気ままに何処でも万葉集!

万葉集は不思議と謎の宝庫。万葉集を片手に、時空を超えて古代へ旅しよう。歴史の迷路に迷いながら、希代のミステリー解こう。

57天智天皇を信じた藤原鎌足

2017-03-29 16:36:55 | 56天智天皇に信頼された藤原鎌足

天智天皇を信じた中臣鎌足

前回紹介した阿武山古墳が藤原鎌足の墓だとしたら、おかしな事実がたくさん出てきます。鎌足の墓は談山神社に移されたというのは、嘘になるのでしょうか。阿武山古墳の被葬者は玉枕の上に頭を乗せ、顔を織冠で覆っていたのですから只者ではありません。60歳前くらいの男性で、骨折の後が残っていたそうですから、没年の蒲生野の薬狩の宴の時落馬してそれが死亡の原因だったのではないかと、「藤原鎌足と阿武山古墳」に書かれていました。わたしが一番おどろいたのは、玉枕や織冠ではなく彼が漆塗りの「脱活乾漆棺(だっかつかんしつかん)」に横たわっていたことです。玉枕や織冠はマスコミの報道で知っていましたが、脱活乾漆棺のことは記憶にありませんでした。上記の本の中の挿入写真ですが、

漆喰でぬられた石槨内の台の上に置かれていたのです。この種の棺は、牽牛子塚古墳(石槨が二つ、両方の棺ともに)や野口王墓にも使われているのですから、阿武山のそれは最高級の棺だったことになります。ちなみに脱活乾漆棺とは、木の上に漆を塗った棺ではなく、漆を数枚から数十枚の布(苧や絹)の上に塗り重ね固めた布着せの技法で作られた棺なのです。野口王墓は天武持統陵でしたね。

さて、鎌足の墓は談山神社に移されたとの伝承はどうなるのでしょうね。

諸説の中で「談山神社の石塔は若くして毒殺された定恵(貞慧)の菩提を弔うために鎌足が造った」というのが、わたしの納得の説でしたが… 定恵は「藤氏家伝」に書かれている通り「白鳳五年(654)に長安に至り、白鳳十六年帰国」であれば、父の鎌足の存命中ですから期待の長子の死を弔うのは当然でしょう。

しかし、「多武峯縁起」や「多武峯略記」は定恵の日記かと言われる「荷西記」を引用して全く相反することが書かれているそうです。定恵の渡唐は天智六年(667)、帰朝は天武六年(678)、或本には入唐は二度目だったと。帰国後、弟の不比等に父の墓所を訊ね、二十五人を引率し二人で墓を掘り多武峰に運び、十三重塔の底に安置したと、云うのです。はたまた定恵について「帰朝後、多武峯を創建、当寺に止住すること三十七年、霊廟は当寺にあり。碑には入唐求法沙門定慧、和銅七年六月二十日、春秋七十、端座遷化と銘されている」と、多武峯略記には記されているそうです。七十歳まで生きたとは、仰天の内容です。和銅七年だなんて… あまりに違すぎますね。

どちらが事実でしょう。更に、こんな違い過ぎる結果は何ゆえに生まれたのでしょう。理由があるはずです。事実が曲げられた理由です。また、それは誰にとって必要だったのか、です。ある人物の思惑により、事実が曲げて書き残されたのでしょう。定恵は「孝徳天皇皇子、鎌足公第一子」とされています。では、不比等が近江天皇の皇子説と合わせて考えると、鎌足の男子はどちらも実子ではなかったとなるのですか? ふうむむ、すごい話ですね。

天智天皇=天命開別天皇(あめみことひらかすわけのすめらみこと)と孝徳天皇の両方から鎌足は大事にされたことになりますね。

天命開別天皇とは、『書紀集解』に天皇が恭遜にして時を待って天位に登ったのは命の開くるが如し、とあるように、天命を受けて皇運を開かれた男性、の意、だそうである。これは、死後に贈られる国風諡号(こくふうしごう)で、書紀には、開別皇子・葛城皇子・中大兄などと呼ばれていました。

父は舒明天皇、母は斉明天皇(皇極天皇)、妹に間人皇女(孝徳帝の皇后)弟に天武天皇がいて、家族中で極位に登ったという血統でしたね。中大兄は舒明帝・皇極天皇の御代から皇太子でしたが、大化改新後には即位せず、叔父の軽皇子(孝徳天皇)が即位しました。

中臣鎌足の父は、中臣御食子。母は知仙娘(ちせのいらつめ)=大伴夫人。子どもには定恵(貞慧)不比等・氷上娘・五百重娘・耳面刀自 がいます。

鎌足と天智帝を結びつけたものは何だったのでしょうね。

また、今度


56天智天皇が信じた藤原鎌足

2017-03-28 23:19:55 | 56天智天皇に信頼された藤原鎌足

天智天皇を信じた藤原鎌足

(「藤原鎌足と阿武山古墳」吉川廣文館の挿入写真です。中央が阿武山古墳、鎌足の墓かも?)

この古墳が大きく新聞等に取り上げられたのは、金糸で刺繍されたらしい織冠を頭に置き、玉枕を枕に六十歳前くらいの男性が乾漆棺に眠っていたからでした。新聞では鎌足の墓が見つかったという報道でした。日本書紀によると織冠を授けられた人物は二人しかいません。一人は百済の王子で白村江戦の前に百済に戻りました。もう一人が藤原鎌足でした。

天智天皇より異例の厚遇を受けた中臣鎌足

世にいう「大化改新」とは何だったのでしょう。其々の豪族に支配されていた国を律令国家とする為に、中大兄皇子と藤原鎌足が蘇我氏を倒して実現したと、そんなふうに教えられませんでしたか? 推古天皇の時に唐に留学した僧や学者が帰国し中臣鎌足は帰国した留学生と律令政治を学び合っていました。僧旻や南淵硝安、高向玄理や軽皇子(孝徳天皇)などと語り合い、蘇我氏を排除した国造りを目指していました。律令による国造りは。経済を握っていた蘇我氏を倒すことから始めなければなりませんでした。

蘇我氏は大臣蘇我馬子以来、政治の中核にあり、蝦夷と入鹿親子の権勢は盤石なものに見えていました。如何に蘇我を倒すかを考えた時、鎌足はひとりの皇子に注目しました。それまで、軽皇子と親しかった鎌足は、中大兄皇子に近づくチャンスを待ったのでした……そこで蹴鞠の場面になるのです。これが、二人の出会いだったという物語ができています。が、要するに鎌足は軽皇子から中大兄皇子に乗り換えたのです。以来、 鎌足は天智天皇の腹心の部下でした。

内臣(うちつおみ)鎌足の病気と死・天智天皇の行幸と恩詔

天智八年(669)十月十日、天皇は藤原内臣の家に病気を見舞う

同年 十月十五日、東宮大皇弟を遣わし、大織冠と大臣と藤原姓を賜う

同年 十月十六日、藤原内大臣が薨去した

同年 十月十九日、天皇が内大臣の家に行幸し蘇我臣赤兄に恩詔を宣べさせ、金香鑪を下賜する

これまでは、内臣(うちつおみ)ですが、これからは内大臣(うちのおほおみ・うちのおほまえつきみ)となり、「内大臣」の官は宝亀八年(777)に、藤原良継に授けられるまで百年以上授与されていません。鎌足は特別の官を得たのです

*藤原良継は、鎌足→不比等→宇合→良継(鎌足の曽孫)

 「日本書紀」には「日本世紀」からの引用文が載せられています。

日本世紀に、内大臣は五十歳で私邸において薨じた。山南に移して殯をした。天はどうして、良くないことに、強いてこの老人を世に残さなかったのか。ああ哀しいことだ。碑に『五十六歳で薨じた』という

(*日本世紀は、高句麗の僧・道顕による編年体の歴史書で、日本書紀の基本的資料の一つとなった)

 では、天智天皇と中臣鎌足の関係を万葉集で見ましょう。

(鏡王女も安見兒も天皇から鎌足に与えられた女性です)

鏡王女は気位の高い人でした。鏡王の娘で額田王の姉という説もありますが、以前紹介したように鏡王の墓は舒明天皇の陵墓の近くにありますから、舒明帝の皇女という説もあります。

珠(たま)櫛笥(くしげ)は「覆い」にかかる枕詞で、大切な化粧箱だそうです。

93 たまくしげおおいをやすみ あけていなば 君がなはあれど 我が名はおしも

覆いで隠すわけではありませんが、夜が明けてからお帰りになって、貴方の名が人に知れるのはいいのでしょうが、わたくしの名が立つのは口惜しいのです。

鎌足の歌の珠櫛笥は、「みもろ」に掛かります。化粧箱の身と蓋の「み」に掛かるのです。

94 たまくしげ みもろの山のさなかづら さねずはついに ありかつまじし

そうですか。みもろの山の「さな葛(かずら)」のように「さ寝ず」でいいのですか。そうなったら、貴女はとても耐えられないでしょう。

 鏡王女は、口惜しかったでしょうね。鏡王女は、もともと天智天皇と恋仲だったのでしたね。二人の歌は既に紹介しています。 

天皇、鏡王女に賜う御歌一首

妹が家も継ぎて見ましをヤマトなる大嶋の嶺(ね)に家もあらましを

いとしい貴女の家をいつも見たいものだ。せめて、やまとの大嶋の嶺に私の家があったらいいのに

 鏡王女こたえ奉る御歌一首

秋山の樹(こ)の下隠(がく)りゆく水の吾こそまさめ御念(おもほ)すよりは

秋の山の木々の下を流れる水は流れながら水かさを増していきます。その水のように、わたくしの思いの方が勝っております。殿下の御思いよりは

二人は恋仲というより、鏡王女(683没)は天智天皇の寵妃だったのです。鏡王女の歌は「御歌」とありますから、やはり彼女は皇族でしょう。それなのに、藤原鎌足(669没)に与えられたという…のです。よほどのことですね。


55草壁皇子のために額田王が建てた寺

2017-03-28 00:02:49 | 55草壁皇子の菩提を弔った額田王

額田王は草壁皇子のために寺を建立した

壬申の乱後、近江京で天智天皇に仕えていた額田王は、夫(大友皇子)を亡くした娘と明日香に帰って来ました。飛鳥で額田王はどんな生活をしていたのでしょうか? 

