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持統天皇が選んだ東国への最終行幸

2017-10-29 22:29:42 | 67持統天皇の真意は何処に

大宝二年(702)十月~十一月、崩御前に東国行幸

最晩年に、紀伊国を訪ねた持統天皇(写真は牟婁の湯のある白浜海岸)

その目的は何だったのか? ですね。大宝元年の紀伊国行幸は文武天皇に「有間皇子事件」を伝えるという目的がありました。では、東国への行幸の目的は何だったのでしょう? 何しろ、崩御のひと月前なのです。

冬十月十日、太上天皇参河国に行幸 *今年の田租を出さなくて良しとする

十一月十三日、行幸は尾張国に到る *尾治連若子麻呂・牛麻呂に姓宿禰を賜う                        *                *国守従五位下多治比真人水守に封一十戸

同月十七日、行幸は美濃国に到る *不破郡の大領宮勝木実に外従五位下を授ける *              *国守従五位上石河朝臣子老に封一十戸 

同月二十二日、行幸は伊勢国に到る *守従五位上佐伯宿禰石湯に封一十戸を賜う

同月二十四日、行幸は伊賀国に至る 

同月二十五日、車駕(行幸の一行)参河より至る(帰ってきた)

東国行幸では、尾張・美濃・伊勢・伊賀と廻り、郡司と百姓のそれぞれに位を叙し、禄を賜ったのでした。それが目的だったのでしょうか。大宝律令により太上天皇として叙位も賜封もできるようになっていました。太上天皇は新しい大宝令を十分につかったのです。

この行幸は、壬申の乱の功労者を労うことが目的だったと言われています。確かに天武軍は東国で兵を整えました。

行幸の目的については気になることがありますが、行幸で詠まれた歌を見ましょう。

東国行幸に従駕したのは、持統天皇の信頼する人物だったようです。長忌寸奥麿(ながのいみきおきまろ)は、二度の紀伊国行幸(690年・701年)に従駕し歌を読みました。有間皇子事件を見事に読み上げた奥麿の歌は持統天皇を感動させ、大宝元年の行幸では詔で歌を所望しています。高市連黒人も近江朝を偲び荒れた大津京を読んでいます。二人は行幸に従駕し、先々で歌を詠んだのでしょう。

長皇子は、天智帝の娘・大江皇女の嫡子です。人麻呂が歌を奉った皇子で、持統帝は行幸にも連れて廻るほど気に入っていたか、頼りにしていたのでしょう。(長皇子については、既に紹介しています。)

東国へはお気に入りの者を従えての行幸だったのです。

では、人麻呂は? 従駕していなかったのでしょうか。分かりませんが、持統天皇はこの行幸ですべてを成し遂げたのでしょうか。環幸の後、ひと月で崩御となるのです。旅は疲れるものですが、従駕した人々の歌を詠んでも、旅愁はありますが悲壮感など有りません。

前年の紀伊国行幸の意味深な歌とは違うのです。旅先で持統帝は元気だったのでしょうか。

旅から帰った十二月二日、「九月九日、十二月三日は、先帝の忌日なり。諸司、この日に当たりて廃務すべし」と勅が出されています。何とも、急な話です。十二月三日の前の日に出した勅で「次の日は仕事をするな」というのですから。

しかも、九月九日は天武天皇の命日ですが、十二月三日は天智天皇の命日なのです。急な勅は天武天皇のために出されたのではないでしょう。天智天皇の忌日のために出されたのです。すると、持統天皇の意思なのですね。

六日、星、昼に見る(あらわる) *星とは太白で金星のことです。太白が昼に現れるのは「兵革の兆し」とされます。

十三日、太上天皇、不豫(みやまいしたまう) *不豫とは天子の病気のことです

天下に大赦が行われ、百人が出家させられ、畿内では金光明経を講じられました。しかし二十二日、遺詔(いしょう)して「素服挙哀してはならない。内外の文武の官の仕事は常のようにせよ。葬送のことはできる限り倹約するように」と言い残し崩じられたのでした。

