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万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

玉津島神社のご祭神

2017-04-18 10:29:43 | 1紀伊国の旅

玉津島神社のご祭神

玉津島神社の創建は上古ということで、古いのです。覆殿が建てられたので、この本殿のお姿を見ることはできません。ご祭神は、稚日女尊(わかひるめのみこと)、息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)、衣通姫尊(そとおりひめのみこと)、明光浦靈(あかのうらのみたま)の四柱です。千木を見ますと、確かに女性の神様のものですね。

稚日女尊…伊弉諾・伊弉冉尊の御子で、天照大神の妹、別名を丹生都比女神(にふつひめのかみ)

息長足姫尊…神功皇后。皇后が海外出兵のおり、玉津島の神(稚日女)が霊威を現したので以来尊崇し、自身も卯年、卯月、卯の日に合祀された。

衣通姫尊…第19代允恭天皇の妃。その美しさが衣を通して光り輝いて見えたというほどの美人で、殊のほか和歌の道に秀でておられた。衣通姫は、第58代光孝天皇の勅命により合祀されたという。衣通姫が合祀されて以来、玉津島の神は『和歌三神』として、住吉大神(摂津)と柿本大神(明石)と共に広く一般文人墨客から崇められて来た。

明光浦靈…聖武天皇の「宜しく守戸を置きて荒穢せしめることなかれ。春秋二季官人を差遣し玉津島の神・明光浦靈を奠祭せよ」の詔勅により、明光浦靈を合祀することとなった。

是で、ご祭神が合祀された順番が分かりました。神代には、稚日女尊(別名は丹生都比女尊)のみだったが、海外出兵の後に神功皇后が合祀され、聖武天皇により明光浦靈が加わり、58代光孝天皇により衣通姫が合祀され、その後「和歌三神」の一つに玉津島神社が変貌したとなるようです。然し、わたしは何処で読んだか忘れましたが、衣通姫が祭られたのは古いという伝承か記録があると書いてあったのを読みましたが、…どこの話だったのか…

衣通姫が光孝天皇の夢枕に立たれたとは云え、都から離れた神社に合祀となったのは何故でしょうか。

第58代光孝天皇(830~887)は、どんな宿命の帝なのでしょう。父は仁明天皇、母は藤原沢子。甥の陽成天皇が叔父の藤原基経により若くして廃位となり、光孝天皇は55歳での即位となりました。在位は4年(884~887)

 光孝天皇は即位と同時にすべての子女を臣籍降下させ、子孫に皇位を継承させないことを決めていました。然しながら、皇太子が確定しない内に光孝天皇は病に倒れ、臣籍降下していた源定省(後の宇多天皇)を親王に復し、翌日には立太子。即日、光孝天皇の崩御となりました。御子の立太子は光孝天皇の意思だったかどうかわかりません。むしろ、藤原基経が仲の悪かった妹(藤原高子)の子に即位させないための策だったのではないでしょうか。

そんな光孝帝の夢枕に立ったのが、衣通姫です。

立ちかえり またもこの世に跡垂れむ その名うれしき 和歌の浦波

一度は去ってしまったこの世に、またも戻って来て、生き直してみたい。和歌の浦とうれしい名前になった、そのなつかしい浦に寄せ来る波のように。

まるで衣通姫は和歌の浦を知っているようです。「もう一度生まれてきたい、和歌の浦に寄せて来る波のように」と、切なる願いに聞こえます。光孝天皇にとっては、玉津島神社に合祀したくなった歌です。古代には、夢は現実と同じでしたから、現実の体験として衣通姫の気持ちが理解できたということです。「三代実録」には光孝天皇について「天皇若くして聡明、好みて経史を読む。容止閑雅、謙恭和潤、慈仁寛曠、九族を親愛す。性、風流多く、尤も人事に長ず」と書かれています。思慮深い人だったのです。

