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長屋王に殉じたのか、丈部龍麻呂!大伴三中、挽歌を詠む

2017-07-23 21:35:14 | 長屋王事件の悲哀・その後先

長屋王事件の年・神亀六年=天平元年の己巳

丈部龍麻呂は長屋王の賜死に殉じたのでしょうか

万葉集巻三「挽歌」には、気になる歌が並んでいます

神亀六年己巳つちのとみ)左大臣長屋王賜死の後倉橋女王の作る歌一首」と、

「膳部王を悲傷する歌一首」に並んで、

天平元年己巳、摂津国班田の史生丈部(はせつかべ)龍麻呂自ら経(わな)きて死にし時に、判官(じょう)大伴宿祢三中(みなか)が作る歌一首併せて短歌」があります。長屋王事件の年の歌です。読んでみましょう。

443 天雲の 向伏す国の武士(もののふ)と 云われし人は 皇祖(すめろき)の 神の御門に 外重に立ちさもらひ 内重に仕え奉りて 玉葛(たまかづら) いや遠長く 祖(親)の名も 継ぎゆくものと 母父に 妻に子に 語らひて 立ちにし日より たらちねの 母の命は 斎瓮(いはひへ)を 前に据え置きて 片手には 木綿取り持ち 片手には 和栲(にぎたへ)奉り 平らけく ま幸くませと 天地の 神を祈ひのみ いかにあらむ 年月日にか つつじ花 にほへる君が にほ鳥の なづさい来むと 立ちて居て 待ちけむ人は 王(おおきみ)の 命かしこみ おしてる 難波の国に あらたまの 年経るまでに 白栲の 衣も干さず 朝夕に ありつる君は いかさまに 思ひいませか うつせみの 惜しきこの世を 露霜の 置きて去(い)にけむ 時にあらずして

天雲の垂れる国の強い男子と云われた人は、皇祖の神殿のような立派なお住まいの警護に、外に立って仕え、又は内に入ってお仕えし、いついつまでも祖先の名を継いでいくものだと、父母にも妻子にも語り聞かせて、故郷を立って来たその日より、国の母は神祭りの甕を前に据えて、片手には木綿を持ち、片手には和栲を奉げて、どうぞ平安でご無事で居てくださいと、天地の神々に祈り、貴方はどうしているだろうか、いつの年かいつの日か、元気なあなたが 苦労を乗り越えて帰って来ると、立ったり座ったりしながら待っていたであろう。待たれているその人は、天皇のお言葉をかしこまって聞き、難波の国で何年も年を経るまで、濡れた衣も干さないで、朝夕務めていた貴方は、いったいどのようにお思いになったのか、たった一度のこの世での暮らしを捨てて、はかなく逝ってしまわれた、まだその時ではないのに。

反歌

444 昨日こそ 君はありしか 思はぬに 浜松の上に 雲にたなびく

 昨日こそ貴方は生きていたのに、思いもしなかった、貴方が浜松の木の上の雲になって棚引いているなんて。

445 いつしかと 待つらむ妹に 玉梓の 事だに告げず 去にし君かも 

何時だろうかとあなたの帰りを待ち続けているだろう愛しい人に、一言も告げずに逝ってしまった貴方なのだなあ。

わたしはこの大伴三中(みなか)の歌を読んだ時、ハッとしました。

丈部龍麻呂は何故自経したのか、もしや長屋王のために殉死したのではないかと思ったのです。

彼はごくごくまじめに主人の王の警護をし、内でも外でも懸命に仕えていたのです。

龍麻呂という人物について、何の落ち度もこの長歌からは窺えません。

難波で仕えたと云うことは、後期難波宮の役人だったのです。

行政職のトップは長屋王でしたから、当然その人を知っています。

大伴三中は、龍麻呂の自経を悲しみました。そして、その忠誠ぶりを詠みあげました。班田の史生(ししょう)ですから、班田司の書紀として事務的な仕事を懸命にしていたモノノフともいうべき龍麻呂が死んだことを、ただただ嘆いているのです。でも、それだけでしょうか。

この歌は、「442 世間は空しきものとあらむとぞ此の照る月は満ちかけしける」の次に掲載されています。

読者は、長屋王の死を嘆く441~2番歌と切り離して読むことはないでしょう。

一連の歌としてつづけて読むと思います、同じ年ですから。

神亀六年は天平元年と改元されました。読者はその意味も理解しています。

長屋王を倒したことで「天下は平らかになった」というのですから。

そのあまりな元号のおぞましさと理不尽さを、長屋王は無罪だったという真実を、長屋王事件が陰謀であったと、一連の歌は訴えていると思うのです。

大伴宿祢三中の歌は「意味のある自経をした男をモノノフと表現した」のだと思うのです。大事な家族がありながら、彼は長屋王の賜死に殉じたのだと。

長屋王は誰にも尊敬された人だったのかも知れません。

平群町の長屋王の墓は、古代氏族の平群氏が丁寧に葬ったのでしょう。前方後円墳の後円部の中に長屋王の墓は造られていると、何かで読んだことがあります。何であったか忘れましたが、たぶん平群氏は自分の先祖の墓を王の為に提供したのだと思います。

長屋王は謀反の罪での賜死ですから、大きな墳丘墓は築けません。だから、敢て自家の祖先の墳丘の上に王墓を造ったのではないかと。その傍らの微高地に吉備内親王の墓を築いたと思われるのです。

今なお、小さな墳丘に平群氏の心使いが偲ばれます。

万葉集の巻三の挽歌441~5は、非常に意味深な五首ですね。

貴方はどう読まれましたか?


