気ままに何処でも万葉集!

万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

「持統天皇の紀伊国行幸を歩こう」和歌山県に提案します

2018-01-20 13:33:16 | 69持統天皇の「紀伊国行幸」の行程を旅する

春は万葉集の旅・持統天皇の紀伊国行幸を歩く

つらつら椿つらつらに…でもなく、爛漫のソメイヨシノでもなく、山桜の風情溢れた紀伊路が最高!!なのです

(玉津島神社の万葉歌碑)

春に向けて、和歌山県の方々に提案です。「持統天皇の紀伊国行幸の跡を歩く旅」の企画をされませんか。

これまで和歌山には幾度も出かけましたが、ヤマザクラの頃が最高でした。もちろん、高野山も南紀白浜も素晴らしい観光地ですし、とても満足させてもらいました。それでも、敢て提案させてください。持統天皇の紀伊国行幸の跡を訪ねる旅を。いつまでも、心に残る木曽路の旅を。

万葉集の「大宝元年辛丑冬十月」の持統太上天皇と文武天皇の「紀伊国行幸」は冬ですから、冬の旅もおすすめですが、春風の中で歴史を紐解くのは最高です。(日前國懸神宮)

吉野から紀ノ川を下って真土山から紀伊国に入り、元明天皇が亡き夫の草壁皇子を偲んだ妹背の山を見遥かしましょう。「此れやこの倭にしては我が恋ふる木路にありとふ名に負ふ背の山」草壁皇子が亡くなったのは前年で、まだ一年しか経ていないのです。

紀ノ川を下りながら中流域の紀伊国国分寺跡や粉河寺に立ち寄るのもいいですね。

そして、日前國懸神宮(ひのくまくにかかすじんぐう)に立ち寄り、紀伊国一宮にお詣りするのも大事でしょうね。

そして、ぜひぜひ玉津島神社に足を向けてください。持統天皇と柿本人麻呂も、文武天皇・元正天皇・聖武天皇・孝謙天皇にもゆかりの玉津島。片男波公園まで足を延ばしましょうか。古代には、紀伊川の河口は此処でした。吉野から船で下れば、ここに着いたのです。

玉津島神社の裏山の奠供山には5分で登れます。登れば、称徳(孝謙)天皇の「望海楼」址があり、片男波の砂嘴(さし)が見られます。そして、対岸のかすむ桜が胸にせまります。

ここで、人麻呂の「玉津嶋 磯の浦見の真砂にも にほひてゆかな 妹も触れけむ」を読みましょうか。この歌が詠まれた時、持統天皇は崩御されていたでしょう。人麻呂が紀伊国に来たのは、あの方の「形見の地」だったから。高貴なあの方の霊魂漂う「形見の地」だったからです。 

人麻呂は、「万葉集の奏上をすべきかどうか」を持統天皇の霊魂に確かめるために来たのでした。と、わたしは書きました。文武天皇が崩御され、万葉集を献じ奉るべき人がいなくなったのですから、持統天皇の遺詔に応えるべきかどうか迷ったのだと思います。

「万葉集」の持統天皇の紀伊国行幸は「有間皇子事件」の跡を訪ね、皇子の霊魂を鎮める事が目的でした。孫の文武天皇を連れて、有間皇子が連行された行程を辿り行幸したのです。

持統天皇は白崎・由良の埼で歌を詠ませています。その歌はあまりに美しく哀しいのです。

白崎にも由良の埼にも「還って来なかった」有間皇子を偲ぶ持統天皇の思いが溢れています。

風なしの濱の白波いたずらに ここによせ来る見る人なしに(長忌寸意吉麻呂)

この歌が詠まれた大宝元年(701年)は、有間皇子事件(658年)から40年以上も経っています。しかし、この悲しみは癒されてはいません。

この玉裳を裾引いて、放心したように歩く女性は誰でしょう。顔は見えません。後ろ姿なのですが、きっと高貴な美しい人なのでしょう。この人に何があったというのでしょう。

紅の玉藻の鮮やかさが、読む者の心に迫ります。紀伊国の海岸ではこの歌と物語を味わってほしいものです。いずれも名歌です。(黒牛形は、藤白神社の辺りの黒江湾に有りますね)

宿は何処に取りましょうか。有間皇子が中大兄皇子と直接対峙した牟婁の湯のあたりで、しみじみと湯につかりましょうか。真っ白な砂がピンクにそまる夕暮れ時、独りで過ごすのはもったいないですね。誰かと沈む陽を見送ってあげたいものです。

旅の終わりはどのようにまとめましょうか

有間皇子ゆかりの藤白神社によってもいいし、少し200mほど歩いて有間皇子の墓を訪ねてもいいし、岩内一号墳(有間皇子の墓といわれている)を訪ねてもいいし、安珍清姫の道成寺を訪ねてもいいし、発見の旅はずっと続くでしょう。

岩内一号墳と岩代の結松の石碑

藤白神社の前は熊野古道です。

さりげない風景の中にこれほど詩情を感じる土地は有りませんね。

ぜひぜひ、持統天皇の物語や大宝元年の紀伊国行幸の行程を、春と共に味わってほしいと、わたしは思うのです。

和歌山県の皆さん、頑張ってほしいです。