(額田王が弓削皇子に応えた歌・古を恋しく思う鳥は、それは霍公鳥でしょう。その鳥はきっとわたしが昔を懐かしく思うように懐かしそうに鳴いたのでしょうね。)

天武七年(678)十市皇女の突然死で額田王は苦しんだと思いますが、「深く仏教に帰依し、藤原(中臣)大嶋と結婚し、大嶋亡き後はその遺言を守り粟原寺(おうばらでら)を完成させた。」と、粟原寺の塔の露盤に刻まれた文字で読めるようです。

 

草壁皇子の菩提を弔うために粟原寺を建立

草壁皇子のために粟原寺を建立した人物(比売朝臣額田)は、額田王でしょうか。

額田王は天武帝の皇子にも尊敬され、藤原氏とも交流があったようです。額田王は粟原寺の露盤銘に残る名の比売朝臣額田なのでしょうか。

漢文の内容は、次の通りです。

①この粟原寺は、仲臣朝臣大嶋が、畏れ謹んで、大倭國浄美原で天下を治められた天皇の時、日並御宇東宮(草壁皇子)のために造った寺である。

➁この寺の伽藍を比売朝臣額田が敬造し、甲午年に始まり和銅八年までの二十二年間に、伽藍と金堂、及び釈迦丈六尊像を敬造した。

③和銅八年四月、敬いて三重宝塔に七科の宝と露盤を進上した。

④この功徳により仰ぎてお願いすることは、皇太子の神霊が速やかにこのうえない菩提果をえられること。

⑤七世の祖先の霊が彼岸に登ることができること。(中臣)大嶋大夫が必ず仏果を得られること。様々なものが迷いを捨て悟りに到り正覚を成すことができること。

以上ですが、草壁皇子のために造営したと書かれています。甲午年は持統八年(694)で和銅八年(715)までの22年間かけて造られました。(持統八年の十二月に、藤原宮に遷都します。新益京(しんやくのみやこ=藤原京)は、高市皇子が造り上げた初めての条坊を持つ都だと云われています。)

額田王は斉明天皇の紀伊国行幸に従駕し、有間皇子の事件にも直面したであろう万葉集を代表する歌人で、粟原(おうばる)寺には額田王の終焉の地という伝承があり、跡地に案内板が建てられていました。江戸中期に談山妙楽寺(今の談山神社)から三重塔の伏鉢(国宝)が発見されましたが、それはもともと粟原寺にあったものでした。伏鉢には銘文があり、建立の経緯が刻まれていたのです。銘文の冒頭を紹介しましょう。

此粟原寺者、中臣朝臣大嶋、惶惶請願、奉為大倭国浄御原宮天下天皇時、日並御宇東宮、故造伽藍之、爾故 比売朝臣額田、以甲午年始、至和銅八年、合廿二年中、故造伽藍、而作金堂、及造釈迦丈六尊像…

この粟原寺は、中臣大嶋が、大倭国の浄御原で天の下知ろしめした天皇の御代の、日並御宇東宮(草壁皇子)のために寺院の建立を発願したが、(持統七年に大嶋が死亡したので、大嶋の遺志を継いだ)比売朝臣額田が持統八年から寺の造営を始め、二十二年かけて和銅八年までに伽藍と金堂を造り、釈迦丈六尊像を完成させ…」、和銅八年四月には三重塔と七科露盤を造ったというのです。大嶋は発願しただけで死亡し、あとは比売朝臣額田がやり遂げたというのですが、財力が有ったのでしょうか。

 粟原寺露盤銘には、「日並御宇東宮」と彫られています。「御宇東宮」は、草壁皇子に対する他の文献の表記とは明らかに違います。万葉集では、日双斯皇子命・日並皇子尊・日並所知皇子命。続日本紀では、日並知皇子尊・日並知皇子命・日並知皇太子。東大寺献物帳では、日並皇子。七大寺年表所引竜蓋寺伝記では、日並所知皇子。粟原寺露盤銘の「御宇・東宮」は、外に類例がないそうです。ここに、中臣大嶋と額田王のなみなみならぬ思い入れが見えますね。

甲午年(694)は、大安寺縁起によると「飛鳥浄御原御宇天皇のために金剛般若経一百巻が奉られた』年であり、この年に額田王は中臣大嶋から粟原寺建立を引き継ぎました。

中臣大嶋は藤原大嶋ともいい、同一人物で、藤原の氏を天智天皇から許されたのは「鎌足」であったとして、藤原不比等の子孫以外の藤原氏は、持統三年以降中臣氏に戻されたという経緯があり、大嶋も中臣姓に戻っていました。

藤原の姓を奪われた中臣大嶋の遺志を継いだ額田王が、草壁皇子の菩提を弔うために二十二年も掛けて丈六尊像と伽藍を完成させたと書かれていますが、そうであれば和銅八年(715)の額田王は相当な年齢となりましょう。それも近江王朝の最後まで仕えた女性で、一人娘の夫である大友皇子を倒した天武朝の皇太子のために、命の限りを尽くして寺院を造ったというのです。果たして、そこにどのような事情や縁があるのでしょうか。草壁皇子の母である持統天皇も、十市皇女の二番目の夫だった高市皇子も、草壁皇子の一人息子の文武天皇も、完成時には全て鬼籍に入っていました。誰に遠慮もいらないし、死者に義理を立てる必要もないのです。では、比売朝臣額田とは額田王ではないのでしょうか、このように疑うと、額田王以外の誰が何のために草壁皇子を弔うのかとなって、いよいよ分からなくなるので、ここは額田王かゆかりの人物以外にはないだろうとなります。

では、中臣大嶋と額田王は何ゆえに草壁皇子の菩提を弔おうとしたのか、その答は一つしかありません

額田王は草壁皇子の本当の父親を知っていたからです。それが故に、草壁皇子の菩提を弔った。もちろん、天武天皇ではありません。中臣大嶋にとっても忘れられない恩人でした。

大嶋の父は許米(こめ)、祖父は中臣糠手子(ぬかてこ)。糠手子は、中臣御食子(みけこ)と国子の兄弟であり、御食子の子が鎌足、孫が定恵と不比等です。父の中臣許米には中臣という兄弟がいて、壬申の乱で斬刑になった中臣金は許米の兄大嶋の伯父で、中臣天智朝の右大臣になりました。鎌足の死後、天智帝は中臣金を引き上げたのです。中臣金は身を尽くして仕え、それが故に壬申の乱後に斬られました。当然、大嶋が大王と仰ぐのは、天智帝でしょう。粟原寺建立は、大嶋の伯父の中臣金を弔う意味もあったでしょうが、天智朝の敗将を弔うのははばかられたでしょうから、それをカムフラージュするために草壁皇子の菩提を弔ったとも考えられます。それにしても、自分の一族を破滅に追い込んだ王朝の皇太子を弔ったという不思議、実はそこにも本意があったと思うのです。

額田王と中臣大嶋をつなぐ赤い糸は、天智天皇でした。草壁皇子の父は、この帝です。草壁皇子が天智帝の忘れ形見だったからこそ、大嶋と額田王は力を尽くして寺院を建立しました。共に、密に近江朝を想い続けていたのです。天武帝は「吉野盟約」後の養父であったとすれば、万葉集の疑問のかなりの部分が解決します。

生前の草壁皇子は自分の出自を知っていたがゆえに、天武帝崩御後に即位できなかったか、「天武朝は高市皇子と大津皇子に引き継がれるべき」と考えていたと思うのです。大津皇子も同じように「天武の血統が皇位を継ぐべき」と考え、天武帝も「大津皇子、朝政を聴く」と書紀にあるように、大津皇子に期待をかけていたとしか読めません。しかし、持統皇后は許さなかった。謀反(壬申の乱)により大王位についた王家の血統に皇位を渡したくなかったのです。だから、大津皇子の謀判は思い付きではなく熟慮の結果だったのに失敗してしまったのでした。真相を知る人は、どれほど悔やみ悲しんだか知れません。

  大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時に、大伯皇女の哀傷して作らす歌二首

 165 うつそみの 人にある吾れや 明日よりは 二上山を いろせと吾が見む

 166 磯のうえにさける馬酔木を手折らめど 視すべき君が 在りと言わなくに

天武朝の真の後継者を刑死させてしまったと、苦しんだ草壁皇子は母の思いを十分に承知していながら、即位しなかったのでした。以後三年間、兄の高市皇子と皇位を譲り合っていたのでしょう。草壁皇子死して翌年、持統帝の即位となり、高市皇子が太政大臣となりました。こうなれば、孫の軽皇子(文武帝)が成人するまでに、高市皇子は薨去しなければなりません。これが、持統帝に藤原不比等が接近した理由でしょう。天武帝の皇統に極位を渡してはならないと、藤原氏は常に天智朝の腹心の部下であり続けました。

全てを知りつつ、草壁皇子は薨去しました。まるで、仁徳帝と皇位を譲り合ってついには自殺した宇治若郎子のようではないかと、額田王は思い出したに違いありません。宇治若郎子の話を、そして、有間皇子の悲劇を。「あの秋の野の草を刈り取って旅の宿りとなさった有間皇子の仮廬を思い出す、この世で最後の仮宮を。宇治の若郎子のような運命をたどった有間皇子と草壁皇子の凛々しい姿を」宇治若郎子の物語を重ねて、有間皇子と草壁皇子の悲劇を詠んだのでした。

7 金野(あきの)の 美草刈葺き やどれりし 兎道のみやこの 仮廬し念ほゆ 

額田王は天智帝の葬儀後に明日香に帰っても、亡き天智帝を想い続けていました。生涯をかけて天智帝を愛し続けたのでした。歌に詠まれた霍公鳥は、亡き帝の霊魂にほかなりません。

111 古に 恋らむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし 吾が念へるごと

 この歌の意味はここで完結するのです。人麻呂は、この歌の背景を十分に知って万葉集に掲載したのでした。

また明日


54持統天皇の孫、文武天皇の仕事・八角墳への改葬

2017-03-27 15:38:38 | 54持統天皇の孫、文武天皇の仕事

持統天皇の孫・文武天皇の仕事

持統天皇元年(686)は、天武天皇崩御年であり、大津皇子と山辺皇女の没年です。持統帝が即位したのは草壁皇子が没した年の翌年(690)でした。つまり三年間は空位で、持統称制となっています。皇太子が決まっていたのに空位とはおかしなことですから、様々に憶測が飛ぶのです。

文武天皇の即位は高市皇子薨去の翌年(697)で、二月に立太子、八月即位となっています。高市皇子の薨去から一年後に即位したのでした。

この時、軽皇子(文武天皇)の立太子に対して弓削皇子(大江皇女と天武天皇の御子・長皇子の弟)が異議を申したてました。弓削皇子の目には軽(文武天皇)の立太子は尋常ではなかったのでしょう。自分の兄の長皇子の方がはるかに後継者としてふさわしいと思ったのです。

考えてみると、「軽皇子」は皇子ではなく「王」のはずです。草壁は天皇の皇子でしたが、軽は皇子の子ですから「王」。でも、長皇子は天智天皇の皇女と天武天皇の御子ですし、血統的にはより天武天皇に近いわけですから皇位継承者としてふさわしいと、当たり前の主張をしたのでした。(弓削皇子を叱責して黙らせたのは、十市皇女の子の葛野王です)このことが災いしたのでしょうか、弓削皇子は三年後に薨去しましたし、母の大江皇女もその半年後の薨去でした。