武市皇子の男子・長屋王の悲劇・その2

2017-07-20 16:05:13 | 長屋王事件の悲哀・その後先

長屋王事件を悲しむ歌

神亀六年二月、長屋王の理不尽な賜死

父の死を嘆いた倉橋部女王・残された家族でした。

長屋王と共に死を強要されたのは吉備内親王とその子供たちで、他の女性との子ども達は残されました。とはいえ、ゆくゆくは有力男子の命を断たれていくのですが…

では、長屋王の死を傷む歌を詠みましょう。

巻三「神亀六年己巳、左大臣長屋王が死を賜りし後に倉橋部女王の作れる歌一首

441 大皇(おおきみ)の命かしこみ 大荒城(おおあらき)の時にはあらねど雲隠ります

大皇のお言葉をかしこんで承り、今はまだ殯宮(あらきのみや)などを建てる時ではないのに、わが父・長屋王は雲の彼方に逝ってしまわれたのです。(倉橋部女王は長屋王の娘です)

次に「膳部(かしわべ)王を悲傷する歌一首」

442 世間(よのなか)は 空しきものとあらむとぞ 此の照る月は満ちかけしける

世の中とはどうにも空しいものだと、この照る月は教えているのだろう、満ちたりかけたりしながら。それにしても、あの若い才能ある王子がお亡くなりになるとは、あまりに悲しい。

歌の後に、「右一首、作者詳らかならず」と脚があります。

誰が膳部王の死を嘆いたのか

(長屋王の室・吉備内親王の幸せを願った元明天皇は既に没していて、元正天皇には妹を救うことはできませんでした。)

膳部王(長屋王の長子)の死を嘆いた歌の作者不詳ですが、上の歌を詠んだのは身分のある官人で、役職もあった人でしょう。その名を明らかにはできない人だったと、わたしは思います。膳部王はこの事件がなければ、次の天皇だったかも知れないからです。官人としては、時の権力者を批判することはできなかったでしょう。

個人的には、「世間は空しきものと」の歌を詠んだのは大伴旅人だと思います。旅人の歌のなかに上の一首に非常によく似たものがありますから。または、旅人の近親者でしょうか。この時、家持はまだ子どもですから、作者は大伴家持ではありません。

それに、旅人は長屋王派だったといわれています。それが故に藤原氏によって大宰府に帥として遣られ、旅人が都を離れている間に長屋王事件は起こりました。長屋王の賜死を知った旅人はどう思ったでしょう。

都からの思いがけない知らせを受けて「いよいよますます悲しくなった」のではないでしょうか。

万葉集巻五の冒頭には「大宰帥大伴卿、凶問に報いる歌一首」があります。

793 よのなかは空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり

大伴氏は代々武人の家系でした。大将軍として旅人もふるまっていたと思われます。

七二〇年、征隼人持節大将軍として九州にも来ています。大宰府の帥になったのは最晩年になります。大伴旅人は大伴安麻呂の第一子です。大伴安麻呂と藤原鎌足は従兄弟でした。

旅人の妹の大伴坂上郎女は、藤原麿の妻でもありました。麿は藤原不比等の第四子ですから、大伴氏としては、藤原氏を批判することは難しかったしできなかったでしょう。

しかし、旅人としては長屋王とその家族の悲劇を悲傷せずにはおれなかったと思います。ですが、武人である以上、愚痴など誰にも言えず、酒を飲んで酒の力で泣いたのだと思うのです。

長屋王を罠にかけた権力者を嘲笑し、何もできない自分を情けないと酒の力で泣いたのでしょう。中学生の頃に、恩師からこの歌を紹介されたわたしは「なんて恥じな大人だろう。酒飲んで泣くなんて」と好きになれませんでした。ですが、

今は、この歌を読むと切なくなるし、泣けてきます。

348 生ける者 遂にも死ぬるものにあれば このよなる間は楽しくあらな

349 黙だおりて賢しらするは酒飲みて 酔い泣きするに尚しかずけり

万葉集の大伴旅人の歌を詠むと、雄々しく生きようとした男の悲哀が偲ばれます。

793 よのなかは空しきものと知る時し いよよますます悲しかりけり

 


高市皇子の男子・長屋王の悲劇

2017-07-17 21:10:21 | 長屋王事件の悲哀・その後先

長屋王事件の悲哀と、そのあとさき

万葉集には長屋王は無実だったと暗示されている

巻三の「長屋王の故郷の歌一首」

268 吾背子が古家の里の明日香にはちどり鳴くなり嬬待ちかねて

我が父の故郷である明日香には沢山の鳥が鳴いている。その声は妻を待ちかねているようだ。まるで古の都の人々の霊魂が新京へ去った人々の帰りを待ちかねているように聞こえる