即位後も不遇だった頃を忘れないように、自分が炊事をしていた煤で汚れた部屋をそのままにしておいたという逸話が「徒然草」にもあります。

このような光孝天皇が、なぜ衣通姫を合祀したのか、ここに大きな意味があると思います。衣通姫が合祀された後、玉津島神社は「和歌三神」の一つとなり、後西帝、霊元帝、桜町帝、桃園帝、後桜町帝、後桃園帝、光格帝、仁孝帝の御代に、「法楽和歌会」と称し、玉津島の神に和歌を奉納する歌会が宮中で催されました。玉津島神社にとっても大変な意味のある合祀でした。

光孝天皇の夢枕に立った衣通姫とは、単に允恭天皇の妃なのでしょうか? わたしには、衣通姫には別の深い意味があると思えるのです。それは、万葉集巻二を読めばわかります。巻二には、軽太子と軽太郎女(かるのおほいらつめ)の物語が紹介され、軽太郎女の歌が掲載されています。その題詞に「古事記に曰く、軽太子、軽太郎女に姧(たわ)く。この故にその太子を伊予の湯に流す。この時に、衣通王(そとほりのおほきみ恋慕に堪へずして追い往く時に、歌いて曰く

君が行き 日長(けなが)くなりぬ 山たずの 迎えを往かむ 待つにはまたじ

軽太子と軽太郎女が巻き込まれたのは、皇位継承の争いでした。二人は允恭天皇の皇子と皇女でしたが、二人の姦通を理由に弟の穴穂皇子に皇位を奪われた事件です。光孝天皇の夢枕に立たれたのは、「古事記」の衣通姫だと思うのです。

軽太子の皇位継承権を奪うには、軽太郎女皇女との姦淫事件しかなかったのではないでしょうか。「無実の二人が命を奪われた」と、光孝天皇は感じた、故に玉津島に衣通姫を祀り、歌を奉納して霊魂を慰めた…自身の子孫から皇位継承者を出さない、争いの種はまかないと、堅く決心していた心をそのまま現したのが、衣通姫の合祀だったのでしょう。

更に、軽太子事件は、有間皇子事件によく似ているのです。光孝天皇が「有間皇子事件」を知らないわけは有りません。歴史に詳しい光孝天皇は、日本書紀も読んでいたはずです。無実の皇子は有らぬ嫌疑をかけられたと、その嫌疑の相手は「父の孝徳帝の皇后だった間人皇后」だったと。衣通姫は間人皇后(中皇命)を象徴していると思います。だからこそ、神として合祀したのです。

平安時代には、万葉集は読まれています。誰もが、衣通姫は誰なのかを知っていたということです。神社の千木を見れば、社に祀られたのが女性の神だと分かりますね。

古代の紀ノ川は、和歌川の流路を流れていました。大和国の吉野川から紀ノ川へ、それから玉津島へと船旅を楽しめたのです。この地は長く多くの帝に愛されたのでした。中央の赤いラインは、南に延びると道成寺と岩内1号墳(有間皇子の墓と言われている)に届きます。北に延びると大谷古墳に届きます。偶然にしても面白いですね。


紀伊国・玉津島神社の花影に

2017-04-17 20:06:08 | 1紀伊国の旅

紀伊国の玉津島神社の春

紀伊国に旅してきました。紀伊国は目に入る風景の何処も山桜が咲き、今まで旅した土地に比べても決して引けはとりません。沖縄以外、ほとんどの県を旅したわたしが思ったのです。もちろん春の東北の芽吹きや北上川の岸辺も、日本海の春雷も素晴らしかったけれど、ヤマザクラが何気なく咲いた紀伊路の春には心惹かれました。

やっと、以前から訪ねたいと思っていた玉津島神社に行きました。玉津島神社は桜の花に彩られて、華やかな空気が漂っていました。

ここは、聖武天皇、孝謙天皇、桓武天皇の行幸の地でもあります。鳥居の横に、山部赤人の万葉歌碑がありました。公の場で赤人が詠んだ玉津島の長歌と短歌でした。

 神亀元年甲子の冬十月五日 紀伊国に幸す時に山部宿禰赤人の作る歌一首 併せて短歌

やすみしし わご大王の 常宮と 仕へ奉れる 雑賀野ゆ そがいに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山

沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠り行かば 思ほへむかも

若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴鳴き渡る

神亀元年(724)は、元正天皇が甥の聖武天皇に譲位した年でした。二月に即位し、改元。長屋王が左大臣となり、三月には吉野行幸。聖武天皇には思い出深い幸せな時間が流れていたことでしょう。玉津島には天皇の行宮があったのですが、そこを常宮とするほど長く滞在し気に入っていたということです。玉津島神社の本殿の裏は小高い岩山(標高33m)となっていて奠供山(てんぐやま)と呼びます。奠も供も「お供え物」の意味です。

聖武天皇はこの山に登り「山に登りて海を望むにこの間最も好し。遠行を労せずして以て遊覧するに足る。故に『弱浜(わかのはま)』の名を改めて『名光浦(あかのうら)』と為せ。宜しく守戸を置きて荒穢せしめることなかれ。春秋二季官人を差遣し玉津島の神・明光浦靈(あかのうらのみたま)を奠祭せよ」との詔勅を発せられたのです。

奠供山に登ると和歌の浦が一望できます。頂上はやや広く、称徳天皇の「望海楼」の址でもあります。

古来、各天皇に愛された玉津島。いにしえ、ここは紀ノ川の河口でした。紀ノ川は改修される前は、今の和歌川の流路を和歌の浦に流れ込んでいたのです。行幸の一行は、吉野川から紀ノ川と航行し玉津島まで船旅を楽しむことができたでしょう。


59藤原不比等とは何者か

2017-04-08 19:33:33 | 58藤原不比等の出自

藤原不比等とは何者か? その2

前回、藤原不比等(ふひと)(鎌足の二子)の母は誰とされているのか、を少々書きました。

「興福寺縁起」は、鏡王女(かがみのおほきみ)を不比等の母だとしました。その可能性がないわけではありませんが…。しかし、万葉集事典では「母は車持国子君女(くるまもちのくにこのきみのむすめ)としています。興福寺としては、車持国子君女では「役者が足りなかった」ので、鏡王女としたのでしょうか。

が、鏡女王が高貴な女性であれば、鎌足の正室の位置にあって一族に采配しても、鎌足と寝所を共にしたとは思えません。わたしの勝手な考えではありますが。確かに、鎌足と鏡王女は歌をやり取りしていました。

鎌足と鏡王女の万葉集の歌は、公の場で詠まれたものでしょう。天皇の前で詠まれたものかも知れません。寵妃を臣下に与えるとはどういうことでしょうか。

平安時代も、高貴な女性であった皇女・内親王は皇族以外の男性に嫁することはできなかったのですから。その身分を冒すことは大変なことだったのです。そんな鏡王女が天智帝の子を身ごもり、男子を生んだ可能性はあります。たとえ鎌足の子として育ったとしても、世間には高貴な血だと知られたでしょう。古代では高貴な血筋は何にも代えられない意義と価値があったのです。豪族たちは自分の出自を粉飾し高貴な氏であることを主張しました。

平安時代に嵯峨天皇の勅により編纂された氏族名鑑の「新撰姓氏録しんせんしょうじろく)」がありますが、これは氏族の出自が乱れたので、それを糺そうとしたものです。淳仁天皇も桓武天皇も取り組んだのですが、完成に至らなかったのでした。嵯峨天皇の時代にようやく完成したのです。

定恵が高貴な血統だとして、その母は誰でしょう。「日本書紀」と「藤氏家伝」の双方に「軽皇子(孝徳天皇)が中臣鎌足を気に入り、宮処に泊めたりして朝夕の世話を寵妃の小足媛にさせた話」が書かれています。書紀も家伝も内容はほとんど同じです。では、小足媛が定恵を生んだというのでしょうか。世間では、定恵は孝徳天皇の皇子というのです。しかも、小足媛は有間皇子を生んだ孝徳天皇の寵妃です。鎌足は軽皇子の気持ちを嬉しく思う事はあっても、小足媛にたわけた真似はしなかったと思います。彼は超忠臣なのですから。もちろん、どちらにも小足媛が男子を生んだとは書かれていません。

