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万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

30額田王へ歌を贈った弓削皇子

2017-02-28 17:37:20 | 30 額田王へ歌を贈った弓削皇子

30額田王へ歌を贈った弓削皇子の思いは?

弓削皇子は天武天皇と大江皇女の皇子でした。

大江皇女は天智天皇の娘です。壬申の乱後に、天智天皇の皇女はことごとく天武天皇かその家族の皇子の妃や室となりましたから、大江皇女も例外ではありませんでした。大江皇女は長皇子と弓削皇子を生みました。

弓削皇子は兄の長皇子を慕いました。二人は仲の良い兄弟だったのです。

そんな若い弓削皇子は額田王を頼りにもしていたのでしょう。額田王は祖父(天智天皇)の葬送儀礼の最後まで仕え忠誠を尽くしていましたし、信頼できる女性だったようです。

持統天皇の吉野行幸に従駕した時、弓削皇子が額田王に贈った歌

いにしへに 恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡りゆく

昔を懐かしむ鳥でしょうか。ユズリハの茂る御井の上からそちらに鳴きながら飛び渡っていきましたよ。もしかしたら、貴女ののように昔を恋しく思っているのでしょうか。

額田王にとっての「いにしへ」は華やかだった宮廷につかえた頃でしょうか。

弓削皇子は「あなたもあの頃が懐かしいのではありませんか?」と尋ねたのです。額田王の反応を見ようとしたのかも知れません。

額田王は答えました。

いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥 けだしや鳴きし吾が念へるごと

いにしへを恋しく思う鳥は、それは霍公鳥でしょう。その鳥もきっと懐かしそうに鳴いたのでしょうね。わたしが心の内に思っているように。

この返事に弓削皇子は心を開いたのでしょうか。平安時代の貴族のように木の枝に文を結んで額田に歌を贈ったりしています。こころを通わした若い皇子との文通はどんなにか額田王を慰めたことでしょう。

天智天皇の葬儀(671)のあとに壬申の乱(672)、太政大臣(大友皇子)の妃であった娘(十市皇女)をつれて飛鳥に戻ったのに、敵将の高市皇子の妃となった十市皇女の突然死(自殺か事故死)、額田王を襲った不幸の数々は「古を恋ふる」ようなものではなかったのです。むしろ思い出したくもないことだったでしょう。

晩年は額田は多武峯の粟原に籠り、ひたすら寺の建立に努力したのでしょうか。粟原寺の塔に露盤を上げた時、孫の葛野王(705没)も持統天皇(702没)も弓削皇子(699没)も高市皇子(696没)も既にこの世の人ではありませんでした。

弓削皇子の没年の699年は、文武天皇三年です。弓削皇子は文武天皇の立太子に異議を申し立てました。草壁皇子の長男(文武天皇)より兄の長皇子の方が、次の天皇にふさわしいと思ったのでしょう。しかし、それを葛野王(額田王の孫)に叱責されたのでした。弓削皇子にすれば兄は天武帝の皇子なのですから、当然のことを述べたのでしょうが。そのためか、何があったのか、弓削皇子は短命でした。

皇子も自分の短命を予感していたのでしょうか。

滝の上の三船の山に居る雲の常に在らむと我が思はなくに

 吉野の滝の上に見えている三船の山の上に雲が浮かんでいる。その雲は常にそこに浮かんでいるものではないように、命さえ同じように何時もあるものとわたしは思わないのだ。

兄思いの優しく魅力的な皇子だったようです。

また明日


29額田王の終焉の地・粟原寺

2017-02-28 11:06:26 | 29 額田王の終焉の地・粟原寺

29額田王の終焉の地と伝わる粟原寺

 

粟原寺跡は美しい集落の背後の山にあります。

坂道を登っていくと石碑が立っていました。

粟原寺跡の隣に神社がありました。多武峯村大字粟原という土地であることが分かります。

 

粟原寺の建立に関するいきさつは、国宝となっている「粟原寺三重塔露盤の銘文」に書かれています。その事は後日とりあげましょうね。

この地で額田王は弓削皇子(天武帝の皇子)と歌のやり取りをしたのでしょうか。

 

 額田王は何と答えたのでしょうか。それはまた後で。


28 額田王も詠んだ宇治のみやこ

2017-02-27 20:04:57 | 28額田王が詠んだ宇治の都

28 宇治の都を詠んだ額田王

万葉集の女流歌人、額田王。その美しさと知性は大海人皇子の心を射止め、十市皇女の母となったのでした。万葉集でも巻一の7,8,9番歌は額田王の作となっています。 

 

その最初の歌が、「宇治のみやこ」の歌です。宇治若郎子につながるような歌を額田王も詠んでいたのです。人麻呂の「宇治若郎子の宮処」と「宇治のみやこ」二つの歌の『宇治』にはどんな共通点があるのでしょうか。

額田王の歌(または皇極上皇の歌ともいう)

