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万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

万葉集3番歌の謎・たまきはる宇智の大野に立った大王

2018-01-24 22:55:16 | 70万葉集3番歌の謎・たまきはる大野

たまきはる宇智の大野に立った大王は、誰か?

此の天皇は誰でしょう。前歌の2番歌に「高市岡本宮御宇天皇代」とあり、その次の3番歌ですから同じ時代として、この天皇は舒明天皇とされています。舒明天皇が宇智の大野で御猟された時、中皇命が間人連老に儀式歌を献じさせたということです。

この中皇命が今まで紹介したように、有間皇子事件の時に歌を詠んだ中皇命(間人皇后)だとしたら、この歌が詠まれた時の中皇命は十二歳から十歳前後の少女だったことになります。幼い少女が大王の御狩に従駕して、歌を奉らせたとはなんだか落ち着きが悪いですね。

中皇命=間人皇后=舒明天皇の娘・間人皇女であれば、舒明天皇は舒明十三年の(641)の崩御ですから、孝徳天皇の皇后に立てられた乙巳の変(645)の頃は十六~十七歳くらいの乙女で、上記の歌が舒明十三年の作歌としても、当時は十二歳以下の子どもとなります。

 

歌の意味を確かめてみましょう。

この歌は「雑歌」の部立におかれた「儀式歌」です。それも、天皇の儀式に詠まれたもので、大王を中心とした御猟が始まろうとしているのです。その張り詰めた緊張感が歌われています。

大王は常々愛用の梓弓を傍に置いていた。その弓の中筈の音がする。弦をはじいて音を出し、辺りの邪気を払い辺りは清浄に整えられている。いよいよ儀式(御猟)が始まるのだ。

梓弓の中筈の音で浄められた大野の空気は、張り詰めて緊張感が漂う。大王の御猟場に馬を並べて儀式が始まろうとしている。ああ、まだ誰も踏み込んでいない朝の草野に大王が踏み込まれるのだ。

この御猟は大切な儀式で、遊びではないようです。何の儀式でしょう。中皇命は、まだ子どもなのでしょうか。

その謎を解く手がかりは、「間人連老」にあります。

万葉集事典では「白雉五年(654)二条の遣唐使判官、小乙下中臣間人連老」と記述があります。間人連老=中臣間人連老は同一人物だというのです。この人は、孝徳天皇の白雉五年二月に西海使(遣唐使)として唐に渡っています。遣唐使は誰でも行けたのではありませんし、また、帰って来る事も難しかったのです。この遣唐使の最高官は、大化改新の協力者の高向玄理で二度目の渡唐でした。高齢でしたので唐で客死しています。他にもたくさんの学僧が海に没しています。帰りもバラバラで、白雉五年の7月、斉明元年、天智四年、持統四年などに帰国記事があります。

白雉五年=唐の永徽五年で、「旧唐書」に『高宗本紀・永徽五年十二月条に「倭国、琥珀・瑪瑙を献ず」と書かれているので、孝徳帝が出した遣唐使の帰国は、白雉五年(654)ではないようです。この年に帰国したのなら、十二月に皇帝に謁見することはできなかったでしょう。

すると、西海使が帰国したのが655年であれば、孝徳帝は前年に崩御していました。誰に帰国の報告をしたのでしょうか。公の使いですから、報告はあるはずです。玉座についていたのは、難波高津宮天皇か、間人皇后=中宮天皇でしょうね。

 万葉集巻一の3・4番歌は、中皇命が難波天皇のために献上させたものだとすると、御猟が皇位継承の儀式の一つだったと詠むことができますね。

後の軽皇子(文武天皇)の阿騎野の冬猟を思い出してください。あれも草壁皇子の霊魂に触れて、皇太子の霊魂を引き継ぐための儀式でしたね。これらの魂触りの儀式は、単なる年中行事としての儀式ではなく、皇位継承の儀式だったのではないかと、わたしは思うのです。

3・4番歌にはそういう重要な意味があり、だからこそ巻一の3と4番の位置が与えられていると思います。


「持統天皇の紀伊国行幸を歩こう」和歌山県に提案します

2018-01-20 13:33:16 | 69持統天皇の「紀伊国行幸」の行程を旅する

春は万葉集の旅・持統天皇の紀伊国行幸を歩く

つらつら椿つらつらに…でもなく、爛漫のソメイヨシノでもなく、山桜の風情溢れた紀伊路が最高!!なのです

(玉津島神社の万葉歌碑)

