遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

祝!ブログ5周年!『関ケ原合戦絵巻』(3)関ケ原合戦

2024年07月12日 | 故玩館日記

長~い『関ケ原合戦絵巻』ですが、今回で最後、合戦当日を描いた諸場面です。

西軍の配陣:

これまでの場面とは違って、北側から俯瞰した構図になっていて、左が東、右が西方です。

毛利秀元、安国寺瓊長老、長曾我部宮内少輔盛近、築前中納言秀秋、石田治部少輔三成、羽柴左衛門輝政、浅野左京大夫幸長。

嶌津兵庫頭義弘、小西摂津守行長、鍋島信濃守直茂、脇坂中務少輔安治、朽木河内守元網。

 

東軍の配陣:

羽柴左衛門大輔正則(福島正則)が先頭です。

細川越中守忠興、田中兵部大輔吉政、金森兵部御法印、加藤左衛門尉貞康。

本多中務大輔忠勝、蜂須賀阿波守直〇、寺沢兵庫頭、加藤左馬頭義明、黒田甲斐守長政、加藤左衛門貞康。

「御」とあるのは、桃配山に陣を張った家康本陣のことでしょう。金扇の馬印がそれを表しています。

このあと、合戦の場面が続きます。

まず展開するのは次のシーンです。

島津の退き口:

後世に、「島津の退き口」として有名になった場面です。

戦いが始まってから一進一退、膠着状態にあった両軍ですが、松尾山の小早川秀秋隊が山を駆け下って、大谷吉継隊を側面から襲い、西軍は総崩れとなりました。気がつけば、島津隊は西軍の中に取り残された形になってしまったわけです。

そこで、大将、島津義弘を無事に薩摩へ返すため、敵中突破という捨て身の戦法をとり、家康の陣をかすめて、戦場を駆け抜けます。

時間の経過からすると、島津が東軍の真ん中を突破して薩摩へ帰るのは勝敗がほぼ決してからですから、場面としては一番最後のはずですが、なぜか最初に来ています。

次は、騎馬武者同士の対決です。松平下野守忠義朝臣とあるのは、家康の四男、松平忠吉です。井伊直政とともに、戦場をぬけて逃げる島津隊を追撃してきたのです。

槍で応戦する馬上の武者(右)には名前が書かれていません。国会図書館の『関ケ原合戦絵巻』には、松浦三郎兵衛と書かれています。これは、松井三郎兵衛の誤りでしょう。

この対決で、松平忠吉は、島津家臣の松井三郎兵衛に籠手を斬られて落馬し、組み伏せられてしまいます。この時、松平忠吉は負傷しましたが、家来が松井三郎を討ち取り、難を逃れました。

松平忠吉に続いて、島津を追う井伊直政です。

実は、松平忠吉は井伊直政の娘婿、関ケ原では、松平忠吉の後見人を家康から託されていました。松平忠吉は関ケ原の戦いが初陣で、何としても武功をあげようと、先鋒となっていた福島正則を出し抜いて、真っ先に西軍に突っ込んだのが松平忠吉と井伊直政だったのです。関ケ原合戦の火ぶたを切ったのは、この二人でした。そして戦いの終盤、死に物狂いで戦場を駆ける抜ける島津隊には、東軍の諸将も一歩引きました。そんな中で、危険な追撃を家康が松平忠吉と井伊直政にゆるしたのも、二人の激しい意気込みを評価していたからでしょう。

しかし、井伊直政も島津方の銃撃で深手を負ってしまいます。そして、この傷がもとで、2年後に亡くなります。

大谷吉継の最後:

時間は前後しますが、次は敗色濃厚な大谷陣営です。

小早川秀秋の東軍への寝返りにより、西軍は総崩れになります。

九曜の旗印は、石田隊でしょうか(他に、宇喜多隊、細川隊なども可能性有り)。

山の上、籠に乗っている人物の周りで、あわただしい動きが。

大谷刑部小輔(大谷吉継)に、家臣が何やら報告(進言?)しています。

大谷吉継は、重い病を抱えながらも、石田三成との信義を守り、輿にのって関ケ原にやってきました。関ケ原合戦で、勇猛果敢に戦ったのは、西軍では、大谷隊と石田隊だと言われています。しかし、戦況は絶望的で、彼は自刃を決意します。両軍の主要な武将のなかで、関ケ原の戦場で亡くなったのは、大谷吉継だけです。このことは、関ケ原の戦いの性格を良く表しているといえます。