7 金野の 美草刈葺き やどれりし 兎道の宮子の かりほし念ほゆ

 あきののの みくさかりふき やどれりし うじのみやこの かりほしおもほゆ

「金」とは秋のことです。中国の五行説に基づいて秋を表した文字です。

秋の野で草を刈り取って屋根を葺き、仮廬をお作りになって、あの方が宿となさった、あの宇治の都の仮廬をずっと思い続けている。

額田王が詠んだ宇治の宮子とはどこでしょう。

宇治に都があったことはなく場所は不明です。たぶんいずれかの天皇の行宮があったのだろうとされています。(ただ、都という場合は極位についた方の宮殿のある場所ですから、何処でも都というわけにはいかないでしょう。)

宇治若郎子に所縁の宮であれば、額田王も皇子の悲劇を詠んだと思われます。有間皇子を宇治若郎子に擬して、牟婁温泉に護送された時に草を刈り取って仮廬とした、あの悲劇の旅を詠んだのだとしたら、どうでしょう。

すると、歌の意味も変わりますね。…秋が来ると私は思い出す…となるのです。

あの秋の出来事、もう寒くなっていたのに野宿のために草を刈り仮廬の屋根を葺かれた、高貴な方にはお辛い旅の宿であったろうに。秋になると、宇治の若郎子のように命を絶たれたあの方の、最後の宮室であった仮廬を思い出してしまう。

あの方らしく凛々しかったというご最後、あの方のことは生涯忘れることはないだろう。「仮廬しおもほゆ」とは深い感慨を持って偲ぶことです。

額田王がこのように詠んだとしたら、額田王はどういう人生を歩んだというのでしょうか。天武天皇(大海人皇子)の皇女を生みながら、天智天皇に仕え、天智天皇崩御後の葬送儀礼の最後まで務め、壬申の乱後は娘(十市皇女)と飛鳥へ戻ったという人です。

「宇治のみやこ」の歌には、額田王の思いが溢れていると思います。

そして、額田王も有間皇子を偲んだのです。

額田王の終焉の地と伝わる粟原寺(おうばらじ)の後です。

額田王は、何故かこの寺を草壁皇子の菩提を弔うために藤原大嶋の意志を継いで建立しました。

この話は、また後で。

付け加えです。

上記の歌には「山上憶良大夫の類聚歌林にただすに」として、「一書には戊申の年に比良の宮に幸す時の大御歌という」とあります。大御歌とは、天皇の歌と云うことです。額田王の歌には「或は天皇の御製歌」と脚注がついている歌が三例あるのです。伊藤博の「万葉集釋注」によると、万葉集中には四例しかないのに、そのうち三例が額田王の歌なのです。額田王が斉明天皇の傍近くに居たということなのでしょうか。

また、万葉集釋注によると、『「思ほゆ」で結んだ回想の歌の最古の例である。(略)過去の想い出を歌材にして、「思ほゆ」と力強く据えた作は、この歌がはじめてである。』ということです。

人麻呂の歌には「大王の遠の朝廷とあり通う嶋戸を見れば神代し思ほゆ」とおもほゆが使われていますよね。

更に、この歌を詠んだ時の額田王の年齢ですが、孫の葛野(かどの)王が大宝元年(701)に三十七歳であったことから逆算して、歌が詠まれた大化四年の額田王は十八,九歳だったことになるそうです。すると、十市皇子を生んだ後ぐらいですかね。

となると、この歌は大化四年ではなく、やはり有間皇子事件の後と考えたがいいかなあと思うのです。

では、また

 


27 柿本人麻呂が詠んだ宇治若郎子

2017-02-27 17:27:16 | 27柿本人麻呂が詠んだ宇治若郎子

27 人麻呂が宇治若郎子の宮跡を訪ねて詠んだ歌

 

巻九の「挽歌」の冒頭に、人麻呂歌集の五首が置かれています。

 人麻呂歌集の歌は、人麻呂自身の作歌だという研究成果があります。

万葉集・巻九の挽歌の冒頭歌

大宝元年(701)紀伊國行幸は、巻九にありました。冒頭から有間皇子を偲ぶための編集になっていました。

同じく巻九の挽歌の冒頭の五首は、「右五首は、柿本朝臣人麻呂の歌集に出る」と説明されています。もちろん、人麻呂自身の歌です。

『宇治若郎子の宮所の歌一首』と『紀伊国に作る歌四首』のあわせて五首です

 

宇治若郎子の宮所を詠んだ人麻呂 

宇治若郎子の宮所の歌一首

1795 妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬待つの木は古人見けむ

いもらがり いまきのみねに しげりたつ つままつのきは ふるひとみけむ 

愛するあの子のもとへ「今来た」という意味になる今木の嶺に、茂り立っている松の木は、嬬(つま)を「待つ」という意味の松の木であろうが、此処に住んでいた古人もこの松を見たのであろうか。

おや?