この歌の前に、「志貴皇子の御歌一首」が置かれています。

267 むささびは木ぬれ求むとあしひきの山のさつおにあいにけるかも

むささびは木から木へと飛び移っていたが、その時にムササビを狙っていた山の猟師に会ってしまったのだなあ。まるで不運な人のようではないか

長屋王の歌(268)だけ詠むと父の活躍した飛鳥を懐かしんでいるように読めますが、志貴皇子の歌と並ぶと「長屋王は、まるで待ち構えていた猟師に狙われたムササビのようではないか」と読めるのです。志貴皇子(715没)は長屋王事件の前に没しています。ですから、267番歌は長屋王を詠んだのではありません。志貴皇子は罠にはまった誰かを詠んだものでしょう。大津皇子か、弓削皇子か、川嶋皇子か…不運な当時の誰かを。万葉集の歌は「叙事詩」であって叙景詩ではないのですから。

何らかの意図があって、万葉集編集者はこれらの二首を並べました。それは、長屋王が罠に落ちたのだと暗示するためでしょう。長屋王は無実だったと。 

長屋王の墓は、奈良県生駒郡平群町に在ります。

長屋王の父親は太政大臣高市皇子。

高市皇子は父の天武天皇を支え、壬申の乱でも大きな働きをして勝利に導きました。その後、皇親政治家として活躍し、持統天皇の御代には太政大臣になりました。

しかし、息子の長屋王は左大臣まで上り詰めながら、謀反の罪をきせられ自尽に追い込まれました。

(写真は平群町の長屋王墓です)

長屋王事件は、なぜ起こったのでしょう。

長屋王が自尽に追い込まれた理由は、長屋王が余りに恵まれていたからです。

既にこのブログでも書きました、高市皇子の墓は高松塚古墳と思われると。高市皇子は藤原宮の造営をし、太政大臣として活躍し、当代随一の権力者でした。

長屋王は天武帝の御子・高市皇子天智帝の娘・御名部皇女の間に生れましたから、当代随一の皇統を継ぐ家柄でした。更に、室には元明天皇の娘・吉備内親王を迎えていました。

吉備内親王は長屋王との間に、男子を四人もうけていました。皇女は幸せの絶頂で突然の事件に見舞われました。四人の子どもたちの母として、妻として、無実の夫が糾問されるのを見てどんなに絶望したでしょうか。御身は現天皇の叔母でありましたのに。

そして、ついに四人の男子と共に自殺に追い込まれてしまったのです。

吉備内親王の兄が文武天皇、姉が元正天皇でしたから、長屋王一家は高貴な選ばれた人たちでありました。だからこそ、長屋王事件は起こったのです。

 吉備内親王の母である元明天皇の愛が、逆に長屋王家の悲劇を生んだのでした。

元明天皇は娘の吉備内親王を愛し、皇女が生んだ子供たちを「皇孫扱い」にしました。

続日本紀・元明天皇、霊亀元年(和銅八年・715)二月に「丁丑(二五日)勅して、三品吉備内親王の男女(子供たち)を、皆皇孫の例(つら)に入れたまふ」とあります。長屋王は皇孫ですが、子供たち(三世王)は皇孫扱いではなかったので、元明天皇の勅により皇孫扱いとなったのでした。

同じ年(715年)、首皇子(聖武天皇)は十五歳になります。

父の文武天皇が即位した年令と同じ十五歳で、前年には元服し皇太子となっていました。藤原氏は光明子を首皇子の夫人に差し出し、外戚になる準備を整えていたことでしょう。天武天皇の有力皇子である長親王(六月没)穂積親王(七月没)志貴親王(八月没)の三人はことごとく死亡し、いよいよ首皇子の即位かと思われました。九月に譲位となり…

なんと、元明天皇が譲位したのは皇太子ではなく、娘の氷高皇女(元正天皇)でした。

この即位は特異だったようです。

続日本紀(岩波)脚注には「文武天皇以下各天皇の即位の宣命を収載しているが、元正の受禅・即位に関してのみは、漢文体の詔を載せるにすぎない。これは元明即位の特異性を物語るか」とあります。

即位した元正天皇は独身でしたから子孫を残すことはできません。次の皇統は長屋王の家族に引き継がれると、誰の目にもそのように映ったでしょうし、それは元明天皇の判断だったのです。

一方、草壁皇子の孫・文武天皇の皇子の首皇子(聖武天皇)の夫人は藤原光明子でしたから、かなりの点で長屋王の皇統が勝っていると時の人は心の底では思ったことでしょう。

高貴な家に生まれた長屋王が後々左大臣となるのは当然のことでした。

神亀六年(729)、長屋王謀反事件が起こるのです。それは突然の出来事でしたが、長い間練られた計画の実行だったのです。

長屋王と吉備内親王の墓は150メートルほど離れています。

むかしは、もっと墓域が広かったでしょうからお隣にあったのかも知れませんね。