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遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

岐阜城の古瓦

2025年03月30日 | 美濃の歴史・文化

今回の品は、本来なら〇周年記念とか銘うって、これ見よがしにブログアップ(^^;)する類の物かもしれません。でも、ここしばらくブログで紹介してきた金華山や岐阜城にまつわる品物なので、この際、一挙放出!!!・・・・・・・にしては、たった4個の瓦片です(^^;

金華山頂、岐阜城があった辺りで発掘された瓦のようです(私が実際に拾った物ではありません)。

昭和51年8月10日出土、とあります。

池田輝政は、岐阜城を改築した城主ですが、今回の瓦はその時代の物なのでしょうか。

このような品には全くの不案内、関係する資料を必死に漁って、ようやく3点、見つけました。

左から
①『信長・秀吉の城と都市』岐阜市歴史博物館、平成3年
②加藤佳司『岐阜城落城400周年追悼 金華山山頂の昔の岐阜城の姿を求めて・・瓦片から推測されるその姿』私家版?、平成12年
③「岐阜城の瓦についてⅠ」岐阜市歴史博物館研究紀要 3巻、1‐24(1989)

この中で、岐阜市歴史博物館の研究紀要が最も詳しく分析を行っていたので、主としてこれを参考にしました(以下、紀要論文と略)。

軒丸瓦:

瓦当のみの状態で、半筒部は失われています。

周縁を残し、一段低くなった円状の部分に巴珠模様が施されています。巴の頭は小さく、尾は長いです。3つの巴紋が円を形成していて、その周りを珠紋が16個、ぐるっと円状に取り囲んでいます。

直径 14.1㎝、模様区径 10.2㎝、珠紋数 16、珠紋径 0.6㎝、周縁幅 1.4㎝‐2.1㎝、周縁高 0.5㎝-0.7㎝。

胴部は失われていますが、割れた面(接合部)に、弧状のコビキが見られます。コビキとは、粘土塊(タタラ)から粘土板を鉄線などで切り取る時にできる筋です。技法の関係で、弧状のコビキは古く、時代が降りると直線状になります。

紀要論文の瓦の中に、今回の軒丸瓦と大変よく似た瓦を見つけました(下写真、左)

模様の形態や大きさ、さらに弧状のコビキから、今回の軒丸瓦は、紀要論文でⅡaに分類される瓦に相当することがわかりました。

このタイプの軒丸瓦は、明智光秀の坂本城(元亀2年(1571))や織田信雄の清洲城(天正14年(1586))跡からも発掘されています。

軒平瓦:

最大幅 12.9㎝、奥行 7.8㎝、厚 1.5㎝。

瓦当:周縁(上) 0.9㎝、周縁(下)  0.7㎝、周縁(右) 2.2㎝、周縁高 0.6㎝。厚 3.2㎝。

唐草紋の反転はありません。

割れ口から、2種類の粘土が使われ、一方が他方を包み込んだサンドイッチ構造になっていることがわかります。

小さめの軒平瓦で、唐草の反転が見られないことから、古いタイプの瓦だと思われます。

信長公居館発掘調査案内所(岐阜公園内)では、これまでの発掘調査成果をもとに岐阜城、信長公居館跡の発掘瓦を時代順に、4分類しています。

これに従うと、今回の軒丸瓦と軒平瓦は、初期の1類に属すると思われます。

平瓦:

15.5㎝ x 14.4㎝、厚 2.5㎝。

しっかりとした造りで、ズシリと重いです。

瓦に付けられた紙片によれば、池田輝政時代の大手門に使われていた瓦と思われます。

やはり、サンドイッチ構造の作りです。

布目は見あたりません。

 

木瓜紋丸瓦(軒丸瓦?):

15.0㎝x11.8㎝、厚 2.6㎝。

織田家、木瓜紋の丸瓦です。半筒状の胴部が付いていた軒丸瓦のようにも見えますが、定かではありません。

 

