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万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

おほきみの遠の朝廷とあり通う筑紫國

2018-02-27 21:12:21 | 73人麻呂歌集の謎を追う

おほきみの遠の朝廷とあり通う嶋門を見れば神代しおもほゆ

人麻呂が筑紫國に下る時に詠んだ歌ですが、あまりにも有名ですね。この歌を読みながら、人麻呂は筑紫に何をしに行くのだろうか、神代とは何時だろうか、「朝廷」とあるから伊弉冉や伊弉諾の神代ではなく、祖先の大王の神代であれば誰の王朝だろうか、とか様々に考えます。

それも、人麻呂個人が「大王の遠のみかど」と通っているのではなく、「通い続けている人々」が、「遥かに遠い大王の朝廷」と、そう思っているというのです。では、「遠のみかど=筑紫」に我が大王の朝廷があったということでしょうか。

「遠の」とは、距離の隔たりが大きい、時間の隔たりが大きい、心理的な隔たりが大きい、複合した思いでしょうね。

「大王の遠の朝廷」が人麻呂の旅の目的地で、そこは筑紫国。なかなか意味深な表現ですね。どんな歴史があったのでしょう。では、

古事記・日本書紀に筑紫はどのように書かれているか、です。

筑紫国*律令制での筑後国や筑前国の前、大化改新が行われる前にあった古代の国で、筑紫国造が治めていた。

日本書紀では、『筑紫国造』と書かれ、先代旧事本記「国造本紀」では、『筑志国造』と書かれる。

筑紫君の祖先は大彦命(8代孝元天皇の皇子)*安倍氏・膳氏・筑紫国造ら、7氏の祖。不思議ですね、安倍氏は関東で勢力を伸ばしています。しかし、筑紫ともつながっていた…何かありそうですね。この事について、わたしはもう一つのブログで追及していますが、ここでは煩雑になるので割愛します。

残念なことに、筑紫国の何処に行ったのか、何もわかりません。ただ、人麻呂の羇旅歌八首が万葉集に残されています。読んでみましょうか。行きと帰りの歌が八首並んでいます。

 とても狭い範囲が詠まれていますね。明石海峡を通り稲日野を見ながら、下って行ったのですね。

249番歌の「舟公宣奴嶋尓」には決まった読みがありません。①ふねこぐきみはのるかぬしまに ➁ふねこぐきみはかよふぬしまに ③ふねなるきみはうべなぬしまに ④ふなひとさわくみぬめのしまに などなど10例ほどあります。

上の八首のうちの四首に「一本に云うと紹介された歌」があります。こちらの方が後の人に読み継がれてようです。

天平八年、後の世の人・遣新羅使が誦詠したのでしょう、巻十五に「柿本朝臣人麻呂の歌に曰」と上の四首とほぼ同じ歌(3606~3609)が掲載されています。

伊藤博氏は「人麻呂内海行路の歌として一本歌四首がのちのちまで伝えられており、それが人麻呂原案系統に属することを保証しよう。」といいます。後の人にも人麻呂の歌として伝わったのは、この四首だというのです。

 

人麻呂は天平の時代も歌のヒジリとして、名を遺していたのでしょうね。

3609 武庫の海の にはよくあらし いざりするあまのつり船 なみのうへゆみゆ

武庫の海の漁場は風も潮の具合もいいらしい。漁をしている海人の釣舟が波の上に見えている。

 

人麻呂が当時の人々の憧れの歌人だったとしたら、暗誦されて誰もが知っている歌を書き換えるのは難しかったでしょう。と云うことは、人麻呂の歌は書き直されずにかなり残されたかも知れません。万葉集の「人麻呂歌集」は、「人麻呂作歌である」という研究成果が出されています。では、人麻呂の体験や考え、出くわした事件、当時の世相などかなり残された可能性もありますね。

天平八年(736)は、人麻呂の死からかなり立っているのですが、人麻呂の名も歌も伝説のように残されていたのですから。人麻呂歌集に、期待が高まります。そこに何が書かれているのか。