武士の約束と西軍の敗走:

二人の武者が戦っています。

この絵巻には名が記されていません。

国会図書館の絵巻には、左が藤堂仁右衛門、右は、大谷刑部臣湯浅五助と書かれています。

藤堂仁右衛門は、藤堂高虎の甥です。湯浅五助は大谷吉継の重臣で、勇猛な武士でした。

大谷吉継は、重臣、湯浅五助に「醜い我首を敵方にさらすな」と言い残して自刃します。言いつけに従い、五助が吉継の首を埋めているのを、東軍の藤堂仁右衛門に見られてしまいます。五助は、大谷吉継の首の在りかを黙っていて欲しいと仁右衛門に懇願し、両者一騎打ちになります。それがこの場面です。結局、五助は討ち取られてしまいますが、仁右衛門は五助との約束を守り、後日、家康に吉継の首の在処を尋ねられても、頑として話しませんでした。この逸話は、「武士の約束」として語り継がれていきました。

次に、二人の武者が地上で戦っている場面が展開されます。

今回の絵巻には名前が出ていませんが、国立国会図書館の絵巻では、左が杉江勘兵衛、右が田中吉政臣辻勘兵衛と書かれています。

杉江勘兵衛は、石田三成の家臣です。一方、辻勘兵衛は東軍、田中吉政の家来。

杉江勘兵衛は、元々、曽根城主、稲葉一鉄に仕えていました。後に、石田三成に仕え、同じ石田家臣の島清興(左近)、前野忠康と並んで勇猛さで名をはせていました。その杉江勘兵衛が、東軍の辻勘兵衛と戦ったのは、関ケ原ではなく、ずっと東、合渡川(現、長良川)をめぐっての東軍、西軍の攻防でした(合渡川の戦い)。関ケ原合戦よりも10日以上前、8月23日のことです。この戦いに勝って長良川を渡り、怒涛の勢いで西進した東軍は、いち早く、赤坂の岡山に布陣して、家康を迎えることになるのです。

中山道合渡宿は、赤坂宿の反対、故玩館から一つ東(約4㎞)の小さな宿場です。合渡の戦いとその直前の岐阜城陥落で、関ケ原合戦東軍勝利の環境は整ったと言えるでしょう。

それにしても、『関ケ原合戦絵巻』では、どうして絵巻のこの位置へ、かなり前の戦いを挿入したのか不思議です。

最後の場面は、破れた西軍が我先にと、山の方へ逃げていくところです。

混乱した様子がリアルです。

そして、『関ケ原合戦絵巻』は、松林と沼田で終わります。

 

作者名に容斎とあります。歴史画を得意とした菊池容斎の名を、誰かが入れたのでしょう(^^;

 

 

 

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祝!gooブログ5周年!『関ケ原合戦絵巻』(2)杭瀬川の戦い

2024年07月10日 | 故玩館日記

『関ケ原合戦絵巻』では、ほぼ時系列で、出来事が描かれています。先回の木曽路の秀忠軍と真田一族に続いては、杭瀬川の戦いです。

東軍先行隊が、美濃で順調に進撃しているのを期とみて、徳川家康は、9月1日に江戸を発ちました。そして、9月14日昼頃、美濃赤坂(現、大垣市)の岡山に着陣しました。

岡山は、石田三成が布陣していた大垣城の西北3㎞に位置しています。その間を流れるのが杭瀬川です。この川は、大垣市の西部を流れ、濃尾平野に多い中河川の一つです。

この川を舞台にした両軍の小競合い、それが後に、杭瀬川の戦いと呼ばれるようになったいくさです。

関ケ原合戦のわずか半日前、しかも西軍が唯一勝利した戦いなのです。

家康到着の報に、大垣城の三成軍は動揺し、逃亡する者さえ現れました。そこで、知将、島左近は、奇襲攻撃をかけることを提案し、500の兵を率いて大垣城を出ました。その一部は杭瀬川を渡り、東軍、中村一栄隊の前で稲刈りをしました。この挑発にのった中村の兵が襲ってきた時、左近たちは敗走する風をよそおって退却しました。杭瀬川を渡って追いかけてきた中村隊に、茂みに隠れていた左近の別動隊が襲い掛かり、中村隊のみならず、救援に駆け付けた有馬玄蕃頭豊氏隊も、散々に打ち負かされました。