持統十一年(697)、文武天皇は15歳で即位しました。

夫人は藤原宮子でした。

文武は若い天皇でしたから、持統天皇が太上天皇として全面的にバックアップしたのです。ですから、文武天皇の仕事には、持統太上天皇の意思が入り込んでいるのです。その中に、おや? と思う仕事があります。

文武三年(699)の山田寺に封三百戸 それに、越智陵(斉明天皇陵)と山科陵(天智天皇陵)の造営です。

山田寺は祖父蘇我石川麿が無念の最後を遂げた寺です。斉明天皇は天武天皇の母、天智天皇は天武天皇の兄、であれば、陵墓の造営(改葬になります)は当然でしょうか? それにしても、天武天皇が滅ぼしたのは天智天皇の後継者でしたね。その大友皇子の墓を慰霊のために造営したのではありません。持統帝と藤原氏の強い願いによる山科陵の造営と考えるべきでしょう。山科陵は平安京を造営する時、重要な墓となりました。どこが皇居で上賀茂神社で、下鴨神社が何処にあるか、金閣寺が何処か、二条城が何処か、分かりますよね。

ここで、 前に紹介した「持統天皇の最後の願い・火葬と合葬」を思い出してください。持統天皇は真っ白な骨となって、天武天皇陵に合葬されたのです。霊魂がその墓を離れ、未来永劫飛びまわるために。その為の、天智陵と同じ経度で築造された陵墓でしたね。その陵は理にかなった位置にあり、武家社会になった時には その霊力はズタズタにされたのです

陵墓の造営が重要であること、祖先・天皇の墓はその王朝にとって意味があること、お分かりですよね。

 だから、高市皇子(天武天皇の第一子)の墓が高松塚であれば、その墓と文武陵は如何なる関係になっているか。当然、高市皇子の霊力を断つ位置を選んだでしょう。(高松塚古墳と中尾山古墳は南北に並ぶ)

高松塚古墳の発掘以前には、高松塚古墳は文武天皇の墓という伝承がありました。わたしも高市皇子とは思っていませんでした、草壁皇子と思っていたのです。治田神社(草壁皇子の岡宮跡)→高松塚古墳石室→岡宮天皇陵(草壁皇子陵の改葬前の墓)のラインも引けましたから。

高市皇子は、後皇子尊(のちのみこのみこと)と呼ばれましたから、草壁皇子の宮跡とその陵墓に挟まれて眠るのは当然かもしれないとも思います。しかし、です…高松塚古墳は八角形墳丘ではありません。

そして、あろうことか、文武天皇の崩御。持統天皇亡き後の公務が多すぎたのでしょうか。文武天皇陵は、今は天武天皇の真南に比定されていますが、最近「中尾山古墳」(八角形墳丘墓)が改装後の文武天皇陵というのが有力です。その中尾山古墳は、耳成山の真南にあり、高市皇子と耳成山の間です。なぜこの位置なのか?

そのわけは、①耳成山と高市皇子の霊力を受け取ろうとした。または、➁高市皇子と耳成山の霊力を遮断した。…これは、➁でしょうね。

更に、草壁皇子の墓も最近は「束明神古墳」とされています。よりよい子孫の繁栄を願って陵墓を改装したのでしょう。それに、 舒明陵、斉明陵(牽牛子塚古墳)天智陵、中尾山古墳のように、八角形の極位に上ったという墳丘墓の形式に揃えたかったということでしょうか。同じ血統の墓の形式に揃えたかった、と。つまり、それまでの王家や天武系の墓とは一線を引いたと言えます。最近、孝徳天皇の墓は叡福寺の聖徳太子の墳丘墓(八角形墓)という説がありました。そうであれば、孝徳天皇の墓も改葬されたことになるのでしょうか。叡福寺の墳丘が聖徳太子の墓と言う証拠はないそうですからね。

持統天皇の意思が、女帝が文武天皇に伝えたかったことが、陵墓の造営でも分かります。舒明・斉明→天智→阿閇・草壁→文武の皇統と、孝徳 →有間→持統→草壁→文武 の皇統を伝えること。万葉集も同じ意図のもとに編纂されたはずです。

初期万葉集を読む時、このことを頭の隅に置いて読むとよく理解できるのです。

持統天皇の詔(たぶん持統帝から出されていたと思われる)を受けて柿本朝臣人麻呂が編纂した「万葉集」は、文武天皇に奉献されるはずだったと思います。草壁皇子の忘れ形見の文武天皇に「誇りをもって生きるように、草壁の皇統を絶やしてはならない」という意味を込めて、持統天皇が詔を出し人麻呂が応えたと思うのです。ですから、「初期万葉集」の編纂方針は明確でした。

その事は、また後で

 


53持統天皇との約束・柿本人麻呂事挙げす

2017-03-26 09:54:18 | 53持統天皇との約束・人麻呂事挙げす

持統天皇との約束・柿本人麻呂事挙げす

 「柿本人麻呂が初期万葉集の編纂者」と以前からブログに書いていました。(持統帝の霊魂に再会した人麻呂は、持統帝に聞きたいことがあった。)

  

紀伊国への旅は、持統天皇との思い出の地を訪ねる旅愁を求める旅ではありませんでした。その目的は、形見の地(亡き人の霊魂が漂う地)を訪ね、霊魂に触れることでした。女帝との約束を果たすべきか否か、人麻呂は女帝の霊魂に確かめに行ったのです。

「お言葉のままに、事挙げしてよろしいのでしょうか。わたくしは決心がつきかねております」

人麻呂が迷っていたのは、万葉集の編纂を続け、それを文武天皇に奏上することでした。答は「詔のままにせよ」だったのです。万葉集は、無念の最後を遂げたゆかりの人、滅ぼされてしまったゆかりの人を追慕し、その霊魂を鎮め、鎮魂歌集として末永く朝廷に伝えるために編纂されていました。 

「万葉集の編纂をし、長く子孫に伝えること」それが持統帝の詔だったはずです。

人麻呂は命を賭して「事挙げ」の決心をしたのです。

 

万葉集巻十三 「柿本朝臣人麻呂の歌集に曰」3253~3254

3253 葦原の水穂の国は、この国を支配する神様としては言葉にして言い立てたりはしない国だ。だが、わたしはあえて言葉にして言うのだ。どうぞ何事もなくご無事で、いついつまでも真にお変わりなくと、障りもなくご無事であれば、荒磯浪のアリのように在りし時に王朝の栄を見ることができる。百重浪、千重浪のような後から後から押し寄せて来る波のように、私は何度でも事挙げする。わたしは亡き帝のために何度も何度でも事挙げする。

 反歌(長歌と同じような中身を繰り返す短歌という意味)

3254 しきしまの倭の国は言霊(ことだま)のたすくる国ぞまさきく在りこそ

敷島の倭の国は、言霊の霊力によって守られた「幸く在る」國である。私は、言霊によってこの国の幸を願う。どうぞ末永く国が栄え、王朝が続きますように。

人麻呂が決心して「万葉集」を奉ろうとしたのですが、文武天皇(持統天皇の孫・42代天皇)の突然の崩御でした。

そこで、慶雲四年七月より後に、母の元明天皇(草壁皇子の妃・43代天皇)に「初期万葉集」を奉献したのです。しかし、元明天皇は激怒しました。そこに皇統の秘密が書かれていたのですから。

それは、誰にも知られていることだったと思います。が、それをわざわざ事挙げする人麻呂を許せなかったと思います。それが故に、夫の草壁皇子が苦しみ、義母の持統天皇が文武天皇のために身を挺して政を支え力尽きたことを、元明天皇は承知していました。

 

人麻呂は流罪になりましたが、さらに刑死となりました。

それを甘んじて受けたことが、万葉集でも読み取れるのです。人麻呂は持統天皇に殉じることを承知していました。それは、持統天皇の崩御の時に彼の心内で決めていたことだったのですから。

 

またあとで

 


51天武帝が心から愛したのは持統皇后なのか

2017-03-25 00:24:56 | 51天武帝は心ゆるした女性は

天武帝は、心から 持統皇后を愛したのか

「持統帝と天武帝のつながりの深さ」と「天武天皇の霊魂は伊勢へ」で、二人の絆の深さを考える材料としました。二人の結びつきは希薄だったという、わたしは勘違いしているのでしょうか。二人は強い絆で結ばれていたのでしょうか。

持統帝の歌を詠めば、どちらかというと持統帝は天武帝に対してさっぱりしていた、あまり執着がなかった…と思うのです。では、持統帝は噂通りの冷たい女性なのでしょうか。いえいえ、有間皇子への深い鎮魂の思いを見ると、情の深い人だと分かります。草壁皇子を失った後も、妃の阿閇皇女を連れて紀伊國行幸をして嫁を励ましました。阿閇皇女も持統帝を義母として信頼していました。持統帝は優しい人でもあったのです。

では、一方の天武帝が心許した女性はいたのかというと、それは居ました。藤原夫人(ふじはらのぶにん)でしょうかね。万葉集には二人の親しげな楽しげな歌が残されています。藤原夫人は万葉集には二人いますが、どちらも鎌足の娘です。五百重娘と氷上娘で、大原に住んでいたのが「大原大刀自(大原の大刀自)」でした。

巻二の103、104の二首を読んでみましょう。

103 吾が里に大雪ふれリ大原の古りにし郷にふらまくは後(のち)

おいおい、わたしの新しい住まいには大雪が降ったぞ。そちらの古い郷に雪が降るのはやや遅れるであろうな。(天武帝)

104 吾が岡のおかみに言いてふらしめし雪のくだけし其処にちりけむ 

あらあら、わたくしどものお祀りする神様に頼んで大雪を降らしたのですよ。こちらの雪がくだけた残りがそちらに降ったのでございましょうね。(藤原夫人)

楽しげでしょう。五百重娘は美人でお茶目だったようです。天武帝は親しみをこめて歌を贈ったのでした。天武帝の死後、この女性は異母兄の藤原不比等と密通して、藤原麿を生んだとされています。よほどの魅力があった人でしょうね。

人麻呂歌集から察するに持統帝も天武帝に熱烈に愛されたのですが、持統帝としては淡白だったようですね。だって、持統帝には心から愛した人がいたのですからね。

それにしても、持統帝は草壁皇子のために大津皇子を排除した冷酷な女性というのが世間の通説のようです。

「吉野の盟約(天武八年)」で我が子のように受け入れるとした大津皇子に、謀反発覚後すぐ死を賜わった」この時、日本書紀では「皇后、臨朝称制」していたのです。持統帝を政権のトップとして、大津皇子の死は、持統帝の意思だとされています。しかも、天武朝では議政官の任命記事は在りません。政治の組織は天皇親政であったので、左右大臣、内大臣の任命はないのです。当然、皇族が政治に参画していたでしょう。となると、持統帝意外に権力を握ることができたのは高市皇子ですね。大津皇子の「朝政を聴く」というのも、皇族政治家として仕事を始めたということでした。