人麻呂は魅力的な人だったのですね。でも、その死は刑死だった…当時の人は、その事も承知していたのでしょう。それを承知で、人麻呂の歌を誦詠したのです。

では、人麻呂歌集も読みましょうね。


文武天皇が天子になった日の決意

2018-02-16 12:24:25 | 72文武天皇は元号を建てた

(持統天皇と文武天皇が暮らした藤原宮の址)

持統天皇は太上天皇として孫の軽皇子を支え続けました。

それは、文武天皇が15歳という若さで即位したからです。政務について知らないことが多いので、持統天皇の援助は不可欠だったのです。その文武天皇の歌は、万葉集には一首あるのみです。それも「或は御製歌」とされています。

万葉集巻一「大行天皇、吉野にいでます時の歌」

74 み吉野の山のあらしの寒けくに はたや今夜(こよひ)も我が独り寝む

文武五年(701)二月の吉野行幸時の歌です。

臣下が献上したとしても、天皇御製歌としても、非常にさみしい歌ですね。この時、文武天皇は二十歳くらいで血気盛んな若者だったでしょうに、吉野宮に遊びに来ても、家族や夫人たちはついてこなかったのでしょうか。

二月は春です。鳥は鳴き、花は咲き始めていたでしょう。しかし、風は寒い。そこに愛する家族がいて行幸の宴を楽しんだ…感じがしませんね。持統太上天皇も一緒ではありますが、御付きの華やかな女性もいなかったのでしょうか。

藤原不比等の娘の宮子が文武天皇の夫人でしたが、文武天皇の傍にはいなかったのでしょう。宮子が首皇子(聖武天皇)を生むのは、この年の十二月です。宮子も後宮に上がって五年も子どもを産めなかったのです。さぞや父や兄たちから責められたことでしょうね。

さて、文武五年の吉野行幸ですが、吉野にどんな目的があったのでしょうか。遊びというより、翌月の三月に建元するので、その準備だったのではないでしょうか。身を浄めていよいよ建元するのだという、儀式を成功させるために心の準備をしていたのではないでしょうか。

75 宇治間山 朝風寒し 旅にして衣かすべき妹もあらなくに

    右一首 長屋王(高市皇子の長子)

この行幸には、長屋王も同行していました。この時二十六歳で無位でしたが、歌は文武天皇と並んでいます。高貴な長屋王より先に歌が載せられているので、やはり、74番歌は天皇御製でしょうね。

文武天皇の吉野行幸は、二度の記録があります。文武5年=大宝元年と、大宝二年です。持統天皇が足しげく通った吉野に、文武天皇が出かけたのは、「天子」になる準備だった、それは持統天皇の願いだった、と思うのです。持統天皇も「朱鳥」の元号を試みますが続きませんでした。孝徳天皇も「大化・白雉」と元号を持ったようですが途切れました。今度こそ、文武天皇に天子の道を進んで欲しい、持統天皇は願った筈です。

 

文武天皇が天子になったのはそれは即位年ではなく、大宝元年です

そうです。当たり前のことですが、持統天皇が譲位して、確かに文武元年(697)に軽皇子が即位しました。しかし、元号を建てたのは、文武五年(701)三月で、大宝元年になります。はじめて元号を持ったのですから、ここで「天子」となったのでした。私年号と言われる「九州年号」は700年で終わっていますから、ここで、年号を建てる権利が移譲されたのかも知れませんね。

元号を持ってはじめて、文武天皇は天子となった

文武天皇は藤原宮で政務を取りました。しかし、持統太上天皇が崩御すると、藤原宮からの遷都が計画されるのです。大極殿もあり、朝堂院もあるのに何がいけなかったのでしょうね。天子の宮殿は北にあるべきという思想に合致していなかった、律令にふさわしい都ではなかったからでしょうか。