 

他の三枚に較べて、赤土が付着しておらず、風化も少ないです。本当に出土した物かどうか、わかりません(私が自分で拾い集めた品ではない(^^;)

木瓜紋の瓦は、織田家の惣領の城にしか許されなかったものです。天正14年(本能寺の変から4年後)、次男、織田信雄によって改修された清洲城の跡地から、木瓜紋瓦が出土しています。織田木瓜紋瓦は有名なわりには出土例が少なく、いつごろから使われ始めたのか、はっきりしていません。岐阜城跡からも見つかっていない(と思う)ので、もし、今回の品が本物なら新発見?・・・・・妄想は膨らみますが、織田木瓜瓦は人気が高く、後世、多くの木瓜瓦が作られました。今回の瓦片には出土の形跡が見られません。誰かが、記念にどこかで入手した物と考えるのが無難だと思います(^^;

 

岐阜城は、戦国時代を象徴する城です。城郭建築に初めて本格的に瓦を用いた城でもあります。

永禄10(1567)年、織田信長は、稲葉山城を攻撃、斎藤龍興を追放して、岐阜城主となりました。八年後の天正4(1576)年、信長は安土城へ移り、長男、織田信忠に岐阜城の城主をゆずりました。
天正10(1582)年、本能寺の変で織田信長と信忠が死亡。織田家の後継ぎとして秀吉が担いだのが信忠の子、三法師(3才、後の織田秀信)です。そして、三法師の後見人を信長の三男、織田信孝が務めることになり、岐阜城の城主となりました。しかし、わずか1年後の天正11(1583)年、信孝は、豊臣秀吉と対立し、自刃しました。
この後に岐阜城の城主となったのは、信長の乳兄弟、池田恒興の長男、池田元助です。しかし元助は、小牧・長久手の戦い(天正13(1585)年)で討死。、岐阜城の城主は、元助の弟、池田輝政となりました。輝政はその後、吉田城(愛知県)に移り、天正19(1591)年、秀吉の妹の子、豊臣秀勝(秀吉の養子)が岐阜城主となりました。しかしわずか1年後、豊臣秀勝も文禄の役の最中に病死。そして天正20(1592)年、最後の岐阜城主となったのが、織田信長の孫、あの三法師、織田秀信です。しかし、難攻不落と思われていた岐阜城は、関ケ原の戦いの直前、慶長5(1600)年8月23日、かつての城主、池田輝政、そして福島正則ら東軍の猛攻撃を受け、わずか一日で落城してしまいました。

織田信長が稲葉山城(岐阜城)に入城してから東軍によって落城するまでの33年の間、いくら戦国時代とはいえ、目まぐるしく城の主が変わっていったのには驚くばかりです。
しかも、ほとんどの城主が戦国時代の主要な出来事に関わっています。
そして、その多くが無念の最後をむかえています。
今回の瓦片を手にすると、そんな武将たちの姿が浮かんでくるかのようです。

 


金華山焼8 矢島寿山『漢詩緑交趾茶碗』

2025年03月27日 | 美濃の歴史・文化

金華山焼の抹茶茶碗です。

珍しく共箱入りです。

オリジナルの箱紐と仕服。

かなり本格的な茶碗です。

口径 12.7㎝、高台径 4.4㎝、高 8.5㎝。重 298g。大正時代。

軟陶のボディに交趾釉、篆字彫りの漢詩。これまで紹介してきた矢島寿山、金華山焼の特徴がギュッと詰まった品です。

これまでの品も緑釉だけでなく、濃紫の色釉が控えめにあしらってありました。それに対して、今回の品では大胆に掛けられています。

胴に彫られた漢詩は

「松心鶴性清如水」と読めます。

「松の心、鶴の性は、水の如く清し」

中国明の詩人、張愈光の詩の一節です。

この茶碗で一番驚いたのは、高台です。ゴツゴツしてキズがあります。けれども、見かけとは異なり、ツルツルなのです。軟陶とはいえ、手擦れ、畳擦れでここまでになるには、よほど愛用されていたに違いありません。前所有者は、おそらく、毎日、この茶碗でお茶をたてていたのでしょう。