 草壁皇子が皇太子になるのは、天武十年か、十二年でした。その時、大津皇子も「朝政を聴く」地位に置かれ、二人は微妙な立場に居ました。 もちろん、大津皇子への皇位継承は天武帝の望みでしたから、持統帝とは考えが違いました。天武と持統の二人は皇位継承に対しても意見が一致していませんでした。

 しかしながら、天武帝には皇后としての鵜野皇女(持統帝)が必要だった。そこには重大な意味があったのでしょう。あまたの妃の中から、なぜ持統帝が皇后に選ばれたのか? 思い出してください。天武帝は天智帝の後宮の女性たちをことごとく、新王朝の後宮に移しました。高貴な血統を他に漏らさない為でした。そして、あまたの後宮の女性の中で、鵜野皇女こそが皇后にふさわしかったのです

大王になれる皇族は限られています。同じく皇后になれる女性も限られているのです。持統帝は特別な皇女だったのです

 貴種に対する執着は、武家の時代になっても根強く残り続けました。

古代には、その出自で一生が決まったのでしょうね。

いかさまに おもほしめせか 神風(かむかぜ)の伊勢の国に行ってしまった天武天皇。仏教に帰依していた天武帝でしたから西方浄土へ行かれたと思っていたのに、夢の中で神の国である伊勢に行かれてしまった…古代では、夢も現実と同じでした。そこには、天武天皇の出自がかかわっているのでしょうか

 また、天武帝は天皇自らが政治をすることを目指していたので議政官の任官はなく、他に権力を分けるつもりはなかったのですが、持統称制になると太政大臣・右大臣の任命が始まります。政治のやり方も天武帝とは違っているのです。

天武朝では壬申の乱で天武帝に協力した豪族たちは出世できなくて、さぞやがっかりしていたことでしょう。天武帝の政治は、律令政治を目指した孝徳朝や天智朝とは基本的に違っていたのですから。

律令によって権力を握ろうとしていた近江朝の残党である中臣氏も痛手だったことでしょう。ですが、藤原氏は持統帝に近づける大きなカギを握っていました。それは、藤原不比等の出自に関わることでした。その鍵で、持統帝に近づいたのだとわたしは思います。 

不比等が淡海公(たんかいこう)と呼ばれていたことは、ご存じでしたか?えらく意味深なおくり名ですね。まるで、天智天皇の御落胤と云わんばかりではありませんか。それが、不比等が持統帝に接近する鍵だったのだと思うのです。

後にはそのことを書きましょう。

 また明日


50天武天皇崩御の八年後に「持統帝の御歌」

2017-03-23 10:03:19 | 50天武天皇崩御八年後の持統帝の御歌

  天武天皇崩御の八年後の持統帝の御歌

 天武天皇崩御の八年後(693)の九月九日(天武帝の命日)の御斎会(ごさいえ)の夜、持統天皇の夢の中に詠み覚えられた御歌一首が、万葉集にあります。御歌なので(御製歌ではないので)皇后であった時の持統天皇の歌となっています。御斎会は宮内にて行われましたが、まだ藤原宮には遷都していません。飛鳥浄御原宮は天武天皇の宮で、伝板蓋宮(いたぶきのみや)跡から掘立柱の大型建築物址や大井戸址が発掘されていますから、ここが飛鳥浄御原宮跡だという説が有力です宮号を正式に定めたのは、朱鳥元年(686)7月で、天武天皇の崩御の二か月ほど前でした。それまでは、板蓋宮と重なっていたようで何宮と呼んでいたのでしょうかねえ。

 

持統天皇の歌は162番歌で、草壁皇子の挽歌167番より前に載せられていますが、現実には草壁皇子の歌の方が先に歌われています。草壁皇子薨去(689)の方が、天武帝崩御の八年後(693)より早いのですが、天武帝の崩御(686)に合わせて歌を歌集に掲載したのでしょうね。

持統帝は人麻呂の歌を夢の中で思い出したのかも知れません。草壁皇子の挽歌にも共通する「飛鳥の浄見宮」「天の下知らしめし」「高照らす日の皇子」「いかさまにおもほしめせか」が使われています。

 162 明日香の清御原(きよみはら)の宮に天の下知らしめしし 八隅(やすみ)しし吾(わご)大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 いかさまに おもほしめせか 神風(かむかぜ)の伊勢の国は おきつ藻(も)も 靡(な)みたる波に 塩気(しおけ)のみ 香れる国に 味(うま)こり あやにともしき 高照らす 日の皇子

明日香の浄御原の宮に天下をお治めになられた、支配者である我が大王は、高きより天下を照らす日の皇子であるのにどう思われたのだろうか、神風の伊勢の国は沖の藻も靡いている波の上を、塩の気のみが漂い香っている国。そんな国に(何故行かれたのか)。言葉にできないほど慕わしい高照らす日の皇子が…

この歌は中途半端だそうです。確かに、途中で言葉が切れた感じですね。

日の皇子である天武天皇が、持統皇后の夢の中で行かれたのは「塩気のみが香る伊勢の国」でした。持統天皇にとって、天武帝が伊勢国へ行くとは理解しがたいと、いうのです。伊勢とは、壬申の乱で高市皇子(天武側)に加勢した神の坐す土地で、天照大神を祀る神社のある土地でした。壬申の乱後に、天武帝は皇女を斎宮として送りました。

最近こそ二千年の神祀りの神社とかメディアが報道しているけれど、伊勢神宮が歴史に登場したのは新しいのです。更に、明治になるまで、伊勢には天皇の参拝がなかったというのです

しかし、その伊勢に天武天皇の霊魂が行かれたというのですから意味深ですね。

伊勢神宮は天武天皇に取って、その皇室にとって大事な神であり、氏神の神社であったのです。一般の人が願い事をすることも禁じられていました。ご神体は鏡とされています。、玉、剣といえば、三首の神器でも有名ですね。

 そういえば、万葉集に詠まれる神社には「石上神宮」がありましたね。石上神宮は物部氏の神社で、ご神体は剣(空を切る時のフッという音から、フツ主の神ですね)

 とすると、弥生の神であった鏡と剣と玉を祖先神とする氏族のルーツは、北部九州なのでしょうか。イザナミとイザナギがアメノヌボコを使ってオノコロ島を生みましたが、ヌボコのも九州の氏族のシンボルですね。豪族のルーツは祀る神々で分かるのではないでしょうか。

それにしても、持統天皇は仏教で御斎会をしていたのに、天武天皇は神の国に行ったというのです。仏教と神道では葬儀や法要のやり方も違っていましたから、持統天皇には夢の中の天武天皇の行動が意外でした。もちろん、現在の私たちにすれば「夢の中で伊勢に行かせたのは、持統天皇の潜在意識」だと分かります。

しかし、持統天皇は「夫は伊勢に行くことを心の底では望んでいた、が、それは意外だった」と歌に詠みました。夢は古代の人には現実でしたから、夫の本当の気持ちを妻が知ったのです。万葉集はその事を書き残したのでした。

貴方は伊勢に行ってしまった。そこで貴方は安心されたのでしょうねと。

また明日


49持統皇后と天武天皇の絆は強かったのか?

2017-03-22 21:22:40 | 49持統皇后と天武天皇の絆は深かった

持統皇后天武天皇の絆強かった?それとも…

持統皇后は藤原鎌足の子・不比等と手を組んで孫の軽皇子(文武天皇)の即位への道を造り上げた人だとされ、大津皇子だけではなく天武帝の皇子を死に追い込んだように言われています。また、天武・持統の合葬墓に見られるように、二人は相愛で仲睦まじかったとされています。二人の絆の深さは、万葉集で読めるのでしょうか。

不比等の父の藤原鎌足は、天智帝の腹心の部下でありました。鎌足没後、天智帝は鎌足の息子の不比等がまだ幼かったので、叔父の藤原金を右大臣として引き上げました。藤原金は天智帝亡き後は大友皇子に仕え、壬申の乱後に斬られました生き延びた藤原不比等は持統帝に仕え、目覚ましい出世を遂げました

では、不比等は天智朝を滅ぼした天武朝に忠誠を誓ったのでしょうか。天武天皇の皇子達の非業の最後を見ると、藤原氏の関与は十分に考えられます。藤原氏の陰謀は持統天皇の意思だったのでしょうか。または、持統帝は藤原氏の陰謀を見過ごしたということでしょうか。気になるところですよね。

 

天武天皇崩御の時、持統大后の御作歌

まず、万葉集・巻二の「挽歌」持統帝が天武帝の崩御の時に詠んだ歌を見てみましょう。

天皇崩(かむあが)りましし時、大后の作らす御歌一首

159 八隅しし 我が大王の 暮(ゆう)されば 召し賜ふらし 明けくれば 問ひ賜ふらし 神(かむ)岳(おか)の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 召し賜はまし その山を 振りさけ見つつ 暮(ゆう)されば あやに哀しみ 明けくれば うらさびくらし あらたへの 衣の袖は 乾(ふ)る時もなし

世の隅々までお治めになられた我が大王は、夕方になると御覧になられただろう。明け方になれば、きっとお訊ねになられただろう、神の山の黄葉を。今日だってお尋ねになられたであろう。明日もご覧になるだろう。その山をはるか遠くに仰ぎ見ながら、夕方になると何とも悲しく、明け方になると何とも寂しい思いで暮らしているので、荒栲の喪服の袖は涙に濡れて乾く時もない。

 もし帝がご健在であれば、きっと神山の黄葉を朝晩お尋ねになったであろう。が、帝は既に崩じられたので、何も問われることはない。(我が大王はもうこの世の方ではないと思いながら)、神山を仰ぎ見ると思い出して悲しい、というのです。「太后の御歌」となっているので、崩御後余り日を経ない秋の詠歌でしょう。しかし、すっかり遠くの人を恋しく思うように感じます。

次の歌は、「或本に太上天皇の御製歌二首」となっていると題詞にあります。

 一書に曰く、天皇崩じたる時の太上天皇の御製歌二首

160 燃ゆる火も取りてつつみてふくろには 入ると言(い)はずやも智男雲(*)

燃えている火だって、手に取って包んで袋に入れることができるというではないか。そんなこともできるのに、何で・・・できないのか。*おも知るなくも(定説なし)