藤原宮は都の中心にありました。北に天子の宮殿がある中国の都城とは違っていたのです。

文武天皇は在位中忙しかったことでしょう。新しいことの連続でしたから。

律令を持ち、元号を持ち、銅銭を鋳造し、遣唐使を任命し、諸国を巡察させる、後は史書を持つこと。

文武天皇は天子として邁進しつづけました。そのために、病に倒れたのかも知れません。夫人となった藤原宮子は首(おびと)皇子を生むとマタニティブルーになったのか、閉じこもりました。吾子も抱けないほどの状況で、文武天皇には心配だったでしょう。

そんな文武天皇は難波宮にも行幸しています。

それも、何らかの儀式だったのでしょうか。過去の難波天皇への報告の儀礼だったのでしょうか。文武天皇の難波宮行幸は、律令に取り組む前と、律令を発布行使した後です。そこには大きな意味があったはずです。

行幸に同行した人たちには、その行幸の真の意味は伝わらなかったようですが。

わたしは、持統天皇が難波宮天皇の話を十分にしていたと思います。ですから、文武三年に難波宮を訪れたと思います。そこには、長く役所が置かれていましたから、学ぶべき事が沢山ありました。そこで、律令についても学んだことでしょう。

文武天皇は懐風藻に残された漢詩の如く、天子として自分を律しながら生きた人でした。

余りに理想を求めて、体を壊したのだと思えてなりません。胸のそこで、父と母の言葉をかみしめながら、祖母の言葉を指針にしていたことでしょう。しかし、二十五歳の若さでの崩御でした。

この文武天皇を失ったとき、母の阿閇皇女はどう思ったでしょうね。やはり、その意思を継ぐべきだと考えたのではないでしょうか。

だから、涙をのんで阿閇皇女は即位したのでした。

また、次回に。


万葉集と書紀の食い違う記述・麻績王には如何なる罪があったのか

2018-02-02 13:16:38 | 71麻績王・万葉集と食い違う正史の記述

 

万葉集巻一23、24・番歌の麻績王(をみのおほきみ)とは何者か

 

麻績王にはいかなる罪があったのか・人が同情したのはなぜか

 

 

23 打ち麻(そ)を 麻績王 白水郎なれや 伊良籠の島の玉藻刈ります

 

24 空蝉の 命を惜しみ浪にぬれ 伊良麌の島の玉藻刈り食(お)す

 

巻一「明日香浄御原天皇代」に在るこの歌は不思議です。麻績王(をみのおほきみ)が伊良麌(いらご)の島に流罪になった時の歌で、物語のように掲載されています。それも、周囲はこの麻績王に深く同情しています。しかも、書紀と万葉集では流された場所が異なるのです。

 

「明日香浄御原天皇代」の歌は六首で、うち三首が天武天皇の歌、一首は「十市皇女が伊勢に参詣する時の吹芡刀自」の歌です。ですから、ここに天武朝と何のかかわりもない人の歌が掲載されたとは考えにくいのです。が、麻績王がどんな人物か、その罪科が何かも分かりません。後の世の人も分からなかったのか、左注に説明があります。

 

左注によると「三位麻績王」ですから、決して低い身分ではありません。一子は伊豆の島に、一子は血鹿の島(五島列島)に流されていますから、子ども達は遠流(おんる)になります。父親より罪が重いのです。すると、吾子の罪により麻績王も流罪になったというのでしょうか。

 

 

 

また左注には、書紀を調べたことが書かれています。確かに「天武四年乙亥(675)に麻績王の記事があります。「(天武四年)辛卯に、三位麻績王、罪あり、因幡に流す。一子は伊豆の島に流し、一子は血鹿の島に流す」

 

因幡(いなば)と伊良麌(いらご)は別の土地です。地名が混同したのは、この歌が詠まれた時期が天武四年より後の時代だったからでしょうか。すると、麻績王の話がずっと残されていたことになります。歌枕としての「伊良麌の島」は、渥美半島にあります。当時は、志摩国はまだ成立していなくて、志摩半島から渥美半島の海上の島々は全て伊勢国に属していたそうです。ですから、対岸の伊良湖岬にちなんで「伊良麌の島」と歌に詠んだと云うことです。

 