『関ケ原合戦絵巻』では、この戦いが下図のように描かれています。


左が西、右方が東です。大垣城は(右後方)は描かれていません。

中央の水の流れが、杭瀬川(くいせがわ)です。

左上(西北西)に小高い山(岡山)があり、家康の陣が敷かれています。

濃州岡山御本陣:

指示を出しているのは本田忠勝、家康はいないようです(床几のみ)。

有馬玄蕃頭豊氏陣屋:

中村一角一忠陣屋:

中央では、武者たちが戦っています。

左側が東軍、右側が西軍ですね。

有馬豊氏臣稲次右近、右近馬取彌五右衛門:

石田治部少輔臣横山監物:

手痛い敗北をきっした東軍でしたが、その中で、中村勢の助けに入った有馬豊氏勢の一人、稲次右近が、石田三成の臣下、横山監物を討ち取りました。家康は一番首としてたいそう喜び、稲次右近に6000石の加増をしたほどです。

杭瀬川の戦いは、『関ケ原合戦絵巻』では、敗戦の中で一矢報いた場面が描かれていたのです。この絵巻は、やはり、徳川のサイドに立って描かれていますね。

なお、家康の一代を記録した『落穂集』には、この件が、次のように記述されています。

  『落穂集』
・・・・中村が一手既に敗亡可致かと相見へ候処へ、陣所並びなる有馬玄蕃手の者共数十人馳出候、中にも稲次右近鳥毛の半月の指物にて真先に進て川を乗渡し向ふの堤へ馳上り候処へ、金の制札の頭立物を致し横山監物と名乗て稲次にかけ合せ互に馬上にて戦しが、双方馬よりをり立て組打と成る、横山ハ稲次を組伏て上へ乗懸り候処へ右近の若党かけ着て、横山が具足の締噛を取て引返し候へハ右近下よりハね返し乗掛て首をかゝんと致しける所を横山が家人かけ寄て右近の甲のしころを取候処へ、又右近が若党かけ付一刀切付候へハ、しころを放し刀を抜合、切合候内に右近ハ横山が首 を取て立上り、件の監物が若党をも切殺し其首をハ馬の塩手(四緒手)に結付、横山が首をハ馬上に引下ケ自身御旗本へ持参仕候と也

 

中村一氏臣甘利備前と浮田秀家臣飯尾太郎左衛門:

場面の中央では、二人の武者が、馬上で組み合っています。中村一氏臣甘利備前と浮田秀家臣飯尾太郎左衛門です。

飯尾太郎左衛門が甘利備前を討ち取ったのでしょうか。浮田秀家は、この日、飯尾太郎左衛門に感状を与えています。しかし、杭瀬川の戦いに関してかどうかは不明です。なによりも、中村一氏の下臣といわれる甘利備前なる人物が不祥です。歴史上、甘利備前守康という人物がいますが、武田の家臣で、天分17年に亡くなっているので、この絵の人物ではありません。このように、『関ケ原合戦絵巻』には、よくわからない場面がいくつかあります(^^;

 

せっかくですから、現地の写真をとってきました。

家康が着陣した岡山は、故玩館のある美江寺宿から一つ西(6㎞程)の赤坂宿にあります。以前のブログで紹介した曽根城址から数㎞先です。

岡山へ行くには、必ず揖斐川(当時は、呂久川)を渡らねばなりません。東軍の主力部隊はこの辺(中山道)を渡ったようです。家康は数㎞上流を渡った(東山道)といわれています。用心深い家康は、少しでも西軍から離れたルートを選んだのでしょうか。

