やすみしし吾大王 高光る 吾日の皇子
と、柿本朝臣人麻呂が称えたのは長皇子
長皇子は、天武天皇と大江皇女(天智天皇の娘)の間に生れました。弟は弓削皇子、母の兄は川嶋皇子でした。生まれながらにして日の皇子と崇められたのでしょう。
天智帝と天武帝の血統ですからね。弓削皇子が「兄こそ皇位継承者と主張しても不思議ではありませんね。では、人麻呂の歌を読みましょう。
皇子の狩場では、鹿も鶉も身をかがめて畏れ従い、同じく臣下も畏れ多くもお仕えしているというんです。まるで、皇太子ではありませんか。
このような第一級の扱いを受けて長皇子は成長したのでしょう。すると、持統天皇も長皇子をそうとうに大事にし認めていたことになりますね。
反歌に至っては、まるで王者のようです。そして、或本の反歌に、
おほきみは神にしませば真木のたつ荒山中に海をなすかも
とあったと、万葉集はいうのです。
驚くべきことは、人麻呂の歌の意味です。
人麻呂の歌を読むかぎり、草壁皇子亡き後の持統朝の皇太子と認められていたは「長皇子だった」と考えてもおかしくありませんね。
人麻呂は十分承知して長皇子を賛美する歌を詠んだのです。
しかし、長皇子に8歳遅れて、軽皇子(文武天皇)はどんどん成長していきます。持統帝も悩んだかも知れませんね。ここで誰でも持つ疑問です。軽皇子(文武天皇)の立太子に問題はなかったのか。
天武天皇の存命中に次の極位に着くのは、草壁・大津・長・舎人・弓削皇子のうちの誰かと考えられたでしょう。五人の男子は、天智帝の皇女を母に持つ皇子達でしたから高貴な血筋でした。しかし、天武天皇崩御(686)の後、大津皇子の賜死、三年後に草壁皇子の薨去と皇太子候補がいなくなり、そして高市皇子の薨去(696)となれば、臣下は誰を指示したでしょうね。まさか、幼い軽皇子ではなかったでしょう。
持統帝の御代になって皇位継承が問題になった時、軽皇子の母は藤原宮子(不比等の娘)ですから軽皇子立太子には少し無理があったでしょう。
ですから、697年、弓削皇子は軽皇子(文武天皇・東寺14歳)立太子の時に、異議を申し立てたのです。弓削皇子は賢い皇子でしたから無理を通そうとしたのではないと思います。当たり前を正義感で指摘したのでしょう。しかし、弓削皇子の主張は通らず、三年後、彼は若い命を断たれました。母の大江皇女はあまりのショックでしょうか、半年後に亡くなりました。
長皇子は母と弟の死(699)という事態に動揺したでしょうね。
しかも、10年後、文武天皇が崩御(707)してしまいました。その為に、文武天皇の母・阿閇皇女(元明天皇)が即位しました。持統天皇と同じ道を選んだのです。そして、歴史は繰り返します。皇太子ははっきりしていません。
8年後、元明天皇の譲位・氷高内親王(文武天皇の姉)の即位(715)の前に、三人の有力皇子が薨去するのは、歴史的に見て偶然ではないですよね。
長皇子(6月)穂積皇子(7月)志貴皇子(8月)と亡くなるのですから、そして9月の氷高内親王(文武天皇の姉)の即位(715)となるのですからね。
人麻呂も既に没しているので、これらのドラマは詠めませんでした。
万葉集や続日本紀を読むかぎり、人麻呂は長皇子を皇位継承者として「高光る日の皇子」皇太子として歌を献じたと思うのです。そんな地位にあったから和銅八年(霊亀元年・715)に長皇子薨去となったと思います。
人麻呂は、若い皇子を賛美しすぎでしょう! あなたはどう思いますか。
では、また。