また、書紀では因幡ですが、「常陸国(ひたちのくに)風土記」では、『行方郡板来村の西の榎木林に居らせた』と書かれています。流刑地が三か所もあると、異伝が残るような事件だったのでしょうか。麻績王の出自に関しては、大友皇子、美努王、柿本人麻呂などの諸説があるそうで面白いですね。

 

わたしは、万葉集の歌の掲載順が気になります。万葉集は事件を暗示する時、原因と結果が歌によって示されることがあるからです。23・24番歌の前は22番歌ですが、十市皇女が伊勢に参赴する時の歌です。伊勢? 確か、伊勢には麻績神社があります。麻績氏は忌部氏とも関係が深く、麻績王は神官の家系だったのかも知れません。

 

万葉集と日付けの干支が違いますが、天武四年に何があったのでしょうか。

 

では、万葉集巻一・22番歌をよんでみましょう。

 

 

何とも切ない歌ですね。十市皇女は当時28歳くらいでしょうか。額田王と大海人皇子の間に生まれた皇女でした。母の額田王について天智天皇の近くにいたからでしょうか、大友皇子の妃となり、将に皇后になるべき位置にいたのですが、壬申の乱で夫を失い、傷心の内に父・天武帝の元に子連れで戻っていたのでした。そこで、妹の大伯皇女が斎宮になっている伊勢に参赴したのです。目的は何でしょうね。

 

傷心の十市皇女を慰め、心の傷から立ち直らせるためだったと、神力で再生して別の男性に嫁がせるためだったと、わたしは思います。

 23・24番歌の前の22番歌「伊勢神宮に参赴する十市皇女のために詠んだ吹芡(ふふき)刀自の歌」

22川のべの ゆつ岩群に 草むさず 常にもがもな 常乙女にて

 もう何も知らなかった乙女に戻ることはできません。十市皇女は辛いことまで知り過ぎましたから。でも、天武天皇は、「何もかも忘れて、もう一度幸せになってほしい」と願っていたはずです。伊勢から戻った十市皇女を、事もあろうか高市皇子の妃にしたのです。夫の大友皇子を死に至らしめた壬申の乱の総大将の妃にしたのです。どう考えても、現代の私たちには十市皇女が幸せになるとは思えません。当時の男性にはその事が分からなかったのです。「女性は何度でも生まれ変わってくれる」とでも、思っていたのでしょうか、天武四年の頃。

十市皇女の伊勢参赴は2月で、麻績王の流罪は4月です。二つの出来事は無関係でしょうか。麻績王が伊勢にいたのなら、接点は十分にあります。

この後、心の傷も癒えない十市皇女は苦しみ続け、天武七年(678)四月、皇女は自殺します。皇女を支えきれなかった高市皇子も苦しみ、万葉集に挽歌を残しています。

 

では、麻績王の物語と十市皇女の伊勢参赴が並べられている理由

この事を考えようとすると、十市皇女の姿が脳裏をよぎります。23・24番歌は、持統天皇が伊勢に行幸した時に奉られた歌でしょうか。そうであれば、十市皇女も高市皇子もすべてこの世の人ではありません。だから、古を偲び伊勢に関してみんなが知っている出来事を歌にしたと云うことです。

あの時、麻績王は十市皇女のために様々な祈祷を行われたではないか。王の男子二人も心から皇女を助けようとされた。しかし、それも空しく皇女はお元気にはなられなかった。むしろ、過去の苦しみと向き合い苦悩は深くなられた。麻績王はその事で、流罪になられた。むごいことだと、わたしたちは、いまだに麻績王を偲んでいる。あの方の優しくも穏やかなふるまいを忘れることはない。 

23 打ちそを 麻績王 海人なれや 伊良麌の島の 玉藻刈ります

24 うつせみの 命を惜しみ 浪にぬれ 伊良麌の島の 玉藻刈り食す

人の世は、決して甘くはありません。どんなに身分が高くとも、そのことで幸せになることはないのです。

麻績王は穏やかな方でしたが、王の一生を思うとお気の毒ですと、万葉集は語っていると思うのです。

貴方は、どう読みますか?