同じように天智帝に忠義を尽くした鎌足は、鏡王女にたわけることはなかったし、鏡王女も鎌足を受け入れることはなかったでしょう。鎌足の子をもうけないことが、その身を護った証となるのですから。定恵が鏡王女の御子であれば、我が子を強く愛した鏡王が、国外に留学させたのは理由があると思います。また、不比等が鏡王女の御子であれば、壬申の乱の後も守られたと思います。

これで、天武帝が鏡王女を見舞った理由が明白になります。生涯を鎌足の正室としながら、天智帝の寵妃であった過去を守り続けたその意思に対しての労いです。世間にもこれほどの美女はなく、これほどの意志の強い女性はいなかったでしょうし、何より藤原氏を護った聡明さに対しての労いでした。薨去の後は、父・舒明帝の墓の傍に眠ったとなるのです。

皇女として生きること、天智帝の寵妃として生きることを世間も望んだということです。天武天皇の見舞いは、鏡王女が皇族だったことの証明にもなるでしょう。天武帝の異母妹だったかも知れません。

 不比等の生涯を見ると、持統帝の即位の時期に合わせて台頭してきます。持統帝が藤原氏を重用するのは何故でしょう。藤原氏が天智帝の寵臣であったこと、天智帝に忠義を尽くしたことが大きかったのではないでしょうか。持統帝も天智帝を深く慕っていたのですから。

文武帝即位では、娘の宮子(みやこ)を夫人として皇室に接近し、翌年には、藤原の姓を承(う)けました。藤原の姓は「藤原鎌足」が天智天皇から賜ったものであるから、不比等の家系以外は中臣(なかとみ)に戻したのでした。

それにしても、不思議ではありませんか? 天武帝が極位に着いているのに「天智帝の寵妃として一生を送った」鏡王女を称え、「天智帝が贈った藤原の姓を不比等の家系だけに限る」など、あまりに天智帝の威光を強調していることが。何よりも不比等は律令政治に引き戻そうとしました。天武帝の天皇親政を終わらせたのです。もちろん、持統天皇も承知の上です。やはり、持統帝と天智帝の結びつきが見え隠れしてしていますよね。

不比等は、大宝元年には大納言、和銅(わどう)元年には右大臣です。養老(ようろう)元年(717)に左大臣の石上麿(いそのかみまろ)が没しますから、最終的に不比等が議政官のトップになるのですが、何故か、石上麿が没した後は、左大臣は空席のままです。

元正(げんしょう)天皇(文武天皇の姉・草壁皇子の娘・独身)は、不比等を左大臣には任官しませんでした。元正天皇の陰には母の元明(げんめい)天皇がいて、その意思が働いていたのでしょう。元明天皇は非業な最後を遂げた夫の草壁皇子の意思を守っていたのです。元明天皇には夫の意思を受けての信念がありました。さっそく、高市(たけち)皇子の長子である長屋王(ながやのおほきみ)を大納言に任じました。「天武天皇の皇統に極位を譲る 」それが、草壁皇子の意思でしたから、妻としての元明天皇は、大変けなげで賢い人だとおもいます。

養老二年(718)、長屋王が大納言に任じられる

 高市皇子の王子がこれから権力の坐へ登っていくと、誰にもそう見えました。長屋王の妃は、文武天皇との元正天皇の妹(吉備内親王だったのですから、これほどの皇位継承者としての宮家は有りませんでした。

ここから、長屋王家の滅亡計画が藤原氏により密かに進められていくのでしょう。

720年に不比等が没します。

没後に、不比等は太政大臣の称号を送られました。十年後、不比等の意志を継いだ長男の武智麻呂(むちまろ)が長屋王家を滅ぼすという展開になるのです。藤原氏は徹底的に天武帝の皇統を切り捨てて行きました。それは、不比等の遺言だったような気がします。そして、誰もいなくなった、のですから。

 また、明日


58鎌足の二子。藤原不比等の出自

2017-04-07 10:20:59 | 58藤原不比等の出自

藤原鎌足の二子、藤原不比等とは何者か?