お茶をするわけでもないのに、気がついてみれば、故玩館には、15個ほどの茶碗が溜まっていました。本命のついでに義理買い、素性が知れないところに惹かれ買い、ひょっとして名品‼?とのスケベ―根性買い、etc.,  

そんな中で、今回の品はめずらしく正統買いです(^.^)

しかし、今回の品はお値段も別格。どーする?「こんな品はもう出ませんよ」・・・骨董屋主人の殺し文句にコロリといかれた次第です(^^;

いわゆる地元高ですね。

この茶碗で一服いただき、「性清如水」の心境に至ることができれば安い買い物なのですが、果たして・・・(^.^)


金華山焼7 福田旭水『五色 茶寿杯』

2025年03月24日 | 美濃の歴史・文化

今回の金華山焼は珍しい品です。

その理由は、売られていた当時のボール箱に入っているからです。

陶器杯が5個入っています。

少しずつ、色模様が異なっています。

口径 5.9-6.1㎝ 、高 2.3-2.6㎝ 、重 35-40g  。大正時代。

底近くに「金華山」印があります、

二つ目の杯。

やはり、底近くに「金華山」印。

三つ目の杯。

他の杯と、釉薬の色がちがいます。

「金華山」印はすべての杯に押してあります。

残りの二つも含め、五つをならべてみると・・・

なかなかに渋く、お互いに似てはいますが、それぞれいっぱしの小宇宙を表しているかのようです。五色杯というのも肯けますね。左党の人には、堪えられない一品かもしれません。

さて、最初に今回の品は珍しい、と言いました。こんな地味な杯のどこが珍しい?!

珍なのは、中味の陶磁器より、箱です。

パッケージ付きの金華山焼が市場に出ることは稀です。

蓋裏には、堂々と「岐阜特産 金華山焼」「元祖窯元 福田金治郎」(号、旭水)と書かれています。いわゆる金華山焼の類で、「金華山焼」を名のったのは、彼だけなのです。「大吉園茶舗」というのが店名で、各種銘茶と茶道具を扱っていたようです。住所から、岐阜市の繁華街中心部に店を構えていたことがわかります。この一角は、今でも、古くからの陶磁器店や画廊があって、独特の雰囲気がある地区です。当時から、趣味人相手の店舗が並んでいたのでしょう。

書かれた紙をよく見ると、織田木瓜紋と桐の下で、鵜飼が行われています。福田旭水は、センスのある商売人でもあったのですね。

 


美江寺土鈴

2025年03月21日 | 美濃の歴史・文化

ここしばらくブログでとりあげてきた金華山焼の中には、美江寺土鈴を模した品がありました。以前にも少し紹介した美江寺土鈴ですが、今回、あらためてまとめ直します。

日本各地には、多種多様な土鈴が作られ、売られてきました。美江寺土鈴は、その中の一つです。

遡る事、450年以上、美濃の国は土岐氏にかわって、新興の斎藤氏が支配するようになりました。斎藤道三は、金華山頂の岐阜城を本拠地として、城下を賑わせ、街を興そうとしました。とは言え、元々は何もない所です。そこで、10㎞ほど西方、十六条村(現、瑞穂市美江寺)の伽藍、美江寺に安置されていた乾漆十一面観音立像(美江寺観音、奈良時代)を城下へ移し、町興しのシンボルとしたのです。以来、街は栄え、新たに建立された岐阜の美江寺は、多くの参拝客で賑わう寺になりました。その境内で売られていたのが、美江寺土鈴です。

なお、西の美江寺にあった美江寺観音を岐阜城下へ強引に移したのは織田信長、という説が地元では有力です。でもこれは、信長のネームヴァリューによるものでしょう(^^; 

