2015年10月12日
ずいぶんむかしに読んだ小説の中で、獅子文六の「バナナ」というのがあった。
在日華僑の純情な息子が許可制だったバナナの輸入の権利にからんであげくのはてに手ひどい目にあう、という筋書きで、たしか最後のところに<バナナというろくでもないものに手を出して>というような箇所があって、バナナはどちらかといえば悪者にあつかわれていた。
バナナは私にとっては 不思議なくだものだ。
戦前、つまり太平洋戦争以前にはバナナの叩き売りというのがあったのは知っている。その頃ではバナナはべつに欲しくはないがついでに買っていこうかなというようなものだったらしい。
しかし昭和二十年代後半(1950年頃)小学生だった私には、バナナなどという高価なくだものは食べ物の範疇に入っていなかった。
遠足のときに学年全生徒の中で、ほんの一人、二人の金持ちの家の子が持ってくるのを、のっけから自分には関係ないと見ていた。
バナナがりんごなどと一緒に皿に盛って置いてある家もあったが、あれは単なるかざりで、うちはこんなに金持ちなんですよという意思表示のように思えた。
最初にバナナを食べたのは、それこそいつだったかは憶えていない。
母が一本のバナナの皮をむいて私達子供四人にナイフで切りわけてくれ、そのとき初めてバナナの味を知った。
以来バナナはずっと変わらずあの味だ。
それがいつの頃からこんななさけないことになってしまったのだろう。 スーパーでもどこにでも大きなバナナの房が、おどろくほどの安さで売られている。
子供の頃さんざん食べさせられて安物の代表だったサツマイモがずっと出世してしまって、バナナは安いのが当然と有難がられもしない。
私にはバナナは今、とんでもなく不当な処遇をうけているような気がしてならない。
バナナの皮をむいたときに、“パー”とでてくるあのエステルのにおい、私にとってはいつまでたっても変わらない、なつかしい金持のにおいだ。
だからりんごやみかんなどめったに口にしない私でもバナナは食べる。
バナナはきらいではない。
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