『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
4 覇者の出現
7 楚の荘王の覇業
周の桓王のとき、といえば、鄭(てい)の荘公が活躍していたころである。
斉の桓公も、まだあらわれていない。
楚の国では周の王室に対して、爵位を上げてもらいたいと要求した。周は、ゆるさなかった。
すると楚の国君は、かってに「王」を称した。これが楚の武王である。
それから九十年、晋の文公が死んでからでは十五年、楚では荘王が立った(前六一三)。
すでに楚は、宋を討ち、鄭をおさえて、その勢力は黄河の南岸にまでおよんでいた。
その勢いに乗って荘王は、洛水のほとりに軍をすすめ、周の国境において盛大な観兵式をおこなった。
ときに周の定王の元年である(前六〇六)。
定王は大夫(たいふ=大臣)の王孫満をつかねして、荘王をねぎらわせた。
会見の席で、荘王は周の王室に伝わる鼎(かなえ)について、その大小や軽重をたずねた。
これに対して、王孫満はこたえた。
「鼎の価値は、それを持つひとの徳によってきまるものであります。
鼎の大小や軽重には、かかわりありません。
持ち主が明徳であれば、小なりとも重いのです。
また持ち主が邪悪であれば、大なりとも軽いのです」。
さらに言った。周王の君臨することは
「天の命ずるところなり。周の徳は衰えたりといえども、天命いまだ改まらず。
鼎の軽重も、いまだ問うべからざるなり」。
いまや北に晋あり、南に楚あり。この二つの強国にはさまれて、宋や鄭や陳や蔡などの諸国は、ときどきの情勢に応じて、どちらかに従うということをくりかえした。
さて荘王が立って十五年、楚は鄭および陳と会盟した。
しかるに鄭は、晋との会盟に応じた。
怒った荘王は、その翌年(前五九七)、兵を発して鄭の国都をかこんだ。
戦うこと三ヵ月あまり、ついに鄭は屈し、鄭の襄公は肌をぬぎ、羊をひいて、楚の軍門にくだった。
晋は、鄭をすくうために大軍を発したが、黄河のほとりに達したとき、鄭の降伏を知った。
楚の軍もまた、鄭を去っていた。晋軍の司令官も、軍をかえそうとした。
しかし部将のなかには、あくまでも戦うことを主張する者があり、そのまま進んで黄河をわたった。
これを見殺しにすることもできず、晋の全軍は河をこえて南下する。楚軍もまた、軍をかえした。
荘王は使者をつかわして和議を申しいれ、晋軍のあいだでも、これに応ずる空気がつよかった。
しかし主戦派の将軍はよろこばない。かってに楚の陣営に近づいて夜襲をかけた。かくては楚軍も、大挙して攻勢に転ずる。
晋の本陣は、和議の成立を待っていた。そこへ敵の来襲である。
楚の荘王も、まっさきに進んだ。車も、兵も、まっしぐらに走った。
不意をうたれて、晋軍はなすところを知らない。総くずれとなって、しりぞいた。河をわたって、のがれようとし、舟をあらそった。
ために「舟中の指、掬(きく)すべし」という状況であった、という。
乗りおくれた者が舟べりに手をかけると、さきに乗った者が転覆をおそれて、指を切りおとしたからである。
日が暮れて、楚軍は邲(ひつ)に陣をかまえた。
晋の敗残部隊は、もはや陣をかまえることもできなかった。
夜になっても、黄河をわたりつづけた。人馬の声が夜どおし騒がしかった。
この戦勝によって、楚の勢力は完全に晋を圧倒した。
中原の諸国も、いまや楚になびかざるをえなくなった。
楚の荘王は、さきの斉桓や晋文のように、ことさらに諸侯をあつめて会盟をおこなうようなことはしなかった。
しかし実力のうえでは、まさしく覇者にちがいなかった。
覇者たる者が「尊王攘夷」をスローガンとしてかかげる時代は、すでに去っていた。
かつては攘夷の対象のひとつであった楚の国が、いまや覇者なのである。
そうして、こののちも春秋時代の末まで、北の晋と南の楚とは、中原をはさんで対立し、抗争する。