宇治若郎子は仁徳天皇の弟でしたね。

応神天皇の末子で、仁徳天皇と極位を譲りあった末に自ら命を絶つという悲劇の人。有名な自殺した皇太子の話でしたね。そして、此処には松が詠まれているのです。

これは、挽歌の冒頭です。

仁徳天皇の弟の宇治若郎子の宮所とは、何処でしょう。仁徳天皇は時代がかなり上り、日本書紀の記述で見ると4世紀となります。卑弥呼の少し後の時代です…? 

人麻呂はそんな古い時代の宮所の松を詠んだのでしょうか?

宇治若郎子自身の歌は日本書紀にも万葉集にもありません。

書紀によると、宇治若郎子は皇太子でしたが即位せず、三年間も兄と極位を譲りあい、ついに亡くなったのです。不自然でしょう。

この物語を踏まえて、人麻呂は「宇治若郎子の宮処」の歌を詠んだのです。ここに挽歌の意図が込められているのです。三百年以上も前の話を歌に詠んでも構わないと思うのですが、ここは挽歌です。いにしえの皇子のために挽歌を詠むには、無理があります。

人麻呂は具体的に誰かのために詠んだのです。

誰のために?

皇太子でありながら即位できなかった。身内により皇位を奪われた皇子である宇治若郎子。誰かに似た状況ではありませんか。そう、有間皇子に、よく似ています。

有間皇子事件を宇治若郎子になぞらえて、人麻呂は挽歌に詠んだのです。

ここは、あの方がお住まいになっていた宮処だが、もうあの方はおられない。今木の丘に松が茂り立っている。愛しい人の許へ来たという「今来」という名は今となっては空しいが、今木の丘の上に……。松の木さえ、あの方を「いつまで待つ松の木」であろうが、あの松をあの方もごらんになったのだ。

(宇治若郎子・兄のために自ら命を絶った悲劇の皇太子。ああ、あの方の運命に似ているが、松を見るとあの方を思い出す。)

宇治若郎子は、難波天皇(仁徳天皇)の弟です。歴史上に難波天皇はもう一人おられます。それが、 有間皇子の父君・孝徳天皇です。難波天皇というキーワードが、宇治若郎子と有間皇子をつなぎました。どちらも理不尽にも命を奪われた皇太子として。

人麻呂は十分に意識して、宇治若郎子の宮所を詠んだのでした。

 また明日

 


26 持統天皇から文武天皇への遺言

2017-02-24 16:04:52 | 26持統天皇から文武天皇への遺言

26 持統天皇から文武天皇への遺言

巻九の冒頭歌で、鹿の死が暗示されました。

巻九は、白玉と愛する者の別れを暗示しました。

そうして、大宝元年の十三首がはじまりました。

一首目は、白玉の歌。巻一の中皇命の歌(12)も思い出させます

白崎では、必ず帰って来る、帰って来たいと歌を詠んで、有間皇子の無念の思いを鎮め慰めました。

すぐに帰って来る、釣する海人を見て来るようなものだから、何も心配しないで待っているようにと、皇子は言ったのに。

無情にも、皇子は二度と還らぬ人となってしまいました。あの時、泣きはらして浜を彷徨った美しい人、あの人は誰だったのだ…

太上天皇の詔に応えて、長忌寸意吉麻呂は四十年経っても忘れられない悲しさを詠んだのでした。

持統天皇一行は帰路につきました。帰りに通り過ぎた出立の松原。別れの悲しさがよみがえるけれど、通り過ぎて行くだけでした。

皇子の最後の地、藤白坂で涙をふいたのは持統天皇にちがいありません。

紀伊国から倭に入る時も、皇子を偲んで竹葉の廬に宿ったのでした。

紀伊国行幸の鎮魂の儀式が、この歌に集約されています。有間皇子は政敵の罠に落ちた。皇子の死によって政変は成功したと、皇子の無実を詠んだのでした。

持統天皇は妻の杜の神に「止まず往来」を誓いました。

晩年の太上天皇の誓いは実行されませんでした。翌年の崩御だったからです。代わりに「やまず往来」を守ったのは文武天皇でした。

紀伊国はあの方の形見の地である。貴方は紀伊国を忘れてはなりません。

文武天皇と姉の元正天皇が紀伊国に手厚くはからったことは言うまでもありません。

 また明日


25 持統太上天皇紀伊国行幸最終歌

2017-02-23 10:46:35 | 25持統天皇紀伊国行幸最終歌

25 持統天皇の紀伊国行幸最終歌

持統太上天皇はどんな歌で紀伊国行幸を終わるのでしょう。

有間皇子の形見の地を辿った鎮魂の旅の最終歌です。

行幸の人たちは、ほっとした気分で紀伊國に別れを告げたのでしょうか。

1679 紀伊国に止まず往来む 妻の杜 妻よし来せね 妻と言いながら

(紀伊の國に やまず通わむ 妻のもり 妻寄しこせに 妻と言いながら)

これからも紀伊国にはずっと休まず通って来たい。妻の社の神よ、妻を連れて来てください。妻と言う名を持っておられるのだから。

「止まず通わん」と云っているのは老女帝です。次の年の崩御ですから、本人も先が長くないことくらいは承知しているはずです。それでも「止まず往来」と詠んだのです。

更に、文武天皇に「やまず往来」を約束させたのでしょうか。そういえば、文武天皇も、姉の元正天皇(氷高皇女)も紀伊国の離宮に度々行幸しています。文武帝は有間皇子のために道成寺も建立しました。

では、それはこの妻の杜の神との約束を果たしたからだと?

