気ままに何処でも万葉集!

万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

山上憶良が大伴旅人に異常に接近したのはなぜか

2020-11-20 23:02:37 | 81令和元年万葉集を読む

松浦佐用姫の悲しい物語は有名ですが、ご存じですか。出兵する夫を見送る妻が、嘆き悲しんだという肥前松浦の伝承です。

大伴佐提比古郎子は、大伴金村の子です。宣化天皇の二年、新羅が任那を侵略した時、大伴金村の子の磐と狭手彦を遣わして救ったと、日本書紀にあります。狭手彦は佐提比古とも書き、名前の表記は違いますが、同じような話です。風土記では、佐用姫ではなく、肥前松浦の弟日姫子との別離の伝承です。万葉集では、憶良と旅人が詠んでいる佐用姫の物語になります。物語は若干違っていますが。

銅像の手を挙げている女性は、半島へ渡る舟を見送っているのです。ここは佐賀県唐津市の鏡山の展望所で、この人は松浦佐用姫、手に持っているのは領巾です。

彼女は「いってらっしゃい」と言っているのではないのです。「行かないで、舟よ帰って来て」と今生の別れを嘆いていると憶良は詠みました。

佐用姫は夫の大伴狭手彦がもう戻ってこないと思ったのでしょうか。七日も泣いて泣き明かして、ついには加部島まで追いかけて石になったという女性です。

行く船を 振り留みかね 如何ばかり 恋しくありけむ 松浦佐用姫  (山上憶良)  

去り行く船を領巾を振って留めることもできず、どれほど恋しかっただろうか、松浦翔姫は。

愛しているのなら待ち続ければいいだろうに…何故に石になったのだろうか…私には不思議です。

他にも、鏡山の山頂の鏡山神社の前に、憶良の松浦佐用姫を詠んだ歌があります。

麻都良我多 佐用比賣能故何 比列布利斯 夜麻能名乃尾夜 伎々都々遠良武  (碑の歌)

まつらがた さよひめのこが ひれふりし やまのなのみや ききつつおらむ  (碑の読み)

松浦縣 佐用姫の児が 領巾ふりし 山の名のみや 聞きつつ居らむ   (山上憶良)

山上憶良は鏡山に登ったのでもなく、見たのでもありません。ただ、旅人たちが松浦の縣(あがた)に行ったと聞いただけです。『松浦縣と言えば、あの有名な佐用姫の物語があることは知っている。が、まだ山も見たことはない。佐用姫が領巾を振って別れを惜しんだという領巾振山の名前だけを聞いて居なければならないのだろうか、私は。何と残念なことか』という歌を詠んで、一緒に行けなかったことを悔しがっていると、旅人に伝えたのです。

旅人は「何と、憶良殿は私の先祖の大伴狭手彦の伝承をご存じだったのか。我が先祖は大王に仕えて活躍していたことを」と、嬉しかったでしょう。

鏡山の展望台からは、唐津湾が見えます。確かに出兵する船がよく見えたことでしょう。

憶良は佐用姫の歌ばかりではなく、玉島川の歌も送りました。玉島川は唐津湾に流れ込む川で、鏡山(領巾振山)の東側を流れています。旅人は松浦縣への旅で、玉島川でも遊び、歌を詠みました。憶良には、そのことも羨ましくて仕方なかったのです。

松浦の縣への楽しい旅に誘って欲しかったと、何度も何度も歌を詠んで、旅人に贈ったのです。

なにゆえに、憶良は悔やむのでしょう。「私たちは特別の仲ではないか」と言わんばかりです。実は、憶良は旅人に「私たちは、特別仲がいいのですよね」と、繰り返し歌で確かめています。もちろん、特別な関係になりたかったのです。旅人に信頼されたかった、その本心を聞かせてほしかったのです。

