歌川広重と渓齋栄泉は、天保六ー八(1835ー1837)年頃、中山道の宿場町をすべて(各宿場に一枚)を描きました(『木曾街道六拾九次』)。故玩館のある美江寺宿のこの絵も、そのうちの一枚です。
歌川広重 『木曽街道六拾九次之内五拾六 みゑじ』
美術史家によれば、美江寺宿のこの浮世絵は、木曽街道シリーズのなかでも、出色の一枚だそうです。そして、美術書にはたいてい次のような解説があります。
「なんという寂しい風景でしょう。大きな竹藪と野池、遠くに見える数軒以外に家らしきものが見当たりません。夕暮れ時、坂道の途中で旅人が土地の農民に道を尋ねています。あかね色した西の空を、竹藪のねぐらへ急ぐすずめたちが印象的です。」
私がこの浮世絵を最初に見たのは小学五年生の時です。学校の図書館で偶然手にした美術書に載っていました。しかし、この絵が、自分の住む美江寺宿を描いているとはとうてい思えませんでした。なぜなら、この絵に描かれているような急坂は、どこにも見あたらなかったからです。
現在、中山道関係の書物では、『木曾街道六九次』に描かれた各宿場町の場所は、そのほとんどが特定されています。しかし、広重が描いた美江寺宿については、あいまいな記述で終わっています。
最初に広重の絵を見てから半世紀が過ぎたある日、畑仕事を終えて、私はぼんやりと向かいの母屋を眺めていました。そのとき、広重のあの絵が額縁で囲まれたように、現実の景色と重なったのです。あの浮世絵に描かれているのはこの場所ではないか!子供の頃の記憶がよみがえってきました。
故玩館(右)と現在の住居(左)、中央奥に広重が描いた竹藪。
北側からみた竹藪。左(東)端に輪中堤。
ここは、自分が毎日遊んでいた場所に違いない。広重が描いた竹藪は家の裏に繁っています。旅人の向こう側に点々と広がる野池は、私が子供の頃、毎日魚を釣り、泥中でナマズを捕まえていた、あの池(出水時には川になる)に間違いありません。この辺りは、濃尾平野の真ん中に位置し、北の山地に降った雨が地中にしみ込んだ後、再び地表に現れてくる地帯です。多くの湧水(ガマ)があり、無数の野池が点在し、網の目のようにクリークが走っていました。その場所で、男子は、毎日、日が暮れるまで、池や川で遊んでいたのでした。
排水の良くなかった当時、出水のたびに、家の周辺は海のようになりました。今でも、年に数回は同じような光景になりますが、当時は、もっと頻繁に洪水が起こっていました。水は、道路(中山道)をこえて、北から南へ(広重の絵では、向こうから手前へ)流れます。少年の私は、あわてて、タモを手に、流れをのぼってくる魚たちを追いかけていました。
出水時の竹藪。
広重が描いたこの池で、大人たちは、毎年、春と秋の二回、カイドリをしました。出水の度に、下流から魚がのぼってきたので、池には常に色々な魚がたくさんいました。男たちは、田へ水を入れるための足踏式水車を半日以上、交替で回し続け、池の水を外へ出します。すると、鮒、ナマズ、鯉、ウナギ・・・いろんな魚が出てきます。子供たちは、干上がった池の魚を男たちが大方とり終わってから、中へ入り、泥の中にまだ潜んでいるウナギや雷魚をさがしだし、おこぼれにあずかったのです。
昭和三十年代の初め、日本が高度成長期に向かう頃、この辺りも大きな変化を受けました。狭い中山道をダンプカーが列をなして行き交い、大規模な土木工事があちこちで行われました。母屋(現、故玩館)の前の中山道は1m以上かさ上げされ、出水時に道路が冠水することはなくなりました。
赤点線は、広重が浮世絵を描いた当時の中山道。
美江寺宿は、長良川と揖斐川に挟まれ、さらに多数の中小河川が周りを流れています。このような場所にあるので、水害から逃れるため、輪中(五六輪中)を築きました。濃尾平野に数多くある輪中のうち、この五六輪中は最北部に位置しています。宿場の家並みはその内側にあります。私の家は、江戸時代、この輪中堤の外側に接して建てられました。だから、出水時に家が水に浸からないようにするため、2mもの石垣を築く必要があったのです。江戸時代の中山道は、実は、この輪中堤を乗り越えて、美江寺宿へ出入りするようにつくられていました。したがって、かなり急な坂道を上り下りすることになります。
中山道分限延絵図(1992年、東京美術刊、原本、寛政一二(1800)年、東京国立博物館)
実際、中山道分限延絵図には、母屋のすぐ東側に「堤越え」と小さく書かれています。明治になって、道路部分の堤防が削られ、道は平坦になりましたが、広重の時代には、故玩館東の堤防は高さ4m以上もあり、その上を横切る中山道は、広重の絵にあるように、母屋の前は左(西)へ下る急な坂になっていたと考えられるのです。