いえいえ、そこはわかりません。しかし、持統帝の気持ちは十分に分かります。

紀伊国にこれからも通って来たい。だから、妻の杜の神様、その名の通りならば「あの方」を連れてきてください。もう一度、あの方に逢いたい。

わたしは霊魂となってっも紀伊国に通って来るでしょう……


24  有間皇子事件の容疑者は誰?

2017-02-22 14:56:18 | 24有間皇子事件の容疑者は誰?

24 有間皇子事件容疑者を特定

誰が皇子に追っ手を向けたのか?

誰でも知っていますよね。

書紀にも「天と赤兄と知らむ。吾全ら解らず(あれ、もはらしらず)」と書かれています。天(中大兄)と赤兄(蘇我氏)が有間皇子を罠にはめたのです。

中大兄の尋問に答えたのが11月9日で、絞殺されたのは11日でした。

丹比小沢連国襲を遣わして、有間皇子を藤白坂に絞らしむとありますから、国襲は官の命令で行動したのです。

牟婁の湯からの帰り道でした。皇子に従っていた忠臣達も藤白坂に斬られました。

塩谷連鯯魚(このしろ)(塩谷連は葛城曾都比古命の後という)は、誅殺に臨んで「願わくは、右手をして国の宝器を作らしめよ」と言ったそうです。意味不明とされています。

意味不明? ホントにそうでしょうか

彼は孝徳天皇の優秀な官人でした。

塩谷連鯯魚が右手でする仕事なら、「律令国家の行政」の仕事、それ以外考えられません。

彼は有間皇子の下で官吏として働き、行政の仕事をしていたのです。そのやりがいのある仕事を続けたかったと言ったのです。彼は有間皇子と律令の作成に励んでいたのでしょう

しかし、空しく刑場の露と消えた……

有間皇子と近習の舎人や官人の最後の様子は、若年皇族の若さゆえの謀反事件に思えないのです。

では、紀伊国行幸の12首目を読んでみましょう。

1678 紀伊国の 昔弓雄(むかしさつお)の鳴り矢持ち 鹿取り靡し 坂の上にぞある

そのむかし、紀伊國で名をとどろかせた弓雄が、鳴り矢を持ちいて鹿を狩って一帯を平らげた、その坂の上であるぞ。(鹿を退治して辺りを平定したという坂の上だぞ)

有間皇子事件がそのまま詠まれています。

鹿を退治することが、平定と同じことなのです。巻九の「紀伊国行幸十三首」のおおづめ、行幸のテーマが詠まれ、有間皇子の無実を確認しているのです。

更に、巻九の冒頭歌を引き出します。

1664 ゆうされば 小掠の山に伏す鹿は今夜は鳴かずい寝にけらしも

冒頭で暗示された鹿の死が、ここで確認されました。

その鹿は政権のトップだったか、そこに近い立場でした。

だからこそ、鹿を殺したことが、天下を平定したことになるのです。

それを、12首目は見事に詠みあげました。

有間皇子に娘が残されていたとしたら、どうなると思いますか。

大王の血を引く女性だということですからね。

また、悲しい物語になるのでしょうか。

まだ、紀伊国行幸は1首残っています。

また明日。

 


23 藤白坂の惨劇・有間皇子事件

2017-02-21 19:18:38 | 3持統天皇の紀伊国行幸

23 藤白坂の惨劇・有間皇子事件

1675 藤白の三坂を越ゆと白栲の我が衣手はぬれにけるかも

40年後にも涙を流させた藤白坂の物語とは? この歌には、どんな背景があるのでしょう。

わたしには藤白坂に皇子の家族が連れられて来なかったとは思えません。家族が同行していたとしたら、どのような別れがあったのでしょうか。

謀反事件の場合は家族も連座して罪をとわれ、連れて来られたでしょうね。

「藤白坂の悲劇」

追っ手は藤白坂で追いついた。身に着けていた珠も装身具も太刀も全て兵が有間皇子から取り去って、皇子を樫の木の許へ連れて行こうとした。幼いものは泣き叫び、女性は悲鳴を上げた。皇子の家族には恐怖で気絶する者もいた。皇子はやさしく頷いて「忘れてはならない。父の姿を、何より偉大な大王の祖父を。何事があろうと生き抜いて、大王(おおきみ)の偉業と皇統を伝えるのだ。」

廻りのものは皆泣いた。追っ手の猛々しい言動に何事かと集まって来た辺りの住人も事の次第が分からまいまま、皇子の家族の嘆きを見て思わず涙をこぼした。忠臣たちはわが命と引き換えに皇子の命乞いをしたが、追っ手の兵の耳に届くはずもない。怒りと罵声の中、皇子は目を閉じた。そして、無情な荒縄が皇子に掛けられた。

近習と皇子に仕えた人の半数近くが殉死した。彼らを救うことができた人はただ一人。孝徳天皇の皇后だった中皇命以外いないのである。果たして、中皇命は藤白坂に行けたのであろうか。皇子の家族を救うことができたのだろうか……という展開になるのです。

上のような物語が成立するには、皇子が皇位継承者でなければなりません。はたして有間皇子は皇太子だったのでしょうか。

それは、紀伊国行幸の12首目の歌を読めば分かります。10首目と11首目を飛ばして、先に12首目を読みましょう。

この歌を、あなたはどう読みますか?