それって、なんのためでしょうね。

大宰帥と親しければ何かいいことがあるのでしょうか。いえいえ、憶良は旅人が何を考えているか知りたかっただけです。

これから都で起こるであろう大事件に旅人がどう対応するか、都の高官は心配していました。その命を受けた憶良は、日ごろ旅人がどのように考えているか、知りたかったのです。

何のために? 当然、都に報告するためです。それが、筑前の守、山上憶良の裏の仕事だったのです。

この事については、今年中に出版する「梅花の宴と大伴旅人」に書いています。

よかったら、詠んでくださいね。

では、この辺で。   


万葉集を編集させた平城天皇の歌

2020-01-01 09:55:19 | 81令和元年万葉集を読む

万葉集を編集させたのは平城(へいぜい)天皇です。桓武天皇が病に倒れた時、二十年前に除名されていた(家持は死亡して二十日も経っていたのに大伴氏の罪に連座して除名された)大伴家持の官位を復したのです。そして、万葉集を召し上げ、自分の近臣に選ばせ(編集させ)ました。

万葉集は日本最古の歌集として重要視されてはいますが、古今集が国文学の中でも重要な位置にあり、和歌史上の最高峰と考えてもいい、とも言われています。その評価は人によってさまざまだと思いますが。では、古今和歌集はどんな編集をしているのでしょうね。気になりますね。

勅撰和歌集は二十一集ありますが、古今集が勅撰集のさきがけです。万葉集は勅撰和歌集ではありません。
古今和歌集は紀貫之が醍醐天皇の勅で、長い年月をかけて精選し編集されたものです。それは、世に出た直後から世間の注目を浴び絶賛され、手本とされ、人々はこぞって暗唱しました。万葉集とは、まったく違うのです。
古今集で、「万葉集は平城天皇の御世に編集されたものだ」と紹介されています。
平城天皇の御製が90番歌です。

平城天皇こそ、大伴家持の官位を復し、万葉集を召し上げ侍臣に編集させた人、なのです。
平城天皇はどこどこまでも奈良の都を愛した方でしたね。都を平安京から平城京に戻すようにと要求し、譲位していたのに「薬子の変」まで起こして、嵯峨天皇と対立されました。御子の阿保(あぼ)親王は本来なら皇太子となったのでしょうが、平城天皇の敗北と出家により大宰府に左遷されたのです。阿保親王の子供たちは臣籍に下り在原という姓になったのです。在原行平・業平の兄弟です。

そこで面白いことに、在原元方の歌が「古今集」の冒頭歌なのです。なぜ、この人なのでしょうね。

貫之は何故この歌を選び、冒頭に持ってきたのでしょうね。
そこには、貫之の歌人としての教養と政治的な意図があったはずです。
考えてみると面白いですね。
令和二年、お正月を桜で飾りました。では、今年もよろしくお願いします。

 


大伴家持が詠んだ万葉集の最終歌、その前の一首の意味

2019-12-29 23:46:48 | 81令和元年万葉集を読む

天平文化が花開いた奈良時代。でも、政変が連続した厳しい時代でした。

「万葉集」は奈良時代の歌人である大伴家持が編集した、と言われています。
「万葉集」の最終歌は、4516番歌の「新(あらた)しき 年の初めの初春の今日降る雪の いやしけ吉事」ですね。
とても爽やかな新年の喜びと期待感に満たされる歌です。
この歌を詠んだのは、大伴家持でした。因幡守として国郡司を饗応する宴席で詠んだ歌です。彼がどんな思いでこの歌を詠んだのか、この歌から読み解ける歴史の一端を知りたくなりますね。
この歌が詠まれた時代を考えるために、ひとつ前の歌・4515番歌を読んでみましょう。同じ大伴家持の作歌です。
4516 秋風の 末吹き靡く 萩の花 ともにかざさず 相か別れむ
天平宝字二年(758)七月に詠まれた歌ですが、なんだか非常に寂しい歌です。
題には『七月の五日に、治部少輔(じぶのしょうふ)大原今城真人(おほはらのいまきのまひと)の宅(いへ)にして、因幡守(いなばのかみ)大伴宿禰家持を餞(せん)する宴の歌一首』とあります。七月は旧暦ではすでに初秋でした。
大原今城真人という人が、因幡守となって赴任する大伴家持のために別れの宴を開いてくれたのでした。その心尽くしに対して詠まれたのが4515番歌なのです。


