2018年2月12日
石牟礼道子さんが亡くなられた。
私は終戦の翌年1946年の3月に、鹿児島の宮之城(今のさつま町)に食料事情のために疎開して
1年を過ごした。 宮之城に行く途中、叔父がいる鹿児島の阿久根市に立ち寄った。地図上で見ると
わかるが、阿久根の一つ上の熊本寄りが出水、そしてその先が熊本の水俣で、ほんの隣同士だ。
だからあのあたりには懐かしさがある。
新日本窒素肥料(チッソ)が、アセトアルデヒドを作る際の水銀を含む廃液を水俣湾に流しだす経緯は
複雑だが、大量に流しだしたのは1946年かららしい。このときは、石牟礼さんは20才前だったろう。
1950年代に入って水俣病の症状は現れ影響が出始めた。
石牟礼さんは水俣病の人々に寄り添い、声を荒げることなく、静かに地道に辛抱強く、一人の主婦として
抗議運動に生涯を捧げた。彼女が綴った「苦界浄土」ほど、公害というものの悲惨さを現したものはない。
水俣病のために沢山の人が闘ったが、もう一人、挙げておかねばならない人がいる。
2012年に亡くなった熊本大学医学部の原田正純さんだ。(2012年6月11日逝去)
原田さんは、中央からの圧力に屈せず、水俣病患者の立場から徹底した診断と研究を行った。
“(原田さんが)患者の家で診察していると、(石牟礼さんは)遠慮がちに、邪魔にならないように
見ているわけです。 ニコニコしてね”。(朝日新聞2月10日夕刊)
どんな人も必ず死ぬ。
残った人たちはいろんな言葉で弔意を表現するが、どんな言葉もすべてみな、むなしい。
石牟礼さんにふさわしい言葉は、“惜別”、だけだ。そして原田さんにもまた。
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