今日は春節。旧正月です。静かな「安楽園」で五目焼きソバ(900円)を食べてきました。 お店の造りは、ご覧のように銭湯と見間違えるような和風建築です。中も当然和風です。このお店に行ったら、食べ物の話よりも構造の話のほうが面白いと思いますよ。 レジ周辺は昔の旅館の帳場といった感じでしょうか。どういうわけか、なまこ壁もあります(ナマコ料理をやっている目印ではありません)。客室には床の間や違い棚もあり、掛け軸がかかっていたりします。 もっとすごいのは中庭。本館(?)を突き抜けると中庭があり、池では鯉が泳いでいました。その奥が別棟のトイレ。これまたレトロな感じで、何度でも入りたいような思いに駆られます。 「安楽園」を語るときに忘れてはならないもう一つのことがあります。それは二代目主人・羅孝明氏(昭和48年没)が、詩僧といわれながら若くして亡くなった蘇曼殊(1884~1918)の研究家だったことです。 蘇曼殊というのは、清朝末期から民国初めにかけて、数奇な運命を背負いながらも飄々として生きた日中混血の作家であり、詩人であり、文化人であり僧侶であった人物です。 父親の蘇傑生は広東生まれの華僑で、横浜の山下町で「万隆茶行」の買弁として働いていました。正妻・黄氏は中国にいたのですが、横浜には河合センという日本人の妾がいました。 しかし、蘇曼殊はそのセンとの間に生まれた子ではなく、なんと、下女として働いていたセンの妹ワカに生ませた子だったのです。以後、どういう経緯があったのかは定かではありませんが、ワカは実家へ逃げ帰り行方不明となりました。 そこで曼殊を養育したのがセンです。5歳頃まで山下町や雲居町で過ごしたといわれています。 その後、父・蘇傑生に認知され三郎という日本名をつけられました。蘇曼殊が日本人であるという説は、どうやらこの辺の事情から生じたのかもしれません。 1889年、彼は黄氏に連れられて中国にわたり、以後、蘇家で生活しながら村塾に通います。その後、曼殊が9歳のとき、父・蘇傑生が横浜での事業に失敗し、故郷に引き揚げてきました。 しかし、父が中国に来ても曼殊の立場は微妙なものでした。日本人との混血であるだけではなく、本当の母親は誰なのか分からないといった複雑な事情から、蘇家では軽蔑され虐待を受けていたといいます。 曼殊が12歳のとき、もう助けられないというほどの大病に罹り、柴置き場に打ち捨てられる事件がありました。そのとき慧龍寺の賛初大師に拾われた曼殊は、大師と一緒に六愹寺に行き出家します。これが1回目の出家でした。 しかし、ある日、我慢ができなくなって鳩を食べてしまいました。結果は追放です。 15歳になると従兄弟に連れられて、再び横浜にやってきました。そこで入学したのが山下町にあった大同学校です。この学校は横浜に亡命中の孫文が華僑のために設立した学校でした。 ここに在学中、今度は恋愛に失敗して2度目の出家を行いますが、それもやめて再び大同学校へ戻ります。 やがて曼殊は大同学校を卒業すると、早稲田大学高等予科に入学。そこで革命同士との交際が始まりました。 この早稲田大学高等予科時代に何があったのかよく分かりませんが、翌年、曼殊は成城学校に転校してしまいます。ここは日本陸軍が関わる軍事的な学校だったといいますから、革命というものを考えての行動だったのでしょう。 学校では陸軍の技術を学ぶと同時に、清朝政府を倒すことを考え学生同盟などに参加しました。 しかし、このような行動が従兄弟に反対されたため仕送りが途絶え、中国へ帰国しなければならなくなります。 上海に上陸すると蘇家には向かわず、教師として中国各地を点々としたあと、3度目の出家をしましたが、苦しい生活に耐えられずまたもや還俗してしまったのです。 その後は革命運動とは一線を画しながら、タイ、ビルマ、インド、スリランカなどを訪れ、仏典や梵文の研鑽に励みます。 その間にも何回か日本へ行き来しており、24歳頃からは様々な作品を発表し始めるのです。それから34歳で亡くなるまでの10年間、小説、詩、訳詩、翻訳、辞典編纂、絵画などを世に送り出しました。 彼の小説の中に「身世言い難き恫(かな)しみ」という言葉が出てきます。いったい自分は中国人なのか日本人なのか、そして母は誰なのかといった、出生にまつわる複雑な事情が、このような言葉を吐かせたのだと思います。 そんな心の隙間をうずめたのが文芸だったのではないでしょうか。 1903年、ビクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」を翻訳加筆、「惨社会」として発表しています。