遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

能画14.作者不詳、古画断簡『葵上』

2022年05月11日 | 能楽ー絵画

先回に続いて、『葵上』の絵画です。

20.4ccmx35.3㎝、絹本、江戸中期。

未表装の古画です。細長い絹地に描かれています。

おそらく、巻物状の能画集を切り取ったものと思われます。江戸初期ー中期にかけて、このように多くの能の場面(タイプB)を描いた巻物が作られました。今回の品は、そのうちの一つでしょう。

これは、能『葵上』の後半部のクライマックス、「祈り」の場面です。

先回のブログにあったように、前半では、「枕の段」が終わると、六条御息所の生霊は消え失せます。

さて、『葵上』の後半です。

臣下は、ただならぬ体の生霊に対して加持祈祷をするため、横川の聖を呼び寄せます。

床には、葵上が病に臥しています(衣服で代用)。

そこへ、鬼女と化した六条御息所の生霊が現れ、打杖をかざして襲いかかります。

数珠を揉み鳴らし、必死に祈祷する横川の聖。

大小鼓が激しく打ち鳴らされるなかで、戦いは続きます。

しかし、ついに鬼女は調伏され、怨念を捨て、成仏して、舞台から消え去ります。

 

能『葵上』は、強い怨みを抱いた女の心がテーマです。例によって、ストーリーは単純ですが、能ならではの味わいや含蓄が含まれています。

能では、激しい恨みや怒りのなかに、人間の哀しさ、時には優しさまでが表現されているのが特徴です。それは、シテがつける面にも表れています。

先回のブログ、『葵上』前半の生霊がつける面、泥眼です。

     泥眼(『能楽古面輯』昭和16年)

恨みを抱いた女の面で、白目や歯が金色に塗られています。不気味ですが、どこか優しさを秘めています。

さらに、怒りと恨みが強くなると、般若になります。

般若(『国立能楽堂コレクション展』2008年)

般若は怖い面の代表とされています。確かに、つり上がった金眼、大きく裂けた口、怒りと恨みが込められています。しかし、大きな額の下にある奥まった眼には、怒りよりもむしろ、苦しみや哀しみが表れています。

般若は別名、中成(ちゅうなり)です。怨念が、行きつくところにはまだ達していません。

怒り、恨みがさらに強くなると本成(ほんなり)とよばれる究極の面、「蛇(じゃ)」になるのです。口はさらに大きく裂け、舌がのぞいています。耳はなくなり、蛇の体となります。よく知られた『道成寺』では、若僧に恋をした女が恨みのあまり毒蛇となり、鐘の中に逃げ込んだ若僧を蛇体を巻き付けて、焼き殺してしまいます。『道成寺』の舞台では般若面が多く用いられますが、本当は蛇面ですね。

真蛇(『国立能楽堂コレクション展』2008年)

なお、泥眼と般若の間の怒りの面は、生成(なまなり)と呼ばれていて、角が半分だけ生えています。この方が、般若よりも怒りがどんどん増している状態をよく表しています。大変不気味な面です。

 

さて、もう一度、六条御息所を見てみます。

装束は、三角形の連続模様です。これは鱗を表しています。蛇体になっているのですね。

これは、先回のブログで紹介した『葵上』の前半、六条御息所の生霊が恨みをのべながら舞う「枕の段」です。この時、シテは、もう、内側に鱗模様の衣服をまとっていることがわかります。

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能画13.吉田元陳『扇面 葵上』

2022年05月09日 | 能楽ー絵画

江戸中期の画家、吉田元陳の扇面画『葵上』です。

18.0㎝x39.3㎝、江戸中期。

【吉田元陳(よしだげんちん)】 享保十三(1728)年―寛政七(1795)年。江戸中期に活躍。法橋、法眼に叙せられた。

明和八(1771)年に法橋、安永六(1777)年に法眼に叙せられたので、今回の品はその間の作と思われます。

扇面の骨痕が絵を貫いていますから、元々、扇面画だったようです。

女性が舞っています。

それを見つめる男と少女。

この絵は一体・・・・?

