今回の品は、ボロボロだった捲りの江戸肉筆画を表具仕立てしたものです。
全体、30.8㎝x193.2㎝。本紙(紙本)、23.6㎝x157.5㎝。江戸中期。
縦に著しく細長い絵です。しかも、一見何が描かれているのかわからない奇妙な図柄です。
見る側は、自然に、上から下へ、下から上へと視点を移動します。
船上では、貴人が笛や太鼓で囃しています。小舟に乗った男たちが綱を引き上げています。その先には、右手に剣、左手に玉をもった女性が波間に顔を出しています。海中には、襲いかかる龍。
確かな実力の絵師による絵画です。
この絵は、能『海士(あま)』の一場面です(タイプA)。
志度寺(香川県志度町)に伝わる縁起にある玉取り海士の伝説から題をとり、ドラマチックな能に作り上げたものです。
【あらすじ】天智天皇の御世、藤原鎌足が亡くなった時、唐の皇帝に嫁いでいた娘は、父の供養のため、3つの宝物を日本に送りました。しかし、そのうち、「面向不背(めんこうふはい)の玉」は、船が志度沖にさしかかった時、龍神に奪われてしまいます。鎌足の子、藤原不比等は、その玉を奪い返すため志度の地を訪れ、一人の海女と契りを結びます。そのとき生まれたのが房前で、彼もまた、大臣になってこの地を訪れ、一人の海女(母)に遭遇します。房前は、彼女に宝物を取り戻すよう頼みます。女は海に潜り、宝物を取り戻したあと、息絶えます。
この絵の場面は、「玉の段」として知られ、能『海士』の見せ所、聞かせ所です。非常に調子がよいので、謡いや囃子の会でも好んで演じられます。
【玉の段】その時人々力を添え。引きあげ給えと約束し。一つの利剣のぬきも持って。
かの海底にとび入れば。空はひとつに雲の波。煙の波をしのぎつつ。海漫々とわけ入りて。直下とみれども底もなく。ほとりも知らぬ海底に。そも神変ないさ知らず。とり得ん事は不定なり。かくて龍宮にいたりて。宮中をみればその高さ。三十丈の玉塔に。かの珠をこめおき香華を供え守護神に。八龍なみいたり。その外悪魚鰐の口。のがれがたしやわが命。さすが恩愛のふる里の方ぞ恋しき。あの波のあなたにぞ。わが子はあるらん。父大臣もおわすらん。さるにてもこのままに。別れ果てなん悲しさよと。涙ぐみて立ちしが。又思い切りて手を合わせ。なむや志渡寺の観音薩唾の力をわはせてたび給えとて。大悲の利剣を額にあて。龍宮の中にとび入れば。左右へばっとぞのいたりける。そのひまに宝珠を盗みとって。逃げんとすれば。守護神追っかく。かねてたくみし事なれば。持ちたる剣をとりなおし。乳の下をかききり玉おしこめ剣をすててぞふしたりける。龍宮のならいに死人をいめば。辺りに近づく悪龍なし。約束の縄を動かせば。人々喜び引きあげたりけり。玉は知らずあまびとは海上に浮かみいでたり。
海女は乳の下を掻き切って、玉をおし入れ、剣を捨てます。竜宮では死人を忌むので、悪龍が近づかないと言われていたからです。船人たちは、命綱を引き上げますが、海女人は息も絶え絶えの姿でした。
こん回の絵では、玉の段で謡われているような生々しい描写はなされていません。
前の大臣、藤原不比等と契りを結び、後の大臣となる藤原房前を生んだ女は、卑しい身の海女でした。我が子の出世のため、海中深く潜って、龍神によって奪われた宝の玉を竜宮から取り戻した後、自身は果てます。
このように能では、高貴な都人と卑しい地方の女との恋物語がかなりあります。能が成立する頃の男女の関係については、現在よりも自由な雰囲気があったのでしょう。
なお、この宝は、面向不背の玉と呼ばれています。玉の中の釈迦像が、どこから見ても正面を向いているからです。3つの宝は、藤原不比等によって奈良、興福寺に納められました。そのうち、面向不背の玉は行方不明となり、焼失したとされていました。しかし、昭和51年(1976年)、滋賀県竹生島、宝厳寺で発見され、大きな話題になりました。