2017年12月2日
朝日新聞が、石牟礼道子の子供のころからの思い出随筆、“魂の秘境から“、を連載している。
今回は、第六回・”食べごしらえ“だ(11月30日)。
“苦界浄土”の作者の文は読みごたえがある。
彼女の幼いころ、祖父が水俣の家近くの温泉に権妻(妾)を囲って、そこで暮らすようになった。母に連れられて
祖父を訪ねると、その権妻、“おきやさま”が喜んで、みちこしゃんにごっつしゅう(ごちそうしよう)といそいそと
作り出す。
それは湯気の立つごはんの上に透きとおった厚い鯛の刺身片を四、五枚のせ、しゅうしゅうと沸き立つお湯をかけ、
その上から「手醤油」をたらしてどんぶりの蓋をして蒸らす。鯛の身が半ば煮え、半分すきとおるようになってから
青紫蘇をたらしてたべる。幼いころの忘れがたい味だ。
その鯛は青光りのする活きのいい鯛、むろん塩で保存処理をしていない“無塩(ぶえん)の魚”だ。
“無塩の魚”、とはなつかしい言葉だ。 交通手段が乏しかった昔、海から遠い地域ではほとんどが塩で処理した
魚で、生の魚は貴重だった。
私の父の生まれ故郷は、鹿児島川内市から川内川をずっと遡った宮之城(現在のさつま町)で、無塩の魚は
たまにしか口にはできなかった。
酢が殺菌作用をもつと思われていたからだろう、父は刺身を食べるときは必ずさしみ醤油のなかに酢をたらして
食べていた。
若くして京都に出てきて、30年ほど前に83歳でなくなるまでずっとそうだった。
無塩の魚は注意して食べるという、小さい頃からの習慣だったのだろう。
わたしもときどき醤油に酢をたらして刺身をたべるが、それはそれでそこそこおいしいものだ。
以下、石牟礼道子の最後の部分をそのままうつす。
「前の生じゃ、盗人犬(ぬすどいん)じゃったばい」。私の祖母を慮ってか、近所の小母さんたちがおきやさまを
罵る声は、幼い耳にも聞こえていた。
その言葉には、わが家の先隣にあった妓楼の娘たちに向けて吐かれる言葉と、似た響きがあった。
不知火海に浮かぶ天草などの島々から、米のないばかりに売られてきた十六やそこらの幼顔の残る娘たちは
「無塩の娘(おなご)」などと呼ばれ、夜ごと売りひさがれていたのである。
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