不比等(ふひと)は、天武天皇(40代天皇)の嬪(ひん)であった異母妹の藤原夫人(ふじはらのぶにん)と密通の上、麿(まろ)(695生)をもうけています。

天武天皇崩御(686没)から十年近く立っているとはいえ、不比等は異母妹と天武天皇の関係をどう思っていたのでしょうね? 万葉集には天武帝と藤原夫人のやり取りした歌が載せられていました。

 天武天皇(四十代天皇)から藤原(ふじはらの)夫人(ぶにん)へ賜う御歌

巻二103 吾里に 大雪ふれり 大原のふりにし さとにふらまくは後(のち)

藤原夫人(五百重娘(いおえのいらつめ))のこたえ奉る歌

巻二104 吾岡の おかみに言いてふらしめし 雪のくだけし そこにちりけむ 

 二人は楽しそうにやり取りをしています。藤原夫人は、天武帝が心許した女性だったのでしょうか。

(大原は飛鳥寺の東、飛鳥坐神社の東、大原神社があるあたりで、現在は小原という地名です。鎌足はこの大原で生まれたということです)

天武帝の死後、異母妹・藤原夫人に不比等は近づいたのでした。それは、許されたのですね。何の咎めも受けていませんし、麿は藤原四兄弟の末っ子として京家の祖になっています。本来なら、藤原夫人が麿を生んだことは、秘話として処理されたでしょうに。麿は末子に認められていますから、少しも隠されていないようですね。

天武天皇の後宮は、女帝である持統帝の治世では機能していなかったのでしょうか。婦人たちはバラバラになったのでしょうか。それでも、不比等は図々しすぎませんか。父・藤原鎌足の鏡王女や安見兒(やすみこ)に対する態度とは全く違いますね。不比等が父とは違った態度を取ったのには、何か理由があるのでしょうね。

 

不比等の漢詩として「懐風藻」には五言詩五首が残されていますが、万葉集には歌は有りません。漢風詩を詠むことが文化人としてのステイタスだったのでしょう。万葉集には不比等の没後、その邸宅の庭で山部赤人が詠んだ歌があります。

 

山部宿祢赤人が故太政大臣藤原家の山池を詠む歌一首

 

378 昔者(いにしへ)の古き堤は年深み 池の渚に 水草(みくさ)おいにけり

貴人が長く住まわれたお屋敷の山池はいよいよ年を経て深みを増し、風情のある池の岸近くに水草が生い茂り、貴人を偲ばせる庭になったものだ。

不比等の母は誰か

千年の長きにわたって、藤原氏が朝廷の重臣であり、皇室との関係を保ち続けてきたのは、異常というか奇跡でしょう。道筋を開いたのは、不比等でしょうか。

不比等は鎌足(669没)の二子であり、壬申の乱(672)には参加していません。乱の当時は十四歳とか? 十四歳なら戦に巻き込まれても仕方ない年齢ですが、守られていたのか無傷だったようです。叔父の中臣金(藤原金)は壬申の乱後に斬られていますから、参戦していれば無事にはすみません。誰が守ったのでしょう? その母でしょうか

興福寺縁起には、鏡女王が不比等の生母創作説もあり)とされています。

興福寺(こうふくじ)は、平城京の別区のようになっている藤原氏の氏寺です。なぜ、興福寺縁起に鏡女王生母説が出て来たのでしょう? 高貴な出自の鏡女王の名が必要だったとしか思えません。

前のブログ(56)に書いた鏡王女は、その出自もはっきりしていません。名前の記述も、鏡王女(万葉集)、鏡姫王(日本書紀)、鏡女王(興福寺縁起・延喜式)と微妙に違っていて、同一人物ではないとする説があります。

天武十二年(683)、天武天皇が鏡姫王の病気を見舞っています。それは、女王薨去の前日でした。鎌足の室ですから、もちろん後宮の女性ではありません。天皇が病を見舞うとは、鏡王女は特別な女性でした。天武天皇にもゆかりのある女王なのです。

興福寺縁起では、この鏡女王が不比等の母だというのです。なぜでしょう。車持国子君の娘が不比等の母ではないのですか?

また明日