この歌のお話は、また明日。 

 さて、 12首目までに、10・11首目があります。それを見ましょうか。 

 

1676 背の山に黄葉常敷く神岳(かむ岡)の山の黄葉は今日か散るらむ

紀伊國と畿内の境目にある背の山に、黄葉がしきりに散り敷き続けている。都の神山の黄葉も今日のうちに散るのだろうなあ。(あの方は黄葉散るこんな時期に亡くなられたのだった)

 背の山を越えると、畿内に入ります。紀伊国行幸の帰路なのです。

1677 やまとには聞こえもゆくか大我野の竹葉(たかは)刈り敷き廬せりとは

いよいよ大我野まで帰って来た、行幸の旅も終わりになる。都には噂が伝わるだろうか、大我野にまで帰って来たのに竹葉を刈り取って廬にしたことが。(都の近くまで帰って来たが、最後の夜も有間皇子の仮廬を偲んで、竹葉を刈って宿リしたと都に噂が届くだろうか)

持統太上天皇と文武天皇の紀伊国行幸の目的は、有間皇子の霊魂を慰め鎮める儀式でした。過ぎにし人の形見の地を訪れて、その霊魂に触れる旅でした。

こうして、紀伊国が文武天皇にとっても形見の地となったのです。母の阿閇皇女(元明天皇)の形見の地となったように。阿閇皇女の紀伊国行幸の時の歌がありましたよね。

万葉時代の人は、

背の山を見ると紀伊国へ来たと思い、帰路には紀伊国に別れを告げる山と見たのですね。

九月に始まった持統太上天皇の旅もいよいよ終わるようです。

行幸の間に秋も深まり、黄葉も散ってしまった。

ずいぶん日数をかけて紀伊国行幸をしたのですね。

これが最後の紀伊国への旅だと持統太上天皇は考えていたのです。

文武天皇の補佐として、また教育の責任者としての仕事がひとつ終わったのでした。

では、12首目ですね。


22 藤白坂で涙した持統天皇

2017-02-21 11:53:10 | 22藤白坂で涙した持統天皇

22 藤白坂で涙した持統天皇紀伊国行幸の9首目

この歌は、紀伊国行幸のクライマックス、藤白坂で詠まれたものです。「わが衣手は濡れにけるかも」有間皇子事件から四十年も経って、皇子の終焉の地で泣く人は誰ですか?

有間皇子に所縁の人以外にありません。従駕の者は有間皇子事件を話として知っている程度です。現場で過去に泣けるのは遺族でしょう。有間皇子の妻か、娘と考える以外ありません。

ここで、父(中大兄皇子)が殺した政敵(有間皇子)のために、わざわざ行幸をして霊魂を慰めたと考えるには無理があります。過去の事件に深く向き合い涙を流すのは、所縁の人以外にいないでしょう。どう思いますか?

1675 藤白の三坂を越ゆと白栲の我が衣手はぬれにけるかも

藤白の御坂を越える時、あの方の最後を思い出してどうしても涙を禁じえず、わたしの衣の袖はぬれてしまった。あの時の悲しみを忘れることはできない。

持統太上天皇に成り代わって、従駕の者は歌を詠みました。まるで御製歌のようです。

ここで命を落としたのは有間皇子だけではありません。優秀な忠臣も斬刑になりました。子どもたちの中で男子は助けられなかったでしょうね。

哀しい御坂です。持統天皇もここに立って涙を流したのですね。

また明日


21 わが背子が使い来むかと出立の

2017-02-20 17:13:18 | 21わが背子が使い来むかと出立の

21 別れの日から四十年後、出立の松原を通り過ぎた持統天皇

大宝元年(701)の紀伊国行幸は「持統天皇の別れの儀式」でした。

一首目、有間皇子が白玉に願いを懸けようと海の底の白玉を求めたという

二首目、皇子は白崎の岬の神に必ず帰って来ると言霊を懸け

三首目、みなべの浦でも鹿島の神に釣する海人を見てすぐ帰ると誓い

四首目、由良の埼でも岬の神に言霊を懸けて、同じく釣する海人を見てすぐに帰るだけという

五首目、すぐ帰るはずだった由良の埼から引き潮に難儀しながら船は遠ざかって行ってしまった

六首目、非情にも皇子は生還できなかった。残酷な結果に残された家族は泣きながら浜を彷徨った

7首目、我に返ると風のない浜に白波が寄せていた。この波を共に見る人を失ってどう生きよというのか。

 八首目からは四十年後の歌になっています。では、読んでみましょう。

八首目、出立を過ぎる時、ここを再び見ることはあるまいと持統天皇は思ったのです。。

1674 我が背子が使来むかと出立のこの松原を今日か過ぎなむ

わたしの大切なあの方が使いが来るのを待っておられた出立というこの松原を、わたしは四十年も過ぎた今日、ただ通り過ぎて行くのだ。もうこの地を訪れることもないだろう。別れを告げに来たのだから、あの方の後ろ姿が今も目にちらつく。わたしの胸の奥にこの松原を留めておこう。