岡山は、写真の真正面に位置しますが、低い山なので見えません。その奥が、関ケ原です。

近くまで来ました。東から見た岡山です。低い山(標高52m)です。

さらに奥(西方)は関ケ原、右の山は伊吹山へつらなります。

江戸時代以後は、家康を勝利に導いた所として、勝山と呼ばれています。現在は、全山、墓地や葬儀施設等が立ち並んでいます。

ここから、3㎞ほど南東に大垣城があります。

大垣城から岡山方面は、建物が多くて写真がとれません。当時は、相手方の様子をうかがうことができたのでしょう。

大垣城を出た島左近たちは、すぐ西を流れる杭瀬川を舞台に、東軍を翻弄したわけです。

それがどの辺であったのか、実際のところはわかりません。杭瀬川の流路が変わってしまっているからです。

戦いの場所を推定して、立札が立っていました。

一面夏草におおわれて、川面が見えません。

すぐ前を東海道線が通っています。

東海道線のガード下をくぐると、

杭瀬川があらわれます。

かなりの水量です。堤防などなかった当時はさらに流れが急で、鎧兜を着けた武者が渡るのは容易でなかったでしょう。

木や草が生い茂る原野の流れの中で、東軍を翻弄した島左近の知恵には感心します。

彼はその後すぐ、家康本陣に夜襲をかけることを提案するのですが、三成に却下されてしまいます。そして、その夜、西軍は西の関ケ原へ向かい、戦いの朝を迎えます。合戦はわずか半日で勝負がつき、西軍は大敗北に終わってしまうのです。

家康は当初、大垣城を水攻めする計画をもっていたようです。この場合も、鍵をにぎるのは杭瀬川。もしそうなっていたら、すぐ西の垂井、南宮山などに陣を張っていた毛利や小早川勢もまじえて、大決戦が長期間にわたって展開されたことでしょう。ひょっとしたら、大阪城から秀頼出陣があったかもしれません。そうなったら、ほぼ西軍の勝利・・・などという妄想が、当地では生きています(^.^)

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祝!gooブログ5周年!『関ケ原合戦絵巻』(1)木曽路の秀忠軍と真田一族

2024年07月08日 | 故玩館日記

1月に、ブログ改設5周年の記念ブログを書きました。gooブログへは、Yahooブログから半年後に移りました。ですから、今日が、gooブログでの5周年になります。

例によって、いつものガラクタよりワンランク上の品を、と探し回り、今回の絵巻物になりました。

『関ケ原合戦絵巻』20.5㎝x7.65m。江戸中期ー後期。肉筆彩色。

関ケ原合戦絵巻は、オリジナルの絵巻を写していったようで、各地の博物館や資料館に収蔵されています。絵巻にはいくつかのパターンがあり、今回の絵巻は2巻仕立て絵巻の第2巻目です。1巻目は残念ながらもってません。

関ケ原合戦の前哨戦から本戦まで、ほぼ時系列になって、右から左へと物語が展開していきます。

木曽路の徳川秀忠軍:

真田幸村と沼田城:

沼田城内:

杭瀬川の戦い:

西軍の配置:

東軍の配置:

島津ののき口(?):

大谷刑部の最後:

敗走する西軍:

大変長い巻物なので、数回にわたってブログで紹介します。

今回は、木曽路の攻防(写真の上から3枚分)です。

木曽路の徳川秀忠軍:

徳川家康は、石田三成率いる西軍との戦いに対して、まず、信州の真田を攻略すべく、秀忠を大将にすえ、徳川の主力、3万4千の大軍をおくりました。

木曽路をすすむ秀忠隊の旗印です。榊原康政、大久保忠隣、牧野康成、本多正信、真田信幸(信之)。これより以前、家康の上杉討伐に参加するため下野国に陣を張っていた真田昌幸は、石田三成挙兵の報に接します。そこで、子の信繁(後、幸村)、信幸(後、信之)と密議を開き、戦の行方がどのようであっても真田が生き残れるよう、信幸は東軍、昌幸と信繁は西軍につくと決めました。その結果、秀忠隊に信幸も加わり、昌幸・信繁と戦うことになったのです。

慶長5年(1600)9月2日、真田昌幸の居城、信州上田城を秀忠軍が取り囲みます。

台徳公(秀忠)の使番(敵軍への使者)が上田城に向かい、降伏を迫ります。

ところが、昌幸は返事を先延ばしにし、降伏に際してさまざまな要求を行い、時間稼ぎをしました。そして、秀忠を挑発し、巧妙な作戦で翻弄し続けたため、秀忠軍は信州で足止めをくらい、関ケ原合戦に間に合わないという大失態を演じることになったのです。

真田幸村と沼田城:

話しは、前後します。

家康の上杉討伐に参加していた真田昌幸は、西軍につくことを決め、急遽、居城、信州上田城へ戻っていきます(下図)。

その際、昌幸は、東軍についた信幸の居城、沼田城(群馬県沼田市)に立ち寄ろうとしました。

戦いの前に、かわいい孫の顔を一目見ておきたいと思ったからです。

城の外で夜通し陣をはる兵士達。信幸の留守を守る兵士たちでしょうか。

秀忠軍の兵という説もあります。

沼田城内:     

