気ままに何処でも万葉集!

万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

万葉集巻九の冒頭歌は雄略天皇・そこに詠まれた鹿の運命

2019-05-28 10:15:14 | 3持統天皇の紀伊国行幸

万葉集は謎が多いと云われます。それは、現在時間で読むからです。もともと「初期万葉集には秘密も謎もなかった」のです。

                     a0237545_23291520.jpg今日、令和元年5月28日(火)のことです。
筑紫古代文化研究会の講座(福岡市中央区天神・光ビル)で「万葉集巻九・紀伊国十三首」のお話をします。
 まず、「有間皇子とは」から話し始めて、紀伊国十三首までたどり着きます。
 
 
巻九の冒頭歌は、雄略天皇の歌です。
 

万葉集巻第九 「雑歌」
     泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首

1664 暮去者 小椋山尓 臥鹿之 今夜者不鳴 寝家良霜
    ゆふされば おぐらのやまに ふすしかは こよいはなかず いねにけらしも
泊瀬朝倉宮天皇とは、雄略天皇のことです。

雄略天皇御製歌が万葉集の巻の冒頭に置かれているのは、巻一と巻九なのです。
然も、そこに掲載された大きな意味もあるのです。

夕されば(夕方が去って夜になって)
小椋の山に臥す鹿は(小椋の山で臥している鹿は)
今夜は鳴かず(どうしたことか、毎晩のように鳴いていたのに今夜は鳴かないなあ)
いねにけらしも(寝てしまったのだろうな)
この歌は、いかにも意味深です。鹿は臥しています。では、既に寝ているのです。この詠み手は「鹿は臥している」と知っていて、「今宵は鳴かず」と云っていますから、「もう臥しているから今夜は鳴かないのだな。もう寝てしまったのかな」となって、なんだか歯がかみ合いません

よく似た歌が、万葉集巻八の「秋雑歌」の冒頭に在ります。
  巻八  「秋雑歌」
      岡本天皇御製歌一首(舒明天皇)
1511 ゆうされば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かずいねにけらしも

こちらであれば、「いつもなら夜になったら小倉の山に住む鹿が鳴くのだが、今夜はなかないが寝てしまったのだろうか」と自然に意味が流れます。

しかし、そうであっても巻九(1664)も巻八(1511)も、なぜ鹿が鳴かなかったのか分かりません。何時もなら鳴いている鹿が鳴かない。
二人の天皇が鳴かない鹿を思っている、そこに共通するのは何でしょう。それは、「鹿の死」なのです。鳴かない鹿は、「死んでいた」のです。

万葉集には鹿を詠んだ歌が五十五首ぐらいはあります。
其のほとんどが、妻を呼ぶ牡鹿の鳴き声です。

 
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そして、万葉集時代の人々は、鹿が鳴かないわけを知っていました。
 秋の牡鹿が妻を呼んで鳴いているその声が聞こえない。
 その声が聞こえないのは、牡鹿に異変があったからにほかなりません。
 二人の天皇の歌は、鹿の身に起こった異変・事件を暗示しているのです。
 その事件こそが、有間皇子謀反事件でした。 こんなお話を交えて、紀伊国行幸で詠まれた有間皇子所縁の地を辿ります。
 

巻八の冒頭歌は、志貴皇子のあの有名な歌です。
  巻八  「春雑歌」
      志貴皇子よろこびの御歌一首
1418 石ばしる 垂水の上のさわらびの もえいづる春になりにけるかも

万葉集は何処を読んでも面白い。初期万葉集が編纂された時、秘密や謎はなかったのです。
全てきちんと書かれていた。
しかし、元明天皇には都合が悪かったのです。だから、人麻呂は断罪された。

そのうち、お話しましょうね。
 

23 藤白坂の惨劇・有間皇子事件

2017-02-21 19:18:38 | 3持統天皇の紀伊国行幸

23 藤白坂の惨劇・有間皇子事件

1675 藤白の三坂を越ゆと白栲の我が衣手はぬれにけるかも

40年後にも涙を流させた藤白坂の物語とは? この歌には、どんな背景があるのでしょう。

わたしには藤白坂に皇子の家族が連れられて来なかったとは思えません。家族が同行していたとしたら、どのような別れがあったのでしょうか。

謀反事件の場合は家族も連座して罪をとわれ、連れて来られたでしょうね。

「藤白坂の悲劇」

追っ手は藤白坂で追いついた。身に着けていた珠も装身具も太刀も全て兵が有間皇子から取り去って、皇子を樫の木の許へ連れて行こうとした。幼いものは泣き叫び、女性は悲鳴を上げた。皇子の家族には恐怖で気絶する者もいた。皇子はやさしく頷いて「忘れてはならない。父の姿を、何より偉大な大王の祖父を。何事があろうと生き抜いて、大王(おおきみ)の偉業と皇統を伝えるのだ。」