持統天皇は「仕事は怠るな。葬儀は簡単に」とは伝えましたが、その他の気がかりについては何も言ってはいません。東国行幸で全てやり通したというのでしょうか。

ですから、東国行幸が非常に気になるのです。その目的が…

               

 今回は、ここまで。またお会いしましょう。

 


別に編集された持統天皇の紀伊国行幸の歌

2017-10-26 22:21:27 | 67持統天皇の真意は何処に

持統天皇・もう一つの紀伊国行幸

持統天皇(太上天皇)と文武天皇(大行天皇)の紀伊国行幸を繰り返し取り上げてきました。この行幸の目的は「有間皇子の霊魂を鎮める儀式をするためだった」として巻九の紀伊國行幸13首(1667~79)を紹介しました。また、この有間皇子事件を目撃した額田王と事件そのものに関わった中皇命(なかのすめらみこと)の歌も紹介しました。

大宝元年(701)、持統天皇の紀ノ國行幸を万葉集は「大宝元年辛丑秋九月」と「大宝元年辛丑冬十月」として分けて掲載しています。九月とある歌は巻一に、十月とある歌は巻九と巻二(人麻呂の歌)に掲載されています。

思い出していただきましたか? 紀ノ國の美しい風景の中にひっそりとたたずむ万葉集の物語が、旅人の心を締め付けました。

さて、持統天皇は孫の文武天皇を立派な後継者にすべく、紀伊国に共に行幸しました。そこで語られたのは、有間皇子の物語です。十三首が順序良く「どのような事件だったのか、どの道を辿って最後の地(藤白坂)まで逃げ、どのような最後を遂げたのか」語られていました。ですから、同じ行幸でも目的が違う部分は分けて万葉集は編集されているのです。

巻九には「大宝元年辛丑冬十月、太上天皇大行天皇の紀伊国に幸す時の歌十三首」ときちんと括られて編集されていますので、十三首が他と混じることはないのです。

では、同じ大宝元年辛丑の九月の歌を読みましょう。これは、巻一にあります。

54 巨勢山のつらつら椿は咲いてはいないけれど、つらつら偲ぼうか。春の巨勢山に椿が咲いたその美しい春の野を。

季節は九月で秋なので、もちろん椿の花はありません。坂角人足は秋色に染まった山に春の景色を重ねて読んだのでしょうね。秋もいいけど、きっと春もいいよね、と。

55 麻裳で知られる紀伊の国の人は羨ましい。真土山をいつも見ていられるから。わたしは旅の行き帰りに見るのだが、紀伊国の人はいいなあ。

麻裳は紀伊国にかかる枕詞です。ヤマトから紀伊国に入る辺りに小さな真土山があります。ここを越えると紀伊国なのです。

56 河の辺りに咲くつらつら椿、その椿をつらつら見ても飽きることがないのだろうなあ、椿が咲く巨勢の春野は、きっと。

調首淡海も、春日蔵首老も紀伊國の土地をしきりと誉めました。旅に支障がないように行幸一行が何事も無く旅を続けられるように、従駕の者は土地を誉めながら奉仕していたのですね。土地を誉めることがその地の神々に祈ることでもあったそうです。

持統天皇と文武天皇の行幸は「有間皇子の霊魂を鎮める」ことが目的でしたが、もう一方では土地の神に旅の安全を祈りながらの旅でもあったのですね。旅で土地を誉める歌などを「羇旅歌(きりょか)」といいますね。

万葉集は羇旅歌と「紀伊国十三首」を別の巻に分けて編集しています。同じ行幸時の歌がこのように目的ごとに分けられている事は、ますます文武天皇を伴った紀伊国行幸が特別だったことを教えてくれます。

文武天皇は十分に理解したでしょう。だから、紀伊国に道成寺も建立したのでしょうね。