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57天智天皇を信じた藤原鎌足

2017-03-29 16:36:55 | 56天智天皇に信頼された藤原鎌足

天智天皇を信じた中臣鎌足

前回紹介した阿武山古墳が藤原鎌足の墓だとしたら、おかしな事実がたくさん出てきます。鎌足の墓は談山神社に移されたというのは、嘘になるのでしょうか。阿武山古墳の被葬者は玉枕の上に頭を乗せ、顔を織冠で覆っていたのですから只者ではありません。60歳前くらいの男性で、骨折の後が残っていたそうですから、没年の蒲生野の薬狩の宴の時落馬してそれが死亡の原因だったのではないかと、「藤原鎌足と阿武山古墳」に書かれていました。わたしが一番おどろいたのは、玉枕や織冠ではなく彼が漆塗りの「脱活乾漆棺(だっかつかんしつかん)」に横たわっていたことです。玉枕や織冠はマスコミの報道で知っていましたが、脱活乾漆棺のことは記憶にありませんでした。上記の本の中の挿入写真ですが、

漆喰でぬられた石槨内の台の上に置かれていたのです。この種の棺は、牽牛子塚古墳(石槨が二つ、両方の棺ともに)や野口王墓にも使われているのですから、阿武山のそれは最高級の棺だったことになります。ちなみに脱活乾漆棺とは、木の上に漆を塗った棺ではなく、漆を数枚から数十枚の布(苧や絹)の上に塗り重ね固めた布着せの技法で作られた棺なのです。野口王墓は天武持統陵でしたね。

さて、鎌足の墓は談山神社に移されたとの伝承はどうなるのでしょうね。

諸説の中で「談山神社の石塔は若くして毒殺された定恵(貞慧)の菩提を弔うために鎌足が造った」というのが、わたしの納得の説でしたが… 定恵は「藤氏家伝」に書かれている通り「白鳳五年(654)に長安に至り、白鳳十六年帰国」であれば、父の鎌足の存命中ですから期待の長子の死を弔うのは当然でしょう。

しかし、「多武峯縁起」や「多武峯略記」は定恵の日記かと言われる「荷西記」を引用して全く相反することが書かれているそうです。定恵の渡唐は天智六年(667)、帰朝は天武六年(678)、或本には入唐は二度目だったと。帰国後、弟の不比等に父の墓所を訊ね、二十五人を引率し二人で墓を掘り多武峰に運び、十三重塔の底に安置したと、云うのです。はたまた定恵について「帰朝後、多武峯を創建、当寺に止住すること三十七年、霊廟は当寺にあり。碑には入唐求法沙門定慧、和銅七年六月二十日、春秋七十、端座遷化と銘されている」と、多武峯略記には記されているそうです。七十歳まで生きたとは、仰天の内容です。和銅七年だなんて… あまりに違すぎますね。

どちらが事実でしょう。更に、こんな違い過ぎる結果は何ゆえに生まれたのでしょう。理由があるはずです。事実が曲げられた理由です。また、それは誰にとって必要だったのか、です。ある人物の思惑により、事実が曲げて書き残されたのでしょう。定恵は「孝徳天皇皇子、鎌足公第一子」とされています。では、不比等が近江天皇の皇子説と合わせて考えると、鎌足の男子はどちらも実子ではなかったとなるのですか? ふうむむ、すごい話ですね。

天智天皇=天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)と孝徳天皇の両方から鎌足は大事にされたことになりますね。

天命開別天皇とは、『書紀集解』に天皇が恭遜にして時を待って天位に登ったのは命の開くるが如し、とあるように、天命を受けて皇運を開かれた男性、の意、だそうである。これは、死後に贈られる国風諡号(こくふうしごう)で、書紀には、開別皇子・葛城皇子・中大兄などと呼ばれていました。

父は舒明天皇、母は斉明天皇(皇極天皇)、妹に間人皇女(孝徳帝の皇后)弟に天武天皇がいて、家族中で極位に登ったという血統でしたね。中大兄は舒明帝・皇極天皇の御代から皇太子でしたが、大化改新後には即位せず、叔父の軽皇子(孝徳天皇)が即位しました。

中臣鎌足の父は、中臣御食子。母は知仙娘(ちせのいらつめ)=大伴夫人。子どもには定恵(貞慧)不比等・氷上娘・五百重娘・耳面刀自 がいます。

鎌足と天智帝を結びつけたものは何だったのでしょうね。

また、今度


56天智天皇が信じた藤原鎌足

2017-03-28 23:19:55 | 56天智天皇に信頼された藤原鎌足

天智天皇を信じた藤原鎌足

(「藤原鎌足と阿武山古墳」吉川廣文館の挿入写真です。中央が阿武山古墳、鎌足の墓かも?)

