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45天武天皇の歓喜!芳野よく見よ

2017-03-17 15:52:26 | 45天武天皇の歓喜・吉野盟約

天武天皇の歓喜! 吉野盟約

天武天皇は大喜びした! それが「吉野盟約」でした。

天智帝の前で出家すると宣言し吉野に落ち延びた時の天武天皇御製歌は、冬の吉野の山越が大変苦しかったと、そこを耐えて何とか落ち延びたのだという内容になっています。しかし、次の吉野の歌は何でしょうね。手放しで喜んでいるのですね。

正直、昔この歌を読んだ時、何も物語性を感じることができず、面白くないしつまらないと思ったのです。こんな御製歌を残していいの?と…が、今になって「何て意味深な、しかも強引な意図があるにもかかわらず哀愁の漂う歌だろう」と思うのです。

吉野盟約とは、天武八年(679)五月五日

天武天皇が「千歳の後に、事なからしめむと欲す、いかに?」

と問えば、皇子達、「ことわり、灼然(いやちこ)なり」と答えた。

千年の後まで事がないようにしたいが、どうか?

道理はまことに明白です。

 六人の皇子が「われら十余りの王は、それぞれ母が違っているが、天皇の勅に従い、これから助け合い逆らうことはしない」と天武帝と持統皇后に盟約をしました。

六皇子とは、草壁・大津・高市・川島・忍壁・志貴ですが、この誓いの詞は正確ではありません。違っているのは、母だけではないのです六人のうち二人の皇子(川嶋・志貴)の父は、天智天皇でしたから、父も違っていました。

ここで行われた天武八年五月の儀式は定説のように「皇太子決め」でしょうか。

草壁皇子が立太子されるのは、天武十年か十二年でしたね。吉野盟約と呼ばれる儀式は天武八年で、十市皇女の死の翌年です。十市皇女のように思い詰めて苦しむことはないと、天皇が家族として後宮の女性達とその連れ子達を連れて吉野に行き、家族として認めたのです。

だから、川嶋皇子(天智帝の皇子)、志貴皇子(天智帝の皇子)が吉野盟約の六人に入っているのです。滅ぼした前王朝の皇子を入れて、「千歳のことなき」を誓い、新皇族が発足したのです。

川嶋皇子の姉は、天智帝の皇女の大江です。大江皇女は長皇子と弓削皇子を生んでいますから、その弟として新家族となったのです。志貴皇子の母は越道君の娘で何も記録は残っていませんが、この皇子は後の光仁天皇の父になる人です。吉野盟約に参加したのは意味のあることだったのでしょう。

吉野盟約とは「新王朝を立てたことを確認し、前王朝の子女も含めて新王朝の家族となる儀式だった…と思います。

だから、天武天皇は歓喜しました。

吉野宮に行幸して「新王朝」の儀式をした時の喜びの歌が万葉集巻一にあるのです。気持ちの上でも、全ての女性と皇子皇女たちを受け入れようとしたのです。

天皇吉野宮に幸(いでま)す時の御製歌

27 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三

よきひとの よしとよくみて よしといいし よしのよくみよ よきひとよくみ

 ここ、芳野を、淑き人が良い所だと、よくよく見て、好しと言った。その芳野をよく見よ、若い良き人達よ。よく見よ。この吉野こそ、我が王朝の興隆の地であるぞ。

 天武朝の後宮

 天武天皇の妃には、天智天皇の皇女が四人入っています。大江皇女と新田部                 皇女は、壬申の乱後の後宮入りでした

大田皇女(蘇我氏系母) 大津皇子(663~686)・大伯皇女

鵜野讃良皇女(蘇我氏系母)草壁皇子(662~689)

大江皇女(忍海造母)  長皇子・弓削皇子 *676年以降の出生

新田部皇女(阿倍氏系母)舎人皇子 *676年以降の出生

新田部皇女の姉・明日香皇女の嫁ぎ先ははっきりしません。なぜ、明日香皇女を後宮に入れなかったのか。そこにキーポイントがありますね。

大江皇女と新田部皇女の初産の時期から推察すれば、壬申の乱当時は二人は稚かったのでしょう。長皇子と舎人皇子は、大津皇子や草壁皇子の出生年と比べても遅い出生年となっています。

つまり、若い皇女も高齢の婦人も、全て次の王朝に移動させた、その自由を束縛したということ。急激な変化に耐えかねた采女や皇女が自殺したようです。壬申の乱という内乱の後、女性たちはこぞって天武朝の皇子に振り分けられたということでしょう。女性たちはしたたかに生きて行くのですが…

高市皇子(654~696)の妃にも天智帝の皇女が入っています。

御名部皇女(蘇我氏系母)長屋王(676~729)

十市皇女(母は額田王) 葛野王は大友皇子の子

但馬皇女(藤原氏系母) *穂積皇子に傾く

草壁皇子の妃に天智帝の皇女が入っています。

阿閇皇女(蘇我氏系母)元正天皇(680生)文武天皇・吉備内親王

大津皇子の妃にも天智帝の皇女

山辺皇女(蘇我氏系母)*大津皇子に殉死(686没) 栗津王 

そうですよね、同じ皇女でも蘇我系の母を持つ皇女が重要だったことがわかりますね。蘇我石川麿は右大臣・蘇我赤兄は左大臣にまで上りました。特に、石川麿の娘達は皇女を生みました。その皇女の子どもたちが皇位継承者になったのです。 

蘇我氏は大化改新(645)で滅びたのではありません。本家は滅亡しましたが、分家の子女が王朝を支えたのです。当然、持統天皇も蘇我系の皇女です。

持統天皇は苦しんだのか?

さて、天智朝にたくさんの女性が移動させられたとして、持統天皇はどのような立場になるのでしょう。

また、後で