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万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

中皇命の運命を万葉集は物語る

2017-09-03 20:46:54 | 万葉集の冒頭歌

中皇命の愛と決意

万葉集巻一の冒頭を見ると、雄略天皇・舒明天皇の歌に続いて「中皇命が間人連老をして舒明天皇(629~641年在位)に献上させた歌」となっています。この時代、中皇命と呼ばれるべき女性は、間人皇女以外にはいないそうです。

中皇命とは、皇位継承の玉璽を預かっている重要な立場の女性のことです。天皇に近い女性が選ばれます。間人皇女は孝徳天皇の皇后に立ちました。ですから、孝徳帝崩御の後に「中皇命」とという立場になったのでした。

 

中皇命が間人皇女だとして、 遊猟の時の皇女は十歳そこそこでしたから、天皇の遊猟に歌を献上することは難しかったでしょう。だから、代わって皇女の養育を担当する役だった間人氏が歌を詠んだというのです。

それにしても、舒明天皇の遊猟の時になぜ中皇命(間人皇女)がついて行ったのでしょう。そこで、歌を間人連老が代わりに詠むのなら、幼い少女を狩に同行させる意味が薄れます。

天皇の御猟にはたくさんの従者が仕え儀式を行いました。梓弓を鳴らし、いよいよ狩が始まる引き締まった朝の空気を、中皇命(間人皇女)の代わりに間人連老が詠みました。

この歌が詠まれた時期ですが、間人皇女が本当に中皇命になった時と考えることはできないでしょうか。

その理由ですが、ちょっと複雑です。

前回のブログで「間人(たいざ)」のことを書きました。間人皇后は、穴穂部間人皇后ではなく孝徳帝の皇后の間人(はしひと)皇后だったのではないかと。それというのも、穴穂部間人皇后は、用明天皇崩御後に義理の息子の田目皇子(用明天皇の皇子)の妃となりました。なぜ、義理の息子に? 

それは、穴穂部間人皇后が望んだことではなく、皇族の決まりのようなものだったのではないでしょうか。後宮の女性は自由に相手を選ぶことができずに、同じ皇統の男性のもとに置かれたということです。

同じことが孝徳帝の崩御後もあったのではないかと考えたのです。つまり、間人皇后は義理の息子の有間皇子の後宮に移された、または、移る決まりになっていた、と。

そうすると、中皇命が有間皇子を追って紀伊温泉に往った理由がはっきりしますし、「我が背子」と呼んだわけも分かります。中皇命は夫となるべき皇太子を心配して、牟婁の湯に護送された有間皇子を追って紀伊温泉に往ったことなります。

 

万葉集を繰り返し詠んでいると、巻一3の歌の題「天皇、遊猟したまう時…」の中皇命が同行した天皇が舒明天皇だったとは思えないのです。

「中皇命」とありますから時期は孝徳天皇崩御後になり、その時「遊猟したまう」天皇は誰でしょう。この天皇は男性ですから、斉明天皇ではありません。

その天皇は、難波長柄豊崎宮御宇天皇とよばれたのではありませんか。難波長柄豊崎宮天皇といえば孝徳天皇のことですが、有間皇子も同じ宮にすんだのであれば、同じ難波天皇と呼ばれたでしょう。

不思議なことに、万葉集には孝徳天皇代の歌は一つもありません。孝徳帝の歌は書紀には書かれていますから、歌が詠めなかったわけではないのです。華麗な難波宮の後宮では歌も詠まれたでしょう。しかし、万葉集には掲載されていない……のではなく、元々あったのではないか。そこに、若干の手が加えられた……

 

中皇命が同行した天皇は難波天皇の皇太子(同じく難波天皇と呼ばれた)だったのではないか、と思うのです。

巻二の冒頭に難波天皇と出ていますが、それは仁徳天皇となっています。もしかして、この難波天皇も仁徳帝ではないとしたら…

この難波天皇は難波長柄豊崎宮天皇だったとしたら、巻二の歌は大変身するのです。

このことは紹介済みですよね。

 

 


間人皇后が間人に逃れた理由(1)

2017-08-28 20:29:10 | 万葉集の冒頭歌

間人(たいざ)という町を知っていますか?

日本海側の漁師町です。そこで行われるお祭りは、「間人皇后をカクマッタことを誇りに思い、そのことを忘れないために」続けているそうです。

間人(はしひと)皇后とは穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后なのだそうです。

蘇我物部戦争(仏教を取り入れるか否かを争ったという戦争)の難を逃れた穴穂部間人皇后を間人(たいざ)の人々がお世話した、という伝承。

このことを誇りに思って、間人皇后を忘れないように地名を「間人(たいざ)」とし、祭りを続けてきたという町なのです。

でも、何か、落ち着きが悪いですね。

「間人(はしひと)皇后を守った」という伝承は、ほんとうに用明天皇の皇后だったという穴穂部間人皇后(聖徳太子の生母になります)にまつわることなのでしょうか。

わたしは、孝徳天皇の皇后だったあの間人皇后に関わる話ではないかと、思えてならないのです。

だって、穴穂部間人皇后の家族は、聖徳太子をはじめ皆が蘇我氏側について戦争(587年)に参加しています。母の間人皇后のみが逃げたのでしょうか?