161 南山(きたやま)にたなびく雲の青雲の星(ほし)離(さか)りゆく月を離(はな)れて

北山にたなびいている雲は、あれは帝の霊魂だろうか。あの青雲が星を離れて行く。月さえも離れて…帝の霊魂は何もかも置いて離れていかれるのか。

何度読み返しても、持統天皇の御歌も御製歌も言葉足らずで「亡き人への執着」が感じられないのです。天武帝と熱烈に愛し合っていたとは思えないのです。でも、天武帝からは大事にされたのでしたね。あまたの妃の中から、皇后に立てられたのは持統帝でしたから。

「吉野の盟約」のあと、持統帝は後宮のトップになりすべての皇子と皇女の母となったのでしたね。二人の合葬墓を見てみましょう。

 

野口王墓と呼ばれる八角形の陵墓です。辺りの景色も見てみましょう。

王家の谷と呼ばれるこの辺りには、高松塚古墳もあります。

貴方は、持統帝は天武帝を深く愛していたと思いますか? 万葉集を読んでいると、わたしには「どうだったのかなあ。あまり愛していなかったのかな」と思えるのですが。

どうですかね? また、明日

 


48高松塚古墳の謎は解ける

2017-03-18 00:39:12 | 48高松塚古墳の謎を解く

高市皇子の薨去と謀反事件

ヨミガエリを拒否された大王・高市皇子

高松塚古墳が発掘された時、その埋葬の様子が問題になりました。

石室は狭いのですが、壁画があり、それが大きな話題となったので、その為に他の事実が目立たなくなってしまいましたが、当時、被葬者は「何か罰を受けるような、事件に巻き込まれた人」であるとされていました。

わたしの記憶が確かであれば、遺体の様相が問題だったと思います。頭蓋骨がなかった…首の骨は有ったので斬首ではないと。この話題はいつの間にか消えたようですが、問題が解決されたのではありません。

埋葬当時から頭蓋骨が抜き取られていた(小さな骨、甲状軟骨・舌骨などは残る)のでしょうか? それとも、埋葬後何らかの事情で陵墓に手が入ったのでしょうか、長屋王事件の後とかに。被葬者は筋骨の発育のいい壮年男性で、7世紀末に死亡。

梅原氏は「人骨に頭蓋骨がない・鞘のみで、大刀の刀身が抜かれている・日月像と玄武の顔が削られていた」これは、呪いの封印で、被葬者のヨミガエリを阻止したのだという。 ですから、軽皇子(文武帝)の立太子に異議を申し立てた弓削皇子が被葬者と、梅原氏は主張されました。高市皇子だと言ったのは原田大六氏だけです。

わたしは、ずっと草壁皇子だと思っていました。それは、治田神社(岡宮跡・草壁皇子が育った)と、高松塚石室と、岡宮天皇陵が直線で結ばれるからでした。所縁の宮と改葬前の墓とを結び、尚かつ耳成山の真南に位置するのは、草壁皇子の墓以外には考えられないと思っていました。数年前に、ブログにもそう書きました。

(治田神社と岡宮天皇陵を結ぶラインは、高松塚古墳の石室の上を通ります)

しかし、出土した歯の鑑定が壮年男性となったので考え直したのです。では、「後皇子尊」と尊称で呼ばれた高市皇子以外にないと結論しました。高市皇子ならヨミガエリを阻止された大王(天武朝に皇統が移ることを阻止した)だったと十分考えられます。(では、文武天皇の血統は天武朝ではなかったということになりますが、ここでは触れません)だからこそ後世に、耳成山と高松塚古墳の間に文武陵を築造したのです。そして、岡宮天皇陵(草壁皇子の陵)も束明神古墳に改葬した、と考えます。

(高松塚の真北に、中尾山古墳=文武天皇陵が耳成山と高松塚古墳の間に入る)

(岡宮天皇陵ではなく、束明神古墳が草壁皇子の墓という。写真は復元された石室)

そうなると、高市皇子の死は再検証しなければなりません。なぜ、あの時期に薨去しなければならなかったのかを。しかも、謀反事件には共通点がありそうです。

 謀反事件には共通点がある

有間皇子の場合

658年 中大兄皇子の息子の建王没(5月)斉明天皇も嘆きました。

半年後に、有間子に謀反の疑い(11月)有間皇子没

蘇我系女子が生んだ建王の死で、中大兄は後継者を亡くしたことになった。大友皇子は後継者となれなかったから、中大兄は後年「不改常典」を考えた。嫡子の皇位継承の法則を大友皇子で実現するため、「改めべからざる常の法」を持ちだすことになったと思われるのです。 

高市皇子の場合

太政大臣という最高位についていたが、文武天皇の元服が近くなった。

696年 高市皇子没(7月)絶妙のタイミングに薨去したとは…

半年後に、697年 軽皇子立太子(2月)が立太子され、

半年後に、軽皇子(文武天皇)即位(8月)

軽皇子の立太子と即位が滞りなく行われるには、高市皇子の存在が邪魔だったとしか考えられない。高市皇子がいては文武天皇(藤原氏側)が即位できない可能性があった。

 ③氷高内親王の即位の場合??

714年 首皇太子元服(14歳)*藤原氏は次の年の即位を考えていた?

715年 長皇子(6月)穂積皇子(7月)志貴皇子(8月)没 *三人の皇子が!

     氷高内親王即位(9月)*元明天皇の熟慮の結果

独身だった氷高皇女(元正天皇)には身分が高すぎて嫁ぎ先がなかった(?)か、藤原氏としては、皇位継承者を拡散するつもりはなかったので結婚は避けた。藤原氏は、首皇子(文武天皇の子・聖武天皇)を元服させ、即位準備は十分に整っていたが、元明天皇は娘の氷高皇女を即位させた。それは何故か? このことは後に触れましょう。

長屋王の場合

727年 藤原光明子の産んだ基王が生まれてひと月で立太子

728年 基皇太子一歳で没(9月) *藤原氏には大打撃

半年後に、729年 長屋王、謀反の密告で自刃(2月)

聖武天皇と光明子の間に生まれた基王は生後すぐに立太子されたが、一歳ほどで死没。藤原氏側はすぐさま長屋王家の滅亡を図ったという、将に陰謀だった。 

壬申の乱後の謀反事件は、 壬申の乱のいびつさから引き出された

壬申の乱が天武朝に大きく入り込み、その亀裂に入り込んだ藤原氏が様々な策を講じて律令政治を掌握し、後の横暴につながっていくと思うのです…

天武天皇の謀反事件とも思われる壬申の乱が、結果として天武朝の王子が次々に命を絶たれていくという展開につながる大きな要因だと思うのです。万葉集を読むかぎり。

 7世紀の天武朝の謀反事件で、忘れてはならない事件がありました。

朱鳥元年の大津皇子謀反事件です。ここで、大津皇子が死を賜ったことが、結果的に天武朝の滅亡へと展開していくのですからね。天武帝の寵愛を一身に受けた大津を死なせたことが、天武帝の後宮をバラバラにしたのです。大津を殺して、他の誰を天武帝の後継者にするのだ? その責任は高市皇子にもありました、大津皇子を断罪したのですから。

大津皇子の死後三年、皇太子草壁皇子が薨去します。即位せず、皇太子のままでしたが、その死の顛末は何も語られていませんが、大津事件が影を落としていたことは十分に考えられます。日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)とは、死後に贈られる諡号ではないかと言われています。すると、皇太子という地位も死後に与えられたのかも知れません。死後に天皇の称号を与えられた皇子もいますから、考えられないことではありません。

人麻呂は挽歌を献じましたね、草壁皇子にも高市皇子にも。ですが、大津皇子の挽歌は詠まなかったようです。しかし、大津皇子の臨死の歌も姉の大伯皇女の歌もきちんと集めました。謀反発覚の前後を万葉集に残したのは何故でしょうか。答はひとつ、重要な皇位継承者であった大津皇子を忘れてはならなかったし、その死を心から傷み鎮魂の意思があったからです。他に考えられません。

また明日


47人麻呂は知っていた・高市皇子の薨去の意味

2017-03-17 22:06:24 | 47人麻呂が献じた高市皇子の挽歌

人麻呂は高市皇子の不審な死を知っていた!

高松塚古墳の被葬者と耳成山

 

持統天皇は、高市皇子をどのように葬ったのでしょうか。死後の葬儀や陵墓はその被葬者の立場をそのまま示すものです。万葉集で一番長い挽歌を奉られたのは、高市皇子です。最高権力者としての葬儀だったのです。

 高市皇子は天武天皇の第一子で、妻は天智帝の皇女・御名部皇女でした。
草壁皇子は死後に日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)と諡され、高市皇子は後皇子尊(のちのみこのみこと)とされました。草壁の跡継ぎの立場で、権力の中枢に居たことになります。そして、持統天皇十年(696)七月・薨去

 高市皇子の陵墓は、高松塚古墳という説がありますが定説ではありません。

壁画装飾で知られる高松塚古墳の被葬者は誰なのでしょう。高松塚古墳は、耳成山の真南に位置します。将に、「耳に成す山」の真南ですから、「ミミ」とは「時の最高権力者」のことでしょう。発掘された骨は、40才過ぎの壮年の男性でした。では、草壁皇子ではなく、若い弓削皇子でもなく、7世紀後半なら高市皇子となります。

 高市皇子は最高権力者だったのです。書紀では「太政大臣」となっていますし、妃は天智天皇の皇女・蘇我氏系女子でしたから、最高の地位に在ってもおかしくありません。その高市皇子の挽歌(長歌)は草壁皇子の2倍以上あります。立場からすれば当然の事でしょうね。では、万葉集巻二「挽歌」ですが、長いので分けて読みましょう。

 高市皇子尊の城上(きのへ)の殯宮(あらきのみや)の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首併せて短歌

199 かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏(かしこ)き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を かしこくも定めたまいて 神さぶと 磐隠ります 八隅しし わが大王の

ことばに出すこともはばかれる、言葉にして言うことも何とも畏れ多い、明日香の真神の原に ひさかたの天上の聖なる御殿を畏れ多くもお定めになって、神として窟におられる 世をお治めになった我が大王の

ここに歌われているのは、天武天皇のことです。人麻呂は、挽歌の冒頭には天武天皇のことを述べ、高市皇子の血統を示しました。明日香に王朝を建てた天武帝の皇子だと。

(わが大王の)きこしめす 背面(そとも)の国の 真木立つ 不破山越えて 高麗剣 和射見が原の 行宮(かりみや)に 天降りいまして 天の下治めたまひ 食(お)す国を 定めたまふと 鶏(とり)が鳴く 東の国の 御軍士(みいくさ)を 召したまひて ちはやぶる 人を和(やは)せと 奉(まつ)ろはぬ 国を治めと 皇子ながら 任(よさ)した まへば 大御身に 太刀取り佩(は)かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士(みいくさ)を 率(あども)ひたまひ 