この古墳が大きく新聞等に取り上げられたのは、金糸で刺繍されたらしい織冠を頭に置き、玉枕を枕に六十歳前くらいの男性が乾漆棺に眠っていたからでした。新聞では鎌足の墓が見つかったという報道でした。日本書紀によると織冠を授けられた人物は二人しかいません。一人は百済の王子で白村江戦の前に百済に戻りました。もう一人が藤原鎌足でした。

天智天皇より異例の厚遇を受けた中臣鎌足

世にいう「大化改新」とは何だったのでしょう。其々の豪族に支配されていた国を律令国家とする為に、中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我氏を倒して実現したと、そんなふうに教えられませんでしたか? 推古天皇の時に唐に留学した僧や学者が帰国し中臣鎌足は帰国した留学生と律令政治を学び合っていました。僧旻や南淵硝安、高向玄理や軽皇子(孝徳天皇)などと語り合い、蘇我氏を排除した国造りを目指していました。律令による国造りは。経済を握っていた蘇我氏を倒すことから始めなければなりませんでした。

蘇我氏は大臣蘇我馬子以来、政治の中核にあり、蝦夷と入鹿親子の権勢は盤石なものに見えていました。如何に蘇我を倒すかを考えた時、鎌足はひとりの皇子に注目しました。それまで、軽皇子と親しかった鎌足は、中大兄皇子に近づくチャンスを待ったのでした……そこで蹴鞠の場面になるのです。これが、二人の出会いだったという物語ができています。が、要するに鎌足は軽皇子から中大兄皇子に乗り換えたのです。以来、 鎌足は天智天皇の腹心の部下でした。

内臣(うちつおみ)鎌足の病気と死・天智天皇の行幸と恩詔

天智八年(669)十月十日、天皇は藤原内臣の家に病気を見舞う

同年 十月十五日、東宮大皇弟を遣わし、大織冠と大臣と藤原姓を賜う

同年 十月十六日、藤原内大臣が薨去した

同年 十月十九日、天皇が内大臣の家に行幸し蘇我臣赤兄に恩詔を宣べさせ、金香鑪を下賜する

これまでは、内臣(うちつおみ)ですが、これからは内大臣(うちのおほおみ・うちのおほまえつきみ)となり、「内大臣」の官は宝亀八年(777)に、藤原良継に授けられるまで百年以上授与されていません。鎌足は特別の官を得たのです

*藤原良継は、鎌足→不比等→宇合→良継(鎌足の曽孫)

 「日本書紀」には「日本世紀」からの引用文が載せられています。

日本世紀に、内大臣は五十歳で私邸において薨じた。山南に移して殯をした。天はどうして、良くないことに、強いてこの老人を世に残さなかったのか。ああ哀しいことだ。碑に『五十六歳で薨じた』という

(*日本世紀は、高句麗の僧・道顕による編年体の歴史書で、日本書紀の基本的資料の一つとなった)

 では、天智天皇と中臣鎌足の関係を万葉集で見ましょう。

(鏡王女も安見兒も天皇から鎌足に与えられた女性です)

鏡王女は気位の高い人でした。鏡王の娘で額田王の姉という説もありますが、以前紹介したように鏡王の墓は舒明天皇の陵墓の近くにありますから、舒明帝の皇女という説もあります。

珠(たま)櫛笥(くしげ)は「覆い」にかかる枕詞で、大切な化粧箱だそうです。

93 たまくしげおおいをやすみ あけていなば 君がなはあれど 我が名はおしも

覆いで隠すわけではありませんが、夜が明けてからお帰りになって、貴方の名が人に知れるのはいいのでしょうが、わたくしの名が立つのは口惜しいのです。

鎌足の歌の珠櫛笥は、「みもろ」に掛かります。化粧箱の身と蓋の「み」に掛かるのです。

94 たまくしげ みもろの山のさなかづら さねずはついに ありかつまじし

そうですか。みもろの山の「さな葛(かずら)」のように「さ寝ず」でいいのですか。そうなったら、貴女はとても耐えられないでしょう。

 鏡王女は、口惜しかったでしょうね。鏡王女は、もともと天智天皇と恋仲だったのでしたね。二人の歌は既に紹介しています。 

天皇、鏡王女に賜う御歌一首

妹が家も継ぎて見ましをヤマトなる大嶋の嶺(ね)に家もあらましを

いとしい貴女の家をいつも見たいものだ。せめて、やまとの大嶋の嶺に私の家があったらいいのに

 鏡王女こたえ奉る御歌一首

秋山の樹(こ)の下隠(がく)りゆく水の吾こそまさめ御念(おもほ)すよりは

秋の山の木々の下を流れる水は流れながら水かさを増していきます。その水のように、わたくしの思いの方が勝っております。殿下の御思いよりは

二人は恋仲というより、鏡王女(683没)は天智天皇の寵妃だったのです。鏡王女の歌は「御歌」とありますから、やはり彼女は皇族でしょう。それなのに、藤原鎌足(669没)に与えられたという…のです。よほどのことですね。