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天の香久山を詠んだ三人の天皇

2017-06-28 10:57:50 | 61万葉集時代の天地創造の神々

天の香久山を詠んだ三人の天皇

香具山は小さな山です。神代より信仰されていたようで、ヤマト攻略の時に香具山の土が使われました。香具山は藤原宮の東に在ります。藤原宮の北には耳成山。

耳成山は藤原宮のシンボルでした。なにしろ「耳に成す山」なのですから、〇〇ミミのように「耳」のつく大王がおられましたね。耳成山の麓に住む王こそ「大王」だったと云うことです。さて、藤原宮の西には畝傍山でしたね。

畝傍・耳成・香久山がヤマト三山です。では、天樫の丘は? 藤原宮の南にあるはずですが…

さて、天の香久山を詠んだ三人の天皇とは、もうご存知ですね。何度か紹介しましたから。

持統天皇と天智天皇と舒明天皇です。では、舒明天皇の歌を読みましょう。

舒明天皇の国見歌ですが、天の香具山から見渡す限りが舒明天皇の勢力圏であり、香具山こそが息長氏が神山とする氏族の山だったと詠めませんか。和風諡号は息長足日広額(おきながたらしひひろぬか)天皇となっています。

すると、天(アマ)氏には息長氏がつながり、タラシ系の王族だったということになりますね。そうしたら、子どもたちの和風諡号はどうなっているでしょうね。

既に紹介した中大兄(天智天皇)の三山歌覚えておられますか。

天智天皇の和風諡号は天命開別(あめみことひらかすわけ)天皇で、「天」が諡号に入っていますから、天氏には違いないでしょう。

持統天皇の和風諡号を見ると、高天原廣野姫(たかまのはらひろのひめ)天皇となっていますから、高天原で「天」の文字はひとまず入っています。

では、持統天皇の夫だった天武天皇の和風諡号を見ましょう。天渟中原瀛真人(あまのぬなはらおきのまひと)天皇でやはり「天」の字をおくられています。天智帝と天武帝の母の斉明天皇はどうでしょうね。

斉明天皇天豊財重日足姫(あめとよたからいかしひたらしひめ)天皇で、「天」の文字が入ります。すると、天地・天武の両天皇は、母の斉明天皇の血族として意識されていたことになりましょう。斉明天皇の同母弟の孝徳天皇は、天万豊日(あめよろずとよひ)天皇でした。明らかに、舒明天皇の系譜ではなく斉明天皇の系譜に意味があるようです。★と★、☆と☆は兄弟です。

欽明ー敏達★―押坂彦人大兄舒明ー古人大兄  

欽明ー桜井皇子★ー吉備姫女王・(茅渟王☆)ー皇極・(舒明☆)―天智・天武

父・舒明の系譜であれば、古人大兄が有力な後継者となるでしょう。天智・天武の皇位継承は母の系譜でつないだと云うことですね。それで、息長の文字を入れなかったと思うのですが…

天の香具山が詠まれた歌には、氏族の結束や系譜をしめす意味があったのですね。

では、持統天皇の「高天原廣野姫」にはどんな意味があるのでしょうね。

それは、また後日。


大巳貴こそ天地創造の神

2017-06-27 10:47:48 | 61万葉集時代の天地創造の神々

欅が素晴らしい府中の大國魂神社の参道です。

創立は景行天皇四十一年とされ、当時は武蔵国造が代々奉仕しましたが、大化改新によって武蔵国府がこの地に置かれたので、国司が国造に代わって奉仕するようになったと略誌に書かれています。

大國魂神社のご祭神は大国魂大神ですが、この大神は出雲の大国主神と御同神です。

大昔、武蔵国を開き、人民に衣食住の道を教え、また医療法やまじないの術も授けられたと伝わります。

 大國魂神社は国府が置かれた後国司が国造に代わって奉仕するようになり、管内神社の祭典を行う便宜上、武蔵国中の神社を集め祭祀を行って来たという経過があり、武蔵総社と云われています。

本殿の左右の相殿に神社六社を合祀したので、六所宮とも称せられています。

(西殿)

六ノ宮 杉山大神(神奈川県横浜市緑区西八朔208)

五ノ宮 金佐奈大神(埼玉県児玉郡神川町750)

四ノ宮 秩父大神(埼玉県秩父市番場町1-3)

(中殿)

             御霊大神

          大國魂大神

          国内諸神 

(東殿) 

一ノ宮 小野大神(東京都多摩市一ノ宮1-18-8)

二ノ宮 小河大神(東京都あきる野市二宮2252)

三ノ宮 氷川大神(埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407)

不思議なことに、ここには伊弉冉・伊弉諾尊も、天照大神も、八幡大神も神功皇后もおられません。地域の神々を祭祀しているからですが、此処ではもともと出雲の神を祀っていた、ここは出雲と深い関係があったから畿内につながりの深い神は祀られていないと云うことです。大化改新の頃の七世紀半ばの武蔵国の神は大国主でした。政治的には朝廷の支配を受けても、祭祀は僅かながら古代の形が残っているようです。

万葉集の時代、国土創生の神はオオナムチノ神でした。万葉集では、大汝、大穴道、於保奈牟知と書かれ、古事記では大穴牟遅、書紀では大巳貴と書かれ、大國主命、八千矛神などの別名もあります。

万葉集に詠まれた大巳貴神と少彦名神

詩歌の冒頭に「おおなむち少彦名」が詠まれています。その中で、大伴坂上郎女は「おおなむち少彦名の神であるからこそ、始めて名付けられた名を名兒山という、その名を負う名兒の山と聞いても、わたしが(都に置いて来た)我子を恋しく思う心、その心には千重の一重も慰めにはなりません」と、筑前国の名兒山を越える時、詠みました。兄嫁が大宰府で没したので、太宰帥の兄を支えるために都から筑紫に来ていた大伴坂上郎女が、都に帰る時に船を下りて名兒山を越えて宗形神社に旅の安全を祈りに行ったのでした。その時の歌なのです。

この歌で大事なのは「名付けそめけめ」です。名兒山と始めて名付けたのは、おおなむち少彦名神だったというのですから。その土地の神だからこそ山川の名をつけることができたのでしょう。

柿本人麻呂歌集の歌も同じです。「おおなむち少名御神がお造りになった妹山と勢山を見るのは、心から嬉しく良いものだ」和歌山県の妹山・勢山を作られたのは、おおなむち少彦名の神だというのです。*妹背山は若の浦の同名の小島を詠んでいるかも知れません。

万葉集の時代は、九州でも和歌山でも天地創生の神は、大巳貴命(大国主)だったのでした。

と云うことは、どういうことでしょう。

案外、大国主は我が国の隅々まで統治していたのかも知れません。それが、六・七世紀に統治者が変わる政治的社会的変化が起こったと、そう考えてもいいかも知れませんね。日本書紀やや古事記と若干のずれがありますが。

古代の神と祭祀は、朝廷の意向や、武士の台頭による祭祀の変更や祭神の入れ替え、さらに明治維新による合祀や祭神交代等により、もう今ではもともとの姿が分からなくなっていると思います。

しかし、府中市の大國魂神社は、はるかなる古代を少しだけ見せているかも知れません