 我が大王のお治めになる北の(美濃)の国の 真木の立つ不破山を越えて、和射見の原の 行宮に 神のように天降りおいでになって 天の下をお治めになって、統治なさる国を鎮めようと、鶏が鳴く東の国の 軍勢をお集めになって、荒れる人々をおさえ鎮め、従わない国を治めよと、皇子であるからこそお任せになったので、皇子はその御身に太刀をお佩きになり、その御手に弓をお持ちになり、軍勢を率いられた。 

ここも、ほとんどが天武帝の命令を高市皇子が受けたことが語られているようです。壬申の乱の指揮官を任せられた皇子であると。この後に、戦で高市皇子が活躍したことが述べられています。

整ふる鼓の音は雷の声と聞くまで 吹き鳴せる小角(くだ)の音も 敵(あた)見たる 虎か吠ゆると 諸人のおびゆるまでに ささげたる旗の靡きは 冬こもり春さり来れば野ごとに つきてある火の 風のむた 靡くがごとく取り持てる 弓弭(ゆはず)の騒ぎ み雪降る 冬の林につむじかも い巻き渡ると 思うまで聞きの畏く 引き放つ矢の繁けく 大雪の乱れて来れ まつろはず立ち向かひしも 露霜の消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに 渡会の斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を日の目も見せず 常闇に覆いたまひて 定めてし 瑞穂の国を神ながら 太敷きまして 

鼓の音はは雷の声かと聞き違えるほど 兵士が掲げる軍旗の靡きは、野火が風にあおられるように見え 弓はずの音は、大雪の降る冬の林につむじ風が吹き渡るように聞こえ飛んでくる矢があまりに多く、大雪が飛んでくるようだった 立向かう兵士も命がけで戦っていた時、渡会の伊勢の宮から神風が吹いてきて、その天雲で敵を覆ってしまったそうして、水穂の国を 神として大いにお治めになった

壬申の乱での活躍が語られました。天武帝は和射見が原の仮宮に居て戦には参戦していません。すべて若い高市皇子に任せたと歌われています。命がけで戦っている時、伊勢の神が助けてくれた。伊勢の神は高市皇子を助けたのです。

やすみしし 我が大王の 天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと 綿花(ゆふばな)の 栄ゆる時に 我が大王 皇子の御門を 神宮に 装(よそ)い奉りて 遣(つか)はしし 御門の人も 白妙の 麻衣着て 埴安(はにやす)の 御門の原に あかねさす 日のことごと 鹿じもの いはひ伏しつつ 烏玉(ぬばたま)の ゆうべになれば 大殿を 振りさけ見つつ 鶉(うずら)なす いはいもとほり さもらへど さもらひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも 未だ過ぎぬに おもいも 未だ尽きねば 

 天下をお治めになった大王(天武帝)に、我が大王(高市皇子)が天下のことを申しあげられたので、いつまでもそうであろうと、結う花のように栄えていた時に、我が大王の皇子の御殿を 神殿(御霊殿)として飾りたて 仕えていた御殿の人も真っ白な麻の喪服を着て、埴安の御殿の庭に 一日中を鹿ではないが腹這い伏して、暗い夜になれば 御殿を仰ぎ見ながら 鶉ではないが 這うようにうろうろし、お仕えしているけれど、お仕えするかいはなく、春の鳥のように鳴き迷っているのに 悲しみも未だおわってはいないのに、皇子を想うこともまだ尽きてはいないのに

 しかし、突然、皇子に死が訪れた。何もかも受け入れがたく、気持ちの整理がつかないままなのに、皇子の霊殿から殯宮へと亡骸をお送りすることになってしまったのだ。

言さえく 百済の原ゆ 神葬(かむはぶり)り 葬りいませて あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大王の 万代(よろづよ)に 思ほしめして 作らしし 香久山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振りさけ見つつ 玉だすき 懸けて偲ばむ 恐こけれども

あの百済の原を通り抜けて、神として葬り奉り、城上の殯宮を 常にお住まいになる宮として 高くお祀りし 神として鎮坐されてしまった。しかれども、我が大王が「万代までも」と思われてお造りになった香久山の宮(藤原宮)、この宮は万代までいつまでも残って行くと思われただろうなあ、皇子の陵墓をみると。

天を仰ぐように皇子を振り仰ぎながら、玉だすきを懸けるように皇子のことを心にかけてお偲びしたい、畏れ多いことだけれど。

高市皇子は神として葬られたそこは神がお住まいになるにふさわしい所。そこは、藤原の宮を万代までも守るところ。それは高市皇子自身の願いだった。人麻呂は、高市皇子の陵墓が何処に祀られたか知っていました。だから、香具山の宮(藤原宮)のとこしえを詠み込んだんだのです。高市皇子は自分の墓所を決めていたのかも知れません。草壁皇子の所縁の地に挟まれた藤原宮を見守る位置に。

文武陵から谷に下りて丘を登ります。

文武陵の真南200mの丘には高松塚古墳があります。奥の岡が文武陵のあるところです。木がなければよく見えます。

高松塚は六角形の墳丘を持つそうです。

人麻呂は高市皇子を如何に詠み上げたでしょうか

①天武天皇が天下を治めた ➁高市皇子は天皇のために戦の前線にたった ③その戦いは、敵を圧倒した ④すっかり皇子の代になると思っていたのに ⑤皇子は亡くなり、誰もが混乱した ⑥皇子は城上の宮にお住まいになるが、お造りになった藤原宮は万代まで栄えてほしいのだろう ⑦皇子をこれからも偲んでいこう

という内容です。あまた言葉が並んでいますが……高市皇子は、確かに大王でした。天武天皇と同じ文字「大王」を同じ詩篇の中に人麻呂は使っています。草壁皇子の挽歌には、大王とは使わず「吾王」、明日香皇女の挽歌にも「吾王」でした。王と大王は使い分けられているのです。人麻呂が「大王」を使う人物は限られています。高市皇子こそ壬申の乱を勝利に導いた人でした。渡会の神も東国の兵も高市皇子に味方し集まったのです。彼らが集まる理由があったはずで、それは高市皇子の出自に関わることなのでしょう。

人麻呂は高市皇子が次の大王であることを知っていました。その大王が突然薨去したことに衝撃を受けました。皇子を失った怒りと悲しみの中で、「壬申の乱とは何だったのか。高市皇子が父の謀反を助けたのではないか」と指摘し、東国の兵を集められたのは高市皇子と云う旗璽があったからで、「大王だからこそ伊勢の神も助けたのだ」とぶちまけたのです。壬申の乱から既に二十四年がたっていますが、それでも意味のある出来事(天武天皇の謀反事件)で、過去の歴史になるにはまだ時間が必要でした。

高市皇子の挽歌を読むかぎり、天武天皇は「いやつぎつぎに天の下」を治めて来た大王ではありません。飛鳥で即位した大王で息子の高市皇子の手柄により「壬申の乱」に勝利した大王でした。新しい王朝だったから前方後円墳ではない墳丘を求めたのでしょうね。

高市皇子は耳成山の真南に葬られた大王でした。しかし、その耳成山との霊力は文武陵によって断たれます。そして、瓦などは運び出されて藤原宮も捨てられるのです。

 

また明日


46高市皇子を裏切った但馬皇女

2017-03-17 21:33:33 | 46高市皇子を裏切った但馬皇女

高市皇子を裏切った但馬皇女

記紀には道ならぬ恋の話が出てきますが、その恋は許されていません。しかし、天武朝では許されたのでしょうか。

高市皇子の宮に居た但馬皇女は、穂積皇子を好きになります。二人は恋仲になったようですが、穂積皇子と但馬皇女のふたりは咎めは受けなかったのでしょうか。

 

但馬皇女、高市皇子の宮に在(いま)す時、穂積皇子を思(しの)ひて作らす御歌一首

114 秋の田の穂向きのよれるかたよりに君によりなな事(こち)痛(た)くありとも

 秋の田の稲穂は重くて片方によってしまうが、その片よりのように貴方にわたしは寄り添いたい。どんなに人がいろいろ噂して煩わしくあっても。

穂積皇子に勅して近江志賀の山寺に遣(つか)はす時に、但馬皇女の御歌一首

115 遣(おく)れいて恋つつあらずは追いしかむ道のくまみに標結え吾がせ

行ってしまった貴方を恋しく思いながらいるよりは、追いかけて行きますから、道の曲がり角ごとに標を結って神様にお祈りしていて下さい、あなた。

但馬皇女、高市皇子の宮に在す時、竊(ひそか)に穂積皇子に接(あ)い、事すでに形(あらは)れて作らす御歌一首

116 人事(ひとごと)を繁みこちたみ己(おの)が世に未だ渡らぬ朝川渡る

世間の噂がひどくて煩わしいので、生まれてこの方一度も渡ったことのない川を、それも朝川を私は渡る   

但馬皇女の御歌一首 一書に云う、子部王作る

1515 事繁き里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひてゆかましものを

世間の噂が激しくて耐えられないような里に住まないならば、今朝鳴いていた雁と一緒に連れだって飛び去ったのに

 但馬皇女の薨(こう)ぜし後に、穂積皇子、冬の日に雪の降るに御墓を遥望し悲傷(ひしょう)流涕(りゅうてい)して作らす御歌一首

203 降る雪はあはにな降りそ吉隠(よなばり)の猪(い)養(かい)の岡の寒くあらまくに

雪が降って来た。雪がたくさん降ったならあの人が眠っている吉隠の猪養の岡が寒いだろうから、多くはふってくれるな。

但馬皇女

父・天武天皇  母・藤原鎌足の娘、氷上娘

?生~和銅元年(708)没 高市皇子の宮に住んでいた 穂積皇子に惹かれていた

穂積皇子

父・天武天皇  母・蘇我赤兄の娘、大蕤(おおぬ)媛

壬申の乱後?生~霊亀元年(715)薨去

・持統五年(691)浄広弐  *大伴坂上郎女も皇子の妻だった

この二人の恋歌は、万葉集の中でも際立って、教科書にも取り入れられるほど有名です。持統天皇はこの恋を許さなかったとして、穂積皇子を志賀の寺に使いに出したと解釈されています。その時の歌が115番で旅に出た皇子を心配する但馬皇女の詠歌だそうです。

志賀の寺と云えば、平安時代にはかの清少納言も「寺は志賀…」と書いたほどの有名な寺院だったのですね。それはともかく、持統天皇が大事にした寺でもあったのです。

そこへ穂積皇子をやって少しほとぼりが冷めるのを待ったのでしょうか。罰されなかったのは、但馬皇女が藤原系の皇女だったからでしょうかねえ。

また明日


45天武天皇の歓喜!芳野よく見よ

2017-03-17 15:52:26 | 45天武天皇の歓喜・吉野盟約

天武天皇の歓喜! 吉野盟約

天武天皇は大喜びした! それが「吉野盟約」でした。

天智帝の前で出家すると宣言し吉野に落ち延びた時の天武天皇御製歌は、冬の吉野の山越が大変苦しかったと、そこを耐えて何とか落ち延びたのだという内容になっています。しかし、次の吉野の歌は何でしょうね。手放しで喜んでいるのですね。

正直、昔この歌を読んだ時、何も物語性を感じることができず、面白くないしつまらないと思ったのです。こんな御製歌を残していいの?と…が、今になって「何て意味深な、しかも強引な意図があるにもかかわらず哀愁の漂う歌だろう」と思うのです。

吉野盟約とは、天武八年(679)五月五日

天武天皇が「千歳の後に、事なからしめむと欲す、いかに?」

と問えば、皇子達、「ことわり、灼然(いやちこ)なり」と答えた。

千年の後まで事がないようにしたいが、どうか?

