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万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

33 天智天皇は自由奔放だった?

2017-03-03 19:50:15 | 32天智天皇を愛した額田王

33  天智天皇と鏡王女

 

鏡王女の墓は、舒明天皇のすぐそばに在ります。

舒明天皇の陵墓の前を通り抜けると、

目の前にこんもりした塚(円墳)が見えます。

 

鏡女王と名が見えます。

そこにあの有名な天智天皇との相聞歌の説明板があります。

中大兄皇子の時代に賜った歌です。

91 妹が家も継ぎて見ましを やまとなる大嶋の嶺に家もあらましを

愛しい貴女の家を続けてずっと見ていたい。やまとの大嶋の嶺にわたしの家があったらいいのに。あなたの家をずっと見続けられるから。

92 秋山の樹の下隠りゆく水の吾こそ益さめおもほすよりは

秋の山のふり積もった落ち葉の下を隠れるように流れていく水のように、水はだんだん流れとなり大きくなっていくのですが、その流れのようにわたくしの思いの方が大きくまさっております。殿下が思って下さるよりも。

二人の蜜月はどのくらいあったのでしょう。中大兄は額田王に心惹かれていきました。

額田王の「488我がやどの簾動かし」の歌があります。続いて、鏡王女の歌、

489 風をだに恋ふるはともし 風をだに来むとし待たば何か嘆かむ

おいでになったと思ったのが風だったのですね。でも、風だったにしてもお出でになるかも知れないと思って待っているのですもの、とても幸せなことではありませんか。わたくしは風が吹いてもあの方が来られたと思う事は、ありませんから。

そうして、中大兄は鏡王女を藤原鎌足に賜うのです。その時の王女の思いが万葉集に残されています。

489番の王女の歌は、「鏡王女の作る歌」となっていますが、92番歌は、「鏡王女和して奉る御歌一首」とあり「御歌」です。これは、鏡王女が皇族だった可能性を示唆しています。

王女の陵墓が舒明天皇の横ですから、舒明天皇の皇女だったのかも知れません。中大兄皇子の異母兄弟として妃になっていたのかも知れません。

皇女であったからこそ、臣下の鎌足に嫁ぐことは意に沿わないことだったのでしょう。

しかし、鎌足の室となった王女は藤原氏に尽くしたのでした。

 


32 額田王が分かるページ

2017-03-02 09:48:44 | 32天智天皇を愛した額田王

額田王は天智天皇を愛した

そうですよね。若い時は大海人皇子(天武天皇)を愛した額田王でしたが、最後まで仕えたのは天智天皇でしたね。

額田王は政治的な女性

更に、額田王は恋多き女性だったのでしょうか。

美女だったようですが。

万葉集にも額田王の恋の歌はあります。恋の相手は天智天皇です。巻四と巻八に。

額田王、近江天皇を思いて作る歌一首

488 君待つと吾が恋おれば我がやどの簾(すだれ)動かし秋の風吹く

*巻八1606は、巻四488と同じ題詞で同じ歌

あなたが何時お出でになるかと待っていると、わたしが恋しく思っているからでしょうか、わたしの館の簾を動かして秋風が吹いてきました。簾をうごかしたのは、あなたではなかった…

 

(斉明天皇の川原宮跡・天智天皇はここで母の葬儀をした)

万葉集中の額田王の歌は、78916171820112113151155488・(1606)の13首のうち1首は重複してるので、12首。

 

7は、額田王(兎道若郎子の京を歌った・悲運な皇太子を暗示

 

8は、額田王(百済救援軍として熟田津を就航する時の歌

 

9は、紀温泉に幸す時に額田王の作る歌(有間皇子事件当時の詠歌

 

8は、斉明天皇御製歌とも「類聚歌林」にかかれているという。天皇に代わって額田王が歌を詠んだと云われているのです。いずれも斉明天皇の時代の歌です。額田王は若かったのに、上の三首は恋愛とは関係ないようですね。

 

 16は、天皇、内大臣藤原朝臣に詔(みことのり)して、春山の万花の艶(にほい)と秋山の千葉の彩(いろ)とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王が歌をもちて判(ことわ)る歌(天皇の詔で判定する歌

 

17は、額田王、近江の国に下る時に作る歌、井戸王、すなわち和ふる歌(近江遷都の時の詠歌

 

18は、17の反歌

 

20は、天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に、額田王が造る歌(天皇の宴席での詠歌

 

 16は、非常に文化的な内容での天皇の詔です。春と秋のどちらが優位なのかを、額田王が判定するのです。次は、遷都の時の詠歌と「類聚歌林」に書かれているので、公的な詠歌です。その次も、天皇の前で詠んだもの。額田王は、立場的に公の場で活躍していたと言えます。常に政治の表に立っていたのです。

112は、額田王、和(こた)へ奉る歌一首・倭京より進(たてまつ)り入る(弓削皇子に奉る歌

113は、吉野より蘿(こけ)生す松が枝を折り取りて遣(おく)る時に、額田王が奉り入るる歌一首(弓削皇子に奉る歌

年を取った額田王に若い皇子が様々に問いかけたのでしょう。公的な舞台から身を引いても、若い皇子に頼りにされる存在だったことが分かります。学識経験者として、政治的相談役だったのでしょうか。

151は、天皇の大殯(おほあらき)の時の歌二首(天皇の葬儀の挽歌

155は、山科の御陵より退り散くる時に、 額田王が作る歌一首(天皇の葬送儀礼の挽歌

上の二首は、天智天皇の葬送儀礼の時の挽歌です。倭姫皇后や石川夫人(蘇我石川麿の娘の姪娘)と共に、額田王の挽歌も残されています。額田王の488番歌を見ると近江天皇に愛された女性だったと分かります。しかし、

額田王は天智天皇の嬪や夫人としての記述はありません。では、天智朝では、どんな立場だったのか。それは、後の時代の内侍などのような、政治的な女官でしょうか。女性の任官記事がないので、何とも言えませんが、額田王の歌はかなり政治的ですね。

 では、天智天皇の挽歌(崩御と葬送儀礼に関わる歌

 

額田王は斉明天皇の傍近くで歌を詠みました。万葉集巻一の7番「あきの野の美草刈葺き…」8番「にぎた津に船乗りせむと…」9番「莫囂圓隣之大相七兄爪謁氣…」の三首がありました。斉明天皇の傍に居た時の歌となっています。ただ、7番歌が詠まれた時期をそのまま認めると、額田王は十一歳くらいになるので、詠歌時期に疑問が生じると言います。

わたしは額田王は優秀な女官だったと思うのです。紫式部や清少納言のような学問を身に着けた女性だったと。女官として公的な場に出て歌を詠んだと思うのです。

もちろん、身分がなけれが学問を身に付ける余裕はありませんから、裕福な王族の娘だったのです。その美貌と知性で斉明天皇に愛され後を承け継いだ天智天皇に仕え、最後まで女官の仕事を全うしたと、思うのです。

そんな額田王が晩年になって、すべてを無くした人なのに、何ゆえに粟原寺を建立したのかということです。彼女が最後まで仕え愛したのは天智天皇でした。なのに、寺は草壁皇子の菩提を弔うための造営でした。天武天皇の皇子の菩提です。なぜ、草壁皇子なのか?

これが、わたしが万葉集の謎を解くカギのひとつとなりました。

あなたは額田王をどんな女性に描きますか?

また明日