4515 秋の風が 萩の枝の先の葉まで靡かせて吹いている。この萩の花を髪に挿して宴を楽しむことのないままで、お互いに別れ別れとなっていくのだ。(別れとはつらいものだ)
家持は「相か別れむ!」と言い切りました。寂しさが切々と伝わります。万葉集のなかで「相か別れむ」という表現は、この家持の歌、4515番歌のみだそうです。
なぜ、家持はこんなに寂しい歌を詠んだのでしょう。
家持は大伴氏の御曹司、大手門を守る大伴氏という古代豪族の末裔、その家持に何があったのでしょう。
ちょうど一年前の七月、その事件はありました。大伴氏には大変な試練の時でした。家持は親しい人々や一族の有力者や大の親友を亡くしました。「橘奈良麿の謀反の発覚」事件です。
この大事件に遭遇するまでの大伴家持の半生を振り返ってみましょうか。

家持は物心ついたときには、父の大伴旅人のもとで英才教育を受けていました。
弟の書持とも仲良く育ちました。父の旅人が大宰帥となって九州に赴任した時も、旅人の「長屋王の変」(729年、左大臣の長屋王一家が無実の罪で命を落とした事件)への対応も、目撃しました。旅人が天平三年(731年)に没した後、十代の家持の肩には大伴氏がのしかかってきたのです。
天平十年(738)の諸兄の旧宅での橘奈良麿の宴の時は、家持は内舎人(うどねり)でした。
天平十二年(740)藤原広嗣が乱を起こすと、聖武天皇について伊勢・不破・恭仁京・信楽京と聖武天皇とともに関の東を五年間も移動し続けました。
天平十六年(744)、献身的に仕えた聖武天皇の息子の安積親王の突然死、家持は内舎人として仕えていましたからうちのめされました。
そして、失意のうちに越中守として赴任している時、弟の書持(文持)の薨去を知ります。
更に打ちのめされた家持は病に倒れました。越中守時代に家持の心の支えとなったのが、大伴池主でした。池主と家持は深い友情で結ばれたのでした。


しかし、聖武天皇が娘の阿倍内親王に譲位したあと、皇位継承の問題がくすぶり始めます。孝謙天皇は独身でしたので、次の皇太子が誰になるのか、大変な火種が残されたのです。
大伴氏も藤原氏も他の豪族も、次の政権をにらんで水面下で暗躍していたでしょう。それが、ついに表面化し藤原氏の反対勢力が一掃される事件が起こりました。
天平勝宝九年(757) 橘奈良麿の謀反発覚事件
何故か、家持はその事件に巻き込まれなくて済みました。それまで親しくしていた人々から距離を取っていたのです。しかし、親友だった大伴池主は事件に巻き込まれて命を落としました。池主の死を知った家持はどんな思いを抱いたでしょう。
自分が苦しい時を支えてくれた池主を死なせてしまったのです。心穏やかではなかったでしょう。

大伴池主、彼が無念の最期を遂げた一年後の七月、いろいろ思い出したでしょうから家持が宴を楽しんだはずはありません。餞する宴の歌は4515番歌以外の歌は掲載はありません。この一首のみが最終歌の前に置かれています。当然、にぎやかに餞別の会などしなかったのです。
私はそう思いますし、そう解釈ました。

