最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●夢と現実(2)

2010-03-24 06:31:34 | Weblog


●死ねばおしまい

 あの世があるにせよ、またないにせよ、私たちは死ねば、この世から消える。
脳みそですら、分子レベルまでバラバラにされて、地球上のありとあらゆるものに、再生
されていく。
もちろんその一部は、人間を含めた、ほかの生物の一部となっていく。
それを「あの世」というのなら、「あの世」はある。
「あの世」という言葉に問題があるなら、「つぎの世界」と言い替えてもよい。

 ということは、(主体)である「私」が消えるわけだから、私たちは、この現実の中のモ
ノを、ゴミひとつ、チリひとつ、つぎの世界へもっていくことはできない。
今、億万長者になって得意になっている人も、莫大な財産を築いて喜んでいる人も、死ね
ばおしまい。

 つまりこの「死ねばおしまい」という部分が、「目が覚めたらおしまい」という部分と似
ている。
似ているというより、同じ。
私は目が覚めたとき、それを知った。
つまり私は夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
しかし目が覚めたら、それらはすべて消えていた。

●夢のごとし

 繰り返しになるが、平均寿命までまで、あと15、6年と言われるようになると、とた
んに、今までの人生が、まるで夢の中のできごとのように思われてくる。
先に、私は私が小学3年生のときのことを書いた。
しかし何も小学3年生のときにかぎらない。

 20代のころも、30代のころも、40代のころも、同じようなもの。
どれも脳の中では、断片的な一部の記憶でしかない。
たしかに60数年生きてきたはずなのに、その実感がない。
もともと記憶というのは、そういうものかもしれない。
「記憶がある」といっても、それは脳の中の電気信号のようなもの。
「形」があるわけではない。
言い替えると、「人生は夢のごとし」と言うのは、それほどまちがっていないということに
なる。

 夢と現実。
今、ここに見えている世界は、たしかに現実だが、それは今というこの一瞬にすぎない。
それ以外は、すべて夢。
眠っているときに見る夢と、どこもちがわない。

●現実=夢

 そこでこう考えたら、どうだろうか。
ここにある現実そのものが、夢である、と。
今は、「現実」かもしれないが、一瞬先には、夢になる。
10年もすれば、脳の一部の断片的な記憶でしかなくなる。

 つまり私たちは、現実という夢の中にいながら、「これは夢だ」と気がつく。
つまり私があの夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に持ちながら、「これは夢だ」と気がつい
たように、である。

 が、私はその夢の中で、何とかしてその宝石を、現実の世界へもってこようとした。
その方法はないかと考えた。
いちばんわかりやすい方法は、宝石の入った袋を、しっかりと手で握ること。
私は子どものころは、そうしていた。
「目が覚めても、放さないぞ」と。

 これは夢の中の話だが、しかし現実のこの世界では、私たちは、日常的に、同じような
ことをしている。
お金はもちろん、名誉、地位、財産、肩書きにしがみついている人は多い。
(だからといって、それが無駄と書いているのではない。誤解のないように!)

 その「しがみつく」という行為が、「目が覚めても、放さないぞ」と、手を握った行為と
同じ。

●パンコ

 夢の中で、袋いっぱいの宝石を手に入れた。
だからといって、それがどうしたというのか。
だれしも、こう言うにちがいない。
「夢は夢。夢の中で、そういう夢を見ただけ」と。

 しかしそれと同じことを、ひょっとしたら、私たちは、この現実の世界でしているので
はないだろうか。

 わかりやすい例として、もう一度、私が小学3年生だったころの話をしてみる。

 あのころは、「パンコ」という遊びが流行(はや)っていた。
地方によっては、「メンコ」とか、いろいろな呼び名がある。
地面に置いた相手のカードを、自分のカードで叩いてめくったら、自分のものになるとい
う遊びである。
私たちは毎日のように、カードの枚数を競い、絵柄を自慢しあった。
その遊びに夢中になったということは、それだけ強欲になったことを意味する。

 が、それも今となっては、まるで夢の中のできごと。
現実にそれをしたはずなのに、今は、何も残っていない。
夢の中で手に入れた宝石も、子どものころに手に入れたパンコも、同じ。

 あえて言うなら、眠っているときに見る夢は、数分前後で、消える。
が、過去は、もう少し長い時間をかけて、消える。
しかしそれが数分であれ、10年であれ、どういうちがいがあるというのか。

●宝石を持ち帰る

 夢の中の私は、見苦しいほどまでに強欲だった。
袋いっぱいの宝石をしっかりと握りながら、「だれにも渡したくない」と考えた。
「だれかに奪われるのではないか」と警戒した。
「これは夢だ」とわかっていても、そうした。

 で、つぎに考えたことは、その宝石を、現実の世界に持ち帰ることだった。
そこで私は、子どものころの私のように、その袋をしっかりと手に握った。
幼稚というより、それ以上の理性や知性が、働かなかった。
が、当然のことながら、目が覚めたとたん、その袋は消えていた。

