天智天皇の葬送儀式で詠まれた挽歌
天智帝は大津宮で崩御、そして山科に陵があります。
倭姫皇后の他にも、婦人・額田王・舎人吉年・石川夫人の詠んだ挽歌が残されています。
天皇の崩(かむあが)りましし時に、婦人(おみなめ)が作る歌一首 姓氏未詳
150 現実のこの世に生きているのだから神となられた大王にお会いすることはできずに離れていて、朝から大王を思って嘆き、離れていてもわたくしが慕い続けている大王、もし玉であれば手に巻き持っていように、衣であれば脱がずに身に着けていように、わたくしが恋しく思っている大王がなんと昨日の夜夢に見えたのです。
天皇の大殯(大もがり)の時の歌二首
151 こうなると前々から知っていたのなら、天皇の御魂が御乗りになる大御船が停留している泊(水門)に標を結って、舟が出ないようにしたものを… (額田王)
「天皇の船の泊まっている港に標を張って悪霊が入らないようにしたのに」と解釈されてもいますが、わたしは「魂がこの世を離れる時に乗る船に大王の魂が乗り込んで船出すれば崩御となるので、舟が出ないように標を張ればよかった。そうすれば蘇生されたかもしれないのに」という意味だと思いました。
152 この世を統治なさった大王が御乗りになった大御船、その大王の船が帰って来るのを待ち焦がれている志賀の辛埼(そしてわたくしたちです)
154 大王の宮があった楽浪の大山守は、誰のために山に標を結うのだろうか。大王はこの世を去られたのに。
そして、次の155は額田王の歌です。この歌は、既に紹介したでしょうか。
こうして、御陵への埋葬儀礼までの挽歌が残されました。
天智天皇の挽歌は九首も残された!のでした。
病が重篤となった時から倭姫の歌がありましたから、天皇の周りには平癒を願う儀式が行われていたのでしょうね。そして、崩御となり天皇の聖体の周りでは儀式が行われ、殯宮の準備が整い、大殯の儀式が行われるということなのですね。長い月日をかけて殯宮がしきたりにのっとって行われ、墳丘が造られ、ついに埋葬となったのでしょう。
天智天皇の場合はこのように儀式の流れに乗って挽歌が残されています。この九首によって大王の葬送儀礼がどのようなものだったか分かったのだそうです。天皇の後宮の女性たちが多く歌を残していると云うことは、葬儀での女性の役目は大きかったのでしょうね。
それにしても、天武天皇より以前の天智天皇の挽歌が多く残されているのは何故でしょうね。
では、また。