこ)、舎人造(とねりのみやつこ)、勇蘇造(いそのみやつこ)、坂戸造(さかとのみやつこ)

天津物部ら二十五部の人。兵仗を帯びて天降る
二田物部、當麻物部、芹田物部、鳥見物部、横田物部、鳥戸(嶋戸)物部、浮田物部、巷宜(そが)物部、足田物部、酒人(さかひと)物部、田尻物部、赤間物部、久米物部、狭竹(さたけ)物部、大豆(まめ)物部、肩野(眉野)物部、物束(はつかし)物部、尋津物部、布都留(ふつる)物部、住跡物部、讃岐三野物部、相槻(なみつき)物部、筑紫聞(つくしのきく)物部、播磨物部、筑紫贄田(つくしのにへた)物部

船長(ふなおさ)舵取りを率いて天降る
天津羽原(あまつはばら)、天津麻良(あまつまら)、天津真浦(あまつまうら)*以下三人の名がない書がある 天津麻占、天都赤麻良

ここまで「天」が並ぶと、あまの〇〇と来れば「饒速日」の関係者だと思いますよね。
ではでは、天智天皇の近江朝の荒れた都を過ぎる時の柿本人麻呂の歌を思い出してみましょう。「畝傍の山の橿原の日知りの御代から」と詠んでいます。橿原で即位したのは、記紀によれば神武天皇です。神武天皇に長髄彦(ながすねひこ)は言いました。
昔、天神の御子が天岩船に乗って天より降られました。櫛玉饒速日尊と云われます。私の妹三炊屋媛(みかしきやひめ)またの名・長髄媛・鳥見媛と結婚して御子が生まれ、可美真手(うましまで)命といいます。私は饒速日命を君としてお仕えしていました。」

すると、饒速日が大王になっていたのですね。
そして、初代神武天皇から九代開花天皇までの皇后が饒速日の神裔から立てられました。この皇后の皇子が皇太子となり次期の大王となったのです。

さて、饒速日命が祭られているのは、国宝・七支刀が神庫(ほくら)に伝世した石上神宮ですね。ここは物部氏の祖が祭神を祀ったことに始まり、神殿後方の神聖なる禁足地は「大王家の武器庫」だったと考えられています。隣接する布留遺跡から多数の武器が出土したそうです。(埋められていた? 大切な武器を埋めたりしないでしょうね? さびるし傷むし使えなくなると思います。敵を欺くために一時的に埋めて隠したのでしょうか? それとも置き忘れられた? それで後世に出土した?)

さて、石上神宮は」書紀によると「崇神天皇7年(紀元前91年)の創建」とされ、七支刀は日本書紀によれば「神功皇后52年(252年)に記された、百済から献上された七枝刀に該当するとみられています。

でも、百済ができたのは「346年、近肖古王即位」ですから、252年では百済はまだ成立していません。ですから、120年足して七支刀の伝来は372年とされています。それは、七支刀に「泰和年の紀年銘」があるからです。泰和は中国の東晋の年号です。神功皇后の時代は120年足して年代が想定されていますね。

それにしても、なぜ饒速日命の石上神社に七支刀があるのでしょう。饒速日は東遷してきた人です、もちろん九州から。天氏を引き連れて来て長髄彦を服従させ、大王となったのです。七支刀を伝世したという事実と、天の香具山はどのように結びつくのでしょうね。

饒速日についてもっと知りたくなりましたね。

また今度。