出立(いでたち)は、出立(でたち)神社という社の名で残っています。もう松原は有りません。しかし、有間皇子事件を留めた場所であることには違いありません。その出立の文字を見ると、深い嘆息が漏れます。ああ、皇子は帰って来なかった、のだと。

そして、持統太上天皇と文武天皇は帰路についたのでした。

また、あした


20 紅の玉裙すそびく、その人は誰!

2017-02-19 19:13:26 | 20紅の玉裙すそびく、その人は誰?

20 紅の玉裙すそ引き、ゆくは誰妻

その人に何があったのか。

紅の裳(もすそ)を身に付けたその人は、何も言わず歩いて行く…

紅の裳は身分の高い女性が身につけたスカートでした。黒牛方の見える海岸を歩いて行くその人は、紅の裳を裾引きずっているのです。美しいその人が歩いているのは、黒牛方が見える海岸でした。

1672 くろうしがた しおひのうらを くれないの たまもすそびき ゆくはたがつま

満ちていた潮が引いてしまって濡れた砂の先に黒牛方が現れて来た。潮が引いた浜はますます広く見え、その広い海岸をひとり歩いて行く人がいる。放心したように紅の裳裾を引きずりながら歩いて行くあの人は誰だろう。いったい誰の妻なのか。あの人に何があったのだろう。あんなに憔悴して…

黒牛方は黒江湾の海岸近くから見えた岩場だったようです。潮が引くと黒い岩場が現れて、それが黒牛のように見えたのでした。引き潮と共に徐々に見えて来る黒牛を古代の人々は愛でたのでしょう。それにしても、何があったのか。

それを1673番歌が、そっと教えます。

1672 かぜなしの浜の白波いたづらに ここによせ来る 見る人なしに

風もない静かな浜に波が繰り返し寄せて来る。この白波を共に見たいと思って待っていたのに、あの人はいない…それでも白波は空しく繰り返し寄せて来る。

美しい人妻が待っていた人は帰って来なかった。待っていた人が来なかった理由を紅の裳裾を引きずっている女性は分かっていました。待っていた人は既にこの世にいない。その衝撃に心が体から遊離したように、彷徨うように海岸を歩いて行くのです。

忘れてならないのは、これは持統太上天皇と若い文武天皇の行幸です。高貴な人の旅なのです。それも、1672番歌は、詔に応えて詠んだものです。

太上天皇の詔なのです。「あの方が逝かれたことを知った時の心情を歌に詠むように」

長忌寸意吉麻呂は、見事に40年前の出来事を詠みました。その悲劇を絶唱したのです。持統帝は涙を流したでしょう。

黒牛方は今は見えないそうです。埋め立てられたのでしょう。

黒牛方は、有間皇子の終焉の地のそばに在りました。

また、明日

 


19 安珍と清姫の道成寺と文武天皇

2017-02-18 08:17:41 | 19安珍と清姫の道成寺と文武天皇

19  白崎から由良の埼へ

1670 朝開きこぎ出て我は由良の崎釣する海人を見てかへり来む

朝早く漕ぎ出して由良の埼に行って、釣をする海人を見て帰って来る。海人を見たら戻って来たいのだ。

1671 由良の埼潮干にけらし白神の磯の浦みを敢てこぐなり

由良の埼の潮は引いたらしい。白神の辺りを船が難儀しなが漕ぎ過ぎて行く。

1670番かは、釣する海人を見るだけなのに、朝早くから船出したというのですね。次1671の歌は、引き潮に逆らいながらも漕ぎ行くという。繰り返し船が詠まれました。有間皇子は湊に立ち寄りながら船で護送されたというのでしょうか。

紀伊国行幸十三首に詠まれた地名は、吉野川沿いか海岸沿いの土地になっています。そして、風光明媚な景勝地ばかりなのですが、美しい景色とは裏腹に旅の途中で語られた物語はきっと悲しい物語だったことでしょう。太上天皇は文武天皇に話して聞かせたはずです。

成年になり、即位して五年目の文武天皇はどんなことを思ったでしょうね。

母の阿閇皇女からも話を聞いていたでしょう。その10年前(690)の紀伊国行幸の時の阿閇皇女の歌や話も聞かされたことでしょう。

岩内の岩内1号墳が有間皇子の墓だという説があります。7世紀末の方墳で、副葬品を見ると皇族の墓の可能性が高いそうです。(この時代に紀伊国で死亡した皇族は有間皇子ひとりだという)また、紀伊国には文武天皇勅願の道成寺が建立されていますが、岩内1号墳の羨道は道成寺に向いているそうです。岩内1号墳に有間皇子の墓を改装し、道成寺を建立したということでしょうか。

