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万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

柳沢吉保も知った有間皇子と間人皇后の物語

2018-09-07 22:50:54 | 78柳沢吉保は万葉集編纂の意味を知った

 江戸時代になっての話ですが、側用人柳沢吉保(1658~1714)が徳川五代将軍・綱吉に仕えたのち隠居して六義園という庭園を駒込に造りました(1702年)。「回遊式築山泉水」の大名庭園です。

江戸時代の大名庭園の中でも代表的なもので、明治になり三菱の創業者である岩崎彌太郎の別邸となりました。その後、岩崎家より東京市に寄付され、昭和28年に国の特別名勝に指定された文化財になっています。

「六義園記」は、『大名庭園の最高傑作・六義園の理念を高らかに宣言し、「八十八境」と呼ばれる名所のネーミングの由来を記したものである』ということです。この「六義園記」ついて注釈を加えた本がありますから、現代の私たちも柳沢吉保の名文に触れることができます。

この庭園は散策しながら源氏物語の世界や万葉集の世界を偲ぶようにできていていますが、庭園の中心に造営されたのは、富士山でも嵐山でもありません。池にしても琵琶湖でも須磨でも宇治川でもないのです。

庭園の中で一番高い築山は標高35mありますが、庭園を一望できる藤白峠です。一番高い築山が藤白山でした。わたしは深く心ゆすぶられました。柳沢吉保はやはり只者ではなかったのだと思いました。側用人としての気を抜けない年月の後、和歌の世界を偲んだ庭を造ったのです。それも、万葉集の真意を悟ったのです。

万葉集は何を伝えようとしたのか、たくさんのインテリに囲まれてはいたのでしょうが、理解したのですね。

当時の人々も、池をめぐり山を登り、藤白峠で古の物語と歌の謎解きをしながら万葉集に浸ったのです。

万葉集の中で藤白が出てくるのは一か所だけで、「藤白坂」のみです。和歌山県海南市藤白から海草郡下津町橘本に超える坂ですが「藤白のみ坂」と書かれた其処は、有間皇子が追っ手により刑死となった地なのです。

  藤白のみ坂を越ゆと白栲のあが衣手はぬれにけるかも

藤白の坂に「み」が付いていますから高貴な方にまつわる「坂」ということですが、「その坂を越える時、あの方の運命を思い出してわたしは涙を流してしまうのだ」という歌です。この歌を詠んだのはだれか、または詠ませたのは誰かということですが、この歌は、持統天皇と文武天皇の大宝元年行幸時の「紀伊国行幸十三首」のうちに有りますから、二人の高貴な方に献じた寵臣の歌に他なりません。

万葉集中にただ一首しかない地名「藤白坂」を庭園に取り入れたのですから、有間皇子事件を彷彿とさせる仕掛けになっているのです。柳沢吉保は万葉集について十分に理解していたか、彼の取り巻きのインテリ学者たちが吉保に万葉集を解釈し感動させたということになりましょう。

六義園に造られたのは藤白山ばかりではありません。紀ノ川(吉野川)からその河口の和歌の浦や玉津島が表現されていますから、まさに万葉集の王家の悲劇の物語がたどられているのです。

六義園については、また明日。


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