 ……というのは、夢の中の話だが、実は、これと同じことを、私は現実の世界でもして
いることを知った。
この現実の世界全体を、「夢」と考えると、それがわかるはず。

(だからといって、非現実主義に走るのも危険である。
これについては、先に書いたとおり。)

 つまりそう考えることによって、私たちは、つぎのステップへと、自分を昇華させるこ
とができる。

●欲望の虜(とりこ)

 「私」には、無数の(しがらみ)が取り巻いている。
「私」自身が、欲望の塊(かたまり)と表現しても、さしつかえない。
もちろんだからといって、「欲望」を否定してはいけない。
この「欲望」が、生きる力の源にもなっている。

 フロイトが説いた「性的エネルギー」、ユングが説いた「生的エネルギー」といったもの
は、それをいう。
その(エネルギー)を取り除いたら、私たちは、ただの生きる屍(しかばね)。

 しかしこの現実世界全体を、「夢のようなもの」と考えることによって、私たちは、欲望
との間に一線を引くことができる。
つまり私たちを、より客観的に、外からながめることができるようになる。

 まずいのは、現実主義に走りすぎるあまり、欲望の虜(とりこ)になりながら、そうで
あることに気づかないこと。
そういう人を、仏教の世界では、「餓鬼」という。
その餓鬼になってしまう。

●夢は夢

 ……あの夢を見てから、数日が過ぎた。
で、今は、こう考える。

 「私たちが『現実』と思っている、この現実世界全体にしても、夢のようなものだなあ」
と。
静かに目を閉じてみると、さらにそれがよくわかる。
その現実世界の夢の中で、私たちは、日々にあたふたとしながら、生きている。
先にも書いたように、名誉、地位、財産、肩書きにしがみついて生きている。
それが無意味とは言い切れない。
つまり人間がなぜ、こうして生きているかといえば、そのドラマを作るため。
そのドラマに意味がある。
価値がある。

 が、夢は夢。
どこまでいっても、夢は夢。
今の私は、そう考える。

●(補記)

 このエッセーを書きながら、脳の一方で、私は荘子の『胡蝶の夢』を、ずっと考えてい
た。

 ……荘子の思想を表す代表的な説話として『胡蝶の夢』がある。「荘周が夢を見て蝶にな
り、蝶として大いに楽しんだ所、夢が覚める。果たして荘周が夢を見て蝶になったのか、
あるいは蝶が夢を見て荘周になっているのか」この説話の中に、無為自然、一切斉同の荘
子の考え方がよく現れている……(以上、「ウィキペディア百科事典」より転載)。

荘子は神秘主義に走り、俗世間からの徹底した離脱を説いた。
「無為自然」とは、それをいう。
『胡蝶の夢』は、その象徴的な逸話として紹介されることが多い。

 「荘子が夢を見て、蝶になったのか」、それとも、「蝶が夢を見て、荘子になったのか」。
たいへんわかりにくい話だが、私も今回、同じような経験をした。
「私は、夢の中で、現実を体験したのか」、それとも、「現実の中で、夢を体験しているの
か」と。

 が、再三再四書いているように、だからといって、神秘主義に走り、「現実は無意味」と
考えてはいけない。
私たちは、今、ここに生きている。
生きているからこそ、夢も見る。
眠っているときの夢もそうだが、「現実も夢のよう」というときの夢も、そうである。
生きていなければ、どちらの夢であるにせよ、夢を見ることはない。
この問題を考えるときは、いつもそこを原点として考える。
 

Hiroshi Hayashi++++++++Feb.2010+++++++++はやし浩司

●荘子(370BC~286BC)

++++++++++++++++++

荘子はある日、夢を見る。
その夢の中で、荘子は、胡蝶となり、
楽しそうに飛び回る。

その夢から覚めたとき、荘子は、
こう考える。

「荘子が夢の中で胡蝶になったのか?」、
それとも「胡蝶が夢の中で、荘子になったのか?」と。

++++++++++++++++++

●胡蝶の夢

 荘子の、この『胡蝶の夢』の逸話を読んでいると、そのうち何がなんだか、わけがわか
らなくなってくる。
だから荘子自身も、「どちらでもいい」と、結論づけている。
「どのみち、すべては無なのだから」と。

 もう一度、荘子の見た夢について考えてみよう。
具体的に、あなた自身が見た夢として考えてみる。
あなたはどこかの切り株にもたれて、うたた寝をする。
そのとき、夢を見る。

 あなたは一匹の蝶が空を飛ぶ夢を見る。
その蝶は、フワフワと風に乗って、楽しそうに飛んでいる。
が、ふと気がつくと、蝶だと思っていたのは、実はあなた自身であった。
あなたは蝶のように、あるいは蝶の姿のまま、空を飛んでいた。