女たちがにぎやかに過ごしています。

向こうの部屋では、女中たちが食べ物を前に談笑中。

座敷では、女たちが幼子をあやしています。

左端の女性は、思いつめた様子です。

東軍についた沼田城主、真田信幸の妻、稲(小松殿)でしょう。信幸は、徳川家康の重臣、本多正信の娘、小松姫をめとっていたのです。今は、敵と味方にわかれて戦う真田一族。夫、信幸にかわって城をまもる稲は、西軍に与する舅、真田昌幸の申し出をきっぱりと断ります。大手門にあらわれた稲は、鎧に身を包み薙刀を手にし、「父上であっても敵である、城に入れることはできない」と言い放ったそうです。孫に会うことが出来なかった昌幸は、むなしくそのまま上田城へ引き上げたのでした。

この場面は、先の大河ドラマ『どうする家康』でも出てきました。人気のエピソードなのですね。

一説では、その後、秘かに、沼田城近くの正覚寺へ昌幸らを案内し、孫に合わせた、ともいわれています。真偽は不明です。

 

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円空終焉の地(岐阜県関市)を訪ねました

2024年06月24日 | 故玩館日記

以前のブログで、円空の生誕地、岐阜県羽島市の中観音堂を紹介しました。

今回は、円空終焉の地を訪れました。円空生誕地から30kmほど北、岐阜県関市池尻、やはり、長良川の畔です。

この一帯は、広大な弥勒寺史跡公園となっています。

土曜日の午後というのに貸切り状態(^^;

写真の奥にあるのが弥勒寺。

円空は、江戸時代、廃寺となっていた弥勒寺を再興し、晩年をすごしました。

しかし、その寺は、大正九(1920)年の火事で焼失してしまいました。写真の寺は、その数百m東に再建されたものです。

焼失した弥勒寺跡へ向かいました(上の写真左(西)方)

竹林が枯れています。竹の花が咲いたのですね。

中央の黄線で囲まれた所が弥勒寺跡。

かなり大きなお寺であったようです。

寺には、数百体の円空仏があったそうですが、火事で灰になってしまいました。

竹林の中をさらに西に進むと、円空の墓への道があります。

しばらく山道を登ると、

円空の墓がありました。

弥勒寺跡の裏にあたります。

林の中にひっそりとたたずんでいます。

「ユ(梵字で弥勒菩薩)當寺中興圓空上人 元禄八乙亥天七月十五日 花押」

竹林をもう少し進むと、

関市円空館に出ます。

小さな施設ですが、関市にある300体あまりの円空仏の内、40体ほどを展示しています。その中には、円空の最高傑作とされる一木三体仏や善財童子像があります。

善財童子(パンフより)

円空館を後にして、山を降りていくと、

長良川の畔に出ます。

ここが、円空入定の場所です。

入定塚の横には大きな藤が生えています。

元禄八(1695)年、死期をさとった円空は、「この藤の花が咲く間は、この土の下で生きていると思え」と言い残して入定したそうです。

眼をやると、長良川が山にぶつかって、大きく蛇行し、瀬と淵が連続する変化にとんだ絶景が広がっています。

ここは、下流の岐阜市金華山麓とならんで、小瀬の鵜飼として有名な場所です。

小瀬の鵜飼は、暗闇の中、古式を多く残した方法で行われます。ここの鵜飼は千有余年の歴史をもっていて、円空の時代にも行われていたはずです。

円空の入定は、小瀬の鵜飼を真正面に眺めることができる場所でなされたのですね。

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民家の屋根にシラサギ

2024年06月18日 | 故玩館日記

故玩館、中山道脇の畑から西方をのぞむと、

正面に四方屋根の家が見えます。

もう少し近寄ると、

何か、おかしい。

よく見ると、屋根のてっぺんに白い鳥がいます。

橋をゆっくり渡っていく電動カートのおじさんには、無関心の様子。

一心不乱に、左下方を見つめています。

この家(写真右端)は、川の際に建っています。

ジッと獲物を狙っているのですね。

ここからなら見通しがききます。

しかしこの距離から、水中の獲物が良く見えるものですね。鳥の視力に感心(^.^)

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