30額田王へ歌を贈った弓削皇子の思いは?
弓削皇子は天武天皇と大江皇女の皇子でした。
大江皇女は天智天皇の娘です。壬申の乱後に、天智天皇の皇女はことごとく天武天皇かその家族の皇子の妃や室となりましたから、大江皇女も例外ではありませんでした。大江皇女は長皇子と弓削皇子を生みました。
弓削皇子は兄の長皇子を慕いました。二人は仲の良い兄弟だったのです。
そんな若い弓削皇子は額田王を頼りにもしていたのでしょう。額田王は祖父(天智天皇)の葬送儀礼の最後まで仕え忠誠を尽くしていましたし、信頼できる女性だったようです。
持統天皇の吉野行幸に従駕した時、弓削皇子が額田王に贈った歌
いにしへに 恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡りゆく
昔を懐かしむ鳥でしょうか。ユズリハの茂る御井の上からそちらに鳴きながら飛び渡っていきましたよ。もしかしたら、貴女ののように昔を恋しく思っているのでしょうか。
額田王にとっての「いにしへ」は華やかだった宮廷につかえた頃でしょうか。
弓削皇子は「あなたもあの頃が懐かしいのではありませんか?」と尋ねたのです。額田王の反応を見ようとしたのかも知れません。
額田王は答えました。
いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥 けだしや鳴きし吾が念へるごと
いにしへを恋しく思う鳥は、それは霍公鳥でしょう。その鳥もきっと懐かしそうに鳴いたのでしょうね。わたしが心の内に思っているように。
この返事に弓削皇子は心を開いたのでしょうか。平安時代の貴族のように木の枝に文を結んで額田に歌を贈ったりしています。こころを通わした若い皇子との文通はどんなにか額田王を慰めたことでしょう。
天智天皇の葬儀(671)のあとに壬申の乱(672)、太政大臣(大友皇子)の妃であった娘(十市皇女)をつれて飛鳥に戻ったのに、敵将の高市皇子の妃となった十市皇女の突然死(自殺か事故死)、額田王を襲った不幸の数々は「古を恋ふる」ようなものではなかったのです。むしろ思い出したくもないことだったでしょう。
晩年は額田は多武峯の粟原に籠り、ひたすら寺の建立に努力したのでしょうか。粟原寺の塔に露盤を上げた時、孫の葛野王(705没)も持統天皇(702没)も弓削皇子(699没)も高市皇子(696没)も既にこの世の人ではありませんでした。
弓削皇子の没年の699年は、文武天皇三年です。弓削皇子は文武天皇の立太子に異議を申し立てました。草壁皇子の長男(文武天皇)より兄の長皇子の方が、次の天皇にふさわしいと思ったのでしょう。しかし、それを葛野王(額田王の孫)に叱責されたのでした。弓削皇子にすれば兄は天武帝の皇子なのですから、当然のことを述べたのでしょうが。そのためか、何があったのか、弓削皇子は短命でした。
皇子も自分の短命を予感していたのでしょうか。
滝の上の三船の山に居る雲の常に在らむと我が思はなくに
吉野の滝の上に見えている三船の山の上に雲が浮かんでいる。その雲は常にそこに浮かんでいるものではないように、命さえ同じように何時もあるものとわたしは思わないのだ。
兄思いの優しく魅力的な皇子だったようです。
また明日