道理はまことに明白です。

 六人の皇子が「われら十余りの王は、それぞれ母が違っているが、天皇の勅に従い、これから助け合い逆らうことはしない」と天武帝と持統皇后に盟約をしました。

六皇子とは、草壁・大津・高市・川島・忍壁・志貴ですが、この誓いの詞は正確ではありません。違っているのは、母だけではないのです六人のうち二人の皇子(川嶋・志貴)の父は、天智天皇でしたから、父も違っていました。

ここで行われた天武八年五月の儀式は定説のように「皇太子決め」でしょうか。

草壁皇子が立太子されるのは、天武十年か十二年でしたね。吉野盟約と呼ばれる儀式は天武八年で、十市皇女の死の翌年です。十市皇女のように思い詰めて苦しむことはないと、天皇が家族として後宮の女性達とその連れ子達を連れて吉野に行き、家族として認めたのです。

だから、川嶋皇子(天智帝の皇子)、志貴皇子(天智帝の皇子)が吉野盟約の六人に入っているのです。滅ぼした前王朝の皇子を入れて、「千歳のことなき」を誓い、新皇族が発足したのです。

川嶋皇子の姉は、天智帝の皇女の大江です。大江皇女は長皇子と弓削皇子を生んでいますから、その弟として新家族となったのです。志貴皇子の母は越道君の娘で何も記録は残っていませんが、この皇子は後の光仁天皇の父になる人です。吉野盟約に参加したのは意味のあることだったのでしょう。

吉野盟約とは「新王朝を立てたことを確認し、前王朝の子女も含めて新王朝の家族となる儀式だった…と思います。

だから、天武天皇は歓喜しました。

吉野宮に行幸して「新王朝」の儀式をした時の喜びの歌が万葉集巻一にあるのです。気持ちの上でも、全ての女性と皇子皇女たちを受け入れようとしたのです。

天皇吉野宮に幸(いでま)す時の御製歌

27 淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見与 良人四来三

よきひとの よしとよくみて よしといいし よしのよくみよ よきひとよくみ

 ここ、芳野を、淑き人が良い所だと、よくよく見て、好しと言った。その芳野をよく見よ、若い良き人達よ。よく見よ。この吉野こそ、我が王朝の興隆の地であるぞ。

 天武朝の後宮

 天武天皇の妃には、天智天皇の皇女が四人入っています。大江皇女と新田部                 皇女は、壬申の乱後の後宮入りでした

大田皇女(蘇我氏系母) 大津皇子(663~686)・大伯皇女

鵜野讃良皇女(蘇我氏系母)草壁皇子(662~689)

大江皇女(忍海造母)  長皇子・弓削皇子 *676年以降の出生

新田部皇女(阿倍氏系母)舎人皇子 *676年以降の出生

新田部皇女の姉・明日香皇女の嫁ぎ先ははっきりしません。なぜ、明日香皇女を後宮に入れなかったのか。そこにキーポイントがありますね。

大江皇女と新田部皇女の初産の時期から推察すれば、壬申の乱当時は二人は稚かったのでしょう。長皇子と舎人皇子は、大津皇子や草壁皇子の出生年と比べても遅い出生年となっています。

つまり、若い皇女も高齢の婦人も、全て次の王朝に移動させた、その自由を束縛したということ。急激な変化に耐えかねた采女や皇女が自殺したようです。壬申の乱という内乱の後、女性たちはこぞって天武朝の皇子に振り分けられたということでしょう。女性たちはしたたかに生きて行くのですが…

高市皇子(654~696)の妃にも天智帝の皇女が入っています。

御名部皇女(蘇我氏系母)長屋王(676~729)

十市皇女(母は額田王) 葛野王は大友皇子の子

但馬皇女(藤原氏系母) *穂積皇子に傾く

草壁皇子の妃に天智帝の皇女が入っています。

阿閇皇女(蘇我氏系母)元正天皇(680生)文武天皇・吉備内親王

大津皇子の妃にも天智帝の皇女

山辺皇女(蘇我氏系母)*大津皇子に殉死(686没) 栗津王 

そうですよね、同じ皇女でも蘇我系の母を持つ皇女が重要だったことがわかりますね。蘇我石川麿は右大臣・蘇我赤兄は左大臣にまで上りました。特に、石川麿の娘達は皇女を生みました。その皇女の子どもたちが皇位継承者になったのです。 

蘇我氏は大化改新(645)で滅びたのではありません。本家は滅亡しましたが、分家の子女が王朝を支えたのです。当然、持統天皇も蘇我系の皇女です。

持統天皇は苦しんだのか?

さて、天智朝にたくさんの女性が移動させられたとして、持統天皇はどのような立場になるのでしょう。

また、後で

 


44柿本人麻呂が詠んだ吉備津采女の罷り道

2017-03-16 21:41:31 | 44人麻呂が詠んだ吉備津采女の挽歌

吉備津采女の罷り道は何処か

万葉集巻二の217~219「吉備津采女が死にし時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 併せて短歌二首」は、どんな状況で詠まれたのでしょうか。

(217)秋の山のようにかがやく娘、なよ竹のようにたおやかなあの子は、何をどう思ったのか栲縄のようななかなか切れそうにない長いはずの命だったのに、露ならば朝置いても夕べには消えるといい、霧ならば夕べに立って朝は消えるというが、あの子は露でも霧でもない。梓弓の音のみを聞くようにあの子の噂を聞いただけの、采女だったあの子をぼんやりと見ただけの私ですらその死は悔しい。まして、手枕を交わし剣大刀のように身に添えて寝た若い夫はどんなに寂しく、あの子を思い出しながら寝ていることだろう。あの子を亡くしたことをどんなにか悔やみ恋しく思っているだろう。思ってもいない時に突然あの子は逝ってしまった、朝露のように、また夕霧のように。

 

(218)近江京があったあの楽浪の志賀津の乙女が、あの世にゆく時歩いた死道は川沿いの瀬の音の聞こえる道、そこを見るだけで乙女が偲ばれてさびしいのだ。

(219)あの大津の采女に出会った日、何も思わずぼんやり見過ごしてしまったことが、今になると悔しくてたまらない。

 人麻呂が吉備津采女の入水自殺を詠んだ歌は、まことに不思議です。この歌にはどんな背景があるのでしょう。まず、この娘は采女ですが、采女とは「後宮で天皇の食膳などに奉仕した女官。采女は郡司の次官以上の姉妹子女で容姿端正な者が選ばれて奉られた。臣下との結婚は厳禁された」とされる女性です。

なのに、この吉備津采女には夫がいますが、何故でしょうか。

それに、長歌では「吉備津采女」なのに、短歌二首では「志賀津の子ら」「大津の子」と詠まれていますが、同じ人物なのでしょうか。ここには様々な説があるようですが、柿本人麻呂が関係ない事件を一緒に詠んだとは思えません。一貫性のある長歌であり短歌であれば、三者は同一人物か関係者で、采女であるとなります。

そうですね、これは采女の悲劇を詠んだもので、この娘は吉備の津の出身で楽浪の近江京に奉仕した大津宮の采女でした。大津宮は壬申の乱後は荒都となっていましたから、采女は大津京に留まっていたのではないでしょう。采女である以上夫がいたはずもないのですが、吉備津采女には夫が居ました。知られれば厳罰のはずなのに、その事には触れられていません。そのわけは、采女が下賜された(?)というか、壬申の乱後に手柄のあった男性に与えられていたからではないでしょうか。

天皇の世話をするために選ばれた自分が身分的にも不満足な男性に与えられたのが苦しかったとか、大津宮で心惹かれる人がいたのに、近江方が破れた時その男性も命を落とし、そのことが心身を蝕んでいたとか。采女には、ささなみの志賀津の近江京にまつわる何かしらの物語があるでしょう。

当時の人は「さもありなん」と采女の死を悲しみ、いきさつを理解することができたはずです。 

吉備津采女が禁を破って恋をし、その為に入水自殺をしたという話ではないと思うのです。

この采女は川沿いの道を何処に向かって歩いたのでしょうか? それは大津宮に向かって歩いたとしか思えません。彼女はあの楽しかったころ、人生の内で一番輝いた大津宮の采女だったころに向かって、独り川に沿って歩きました。その川は宇治川の上流の瀬田川でした。淡海がだんだん狭くなり一本の川になって流れ出す、その川沿いを歩いたのでしょう、昔の宮殿に向かって。そして、身を投げた。

屍が上がったのは下流ですが、誰もが采女が何処から身を投げたかわかったでしょう。それは上流の淡海、あの近江朝の都があった楽浪の大津宮の近くの岸からだと。

吉備津采女の健気さと哀しさと痛ましさが人麻呂の胸を打ったのです。こんな健気な美しい娘をはっきり覚えていないことを悔やみ、死に向かう道で采女が思い出したであろう近江のはかない王朝の顛末、深い追慕の念に人麻呂は共感したと、わたしは思います。

 

大津京があった辺りの琵琶湖の岸辺

だんだん淡海は狭くなり、瀬田川となります。

そして、宇治川へと流れて行きます。

もののふの やそうぢかはの あじろきに いさよふなみの ゆくへしらずも

人麻呂の名歌です。人麻呂は、宇治川にも瀬田川にも滅亡した王朝を思って涙を流したのです。

また明日


43十市皇女の悲劇・天武朝後宮の女性達(1)

2017-03-15 17:15:48 | 43十市皇女の悲劇

十市皇女・天武朝後宮の悲劇(その1)

壬申の乱で勝利した天武天皇は、滅ぼした天智天皇の皇女達を後宮に入れました。特に有力氏族の皇女は、外に出しませんでした。

理由は、女性たちが天智帝の血統をつなぐ存在であり、皇位継承者を生む可能性があるので、高貴な血統を他に渡すことを避けたのです。壬申の乱後には、敵だった王家に仕えなければならないのですから、女性達には辛く重い束縛になったのではないでしょうか。