中山道分限延絵図『美江寺宿』の左下部拡大図。故玩館の裏に竹藪らしきものが描かれている。故玩館の向かい、輪中堤には高札場がある。洪水時に道路を遮断する水門も見える。「堤乗越」との表記有り。
上の地図に相当する現在の写真。
広重の表現。
子供の頃の私の記憶では、母屋の東端に接する場所に立つと、道路の両側は見上げるほど高い壁になっていて、堤防を削りとった様子がはっきりと見てとれました。そして、出水時に町中へ水が侵入するのを防ぐためでしょう。両側には、道路を長い板で遮断して防水壁を築くための溝が掘られていたのを覚えています。
私の家の屋号は、「坂下」です。こんな高い位置にある家なのになぜ屋号が「坂下」なのか、その謎が解けました。さらに調べていくうちに、広重は、絵の雰囲気を出すため、建物をカットして風景を描くことがしばしばあったという事もわかりました。この場所に家があるのは、寂しい光景にはふさわしくないと彼は考えたのでしょう。
広重の浮世絵、「木曽街道六拾九次之内五拾六 みゑじ」は、美江寺宿の西の見付けを描いていたのですね。なお、広重は、次の宿、赤坂では東の見付け、その次の宿場、垂井の浮世絵では、西の見付けを描いています。
寛政十二(1800)年頃作成された『中山道分限延絵図』には、美江寺宿の西のはずれに、私の家、そして背後に竹藪が小さく描かれています。広重が宿場町を描いた、天保六ー八(1835ー1837)頃には、すでに、この場所に母屋が建っていたことがわかります。東海道丸子宿の丁字屋のような絵になる建物ではなかったのでしょう。美江寺宿を描くとき、広重がこの家を描いてさえくれたら・・・今となっては、幻の故玩館という外はありません。
江戸からの母屋は、130年前の濃尾大震災で倒壊しました(このあたりの建物は、すべて全壊)。そして、震災後に、母屋は再建されました。ですから、それ以前の様子を知ることはできません。ところが、十数年前、故玩館を大改修する時、手掛かりが見つかりました。それまで、天井や壁に隠れていた古い梁や柱が露わになったからです。そして、震災後の再建時に、倒壊した家屋の梁や柱を再利用したことを示唆する箇所が、いくつか見つかりました。
改修前の故玩館(濃尾震災後に再建)。
改修中の故玩館(太い材は江戸期からの物)。
改修後の故玩館。
濃尾震災は、明治以降の地震の中では観測史上最大震度であったと言われています(推定震度8強)。あまりにも強烈な揺れのため、石の上にのっただけの当時の家屋は瞬時にして崩壊しました。そのため、太い柱や梁などは、バラバラになり、案外無傷で残った物も多かったようです。震災後、建築資材の入手は不可能だったので、これらを再利用して、震災前の形に立て直したと考えられます。したがって、それを改修した現在の故玩館も、江戸の姿をかなりとどめているのではないかと考えています。
濃尾震災の時、激しい余震が続く中で、地割れを避けるため、祖父達は、根が張り巡らされた裏の竹藪で何ヶ月かを過ごしたといいます。この藪は、今も小鳥たちのねぐらです。また、毎日遊んでいた池の上には、新しく私の家屋が建っています。背後の野池やクリークも埋め立てられ、田や畑になっています。
道をたずねる旅人
これまで、広重のこの浮世絵は、夕方、旅人が地元の人に道をたずねているところだと説明されてきました。しかし、夕方から次の赤坂宿に向かうことはあり得ません。なぜなら、この先、赤坂、垂井、関ケ原への中山道沿いには、巨大な松並木がうっそうと繁っていて、盗賊たちが跋扈する場所だったからです。大盗賊熊坂長範が活躍する、能『熊坂』の舞台です。暗くなってから歩くなど考えられないのです。実際、このあたりの宿場では、夜になると西と東の出入り口を閉じた所も多かったようです。旅人は、暗くなるまでに、何としても宿場にたどりつき、宿をとる必要があったのです。
竹藪とすずめ
描かれたすずめをよく観察すると、西北の空へ向かって飛んでいこうとしているのがわかります。美術史家の言うように、夕方、竹藪のねぐらに戻るのではなく、晴れた日の早朝、これから活動を始めようとするところなのです。いまでも、すずめの鳴き声で目が覚めます。ですから、この絵の西方の情景は、夕焼けではなく朝焼けです。
私は、ずっとこの場所に住み、晴れた日の早朝には、西北の空が、このようなあかね色に染まるのをしばしばながめてきました。したがって、広重の絵は、早朝、宿を発って、次の赤坂宿へ向かう旅人が、村人に道を尋ねていると考えるのが妥当です。また、広重が大きく描いた満開の椿。この木、あるいはその子孫と思われる椿がこの辺りにあって、朝の光の中に美しく映えていたことを、私はかすかに記憶しています。
歴史にifは禁句ですが、それでも、もし、広重が故玩館を描いていてくれたら・・・・
幻の故玩館と広重の浮世絵