中華街ランチ探偵団「酔華」

中華料理店の密集する横浜中華街。最近はなかなかランチに行けないのだが、少しずつ更新していきます。

根岸住宅地区の接収解除

2006年07月06日 | レトロ探偵団

 あの広大な根岸住宅地区が、やっと返還されることになった。これはこれで歓迎すべきことなのだが、両手を挙げて喜べないのは、金沢区に新たな米軍住宅を建設するという条件がついているからだ。

 今回提案の基地は遊休地化を指摘されている土地が多く、本来なら無条件で返還されるべき施設である。それなのに、池子地区に新たな米軍住宅七百戸を建設するという。旧日本軍の接収以来、手つかずの緑が残り「池子の森」と呼ばれる山が切り崩され、貴重な自然が失われることになる。しかも、市民を、国民を分断するようなやり方だ。

 この問題については、いろいろな所で語られ、書かれているので、ここでは接収の歴史をチョットだけヒモ解いてみよう。
 改めて言うまでもなく、米軍による日本占領は昭和20年8月に始まり、いろいろな名目で土地・建物が接収されていった。

 オデヲン座は、アメリカ第八軍のオクタゴン劇場に、松屋デパートは米軍病院に、野沢屋はPX(米軍購買部)になった。そのほか、主な建物では、横浜税関が司令部に、水上警察署は婦人宿舎に、加賀町警察署はMP詰所にするため、それぞれ接収された。
 ひどかったのは小学校だ。「クラブ・ピンク・スクール」と俗称されるキャバレーとなり、外壁をピンクに塗りたくられたのである。

 神奈川県の接収面積は広大で、とくに中区では港湾施設や関内・伊勢佐木町の主なビルをはじめ、3分の1以上が押さえられてしまった。
 なぜ、こんなにも神奈川県、横浜市が接収されたのか。それは、占領軍から「帝都」を守るためだった。何がなんでも東京には進駐させないという、「国体護持」の思惑があったのだ。

 そこで思い出すのが開港の歴史。欧米諸国を江戸へ近づけまいとして造られたのが、横浜の開港場だった。この街は二度にわたって、東京の防護壁にさせられているのである。
 ついでに言えば、降伏調印式を行った戦艦ミズーリ号に掲げられた星条旗が、実は150年前に来航したペリーの「黒船」に掲げられていたものだという事実も、象徴的なことであった。

 昭和27年、サンフランシスコ講和条約締結。これに伴い占領は終わるはずだったのに、同時に調印された日米安保条約により、米占領軍は駐留軍と名を変えて引き続き日本に駐在することになってしまった。当時の新聞には「講和 恩恵なし 暗い接収解除の見通し」の見出しを付けて、「本年四月の講和発効後の解除はごく一部しかない…」という記事が載っている。

 しかも、このころになると、米兵の規律が緩んできたのか、航空事故が多発するようになった。昭和27年6月、金沢区六浦上空で米軍機同士が衝突、墜落するという事件があった。しかし、現場は米軍当局により厳重に封鎖されたため、事故原因や被害の全貌は明らかにすることが出来なかったという。

 当時の新聞記事を読んでいると、まるで現代の事件のような錯覚に陥る。最近も沖縄で、これと似たようなことがあった。米軍ヘリが墜落事故を起こしたのに、米軍が現場を押えてしまい、日本の警察は何も出来なかった。50年前と何も変わっていないのだ。

 昭和28年、ソ連が水爆保有を発表すると、翌年にはアメリカがビキニ環礁で水爆実験を行った。このような状況の中、米軍の中枢機能を核攻撃から避けるため、県内基地も中心部から周辺へと分散移動する計画が出てきた。
 そのしわ寄せが港北区の岸根に表われた。横浜市は岸根を米軍基地として提供する代わりに、市中心部の接収解除を進めようとしたのだ。当然、反対運動が起こる。しかし、こうした反対にもかかわらず、中区の地元住民の一部は、自分の地域から基地は移転して行ってほしいと願い建設促進を陳情。また神奈川区選出の県・市議団も、岸根基地建設促進を陳情した。こうして、新たな接収は反対運動を押し切って強行されたのである。

 今回発表された「条件付返還」は、このときとは状況が違うのだが、新たな提供を条件とすることにおいては、50年前と何ら変わりがない。「岸根」と「根岸」。前者は50年前、代替提供の基地となり、後者はこれからの返還対象の基地となった。その地名に因縁のようなものを感じないわけにはいかない。


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