廻りのものは皆泣いた。追っ手の猛々しい言動に何事かと集まって来た辺りの住人も事の次第が分からまいまま、皇子の家族の嘆きを見て思わず涙をこぼした。忠臣たちはわが命と引き換えに皇子の命乞いをしたが、追っ手の兵の耳に届くはずもない。怒りと罵声の中、皇子は目を閉じた。そして、無情な荒縄が皇子に掛けられた。

近習と皇子に仕えた人の半数近くが殉死した。彼らを救うことができた人はただ一人。孝徳天皇の皇后だった中皇命以外いないのである。果たして、中皇命は藤白坂に行けたのであろうか。皇子の家族を救うことができたのだろうか……という展開になるのです。

上のような物語が成立するには、皇子が皇位継承者でなければなりません。はたして有間皇子は皇太子だったのでしょうか。

それは、紀伊国行幸の12首目の歌を読めば分かります。10首目と11首目を飛ばして、先に12首目を読みましょう。

この歌を、あなたはどう読みますか?

この歌のお話は、また明日。 

 さて、 12首目までに、10・11首目があります。それを見ましょうか。 

 

1676 背の山に黄葉常敷く神岳(かむ岡)の山の黄葉は今日か散るらむ

紀伊國と畿内の境目にある背の山に、黄葉がしきりに散り敷き続けている。都の神山の黄葉も今日のうちに散るのだろうなあ。(あの方は黄葉散るこんな時期に亡くなられたのだった)

 背の山を越えると、畿内に入ります。紀伊国行幸の帰路なのです。

1677 やまとには聞こえもゆくか大我野の竹葉(たかは)刈り敷き廬せりとは

いよいよ大我野まで帰って来た、行幸の旅も終わりになる。都には噂が伝わるだろうか、大我野にまで帰って来たのに竹葉を刈り取って廬にしたことが。(都の近くまで帰って来たが、最後の夜も有間皇子の仮廬を偲んで、竹葉を刈って宿リしたと都に噂が届くだろうか)

持統太上天皇と文武天皇の紀伊国行幸の目的は、有間皇子の霊魂を慰め鎮める儀式でした。過ぎにし人の形見の地を訪れて、その霊魂に触れる旅でした。

こうして、紀伊国が文武天皇にとっても形見の地となったのです。母の阿閇皇女(元明天皇)の形見の地となったように。阿閇皇女の紀伊国行幸の時の歌がありましたよね。

万葉時代の人は、

背の山を見ると紀伊国へ来たと思い、帰路には紀伊国に別れを告げる山と見たのですね。

九月に始まった持統太上天皇の旅もいよいよ終わるようです。

行幸の間に秋も深まり、黄葉も散ってしまった。

ずいぶん日数をかけて紀伊国行幸をしたのですね。

これが最後の紀伊国への旅だと持統太上天皇は考えていたのです。

文武天皇の補佐として、また教育の責任者としての仕事がひとつ終わったのでした。

では、12首目ですね。


17 大宝元年・持統天皇と文武天皇の紀伊国行幸

2017-02-16 18:48:25 | 3持統天皇の紀伊国行幸

17 大宝元年辛丑冬十月持統天皇は孫を伴って紀伊国に行幸した!

紀伊の国の美しい風景は、いにしへの人の思いを今に伝えています。

この年は、特別な年でした。大宝と年号を建てた年であり、大宝律令が成った年でもありました。持統天皇が孫に譲位して五年目に、文武天皇を伴っての行幸でした

持統天皇は何を思って、孫を連れての旅に出たのでしょうか。

大宝元年(701)の「紀伊国行幸の歌十三首」は、既に紹介した「雄略天皇・舒明天皇・従駕した臣下の歌」と続く、あの巻九の意味深な編集に続く歌群なのです。また、巻一と巻九の編集には或る共通点があり、双方ともに「有間皇子事件を引き出すように編集されている」と述べてきました。まさに、その事を再び思い知らされる十三首なのです。

まず、巻九の冒頭歌を思い出してみましょう。既に紹介しています。

 

巻九の冒頭歌の三首は、愛する二人がある事情で引き離される歌でした。

1664 ゆうされば小掠の山に伏す鹿は今夜は鳴かずい寝にけらしも

(小掠の山に伏し隠れていた鹿は今夜は鳴かない。もう寝てしまったのだろうか、それとも)

1665 妹が為吾玉拾ふおきへなる玉寄せ持ち来おき津白波

(愛しい人のために玉を拾い、玉に願いを懸けたいのだ。沖の深い海の底から玉を寄せて持って来てくれ、沖の白波よ)