それを解くカギは、

扇面に書かれた歌詞にありました。

「沢辺の 蛍の影よりも」・・・これは、能『葵上』の一節です。

世阿弥作と言われるこの能は、源氏物語『葵の巻』から材をとり、光源氏の愛を正妻葵上に奪われた、源氏の愛人、六条御息所の怨念と哀しさをテーマにしています。

葵上は物の怪に憑りつかれ、病に臥しています。朱雀院の臣下(絵の中の男)は、照日の巫女(絵の中の少女)をよび、物の怪の正体を明らかにしようとします。やがて姿を現したのは、六条御息所の生霊でした。生霊は葵上の枕元に立って怨みの言葉、呪いの言葉を投げかけます。続くくだりが、能『葵上』前半のクライマックス、「枕の段」です。

【枕の段】
「恨めしの心や。あら恨めしの心や。人の恨みの深くして。憂き音に泣かせ給ふとも。生きてこの世にましまさば。水暗き沢辺の蛍の影よりも。光君とぞ契らん
わらはは蓬生の。もとあらざりし身となりて。葉末の露と消えもせば。それさえ殊に恨めしや。夢にだに返らぬものを我が契り。昔語りになりぬれば。なほも思ひは真澄鏡。その面影も恥づかしや。枕に立てる破れ車。うち乗せ隠れ行かうよ。うち乗せ隠れ行かうよ。」

「ああ恨めしい。本当に恨めしい。私の恨みはあまりにも深く、葵上が辛い目にあったとしても、この世に生きている限りは、水辺の蛍よりも美しく光る源氏の君と契りを結ぶでしょう。
それに対して、私はというと、元の契りに戻ることはない。昔の話にすぎなくなってしまったので、余計に思いはつのるばかり。ああ、この姿が恥ずかしい。いっそ、枕元の破れ車に葵上を乗せ、つれて行ってしまおう。」

生霊となった六条御息所の凄まじいまでの怨念が伝わってきます。

シテ、六条御息所は、泥眼とよばれる面をつけています。これは、白目と歯に金泥を塗った女面で、人から人ならぬもの(怨霊)へ変化したことを表しています。

一方、照日の巫女は通常の女面(小面)です。今回の品では、両者の表情の違いが表現されているように思えます。

ところで、能『葵上』には、病に臥した源氏の正妻、葵上は一度も登場しませんが・・・・

実は、3人の登場人物の間に置かれた小袖、これが、病に臥した葵上なのです。何というシュールな設定。

世阿弥のセンスに脱帽です(^.^)

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能画12.菱川師宣『角田川』(印刷)

2022年05月07日 | 能楽ー絵画

初期の浮世絵、菱川師宣『角田川』です。

原図は、千葉県美術館所蔵、今回の品は美術印刷です。

21.8㎝x37.9㎝、印刷(原画は江戸初期(延宝七年(1939))、千葉県美術館所蔵)。

菱川師宣:元和四(1618)年?ー 元禄七(1694)年。江戸前期を代表する絵師。浮世絵の様式をつくり上げた。

舞台で演じられる劇を、観客が楽しんでいる絵です。江戸初期の庶民の風俗を描き止めたものでしょう。

笹を持った女が舞っています(能では、笹は狂女の持ち物)。

舟に見立てた作り物のなかの乗客と船頭は、女の舞いを見ています。

舞台の端には、土の塊と柳の作り物が置かれています。

舞台奥には、小鼓と三味線で囃す人たちがいます。

まばらな観客ですが、リラックスして楽しんでいます。

これは、有名な『隅田川』の場面ですね。

人買商人に、息子、梅若丸を連れ去られた女が、我が子を探して、京から東の国、隅田川の渡しにやってきます。船頭は女に、面白く狂い舞えば渡してやると言います。

それに対して、女は、伊勢物語、東下りから和歌を引用しながら、船に乗せてくれるよう、必死に頼みます。

「我もまた。いざ言問はん都鳥。いざ言問はん都鳥。我が思子は東路に。有りやなしやと。問へども/\答へぬはうたて都鳥。鄙の鳥とやいひてまし。実にや舟ぎほふ。堀江の川のみなぎはに。来居つゝ鳴くは都鳥。それは難波江これは又隅田川の東まで。思へば限なく。遠くも来ぬるものかな。さりとては渡守。舟こぞりて狭くとも。乗せさせ給へ渡守。さりとては乗せてたび給へ。」