 そこで荘子は考えた。
「自分が蝶になったのか」、それとも「蝶が自分になったのか」と。

●現実と非現実

 (現実の世界)であるにせよ、(非現実の世界)であるにせよ、どこからどこまでが(現
実)で、どこから先が(非現実)なのか、よくわからないときがある。

 私自身は、現実主義者と思っている。
サルトル風に言えば、(存在)と(認識)を基本に、ものを考え、その上に論理を積み重ね
ている。
そのため、そうでないもの、たとえば占いとか、まじない、迷信、霊(スピリチュアル)
などというものを、まったく信じていない。
星占いや、血液型による性格判定にしても、そうだ。

 しかしこのところ、(生きていること自体)が、何か、夢の中のできごとのように感ずる
ことが、多くなった。
つまり「私たちは、ひょっとしたら、とほうもないほど非現実の世界に生きているのでは
ないか」と。

 たとえばそこに今、見えているものについても、たまたまそう見えるから見ているにす
ぎない、と。
言い替えると、今、そこに見えているからといって、それをそのまま信じてもよいものか、
と。
あるいは実際には、私たちには、見えないもののほうが多いのではないか、と。

 よい例が、私たち自身の(過去)ということになる。

●夢

 (現実)は、常に、(過去)の結果でしかない。
(現実)は、今、ここに(存在)するものである。
それはその通りだと思う。
しかし(過去)などというものは、どこにも存在しない。
しないが、私の記憶の中には残っている。
その(残っている部分)が、今、こうして振り返ってみると、まるで夢の中のできごとの
ように思えてくる。

 そう、まさに(夢)。
私は子どものころ、父の酒乱でつらい思いをしたが、そうしたドラマでさえ、今、振り返
ってみると、夢の中のできごとだったように思えてくる。
結婚してからのこと、子育てを夢中でしていたころのこと……、すべてが夢の中のできご
とだったように思えてくる。

 言い替えると、今、子ども時代を過ごしている子どもにしても、子育てに奮闘している
親にしても、やがてすぐ、夢の中へと消えていく。
「消える」というよりは、今の私のように、(夢の中のできごと)のように思うようになる。
そしていつか、あなたも今の私と同じようなことを言うかもしれない。

「過去を振り返ってみると、すべてが夢の中のできごとのように見える」と。

●再び、現実主義

 これは老人の共通した心理かもしれない。
そこにあるのは、(過去)ばかりで、いくらさがしても、(未来)が見つからない。
だから勢い、(過去)を振り返ることが多くなる。
で、その(過去)はというと、記憶の中にあるだけ。
だから、「まるで夢のよう」となる。

 若い人なら、このあたりで思考を停止して、今度は(未来)を見る。
(過去)は(過去)として、それを踏み台にして、(未来)に目を向ける。
しかし老人には、その(未来)がない。
だから(過去)を振り返りながら、「まるで夢のよう」と思いつつ、それを拡大解釈し、今、
ここにある(現実)まで、「まるで夢のよう」と考えてしまう。

(この間、1時間ほど、すぎた。
あれこれ考えた。
で、スーッと、頭の中が整理されていくのを感じた。)

 しかしこの考え方は、まちがっている。
言うなれば、ジー様のたわごと。
いくら歳をとっても、またいくら死に近づいても、私たちは、(現実)を手放してはいけな
い。
(現実)を手放したとたん、私たちは(死)に向かって、まっしぐら。

 そう、そういう意味では、このところ、私はたしかに弱気になっている。
そこにある(現実)から目をそらし、(夢の中の世界)で生きようとしている。
晩年の母がそうだった。

 毎日、朝夕、欠かすことなく仏壇の前で手を合わせていた。
暇さえあれば、仏壇の金具を磨いてばかりいた。
そこにある(現実)を見失うと、そういう生き様になる。

●結論

 数回にわたって、『夢と現実』について書いてきた。
中には、「林(=私)は、いったい何を考えているのだ」と思った人も多いかと思う。
事実、私自身も、一連のエッセーを書きながら、ときどき自分でも何を書いているかわか
らなくなった。

 だからこの話は、ここまで。
考えるだけ、無駄。
簡単に言えば、たわいもない夢を見ただけ。
その夢に振り回されただけ。
「無」といっても、荘子が説く「無」と、サルトルが説く「無」とは、概念がちがう。
「無」と考えて、けっして、虚無主義に陥ってはいけない。

 私は私で、年齢など気にせず、その日が来るまで、前向きに生きていく。
今、そこにある(現実)の中で、戦って戦って、戦い抜く。
それが私の、今までの生き様だった。
これからも、それが私の生き様。

 さあ、今日も始まった。
心機一転、がんばるぞ!
みなさん、おはようございます!

(2010年2月28日、明日から3月)

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