今回の品は、本来なら〇周年記念とか銘うって、これ見よがしにブログアップ(^^;)する類の物かもしれません。でも、ここしばらくブログで紹介してきた金華山や岐阜城にまつわる品物なので、この際、一挙放出!!!・・・・・・・にしては、たった4個の瓦片です(^^;
金華山頂、岐阜城があった辺りで発掘された瓦のようです(私が実際に拾った物ではありません)。
昭和51年8月10日出土、とあります。
池田輝政は、岐阜城を改築した城主ですが、今回の瓦はその時代の物なのでしょうか。
このような品には全くの不案内、関係する資料を必死に漁って、ようやく3点、見つけました。
左から
①『信長・秀吉の城と都市』岐阜市歴史博物館、平成3年
②加藤佳司『岐阜城落城400周年追悼 金華山山頂の昔の岐阜城の姿を求めて・・瓦片から推測されるその姿』私家版?、平成12年
③「岐阜城の瓦についてⅠ」岐阜市歴史博物館研究紀要 3巻、1‐24(1989)
この中で、岐阜市歴史博物館の研究紀要が最も詳しく分析を行っていたので、主としてこれを参考にしました(以下、紀要論文と略)。
軒丸瓦:
瓦当のみの状態で、半筒部は失われています。
周縁を残し、一段低くなった円状の部分に巴珠模様が施されています。巴の頭は小さく、尾は長いです。3つの巴紋が円を形成していて、その周りを珠紋が16個、ぐるっと円状に取り囲んでいます。
直径 14.1㎝、模様区径 10.2㎝、珠紋数 16、珠紋径 0.6㎝、周縁幅 1.4㎝‐2.1㎝、周縁高 0.5㎝-0.7㎝。
胴部は失われていますが、割れた面(接合部)に、弧状のコビキが見られます。コビキとは、粘土塊(タタラ)から粘土板を鉄線などで切り取る時にできる筋です。技法の関係で、弧状のコビキは古く、時代が降りると直線状になります。
紀要論文の瓦の中に、今回の軒丸瓦と大変よく似た瓦を見つけました(下写真、左)
模様の形態や大きさ、さらに弧状のコビキから、今回の軒丸瓦は、紀要論文でⅡaに分類される瓦に相当することがわかりました。
このタイプの軒丸瓦は、明智光秀の坂本城(元亀2年(1571))や織田信雄の清洲城(天正14年(1586))跡からも発掘されています。
軒平瓦:
最大幅 12.9㎝、奥行 7.8㎝、厚 1.5㎝。
瓦当:周縁(上) 0.9㎝、周縁(下) 0.7㎝、周縁(右) 2.2㎝、周縁高 0.6㎝。厚 3.2㎝。
唐草紋の反転はありません。
割れ口から、2種類の粘土が使われ、一方が他方を包み込んだサンドイッチ構造になっていることがわかります。
小さめの軒平瓦で、唐草の反転が見られないことから、古いタイプの瓦だと思われます。
信長公居館発掘調査案内所(岐阜公園内)では、これまでの発掘調査成果をもとに岐阜城、信長公居館跡の発掘瓦を時代順に、4分類しています。
これに従うと、今回の軒丸瓦と軒平瓦は、初期の1類に属すると思われます。
平瓦:
15.5㎝ x 14.4㎝、厚 2.5㎝。
しっかりとした造りで、ズシリと重いです。
瓦に付けられた紙片によれば、池田輝政時代の大手門に使われていた瓦と思われます。
やはり、サンドイッチ構造の作りです。
布目は見あたりません。
木瓜紋丸瓦(軒丸瓦?):
15.0㎝x11.8㎝、厚 2.6㎝。
織田家、木瓜紋の丸瓦です。半筒状の胴部が付いていた軒丸瓦のようにも見えますが、定かではありません。
他の三枚に較べて、赤土が付着しておらず、風化も少ないです。本当に出土した物かどうか、わかりません(私が自分で拾い集めた品ではない(^^;)
木瓜紋の瓦は、織田家の惣領の城にしか許されなかったものです。天正14年(本能寺の変から4年後)、次男、織田信雄によって改修された清洲城の跡地から、木瓜紋瓦が出土しています。織田木瓜紋瓦は有名なわりには出土例が少なく、いつごろから使われ始めたのか、はっきりしていません。岐阜城跡からも見つかっていない(と思う)ので、もし、今回の品が本物なら新発見?・・・・・妄想は膨らみますが、織田木瓜瓦は人気が高く、後世、多くの木瓜瓦が作られました。今回の瓦片には出土の形跡が見られません。誰かが、記念にどこかで入手した物と考えるのが無難だと思います(^^;
岐阜城は、戦国時代を象徴する城です。城郭建築に初めて本格的に瓦を用いた城でもあります。
永禄10(1567)年、織田信長は、稲葉山城を攻撃、斎藤龍興を追放して、岐阜城主となりました。八年後の天正4(1576)年、信長は安土城へ移り、長男、織田信忠に岐阜城の城主をゆずりました。
天正10(1582)年、本能寺の変で織田信長と信忠が死亡。織田家の後継ぎとして秀吉が担いだのが信忠の子、三法師(3才、後の織田秀信)です。そして、三法師の後見人を信長の三男、織田信孝が務めることになり、岐阜城の城主となりました。しかし、わずか1年後の天正11(1583)年、信孝は、豊臣秀吉と対立し、自刃しました。
この後に岐阜城の城主となったのは、信長の乳兄弟、池田恒興の長男、池田元助です。しかし元助は、小牧・長久手の戦い(天正13(1585)年)で討死。、岐阜城の城主は、元助の弟、池田輝政となりました。輝政はその後、吉田城(愛知県)に移り、天正19(1591)年、秀吉の妹の子、豊臣秀勝(秀吉の養子)が岐阜城主となりました。しかしわずか1年後、豊臣秀勝も文禄の役の最中に病死。そして天正20(1592)年、最後の岐阜城主となったのが、織田信長の孫、あの三法師、織田秀信です。しかし、難攻不落と思われていた岐阜城は、関ケ原の戦いの直前、慶長5(1600)年8月23日、かつての城主、池田輝政、そして福島正則ら東軍の猛攻撃を受け、わずか一日で落城してしまいました。
織田信長が稲葉山城(岐阜城)に入城してから東軍によって落城するまでの33年の間、いくら戦国時代とはいえ、目まぐるしく城の主が変わっていったのには驚くばかりです。
しかも、ほとんどの城主が戦国時代の主要な出来事に関わっています。
そして、その多くが無念の最後をむかえています。
今回の瓦片を手にすると、そんな武将たちの姿が浮かんでくるかのようです。