この小説を選んだこと自体も「身世言い難き恫(かな)しみ」から出ているのかも知れません。 バイロンの漢訳詩集、漢英辞典、インド文学の翻訳も手がけています。あまり知られていない彼の作品の中でも、『断鴻零雁記』は自伝的小説として日本でも出版されていて読むことができます。 そんな蘇曼殊の文学碑が、横浜中華学院の校庭に孫文の胸像と並んで建っています。めったに入ることのできない校庭ですので、知らない人がほとんどでしょう。 でも、双十節や関帝誕のようなお祭りの時には、校庭で文芸晩会というものが開催され、コーラスや獅子舞などを見ることができるですが、その際にちょっと気をつけて周囲を眺めると蘇曼殊の碑に気づくはずです。 この曼殊に光を当てようとしたのが、「安楽園」2代目主人の羅孝明氏だったのです。病没したあと、書き残した遺稿が友人たちにより「曼殊大師傳補遣」として発行されています。彼自身、母親が日本人であったといいますから、似たような境遇に惹かれて曼殊研究にのめり込んでいたのかもしれません。 話を今日食べた五目焼きソバに戻しましょう。非常に入りにくい「安楽園」ですが、安心して入ってください。入り口に「麺・飯類あります」という札が掛けられていますので。 当店では、和風の趣を残す部屋に入りテーブルにつくと、土瓶に入った日本茶がまず出されます。そして、たいていはお客がゼロか数名ですので、店内は非常に静かです。 今日は春節だというのにお客は2組! こちらが静かな分、緑色のギヤマン風ガラス窓を通して伝わってくる外の喧騒が一層際立っていました。 五目焼きソバの具には、肉・野菜・イカ・モツ・キクラゲ・大き目のエビ(3匹)が使われていました。それらが甘辛いトロミの効いた餡にからまれ、ときどき生姜の風味がしたりして、結構美味しかったですよ。 ←素晴らしき横浜中華街にクリックしてね |
突然のコメントごめんなさい。
実は先日、「安楽園」を初体験し
検索したらコチラの記事に辿りつきました。
「安楽園」と蘇曼珠さんの深い話に
しみじみしてしまいました。
素敵なコラムを読ませていただき感動です。
自分も五目焼きそばを食べてきました。
あと、シュウマイもいただきました。
恥ずかしながら、「安楽園」さんのことは
今まで中華料理屋さんだとは思っていなかったので(汗)
本当に今頃体験したしだいなのですが
お料理は、好みの味付けだったし、
何よりあの独特のレトロな雰囲気が好きです。
近所なのでこれからも何度か訪れてみたいです。
それでは、これからも密かに更新楽しみにしてますね。
失礼します。
ようこそ、いらっしゃいました。
ここのシュウマイは食べたことがなかったです。岸朝子が褒めているなら、一度食べてみようかな。
ときどき当ブログにも遊びに来てください。
ブログ「おで様流」主催、家元のおでともうします
レトロ好きなおでは常日頃、安楽園さんが気になって、気になって
通るたびに入ってみたい・・・しかし・・・入ってよいものやら・・・
と気がかりでした
今日もお彼岸のお参りに行った帰りにお店の前を通り
写真を撮っておいて、帰ったら検索してみようとおもっていたのです
そしてこちらのブログで素晴らしい記事を拝見することができ
安楽園さんのこともよくわかり、とても安心しました
次回は迷うこと無く入ってみようとおもいました
どうもありがとうございますぅ~!
これから中華街のことをしりたいときは「酔華」さんを参考にさせていただきます
また、うちのブログで「酔華」さんをご紹介させてくださいませね
よろしくお願い申し上げます
ここは法事などで使う人が多いようですよ。
みんなでお墓参りに行ったのなら、
ここで会食してくればよかったのに。
次回は是非立ち寄りたいです
ただ、お口に合うかどうかは定かではないですよ。
毎日のランチ記事にくわえ、折々の特集(分煙/禁煙状況など)も楽しく、ときどきお邪魔しています。
わたしは中華街には比較的近くに住んでいるのですが、今まではあまり探検したことがなく、手さぐりの探訪をしています。
先日とうとう安楽園に入り、あの独特の雰囲気にひたってきました。
勉強になる、楽しい記事をありがとうございました。
いらっしゃいませ。
こちらこそ情報をありがとうございました。
2階へ上がる階段や紙袋は初めて見ました。
目の前が真っ暗になりました。
本当ですか!!
なんということに……
これは大変です。
私もクラクラしてきました。
あああああああぁ