春に向けて、和歌山県の方々に提案です。「持統天皇の紀伊国行幸の跡を歩く旅」の企画をされませんか。

これまで和歌山には幾度も出かけましたが、ヤマザクラの頃が最高でした。もちろん、高野山も南紀白浜も素晴らしい観光地ですし、とても満足させてもらいました。それでも、敢て提案させてください。持統天皇の紀伊国行幸の跡を訪ねる旅を。いつまでも、心に残る木曽路の旅を。

万葉集の「大宝元年辛丑冬十月」の持統太上天皇と文武天皇の「紀伊国行幸」は冬ですから、冬の旅もおすすめですが、春風の中で歴史を紐解くのは最高です。(日前國懸神宮)

吉野から紀ノ川を下って真土山から紀伊国に入り、元明天皇が亡き夫の草壁皇子を偲んだ妹背の山を見遥かしましょう。「此れやこの倭にしては我が恋ふる木路にありとふ名に負ふ背の山」草壁皇子が亡くなったのは前年で、まだ一年しか経ていないのです。

紀ノ川を下りながら中流域の紀伊国国分寺跡や粉河寺に立ち寄るのもいいですね。

そして、日前國懸神宮(ひのくまくにかかすじんぐう)に立ち寄り、紀伊国一宮にお詣りするのも大事でしょうね。

そして、ぜひぜひ玉津島神社に足を向けてください。持統天皇と柿本人麻呂も、文武天皇・元正天皇・聖武天皇・孝謙天皇にもゆかりの玉津島。片男波公園まで足を延ばしましょうか。古代には、紀伊川の河口は此処でした。吉野から船で下れば、ここに着いたのです。

玉津島神社の裏山の奠供山には5分で登れます。登れば、称徳(孝謙)天皇の「望海楼」址があり、片男波の砂嘴(さし)が見られます。そして、対岸のかすむ桜が胸にせまります。

ここで、人麻呂の「玉津嶋 磯の浦見の真砂にも にほひてゆかな 妹も触れけむ」を読みましょうか。この歌が詠まれた時、持統天皇は崩御されていたでしょう。人麻呂が紀伊国に来たのは、あの方の「形見の地」だったから。高貴なあの方の霊魂漂う「形見の地」だったからです。 

人麻呂は、「万葉集の奏上をすべきかどうか」を持統天皇の霊魂に確かめるために来たのでした。と、わたしは書きました。文武天皇が崩御され、万葉集を献じ奉るべき人がいなくなったのですから、持統天皇の遺詔に応えるべきかどうか迷ったのだと思います。

「万葉集」の持統天皇の紀伊国行幸は「有間皇子事件」の跡を訪ね、皇子の霊魂を鎮める事が目的でした。孫の文武天皇を連れて、有間皇子が連行された行程を辿り行幸したのです。

持統天皇は白崎・由良の埼で歌を詠ませています。その歌はあまりに美しく哀しいのです。

白崎にも由良の埼にも「還って来なかった」有間皇子を偲ぶ持統天皇の思いが溢れています。

風なしの濱の白波いたずらに ここによせ来る見る人なしに(長忌寸意吉麻呂)

この歌が詠まれた大宝元年(701年)は、有間皇子事件(658年)から40年以上も経っています。しかし、この悲しみは癒されてはいません。

この玉裳を裾引いて、放心したように歩く女性は誰でしょう。顔は見えません。後ろ姿なのですが、きっと高貴な美しい人なのでしょう。この人に何があったというのでしょう。

紅の玉藻の鮮やかさが、読む者の心に迫ります。紀伊国の海岸ではこの歌と物語を味わってほしいものです。いずれも名歌です。(黒牛形は、藤白神社の辺りの黒江湾に有りますね)

宿は何処に取りましょうか。有間皇子が中大兄皇子と直接対峙した牟婁の湯のあたりで、しみじみと湯につかりましょうか。真っ白な砂がピンクにそまる夕暮れ時、独りで過ごすのはもったいないですね。誰かと沈む陽を見送ってあげたいものです。

旅の終わりはどのようにまとめましょうか

有間皇子ゆかりの藤白神社によってもいいし、少し200mほど歩いて有間皇子の墓を訪ねてもいいし、岩内一号墳(有間皇子の墓といわれている)を訪ねてもいいし、安珍清姫の道成寺を訪ねてもいいし、発見の旅はずっと続くでしょう。

岩内一号墳と岩代の結松の石碑

藤白神社の前は熊野古道です。

さりげない風景の中にこれほど詩情を感じる土地は有りませんね。

ぜひぜひ、持統天皇の物語や大宝元年の紀伊国行幸の行程を、春と共に味わってほしいと、わたしは思うのです。

和歌山県の皆さん、頑張ってほしいです。