手持ちの美江寺土鈴です。

大 2個、小 7個、計9個です。

釜形土鈴:

最大径 13.7㎝、底径 8.6㎝、高 10.8㎝。重 368g。昭和。

宝珠型土鈴:

幅 14.7㎝、奥行 6.5㎝、高 14.6㎝。重 219g。昭和。

 

小形の土鈴、7個です。

高さ 2.6~3.7㎝、重さ 4~10g、昭和。

小さいですが、すべて鳴ります。

釜形土鈴、宝珠型土鈴:

大黒土鈴、恵比寿土鈴、お多福土鈴:

提灯土鈴、俵土鈴:

美江寺土鈴の起源、由来はわかっていません。

資料がほとんどないからです。

そんな中、たまたま私の持っているマイナーな古雑誌に、美江寺土鈴の記事がありました。

加藤草香子「美濃美江寺と土鈴」、『郷土趣味』第二十号、大正六年。

6頁の論考です。大半は美江寺の縁起についての記事で、肝心の美江寺土鈴について詳しい記述はありません。そんな中で、注目される点をいくつかひろいあげてみます。

まず、『美濃國諸舊記』(『美濃国諸旧記』)(江戸初期)からの引用があります。

「當寺本尊観世音は國中無双の霊佛なり、往昔伊賀國より當寺本巣郡十六條の里へ移り給ひ、毒蛇を退治して東山道の往還を安らかしめ給ひしてより人皇四十四代元正天皇の勅願所として養老三年己未九月に初めて彼の寺を建立ありけるとなり」

これは、岐阜へ移る以前の美江寺、つまり、故玩館のある元々の美江寺の縁起です。毒蛇退治とは、暴れ河川の改修を指しているのでしょう。養老年間の初め、朝廷がこの辺りで大掛かりな改修工事を行い、インフラを整備したらしいことが伺えます。その一つは、東山道を整備して、人と物流の流れをつくりだしたこと、もう一つは、条里制をしいて、大規模な耕地整理を行ったことです。そして、事業の総まとめとして、本尊、十一面観音を伊賀國から移し、美江寺に伽藍を建立したのでしょう。当時の条里制は、現在、十四条から十九条の地名にその名残りをみることができます。では、なぜ、朝廷が直々、十六条村に大伽藍、美江寺を建立したのでしょうか。それは、当時、極めて貴重であった繭、生糸がこの辺りでとれたからです。河川が縦横に走る十六条村(美江寺)は、生産物の運搬に好都合な場所に位置して、繭、生糸の集散地であったからです。川の氾濫を防ぐことさえできれば、生産力は増し、河川を利用した物流も飛躍的に活発になります。そのために、治水工事と伽藍美江寺の建立がなされたのだと考えられます。

さて、美江寺土鈴の由来ですが、この雑誌の論考では、「土鈴に就いては寺傳其他にも傳ふるものは更にない」と書かれています。ただ、近くの善光寺では、貞享三年の大火事で壊れた如来像を修復する際、余った土を処分するため土鈴を作って人々に配りました。それを真似して、美江寺でも土鈴をつくるようになったのではないか、と述べています。以来、境内の名物として人気が高く、多くの人が美江寺土鈴を求めました。

美濃美江寺の土鈴といっても、実際に製作していたのは、美濃路起(おこし)宿(現、愛知県一宮市)にあった窯元です。そこには、宝暦年間とおもわれる宝珠型土鈴の型が残っています。

美江寺土鈴は、蚕土鈴とも言われています。養蚕に関係しているからです。宝珠、釜、俵、恵比寿大黒などは、豊かさの象徴です。元々の美江寺は、養蚕の中心地であり、土鈴は養蚕農家のお守りでもあったわけです。蚕土鈴を蚕室にさげておき、それを鳴らすと鼠避けにもなって、蚕が良く育つと言われていたそうです。