なぜ、家持は難局を乗り越えることができたのか。
不思議ですが、誰かが情報を漏らして家持を救ったのです。それは、誰なのか。
答えは万葉集の中にあるはずです。

4516番歌のひとつ前の歌「秋風の末吹き靡く萩の花‥」を家持が詠んだ場所『大原今城真人の宅』がヒントです。
私は、大原今城真人が大伴の氏の継続のために、藤原氏側の情報を家持に漏らしたのだと思います。彼は大伴氏をつぶしてはならないと考えた。そのために、家持を救おうと決めたのです。
だって、大原今城真人の母は「大伴女郎」なのです。大伴氏ゆかりの女性なのです。彼が大伴を断絶してはならないと考えたなら、それは自然です。

大原今城真人はどんな人物だったのか、家持を助けたとしたら其のことを咎められなかったのか、気になりますね。

彼の話は、また今度。

今日は、4515番歌が語ってくれた歴史の一コマです。

橘奈良麿たち反藤原勢力が一網打尽に捕らえらることを知った大原今城は、家持に自重と奈良麿たちとの交流を断つように助言した。その助言を入れた家持は胸中穏やかではなかったが、大伴の氏を断絶しないために苦渋の選択をした。

謀反発覚という大事件は誰にも止められず、443人もの人が刑に処された。大伴氏からも多くの処分者を出したので、罪を問われなかった家持も因幡国へ左遷となった。その家持を激励する選別の宴が大原今城真人の宅で開かれた。ちょうど、大伴池主らが獄中死した七月のほぼ同日である。家持は涙にくれたが、大原今城に対して別れの歌を詠んだ。

上のような状況で家持が詠んだ歌が4515番歌なのです。

4516 秋風の 末吹き靡く 萩の花 ともにかざさず 相か別れむ 

では、また。


万葉集の最終歌を詠んだ大伴宿禰家持

2019-12-26 23:15:08 | 81令和元年万葉集を読む

4516 新 年乃始乃 波都波流能 家布弗流由伎能 伊夜之家餘其騰
     あらたしき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事
この歌を詠んだのは、万葉集の編集者とみなされている大伴宿禰家持です。
天平宝字三年(759)正月一日、家持は「新しき年の初めの」の歌を因幡国の国庁に国郡司らを招いた宴で詠みました。前年、天平宝字二年六月、家持は因幡守に任じられ、七月に親しい者による別れの宴を済ませ、ほどなく家持は任地に赴いていたのです。


そして、正月一日の宴。この年は、正月一日と立春が重なった年でした。その年の宴歌です。
 新しい年の初めの一日が 立春に重なった今日、このめでたい日に降る雪よ どんどん降り積もれ。 吉いことが積み重なるように この国の弥栄をことほぐように 降り積もれ 

凛と引き締まった寿歌です。国土と人々の幸せを願い、新年を寿ぐ思いが込められています。
しかし、こんな寿歌を詠んだ家持は、この時非常に寂しく辛い状況でした。
因幡守として国郡司を饗応した家持でしたが、彼の因幡守任命はいわゆる左遷でした。

家持が因幡守に任じられた一年前の天平勝宝九年(757)橘奈良麿の謀反事件がありました。そこで、反藤原勢力は一掃されていました。


橘奈良麿の父の左大臣橘諸兄の館に聖武太上天皇に従がして訪問したこともある家持だったのに、「奈良麿の謀反」に何故か巻き込まれなかったのでした。家持は443人もの処分者を出した政変を生き残ったのです。それは、彼を死なせてはならないと密かに情報を伝えた人物がいたということでしょう。だから、家持は橘諸兄たちから遠ざかり命をつないだのです。

しかし、藤原氏としては名門豪族大伴氏を率いる家持を野放しにするわけにはいきません。
家持が左遷されたのは、古代からの名門豪族である大伴氏が藤原氏にとって危険な存在だったからです。七月、藤原仲麻呂は抜かりなく家持を因幡国に遠ざけ、八月には孝謙天皇の譲位、息のかかった大炊王(淳仁天皇)に即位させました。