能『隅田川』前半のクライマックスです。

女は必死に頼み込んで、なんとか船に乗りこみます。

舟上で船頭は、行き倒れになった哀れな子供の話をします。そして、その子こそが、我が子、梅若丸であることに、女は気づくのです。

向こう岸には、梅若丸を弔う塚があります。

河鍋暁翠、版画『隅田川』、明治時代。

能の後半、泣き崩れる母は、気を取り直して、念仏を唱えます。すると、塚の中から「な・む・あ・み・だ・ぶ・つ」の声が聞こえ、童子が現れます(童子が現れず、声だけが聞こえる演出の能も有り)。必死で我が子を抱こうとする母。しかし、抱きしめようとしても、童子はするりとぬけてしまいます。そのうちに、東の空が白み夜が明けると、童子の亡霊は消え、母は草ぼうぼうの塚の前で泣き崩れるばかりでした。

能は、基本的には悲劇です。しかし、ほどんどの演目では、最後に神仏に救済されるストーリー展開になっています。『隅田川』は例外的に、救われることなく終わる能です。母が打ち鳴らす鉦鼓の物悲しい音色。母、童子、地謡が交互に謡う「南無阿弥陀仏」。これらが静かに響き渡り、人々の心の中に親子の悲劇が非常に深く刻まれます。世阿弥の長男、観世元雅渾身の作です。

『隅田川』は大変人気があり、その後、歌舞伎や浄瑠璃でも演じられるようになりました。

さて、今回の能画を見て、ん!?となる点がいくつかあります。

まず、バックの囃子です。能の囃子は、大鼓、小鼓、笛が基本です。そして演目により太鼓が加わります。ところが、描かれているのは、小鼓と三味線・・・これは能ではなく、歌舞伎?

さらに、主役の母親役は女性です。江戸時代、能、歌舞伎では、演者は男性に限られていました(今でも、あまり変わりません)。それに対して、この絵では、素顔の女性がシテを演じているのです。

そんなことが有りうる?

いろいろ資料にあたってみたところ、興味深い物を見つけました。

『猿猴庵の本 北斎大画即書細図・女謡曲採要集』名古屋市博物館、2004年

これは、尾張藩士、高力猿猴庵(こうりきえんこうあん、1756~1831)が絵入りで記した、祭り、見世物、開帳など、娯楽を記した本で、『女謡曲採要集』には、文化3年に、名古屋で催された女能の記録が載っています。

能『海士』の「玉の段」(先回のブログと同じ)の様子です。女性を中心にして能の興行がおこなわれています。シテ、海女の役を素顔の女性が演じているのは、今回の隅田川の母親の場合と同じです。また、バックの囃子が、小鼓と三味線である点も同じです。

どうやら、江戸時代、このタイプの能は、庶民の間でひそかに楽しまれていたようです。女歌舞伎が禁止されていたように、女能も表立っては演じられなかったのでしょう。

菱川師宣の『角田川図』は、やはり、能の『隅田川』を描いたものなのですね。船や塚などの簡素な作り物も、この絵が演能図であることを示しています(歌舞伎なら、もっと大掛かりで写実的)。

 

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能画11.作者不詳『海士』(志度寺縁起)

2022年05月05日 | 能楽ー絵画

今回の品は、ボロボロだった捲りの江戸肉筆画を表具仕立てしたものです。

       

全体、30.8㎝x193.2㎝。本紙(紙本)、23.6㎝x157.5㎝。江戸中期。

縦に著しく細長い絵です。しかも、一見何が描かれているのかわからない奇妙な図柄です。

見る側は、自然に、上から下へ、下から上へと視点を移動します。

 

船上では、貴人が笛や太鼓で囃しています。小舟に乗った男たちが綱を引き上げています。その先には、右手に剣、左手に玉をもった女性が波間に顔を出しています。海中には、襲いかかる龍。

確かな実力の絵師による絵画です。

この絵は、能『海士(あま)』の一場面です(タイプA)。

志度寺(香川県志度町)に伝わる縁起にある玉取り海士の伝説から題をとり、ドラマチックな能に作り上げたものです。

【あらすじ】天智天皇の御世、藤原鎌足が亡くなった時、唐の皇帝に嫁いでいた娘は、父の供養のため、3つの宝物を日本に送りました。しかし、そのうち、「面向不背(めんこうふはい)の玉」は、船が志度沖にさしかかった時、龍神に奪われてしまいます。鎌足の子、藤原不比等は、その玉を奪い返すため志度の地を訪れ、一人の海女と契りを結びます。そのとき生まれたのが房前で、彼もまた、大臣になってこの地を訪れ、一人の海女(母)に遭遇します。房前は、彼女に宝物を取り戻すよう頼みます。女は海に潜り、宝物を取り戻したあと、息絶えます。