道成寺って、あの道成寺ですか? 安珍と清姫の? わたし「道成寺」と聞いてハッとしました。道ならぬ恋をした若い僧と娘の物語です。まるで、有間皇子の話のようではありませんか。何処までも追いかけた娘とは……誰なのでしょう。

 

 また明日


18 白崎はさきく在り待て!その人は言った

2017-02-17 10:36:53 | 18白崎はさきく在り待て!その人は言った

18 白崎は幸く在り待て・万葉集・巻九「紀伊国行幸十三首」

1667「妹が為我玉求む…」の次の歌が、白崎の歌です。

1668 白崎は幸く在り待て 大船に真梶しじ貫き またかへり見む

白崎よ、お前はそこにそのままずっと居て、わたしを待っているのだぞ。沢山の真梶を貫き通した大きな船で行くのだから、必ず帰って来る。そしたら、再びお前をみるのだ。(再びお前を見たい)

白崎よ、ずっとそのままでいるのだぞ。わたしは必ず帰って来る。わたしは生きて帰ってくるのだ。

大船に身を委ねて白崎を通りすぎて行く人は、白崎に言いました。万葉集では、「又将顧」と書かれています。顧(かえりみる)という漢字なのです。 詠み手の強い意志が現れた言葉が「かえりみむ」です。

和歌山県の白崎海岸には、この歌の歌碑があります。詠み人知らずとなっていますが、これは天皇行幸時の従駕の者の歌です。身分のある官人が詠んだもので、一般人ではありません。

(白崎の白い石灰岩の岩肌とこの万葉歌碑を見た時、思わず涙腺がゆるみました。一度は誰かと見たい風景ですね

続いて南部(みなべ)が詠まれています。

1669 三名部の浦しおな満ちそね 鹿島なる釣する海人を見てかへり来む

みなべの海よ、潮は満ちないでいてくれ。すぐそばの鹿島の海人が釣をしているのを見てすぐに帰って来る。

南部の浦から船は南下するのです。海岸沿いに鹿島の海人を見て帰るという。しかし、鹿島より先には牟婁の湯がありました。この歌の詠み手は、事件の顛末を知っています。知りつつも「釣する海人を見てかえり来む」と詠んだのです。

あの方が「還って来る。還って来たい」と云われたが、それはできなかった。あの方が御覧になった南部の浦も鹿島も、空しく今もそこに在るのだ…「見てかへり来む」は生還することでした。

生きて帰りたかったのです。

鹿島の神に皇子は祈りをささげたでしょうか。鹿島神社は海に向かって視線をのばしていました

紀伊国行幸は、有間皇子の牟婁湯までの護送の経路をたどる旅でした。

また明日

 


17 大宝元年・持統天皇と文武天皇の紀伊国行幸

2017-02-16 18:48:25 | 3持統天皇の紀伊国行幸

17 大宝元年辛丑冬十月持統天皇は孫を伴って紀伊国に行幸した!

紀伊の国の美しい風景は、いにしへの人の思いを今に伝えています。

この年は、特別な年でした。大宝と年号を建てた年であり、大宝律令が成った年でもありました。持統天皇が孫に譲位して五年目に、文武天皇を伴っての行幸でした

持統天皇は何を思って、孫を連れての旅に出たのでしょうか。

大宝元年(701)の「紀伊国行幸の歌十三首」は、既に紹介した「雄略天皇・舒明天皇・従駕した臣下の歌」と続く、あの巻九の意味深な編集に続く歌群なのです。また、巻一と巻九の編集には或る共通点があり、双方ともに「有間皇子事件を引き出すように編集されている」と述べてきました。まさに、その事を再び思い知らされる十三首なのです。

まず、巻九の冒頭歌を思い出してみましょう。既に紹介しています。

 

巻九の冒頭歌の三首は、愛する二人がある事情で引き離される歌でした。

1664 ゆうされば小掠の山に伏す鹿は今夜は鳴かずい寝にけらしも

(小掠の山に伏し隠れていた鹿は今夜は鳴かない。もう寝てしまったのだろうか、それとも)

1665 妹が為吾玉拾ふおきへなる玉寄せ持ち来おき津白波

(愛しい人のために玉を拾い、玉に願いを懸けたいのだ。沖の深い海の底から玉を寄せて持って来てくれ、沖の白波よ)

1666 朝霧にぬれにし衣干さずしてひとりか君が山道越ゆらむ

 (朝早くここへ来た貴方の衣は朝霧に濡れてしまった。その濡れた衣を干す間もなく、あなたはすぐに出発し一人で山道を越えて行くのだ。どうぞ、ご無事で)