政変の度に、藤原氏によってターゲットの動向は監視され、事が起きた時には逃げ道はないのです。
橘奈良麿の謀反事件でも「反藤原氏勢力を一網打尽」計画は準備万端でした。

天平勝宝九年の橘奈良麿の変は、計画通りに事が進行しました。
発端は、聖武天皇の遺詔により「道祖王ふなどおう」が皇太子指名されていたことです。天武天皇の皇子である新田部親王の王子に皇位が移るのです。それが聖武天皇の遺言でした。孝謙女帝は独身でしたから、当然だれかに皇位継承されるのですが、藤原氏としては道祖王(ふなどおう)では納得いかなかったのでした。彼は天武系の王子です。

 

聖武天皇崩御(756年5月)の半年後の天平勝宝八年(757年1月)、左大臣を辞していた橘諸兄を死に至らしめ(おそらく殺害されたと思います)、その同年(757)7月に「橘奈良麿の変」を実行しました。
そうとしか考えられません。藤原氏がかかわる政治的な出来事は、ほとんど半年前から準備され確実に実行されています。それも、ことごとく「半年後の法則」(私が命名したのですが)に当てはまります。
757年7月、奈良麿の謀反は、大伴家持とも親しく交流していた山背王(長屋王の子)によって密告されました。それまで反藤原仲麻呂派だった山背王が、なぜか仲間を裏切り藤原氏に密告したのです。内部事情を知り尽くした王の密告です。そして、同母の兄をはじめ443人もの人が刑に処せられました。同母の兄の安宿王はその妻子とともに佐渡に流罪でした(宝亀四年・773年には、高階真人の姓を賜り、臣下に下る)。しかし、同母の兄の黄文王は皇位継承者候補とされていたために獄中で杖に打たれ絶命しています。
家持はこの危険な網を逃れました。家持の大切な人々は、歌を交換し合った友である大伴池主も、大伴氏の期待の星だった大伴古麻呂も、道祖王も名だたる官人も獄中の拷問で絶命したのでした。
何もできなかった家持は無念でした。

家持の主人だった藤原仲麻呂(恵美押勝)が、大伴家持の本心を見抜かないはずはありません。家持が大伴氏を断絶しないために不本意な選択をしたことに気が付いていたはずです。ですから、橘奈良麿の変(757年7月)のちょうど一年後に、因幡国に左遷したのです。家持が都を去ると、八月にさっさと淳仁天皇(大炊王)を即位させました。
時代の流れと一族の受難を密かにかみしめて家持は因幡国で年末を迎え、そして新年を迎えたのです。
そこで、大伴家持は新年を寿ぐ歌を詠み、それを万葉集の最終歌としたのです。
どんなにつらいことがあっても、家持が寿歌を詠み切ったのはなぜか。それは、彼が初期万葉集の編集に倣い合わせたからです。
柿本人麻呂によって編纂された「初期万葉集」では「寿歌をもって最終歌としていた」からです。
だから、家持も渾身の力を注いで最終歌を詠んだのでした。


天平二年正月の梅花の宴で、大伴旅人は長屋王を偲んだ

2019-08-19 15:24:44 | 81令和元年万葉集を読む

お盆が過ぎると涼しくなると、昔の人は言いました。しかし、最近はそれが通じません。9月まで暑いのです。さて、まだ暑さの厳しい時期ですが、阿蘇はさすがに8月後半から風が変わり、さわやかな風が吹くようになります。8月28日もそんな風が吹きますように。

8月の歴史カフェは、万葉集の巻五の「梅花の宴」について考えます。

天平二年の正月に、大伴旅人はどんな思いで正月儀式を行ったのか。その時代背景と旅人の置かれた状況から「梅花の宴」を深読みします。

大宰帥・大弐・少弐・国司から無官の者までが一同に会して「梅歌」を詠むなど、前代未聞の出来事でした。その行事は、旅人の思い付きだったのか、筑紫の伝統行事だったのか、宴の目的は何だったのか、ここが重要なのです。