用明天皇(585~587年在位)の在位は短く、586年からご病気でした。

病気だったかもしれない夫の用明天皇を残して皇后が逃げる……不自然です。

587年 蘇我馬子、敏達皇后を奉じて穴穂部皇子を殺す(6月)

     物部蘇我戦争(7月)崇峻天皇即位(7月)

蘇我物部戦争は仏教に関わる宗教戦争というより、皇位継承の争いだったのではないでしょうか。(憶測ですが)

 

では、間人(たいざ)の話に戻りましょう。

間人(はしひと)皇后は、用明天皇の皇后ではなく、孝徳天皇の皇后だったのではないかと思うと、わたしはいいました。

間人皇后(中皇命)は有間皇子を追いかけて、紀伊温泉まで行きました。そして、有間皇子は藤白坂で追っ手に追いつかれて殺されました。その傍に中皇命はいなかったのでしょうか。

有間皇子は「われは全(もはら)知らず」と答えて、中大兄の前を去っています。しかし、追っ手がかけられました。

藤白坂で追いつかれ、皇子は従者とともに殺されました。その惨事を中皇命が知らずにいたとは思えません。「わが背子」と詠んだ人が殺されたのですから。

 

中皇命は、牟婁の湯から戻った有間皇子を迎えたのではありませんか? そうであれば、皇子の最後を知った後、どうなったのでしょう。

中大兄の妹ではありますが、前天皇の玉璽を預かった中皇命という立場です。

中大兄に従わなければ、身の安全は保証されないでしょう。でも、中皇命(間人皇后)は逃げたと思います。何処へ?

もちろん、日本海側の間人(たいざ)へ。

わたしにはそう思えてならないのです。間人皇后の話が、平安時代の聖徳太子伝承の拡散と盛り上がりに支えられて、その母の穴穂部間人皇后の話にすり替わったと、思えるからです。

だって、

穴穂部間人皇后は逃げる意味がないのです。馬子は既に敏達皇后(推古天皇)を奉じているのですから。馬子は穴穂部間人皇后には何の期待もしていません。しかも、物部蘇我戦争(587)のすぐ後には皇后ではなくなり(天皇崩御)、やがて田目皇子の妃になっているのです。義理の息子の妃になった女性なのです。

588年、崇峻天皇即位。592年、馬子は東漢直駒に崇峻天皇を殺させました。

592年には玉璽は敏達皇后に渡ったのでしょうか。推古天皇が即位しました。

上記のような状況では、穴穂部間人皇后はわざわざ日本海側に逃げる必要はなかったのです。間人(たいざ)の人々も「かくまった」ことを大きな務めを果たしたと誇りにくいでしょう。

でも、玉璽を預かった孝徳天皇皇后の間人(はしひと)なら、追われている状況で大変な緊張感があり、大変な秘密だったと思うのです。守り通したという誇りも芽生えたことでしょう。

そこは匿う力を持った氏族の支配地だったのかも知れません。間人(たいざ)に隠れて間人皇后は玉璽を守ったのでしょう。そのために、玉璽がなくて中大兄は即位できなかったとは考えられないでしょうか。

 

この中皇命(間人皇后)の決断と行動を万葉集は称えているのです。

気になる万葉集の冒頭歌・巻一

万葉集は不思議な歌集です。

冒頭歌・作者の歌の並び・歌の順番・使われた漢字の意味・歌われた時期と事件のかかわり、などなど、隅々まで意味深です。

その中で、巻一の「冒頭歌の並び」をおさらいしましょう。 

万葉集が誰のために編纂されたのか、何が書かれているのか、とても大事なことです。万葉集は歴史の大切な事実を伝えたかったと思うのですが、ある高貴な人(たぶん平城天皇)により編集の手を入れられて、その事実がストレートに伝わらなくなっていると、わたしは思っています。

間人(はしひと)皇后に関わる物語もその一つでしょう。それは間人(たいざ)という地名ともあいまって、わたしたちにはミステリーのように思えます。

長くなるので、今回はここまで。 

 

万葉集冒頭の歌の並びには編纂の意図が見え隠れしていますから、その事を再度考えましょうか。また。


万葉集冒頭歌・雄略天皇とは何者か?

2017-08-11 17:05:58 | 万葉集の冒頭歌

万葉集は何故か雄略天皇の歌で始まる

雄略天皇(泊瀬朝倉宮御宇天皇允恭天皇の第五皇子

允恭天皇の長男は木梨軽皇子

 兄の安康天皇も雄略天皇も、長男の皇太子・木梨軽皇子が生きていれば皇位には着けませんでしたね。

(埼玉県行田市の稲荷山古墳)

泊瀬朝倉宮御宇天皇・大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)といえば、埼玉古墳群の稲荷山鉄剣で有名な天皇ですね。

 「辛亥年」と象嵌された稲荷山古墳の鉄剣によると、被葬者は獲加多支鹵大王に仕えていたというのです。そのワカタケル大王が雄略天皇のことだという人がたくさんいて、今では定説となっています。それで、辛亥年は雄略天皇なら471年とされたのです。531年なら継体天皇になるからです。

しかし、考古学的には鉄剣以外の副葬品の年代が遡っても6世紀前半となるので、辛亥年は531年ではないかという説も根強く残っています。わたしも531年((稲荷山鉄剣の辛亥年)だと思います。

この鉄剣によって、雄略天皇の実在が確認されたというのです。

ホントでしょうか。(「宋書」倭国伝の倭王武も雄略天皇になるそうです。ホントでしょうか)

鉄剣の獲加多支鹵大王の宮は、泊瀬朝倉宮であり、斯鬼宮ではありません。金石文に残る斯鬼宮は何処にあったのでしょう。

更に、なぜ古代の詩歌集・万葉集の冒頭が雄略天皇の歌なのでしょう。

それも、名も知らない乙女に呼びかける歌で、しかも敬語で呼びかけていますので、儀式歌なのだそうです。

このような雄略天皇は、どのような神祭りをしていたと書かれているのでしょう。名を聞いて、婚約することになるのでしょうか。

古代の天皇はたくさんの有力な豪族の娘を娶り、婚姻関係で勢力を示したようです。

 またまた、明日