この絵の場面は、「玉の段」として知られ、能『海士』の見せ所、聞かせ所です。非常に調子がよいので、謡いや囃子の会でも好んで演じられます。

【玉の段】その時人々力を添え。引きあげ給えと約束し。一つの利剣のぬきも持って。
かの海底にとび入れば。空はひとつに雲の波。煙の波をしのぎつつ。海漫々とわけ入りて。直下とみれども底もなく。ほとりも知らぬ海底に。そも神変ないさ知らず。とり得ん事は不定なり。かくて龍宮にいたりて。宮中をみればその高さ。三十丈の玉塔に。かの珠をこめおき香華を供え守護神に。八龍なみいたり。その外悪魚鰐の口。のがれがたしやわが命。さすが恩愛のふる里の方ぞ恋しき。あの波のあなたにぞ。わが子はあるらん。父大臣もおわすらん。さるにてもこのままに。別れ果てなん悲しさよと。涙ぐみて立ちしが。又思い切りて手を合わせ。なむや志渡寺の観音薩唾の力をわはせてたび給えとて。大悲の利剣を額にあて。龍宮の中にとび入れば。左右へばっとぞのいたりける。そのひまに宝珠を盗みとって。逃げんとすれば。守護神追っかく。かねてたくみし事なれば。持ちたる剣をとりなおし。乳の下をかききり玉おしこめ剣をすててぞふしたりける。龍宮のならいに死人をいめば。辺りに近づく悪龍なし。約束の縄を動かせば。人々喜び引きあげたりけり。玉は知らずあまびとは海上に浮かみいでたり。

海女は乳の下を掻き切って、玉をおし入れ、剣を捨てます。竜宮では死人を忌むので、悪龍が近づかないと言われていたからです。船人たちは、命綱を引き上げますが、海女人は息も絶え絶えの姿でした。

こん回の絵では、玉の段で謡われているような生々しい描写はなされていません。

 

前の大臣、藤原不比等と契りを結び、後の大臣となる藤原房前を生んだ女は、卑しい身の海女でした。我が子の出世のため、海中深く潜って、龍神によって奪われた宝の玉を竜宮から取り戻した後、自身は果てます。

このように能では、高貴な都人と卑しい地方の女との恋物語がかなりあります。能が成立する頃の男女の関係については、現在よりも自由な雰囲気があったのでしょう。

なお、この宝は、面向不背の玉と呼ばれています。玉の中の釈迦像が、どこから見ても正面を向いているからです。3つの宝は、藤原不比等によって奈良、興福寺に納められました。そのうち、面向不背の玉は行方不明となり、焼失したとされていました。しかし、昭和51年(1976年)、滋賀県竹生島、宝厳寺で発見され、大きな話題になりました。

 

 

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故玩館の竹藪、伐採しました

2022年05月03日 | 故玩館日記

先回のブログで、故玩館の竹藪と坂道が、中山道美江寺宿を描いた広重の浮世絵のキーワードであることをのべました。

このうち、急坂は、道路改良によって失われました。

もう一つのキーワード、故玩館裏の竹藪は、何百年も同じ形を保ち続けてきました。

しかし、環境は大きく変わりました。かつて無数にあった野池やクリークはほとんどなくなり、出水時でも数日すれば、故玩館の周りからは水が引きます。あれほど頻繁にあった濃霧も、ここ5数年間に一度もみられません。土地全体が乾燥してきたのです。

竹は、水のあるところまでしか繁殖しません。竹根の伸びは水際で止まります。ところが、乾燥化がすすんで、ここ数年、竹がものすごい勢いで増えだしたのです。必死でくい止めてきたのですが、もはや体力の限界にきました。

やむを得ず、業者に伐採してもらうことにしました。

半分ほど伐採が終わったところ。

3日間で、撤去完了。

風景は一変しました。

中山道側(南)から見て、奥に繁っていた竹藪は・・・

もうありません。

 

かつては、こんな風情も。

 

このような景色も、

今となっては、再び見ることはないでしょう。

 

十五年前、一大決心をして、ほとんど朽ちかけていた母屋を大改修した理由の一つが、この竹藪でした。

今となっては、幻の竹藪です。

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