当時、大伴旅人には都の藤原氏から秘密裏に三人の監視人が付けられていました。旅人は気が付いていたのでしょうか。筑前守・山上憶良と、少弐・小野老と、造観世音寺別当・沙弥満誓の三人です。三人共に稀代の知識人で教養がありました。だから、大伴旅人の傍に近づけたのです。

大伴旅人は都の高級官僚ですから、少々の文化人では傍にも寄れないのです。

筑前守山上憶良は、無官のまま遣唐使として唐に渡りその才能を発揮し、帰国後は役人として都で活躍し、716年から伯耆守、721年退朝後は「東宮」に仕え、皇太子(聖武天皇)の教育係の一人になりました。聖武は724年に即位し、憶良の仕事は終わっていた…のです。

なのに、既に高齢の老人だった憶良が726年に筑前守となったのです。

何処か変…おかしいでしょう! 退朝した高齢者を九州に遣るなんて。

憶良は733年に74才で没していますから、大宰府に来たときは、68歳くらいの老人です。棺桶に片足突っ込んだ人をはるばる筑紫に遣りますか? 藤原氏としては、憶良以外に大伴旅人をうならせる人物はいないと、踏んだのです。

憶良は皇太子の教育係までした人物ですから、そのころの聖武天皇の立場は熟知しています。その頃の聖武天皇には、後継者となる男子がいませんでした。そうなると、元明天皇によって「皇孫」と立場を引き上げられた長屋王の子ども達が皇位に着きかねません。

ゆゆしき事態、やむにやまれぬ状況だと憶良は諭されたでしょう。ですから、老体に鞭打って、必死の覚悟で彼は九州に来たのでした。旅人に面会した時は70歳になっていたでしょうか。

藤原氏としては、時の権力者・左大臣長屋王に死んでもらう予定だったのです。旅人は大宰府に遣る、都に残った弟の大伴少奈麿にも死んでもらう、そうして長屋王を陥れ、その4人の男子(吉備内親王の子ども達)を断絶する、その計画は実行されました。

梅花の宴は、大宰府に遣られた大伴旅人が天平二年正月十三日に開いた宴です。大伴旅人は自分の立場や政治的状況を理解できなかったのでしょうか。そんなことはありますまい。

 

何もかも分かっていて、その上で何もできない自分を嘆いたでしょう。そして、下心丸出しで近づいてきた山上憶良と親しくなったのです。

憶良も同じです。立場は違っても両者は稀代の文化人です。大伴旅人は、古代大伴氏の血統をつなぐサラブレットでした。その文化力と教養に憶良としても感銘したはずです。

憶良は漢文の知識を駆使し漢詩を作り、和歌を詠み長歌を作歌しては旅人に献じました。それらが多く残されたのが、万葉集巻五です。

巻五の詩歌には二人のやり取り、憶良のその重厚な手練手管が見え隠れしています。70歳の老人の決意と執念、悲しい限りです。憶良が大宰府に在った時、すでに家族のすべてを失っていました。その人が、聖武天皇のために命を捧げたのです。

70歳の憶良の妻も児もこの世の人ではなかった…彼は孤独な老人だったと分かって、巻五に残された憶良の歌を読むと世間の無常が胸を突くのです。

803 銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむに まされる宝 子にしかめやも

905 若ければ道ゆき知らじ まひはせむ 下への使ひ 負いて通らせ

瓜を食べても、栗を食べていても思うのは亡くした子のことなのでしょうか。どんな宝より子に勝る者はないとは、憶良の心の叫びでした。905番歌は、亡くした我が子・古日を恋う長歌に続く短歌です。「吾が子古日は幼くして死んだので、あの世への道は分からないだろう。黄泉の国へ連れて行く使いよ、どうか背負って行ってくれまいか」というのです。