先人たちが養蚕の成功を祈って手にしていた美江寺土鈴。やっと9割方快方にいたった左手に小さな蚕鈴を持って振ると、からからと素朴な音がして、癒されます(^.^)

 


金華山焼6 矢島寿山(初代)『赤壁腑画讃彫緑交趾尊式花瓶』

2025年03月18日 | 美濃の歴史・文化

金華山焼の中では、大型に属する品です。

口径 11.6㎝、底径 8.9㎝、高 29.8㎝。重 990g。大正時代。

全体に緑交趾釉がムラムラと掛かった尊式花瓶です。

胴中央に、この品について書かれています。

「為 山高水長會 大正癸丑冬〇 寿山手作」

作者は、初代、矢島寿山、大正2年の作です。

山高水長會は、明治末から大正にかけて、岐阜県高山市にあった美術愛好家の集まりです。その会からの依頼でこの品は作られた、とあります。

底は露胎、白い軟陶が用いられています。

内部には透明釉が掛けられ、段継ぎが2箇所、見られます。

器体には、手びねりの指跡が多く残っていて、文字通り、「手作」であることがわかります。

中央には、幅6.5㎝ほどの帯がグルっと回っていて、さらにその上に、貼花&彫りで、山々や舟人物が表されています。

舟中の人物3人は表情が異なるなど、非常に細かい細工がなされています。

帯びの上部、雷紋と蓮弁文に挟まれた部分には

よく見ると、緑釉の間に、紫(少し赤みがかった)釉が点々と散っています。

紫釉は、山々の稜線などにも見られます。

また、その下の胴部は緑釉が薄くなって、紫や赤が小さく点々と散った地肌がのぞいています。

このように、色の使い方にも凝っています。

さて、いよいよ、帯の部分の彫りです。

右から順に・・・

高い山並みが続いています。空には月。

船に乗った三人の人物が景色を眺めています。

この情景を語るのが、彫られた漢詩です。

「( 於是携酒與魚、復遊於赤壁之下。)江流有声、断岸千尺。 山高月小、水落石出。」

(是に於いて酒と魚を携え、復、赤壁の下に遊ぶ。)江流に声あり、断岸千尺。山高く月小にして、水落ち石出ず。

(そこで酒と魚とを携えて、また赤壁の下に遊ぶことになった。)長江は音をたてて流れ、千尺にも及ぶ絶壁が切り立っている。山がそびえ立ち、月は小さく、水は少なくて石が露出している。

これは、北宋の詩人、蘇東坡(1036‐1101)の「後赤壁腑」からの一節ですね。彼は、元豊5年(1082)7月16日(前赤壁)と10月15日(後赤壁)の二度、友人と、流罪地黄州(湖北省黄岡県)の長江に舟を浮かべて赤壁に舟遊びにでかけ、その様子を、韻文の一種である賦にうたいあげました。それが、名文、「前赤壁腑」と「後赤壁腑」(両方合わせて「赤壁腑」)です。

「赤壁腑」は古くから人々に広く愛され、書画や戯曲、小説などの題材となりました。今回の品は、陶磁器の上に「赤壁腑」の世界を展開したものです。皿などの器に「赤壁腑」の詩文や情景を描いた品は散見されますが、浮き彫りにした物は少ないと思います。花瓶の中央に彫られた篆字の詩文と貼花彫刻で表された赤壁や船は、蘇東坡「赤壁腑」の世界、すなわち、大自然の中で見つめる人間の生、を感じさせます。立体的な浮彫は、通常の陶磁器よりも、壮大な詩文を表現するのに向いていると言えるのかもしれません。

以前に紹介した『交趾漢詩文急須』と並べてみました。

どちらも、初代、矢島寿山の作です。色調は少しちがいますが、やはり、中国文人の古い詩文から題をとっています。

文人の世界に遊ぶための準備が少し整ったようです(^.^)