24 有間皇子事件の容疑者を特定
誰が皇子に追っ手を向けたのか?
誰でも知っていますよね。
書紀にも「天と赤兄と知らむ。吾全ら解らず(あれ、もはらしらず)」と書かれています。天(中大兄)と赤兄(蘇我氏)が有間皇子を罠にはめたのです。
中大兄の尋問に答えたのが11月9日で、絞殺されたのは11日でした。
「丹比小沢連国襲を遣わして、有間皇子を藤白坂に絞らしむ」とありますから、国襲は官の命令で行動したのです。
牟婁の湯からの帰り道でした。皇子に従っていた忠臣達も藤白坂に斬られました。
塩谷連鯯魚(このしろ)(塩谷連は葛城曾都比古命の後という)は、誅殺に臨んで「願わくは、右手をして国の宝器を作らしめよ」と言ったそうです。意味不明とされています。
意味不明? ホントにそうでしょうか?
彼は孝徳天皇の優秀な官人でした。
塩谷連鯯魚が右手でする仕事なら、「律令国家の行政」の仕事、それ以外考えられません。
彼は有間皇子の下で官吏として働き、行政の仕事をしていたのです。そのやりがいのある仕事を続けたかったと言ったのです。彼は有間皇子と律令の作成に励んでいたのでしょう。
しかし、空しく刑場の露と消えた……
有間皇子と近習の舎人や官人の最後の様子は、若年皇族の若さゆえの謀反事件に思えないのです。
では、紀伊国行幸の12首目を読んでみましょう。
1678 紀伊国の 昔弓雄(むかしさつお)の鳴り矢持ち 鹿取り靡し 坂の上にぞある
そのむかし、紀伊國で名をとどろかせた弓雄が、鳴り矢を持ちいて鹿を狩って一帯を平らげた、その坂の上であるぞ。(鹿を退治して辺りを平定したという坂の上だぞ)
有間皇子事件がそのまま詠まれています。
鹿を退治することが、平定と同じことなのです。巻九の「紀伊国行幸十三首」のおおづめ、行幸のテーマが詠まれ、有間皇子の無実を確認しているのです。
更に、巻九の冒頭歌を引き出します。
1664 ゆうされば 小掠の山に伏す鹿は今夜は鳴かずい寝にけらしも
冒頭で暗示された鹿の死が、ここで確認されました。
その鹿は政権のトップだったか、そこに近い立場でした。
だからこそ、鹿を殺したことが、天下を平定したことになるのです。
それを、12首目は見事に詠みあげました。
有間皇子に娘が残されていたとしたら、どうなると思いますか。
大王の血を引く女性だということですからね。
また、悲しい物語になるのでしょうか。
まだ、紀伊国行幸は1首残っています。
また明日。