十市皇女(大友皇子の妃)の薨去

天武天皇と額田王の娘である十市皇女は、壬申の乱の総大将・大友皇子の妃で、皇子との間に葛野王を生んでいます。乱の後は、母の額田王と明日香へ帰り、高市皇子の妃となりました。

(高市皇子が築造した藤原宮跡・耳成山の前の森が大極殿跡)

十市皇女は天武7年(678)に薨去しましたが、突然の死でありました。

占いにより天武帝は天神地祇を祀るために百官列をなし斎宮に出発したが、いまだ京を出ない時に十市皇女が率然病発(にわかに病おこり)宮中に薨去された」と書紀にあり、天武帝は天神地祇を祭ることはできませんでした。行列は引き返したのです。また、十市皇女の葬儀にも天武帝は臨席し「恩情をもって哀(みね)の礼を行われた」とあり、天武帝が娘のために大泣きしたというのです

天武帝は斎宮に出発する前に宮中で娘に会っていたかも知れません。そこで「陛下、わたくしはこのような毎日に耐えることはできません。父上様、どうぞ娘のわたくしを何処かにお遣りください。わたくしは苦しくて死にたいほどでございます」と訴えたと思うのです。しかし、百官を連ねての祭りの行列は整っているのです。天武帝は泣いている娘を置いて蓋(おほみかさ)を命じたのでした。その時、十市皇女の絶望と父への恨みは頂点に達し突然の薨去となったと思うのです。天武帝は他の皇子皇女へこんな取り乱した対応をしたでしょうか。天皇の「哀の礼」とは、尋常ではありません。

十市皇女の薨去に対して、天武帝には特別の思いがあったということです。

十市皇女が亡くなった時の高市皇子の歌が、万葉集巻二・挽歌にあります。

十市皇女の薨ぜし時に、高市皇子尊の作らす歌三首

156 三諸の神の神すぎ巳具耳矣自得見監乍共い寝ぬ夜ぞ多き

みもろの みわのかむすぎ巳具耳矣自得見監乍共いねぬよぞおおき

(*読みは定説がない。いめにだにみむとすれどもいめにのみみえつつともに

あなたはあの三輪山の神の杉のように思えた。巳具耳矣自得見監乍共 わたしはよく眠れない日が続いている。あなたを理解してやれなかったことを後悔している。

この時、十市皇女は30歳過ぎくらいで、高市皇子は24歳です。敵将の子連れの女性に若い高市皇子は近づきがたかったのでしょう。しかも、自分は壬申の乱の天武帝側の総大将でしたから、十市の夫の大友皇子を殺し、その首も見たのです。天武帝の第一皇女の異母姉に対して、後ろめたさと恐れがなかったとは言えないでしょうね。

だから、高市皇子は嘆きました。

157 神山の山辺真(ま)蘇(そ)結(ゆ)ふ短か木綿(ゆふ)かくのみからに長くと思ひき

みわやまのやまべまそゆふ みじかゆふ かくのみからに ながくとおもひき

三輪山の麓の神社の神に奉るまそ木綿(ゆふ)、それは短い木綿だった。同じように短いとは気が付かなかった、私はあなたとの暮らしは長いとばかり思っていたのだから。なんと短い月日だったのだろう。

高市皇子の後悔が伝わります。

158 山ぶきの立よそいたる山清水酌みに行かめど道のしらなく

やまぶきの たちよそひたる やましみず くみにゆかめど みちのしらなく

山吹の花が咲き乱れているという山奥の山清水を酌んであなたに捧げたいけれど、そこはこの世ではないらしく、私には道が分からない。

埋葬の後でしょうか。少し落ち着いて皇女のことを偲んでいます。

 近江朝が滅んだ後、十市皇女は伊勢神宮に参詣したりして精神的再生を心がけていたのですが、明日香での生活は耐えられなかったのでしょう。思い悩んだ末の突然死だったのではないでしょうか。当然、近江朝から天武の後宮に移された女性にも不安が走ります。

十市皇女の突然の死(678)は、自死だったと思われます。
母である額田王は一人娘の死をどれほど悲しんだでしょう。
息子の葛野王は、母の死後幼いながらも自分の弱い立場が分かったに違いありません。
夫の高市皇子も異母姉を死なせた責任を感じていたでしょう。
父である天武帝にしても、宮中で自殺した娘を見て深い自責の念にかられたのです。

天智帝の皇女でありながらも生きられなかった十市の死は衝撃でした。

それで、一年後に「吉野の盟約」と言われる「新王朝の家族となる儀式」が行われたのです。

吉野の盟約は「草壁を皇太子とするための盟約」ではありませんでした。

天武帝は、「家族となろう」と呼びかけた新家族結成の儀式をしたのです。

後にも先にも、天武帝の吉野行幸はこの一回のみです。

 吉野盟約の次の年に、草壁皇子に長女の氷高皇女が生まれています。

草壁は安心して、天智帝の娘の阿閇皇女と結婚したのです。

しかし、天武朝の中の火種が消えたのではありませんでした。

後宮の女性たちの悲劇はまだまだ続きます。

 

また明日

 


42大津皇子を愛した女性達

2017-03-13 09:20:31 | 42大津皇子を愛した女性達

大津皇子を愛した女性達

夕闇に飲まれていく二上山。天武陵から見ると、夏至の陽は二上山に沈みます。天武帝と大津皇子を結ぶのは「夏至の日没と冬至の日の出」のラインなのです。意味深だと思います。

さて、今日は、大津皇子を愛した姉の大伯皇女の歌です。万葉集と云うと、持統天皇・有間皇子の歌と、この大伯皇女の歌が紹介されますね。大津皇子事件を詠んだ歌でもあります。

父の天武帝の殯の中に大津皇子は密かに倭を抜け出しました。伊勢の斎宮の姉に逢いに行ったのです。大事を姉には伝えたかったのでしょう。二人の仲は緊密でした。母亡き後、お互いに頼りにしていたのですね。

伊勢神宮の斎宮であった大伯皇女は弟の決断を聞いて不安を覚えました。しかし、弟を伊勢に留めるわけにはいきません、殯宮の最中ですから。大伯皇女が弟の思いを聞いた後、急ぎ倭に帰した時の歌が万葉集巻二にあります

直に話をしたからこそ、事の重大さを知ったからこそ、弟が立ち去った後も立ち尽くした、その心情が溢れた万葉集の傑作ですね。 

105 吾背子を倭へ遣ると小夜深けてあかとき露に吾立ち濡れぬ

夜中になって弟を倭に行かせてしまった。今、ヤマトへ遣るのは危険なのにあの子を行かせてしまった。あの子の姿が闇の中に消えても、夜が明けるまで露に濡れながらわたしは立ち尽くした。

106 二人ゆけど行き過ぎ難き秋山を如何にか君が独り越ゆらむ

秋が深まると山も寂しく二人で歩いても心細いのに、そんな行きすぎがたい山中をあなたは独りで越えて行く。何を思いながら独り山を越えて行くのか、あなたのことが思われる。

そして、悲劇は起こりました。姉は斎宮の任を解かれて倭に帰って来ました。

 163 神風の伊勢の国のもあらましを何しか来けむ君もあらなくに

神風の吹く伊勢の国に居ればよかったのに、何であなたもいないヤマトに帰って来たのだろう。こんなことになるなら、あの時あなたを止めればよかった。

164 見まくほり吾する君も有らなくに何しか来けむ馬つかるるに

もう一度逢いたいとわたしがあれほど思った貴方もいないというのに、何のために帰って来たのだろうか。斎王の行列の多くの馬も人もただ空しいだけ。

165 うつそみの人にある吾や明日よりは二上山をいろせと吾見む

現在わたしはこの世にこうして生きているのに、ただ一人の弟は死んでしまってこの世にはいないと思うと毎日が空しい。あの二上山に改葬された貴方は倭とわたしを見守っているだろうから、せめて、明日よりはわが弟と思ってわたしもあの山を見よう。

166 磯の上にさける馬酔木を手折らめど視すべき君が在りと言わなくに

春になって馬酔木の花が磯の上に咲いている。その白い花房を手折ってあなたに見せてあげたいのに、あなたの霊魂がこの世に留まっているとは誰も言ってくれない。馬酔木の花ですらあなたの霊を慰めることができないなんて。

これらが、後の人の歌物語として作られたという説もありますが、そうだとしても、大津皇子と大伯皇女堅い絆を伝えようとしたのは確かでしょう。大津皇子事件は多くの人の心に残ったのです。誰もが大津皇子に深く同情したということですね。

万葉集には大津皇子と石川郎女の歌が在り、大津皇子が大胆な青年であったと紹介しました。大津皇子の妃は、山辺皇女です。蘇我赤兄(天智帝の左大臣)の娘、常陸娘と天智帝の皇女でしたが、大津皇子の刑死の時、裸足で駆け寄りともに殉死しています。その髪振り乱して走って来て共に死ぬという姿に、見る人は泣いたというのです。二人が死んだので他はみな赦されました。すると、二人の死が事件解決の道(大津事件の目的)だったのですね。

この悲劇は、起こるべくして起こりました。

 大津皇子は、天武帝の第三子とされています。年齢では高市・草壁・大津の順です。

ですが、皇位継承者は何より高貴な皇統を継ぐ人であることが重要でした。

『玉たすき 畝傍の山の橿原の ひじりの御代ゆ 生れましし 神のことごと栂の木の いや継ぎ継ぎに天の下…』ですから。母方の血統も大事でした。 

高市の母は宗形氏、草壁と大津は蘇我系の皇女。実際の皇位継承の対象は、草壁と大津にしぼられていたことでしょう。当然、取り巻きはどちらかについてひそかに牽制しあいました。

大津皇子は天武帝に愛されたと書紀にも書かれ、帝王学も学び、朝政を聴き、十分に学問も積んでいました。なのに、大津皇子が破れた。条件的にもダントツだったのに、敗れたのです。同じ蘇我系の皇女が生んだ持統皇后の子、草壁皇子に。

なぜに大津皇子が死なねばならなかったのかを考える時、皇位継承者としてどちらが有力だったかを考えざるを得ません。草壁皇子が本当に皇太子だったのか、大津皇子は「皇太子に対して謀反」したとされていますが、そうであればライバル大津は刑死し皇太子はいるわけですから空位にせず即位したはずでしょう。しかし、草壁の即位は在りませんでした。

皇位継承者の大津を死なせて良かったのか、その不満は天武系の皇子達王子達の間に残りました。

 この先、皇位継承に関して異議を申し立てたり、謀反の罪を着せられたり、謀反を起こしたりで、落命した人物はかなりの数に上りますが、全て天武系の皇子や王子達です。そのスタートが大津皇子でした。

この話は、後で