(写真は鼎)
4 覇者の出現
7 楚の荘王の覇業
周の桓王のとき、といえば、鄭(てい)の荘公が活躍していたころである。
斉の桓公も、まだあらわれていない。
楚の国では周の王室に対して、爵位を上げてもらいたいと要求した。周は、ゆるさなかった。
すると楚の国君は、かってに「王」を称した。これが楚の武王である。
それから九十年、晋の文公が死んでからでは十五年、楚では荘王が立った(前六一三)。
すでに楚は、宋を討ち、鄭をおさえて、その勢力は黄河の南岸にまでおよんでいた。
その勢いに乗って荘王は、洛水のほとりに軍をすすめ、周の国境において盛大な観兵式をおこなった。
ときに周の定王の元年である(前六〇六)。
定王は大夫(たいふ=大臣)の王孫満をつかねして、荘王をねぎらわせた。
会見の席で、荘王は周の王室に伝わる鼎(かなえ)について、その大小や軽重をたずねた。
これに対して、王孫満はこたえた。
「鼎の価値は、それを持つひとの徳によってきまるものであります。
鼎の大小や軽重には、かかわりありません。
持ち主が明徳であれば、小なりとも重いのです。
また持ち主が邪悪であれば、大なりとも軽いのです」。
さらに言った。周王の君臨することは
「天の命ずるところなり。周の徳は衰えたりといえども、天命いまだ改まらず。
鼎の軽重も、いまだ問うべからざるなり」。
いまや北に晋あり、南に楚あり。この二つの強国にはさまれて、宋や鄭や陳や蔡などの諸国は、ときどきの情勢に応じて、どちらかに従うということをくりかえした。
さて荘王が立って十五年、楚は鄭および陳と会盟した。
しかるに鄭は、晋との会盟に応じた。
怒った荘王は、その翌年(前五九七)、兵を発して鄭の国都をかこんだ。
戦うこと三ヵ月あまり、ついに鄭は屈し、鄭の襄公は肌をぬぎ、羊をひいて、楚の軍門にくだった。
晋は、鄭をすくうために大軍を発したが、黄河のほとりに達したとき、鄭の降伏を知った。
楚の軍もまた、鄭を去っていた。晋軍の司令官も、軍をかえそうとした。
しかし部将のなかには、あくまでも戦うことを主張する者があり、そのまま進んで黄河をわたった。
これを見殺しにすることもできず、晋の全軍は河をこえて南下する。楚軍もまた、軍をかえした。
荘王は使者をつかわして和議を申しいれ、晋軍のあいだでも、これに応ずる空気がつよかった。
しかし主戦派の将軍はよろこばない。かってに楚の陣営に近づいて夜襲をかけた。かくては楚軍も、大挙して攻勢に転ずる。
晋の本陣は、和議の成立を待っていた。そこへ敵の来襲である。
楚の荘王も、まっさきに進んだ。車も、兵も、まっしぐらに走った。
不意をうたれて、晋軍はなすところを知らない。総くずれとなって、しりぞいた。河をわたって、のがれようとし、舟をあらそった。
ために「舟中の指、掬(きく)すべし」という状況であった、という。
乗りおくれた者が舟べりに手をかけると、さきに乗った者が転覆をおそれて、指を切りおとしたからである。
日が暮れて、楚軍は邲(ひつ)に陣をかまえた。
晋の敗残部隊は、もはや陣をかまえることもできなかった。
夜になっても、黄河をわたりつづけた。人馬の声が夜どおし騒がしかった。
この戦勝によって、楚の勢力は完全に晋を圧倒した。
中原の諸国も、いまや楚になびかざるをえなくなった。
楚の荘王は、さきの斉桓や晋文のように、ことさらに諸侯をあつめて会盟をおこなうようなことはしなかった。
しかし実力のうえでは、まさしく覇者にちがいなかった。
覇者たる者が「尊王攘夷」をスローガンとしてかかげる時代は、すでに去っていた。
かつては攘夷の対象のひとつであった楚の国が、いまや覇者なのである。
そうして、こののちも春秋時代の末まで、北の晋と南の楚とは、中原をはさんで対立し、抗争する。
(写真は鼎)