 この後、大宝元年の十三首です。その冒頭歌1667番歌は、1665番歌にそっくりです。

巻一と巻九の冒頭は同じ方向を向いて編集され、十三首に集約するに到りました。一首目は、明らかに先の歌に連動しています。先の歌がかかわった事件に寄り添っているのです。その事件こそが、有間皇子事件だったのです。

 1667 妹が為我玉求む おきへなる白玉よせ来 おきつ白浪 

 

持統太上天皇は、十五歳で即位して五年目の文武天皇がいよいよ律令政治の新体制に入っていくその時期に、紀伊国行幸をしたのです。そこで、孫に伝えたいことがあったのです。

朱鳥四年(持統四年)の紀伊国行幸も、夫の草壁皇子を失った阿閇皇女を励ます意味がありました。そこでも、結松を詠んでいます。これから読む十三首にも「結松」が詠まれています。では、ご一緒に、持統天皇の最後の「紀伊国行幸」へ。翌年の十二月には、持統天皇崩御、なのです。

持統天皇はその最晩年に思い出の場所に行幸したのでしょう。最後の力を振り絞りながら。

では、また明日。

 


16  朱鳥四年の持統天皇の紀伊国行幸(2)

2017-02-15 16:28:35 | 16朱鳥四年の持統天皇の紀伊国行幸

16 朱鳥四年の持統天皇の紀伊国行幸の目的

持統天皇は、この年の紀伊国行幸に阿閇皇女(あへのひめみこ)を伴いました。そして、川嶋皇子(かはしまのみこ)も従駕していました。川嶋皇子は天武天皇の皇子ではなく、天智天皇の皇子です。

その川嶋皇子は、紀伊国行幸で有間皇子ゆかりの「結松」を詠んでいます。

紀伊国にいでます時の川嶋皇子の御作歌

34 白波の濱松が枝の手向け草幾代までにか年の経ぬらむ

白波が寄せて来る浜の結松、その手向けのものは いったいどのくらい年を経たのだろうか。あの有間皇子事件から何年たったというのだろう。(何年経っていても、あの事件を思い出すと胸がいたむのだ)

(あるいは、山上臣憶良の作というと脚注があるのは、巻九の1716番歌が憶良の作で、よく似ているからです)

川嶋皇子の歌はこの一首のみです。この歌の後に置かれているのは、阿閇皇女の「これやこの倭にしては我が恋ふる…」の歌です。阿閇皇女も川嶋皇子も天智天皇の子どもでした

川嶋皇子は、天智八年(679)の吉野盟約に参加した六人の皇子の一人です。吉野盟約とは「草壁皇子を皇太子とすることを認めさせるための儀式だった」とか「先々謀反など引き起こさないように約束をさせるための儀式だった」とか、様々な説があります。日本書紀にも、天皇・皇后が襟を開いて天智天皇の皇子と天武天皇の皇子とを抱き、盟約の儀式をしたと書かれています。

六人の皇子とは、草壁皇子・高市皇子・大津皇子・刑部皇子・川嶋皇子・志貴皇子です。この中で、川嶋皇子と志貴皇子が、天智天皇の皇子でした。

吉野盟約があったからでしょうか。川嶋皇子は大津皇子の謀反を密告しました。「懐風藻」には親友の契を結んでいたとあります。「莫逆の契」を結んだ相手を裏切ったのです。その為、大津皇子は死を賜りました。

天武天皇崩御(九月)の前の八月に、川嶋皇子は封百戸を受けています。金銭授受のようなものです。天武天皇崩御後に大津皇子の謀反(十月)、川嶋皇子の密告後に皇子大津に死を賜るという、即断でした。大津皇子の妃の山辺皇女は裸足で髪を振り乱して駆けつけ殉死しました。

その様子に廻りのものは皆泣いたのです。その一部始終を川嶋皇子が知らないわけは無いでしょう。誰かがこまごまと語り聞かせただろうし、世間は噂を流しただろうし、川嶋皇子の耳に入らないわけは有りません。

朱鳥四年(持統四年)紀伊国行幸は、大津皇子事件から四年目の九月でした。

有間皇子の謀反事件の結松を見て、川嶋皇子が何も思い出さないはずは有りません。そこで詠まれたのは「白波の濱松が枝の手向け草…」なのです。

この歌は公の場での詠歌になっています。川嶋皇子の詠歌であることが重要でした。

あの大津皇子は謀反事件を起こしたが、有間皇子は無実だったに違いない。大津皇子を密告した川嶋皇子でさえ、有間皇子を偲んでいるではないか。有間皇子は無実だった、だからこそ、何年たっていてもその霊魂を鎮める儀式をしているのだ、というメッセージになったことでしょう。

翌年(691)、九月、川嶋皇子は薨去しました。年は二十五歳、まだ若かったのです。

大津皇子の賜死に関わった天智天皇の忘れ形見、その川嶋皇子は何故にこのような若さで薨去しなければならなかったのでしょうか。運命から逃げられなかった皇子の悲しさを感じます。

また明日

バイモ・アミガサユリ・春の花