こんな詩歌を読ませられて、旅人の心が動かないはずはないでしょう。

弟の少奈麻呂の為にも、長屋王家の為にもどれだけ無念の涙を流したか、その旅人ですから。

 

太宰府で大野山を眺めて、二人はどんな話をしたのでしょうね。

8月28日の14時にお会いすることができますように。

場所は、熊本県阿蘇郡西原村小森1805-1です。平田庵というソバ屋さんのとなりの民家です。

では、また。

 


壬申の乱に勝利した高市皇子の悲劇・歴史カフェ阿蘇

2019-07-19 13:31:09 | 81令和元年万葉集を読む

壬申の乱を勝利に導いた高市皇子の悲劇・歴史カフェ阿蘇

熊本県阿蘇郡西原村での歴史カフェは、7回目となります。今年は万葉集のお話です。7月31日(水)のテーマは「壬申の乱を勝利に導いた高市皇子の悲劇」となっています。

                     

壬申の乱は、大海人皇子(天武天皇)の周到な計画のもとに起きた内乱でした。天武は東国の兵を召集していました。ですから、吉野を脱出して不破ノ関辺りのワザミが原の仮宮にいて、動きませんでした。天武の代わりに軍を率いて活躍したのが、高市皇子です。万葉集の「高市皇子の挽歌」にはそのように書かれています。

この内乱の大義名分は、当時の社会に受け入れられたのでしょうか。

この後の天武朝の皇位継承に関する事件を見ると、壬申の乱には矛盾と無理があったようです。天武天皇の皇統はことごとく政変に巻き込まれ命を落としていくのですから。

ですから、高市皇子は天武天皇の長子として生涯苦労しました。

壬申の乱後、高市皇子は天智天皇の皇女を二人、妃に迎えました。
天武帝に愛された大津皇子には天智の皇女は一人、山部皇女だけです。
皇太子だった草壁皇子にも天智の皇女は一人、阿閇皇女だけです。
滅ぼした王朝の皇女たちは天智天皇の血統ですから、他の有力者に渡すことはしません。天武天皇自身も天智天皇の皇女を四人も召し入れているのです。(大田皇女・鵜野皇女・新田部皇女・大江皇女の四人です。それぞれの皇女が皇子を生みました。)
ですから、高市皇子が天智天皇の皇女を二人も妃に迎えたのは特別です。御名部皇女と但馬皇女です。こともあろうに、但馬皇女は穂積皇子に恋して、高市皇子を裏切ります。
穂積皇子に惹かれる歌や密かに会いに行った歌が万葉集に遺されていますから、周囲の者はみんな知っていたのです。

その上に、高市皇子は近江軍の総大将だった大友皇子の妃(十市皇女)を引き受けさせられました。十市皇女は大海人皇子(天武天皇)と額田王との間に生まれた長女でした。
母の額田王と共に近江に下り、大友皇子の妃となって王子も生んでいました。
高市皇子は、そんな義理の姉を引きうけたのでした。十市皇女も高市皇子もいろいろ思うところがあったでしょうし、うまく収まるはずはありません。
やはり、事は起こりました。
十市皇女が宮中で突然死したのです。たぶん、自死だと思います。
天武天皇は斎宮での儀式を取りやめ、急ぎ戻ります。父にもショックだったでしょう。

さて、壬申の乱後、高市皇子は藤原宮を造営しました。彼はそのころ何処に住み、どんな暮らしをしたのでしょう。そして、死後、何処に埋葬されたのでしょう。
その飾り立てられた遺体は、明日香のメインストリートを通り城上の陵に埋葬されたのです。
万葉集で一番長い挽歌を柿本人麻呂に献じられた高市皇子は、どんな人だったのでしょう。

では、七月三一日(水)西原村でお会いできればうれしいです。

会場は、熊本県阿蘇郡西原村小森1805です。「平田庵」の駐車場が開いています。水曜は、平田庵はお休みです。会場は平田庵駐車場に隣接しています。
宜しくお願いします。

お知らせでした。