1666 朝霧にぬれにし衣干さずしてひとりか君が山道越ゆらむ

 (朝早くここへ来た貴方の衣は朝霧に濡れてしまった。その濡れた衣を干す間もなく、あなたはすぐに出発し一人で山道を越えて行くのだ。どうぞ、ご無事で)

 この後、大宝元年の十三首です。その冒頭歌1667番歌は、1665番歌にそっくりです。

巻一と巻九の冒頭は同じ方向を向いて編集され、十三首に集約するに到りました。一首目は、明らかに先の歌に連動しています。先の歌がかかわった事件に寄り添っているのです。その事件こそが、有間皇子事件だったのです。

 1667 妹が為我玉求む おきへなる白玉よせ来 おきつ白浪 

 

持統太上天皇は、十五歳で即位して五年目の文武天皇がいよいよ律令政治の新体制に入っていくその時期に、紀伊国行幸をしたのです。そこで、孫に伝えたいことがあったのです。

朱鳥四年(持統四年)の紀伊国行幸も、夫の草壁皇子を失った阿閇皇女を励ます意味がありました。そこでも、結松を詠んでいます。これから読む十三首にも「結松」が詠まれています。では、ご一緒に、持統天皇の最後の「紀伊国行幸」へ。翌年の十二月には、持統天皇崩御、なのです。

持統天皇はその最晩年に思い出の場所に行幸したのでしょう。最後の力を振り絞りながら。

では、また明日。

 


15 朱鳥四年・持統天皇の紀伊国行幸

2017-02-14 23:34:28 | 3持統天皇の紀伊国行幸

15 朱鳥四年の持統天皇の紀伊国行幸

日本紀に、朱鳥四年庚寅秋九月天皇紀伊国に幸すという

万葉集には、朱鳥四年(690)と大宝元年(701)の持統天皇の紀伊国行幸時の歌が残されています。

正確には、朱鳥四年一月に持統天皇は即位していますから、この年は天皇としての行幸になりますが、大宝元年は文武天皇に譲位した後ですから、太上天皇ということになります。

朱鳥三年は、持統天皇にとって決断の年でした。夫の天武天皇崩御後に草壁皇子が即位せず、母として持統天皇は称制で政務を取っていました。しかし、草壁皇子は薨去したので中継ぎとして即位し、孫の軽皇子(文武天皇)の成長を待つことにしたのでした。

息子の死を悲しんでばかりいるわけにはいきません。嫁を励まし孫を教育しなければなりません。それがための、朱鳥四年の行幸でした。

 阿閉皇女(あへのひめみこ)が草壁皇子を偲ぶ歌

(阿閇皇女は草壁皇子の妃で、後の元明天皇です)

紀伊國の旅はなんといっても持統天皇の大宝元年(701)の「紀伊國行幸」の時の歌群が内容的にも圧巻です。持統天皇の紀伊国行幸は数度あるようですが、二度は万葉集で誰にも確認できます。

 一度目の朱鳥4年(690)は、草壁皇子を亡くした翌年です。草壁皇子の妃の阿閉皇女を伴っての行幸でした。

  阿閇皇女は夫を失って失意のうちにありました。持統帝はこのとき息子の嫁を元気づけようとしていたのです。皇女には草壁皇子の遺児が三人いて、中でも跡取りの軽皇子の成長を待って皇位継承を成さねばならなかったのです。その為の堅い決心を嫁に促すために、旅にさそった…それが「紀伊國行幸」です。そこで持統帝が見せたもの、それには重大な意味がありました。

 「勢能山を越ゆる時の阿閇皇女の作らす歌」巻一の35

  これやこの倭にしては我が恋ふる紀伊路にありという 名に負う背ノ山

この歌は、単なる土地褒めの歌でしょうか。阿閇皇女は夫の突然の死によって深く傷ついていました。この紀伊國行幸は物見遊山というより、この先どのように生きるのか、何をしなければならないのかを義母から諭された旅であったのです。
「これがそうですか。お母さま、いえ、陛下から常々お聞きしていた勢能山は。紀伊路の紀ノ川(吉野川)を挟んで背ノ山と妹山が向かい合っています。わたくしは織姫と彦星のように離れていても心から慕いあうお話を聞いて、ぜひとも背ノ山を見たいと倭から恋焦がれておりました。今日、とうとう背ノ山を見ました。お別れした我が背の君を思い出させる背ノ山。わたくしは、これから織姫のように我が背の君との逢瀬を待ち続けましょう、ずっと。」

背の山を見た皇女は草壁皇子を思い出して、十分に涙を流したことでしょう。皇女は夫を愛していたし、三人の子どもたちを心から愛しているのです。
やがて、始めて背ノ山を見て涙を流した阿閇皇女が連れていかれたのは、有間皇子が浜松が枝を結んだ岩代だったのです。その地を見せるのが持統帝の目的でしたから。

また明日