最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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2010-03-17 08:33:59 | Weblog


●子育ての世界では・・・

 ここに1人の子どもがいる。
その子どもは、自分の好きなことをしている。
そういうときでも、その子どもは、周囲の変化や様子に、絶えず注意を払っている。
注意を払っているだけではない。
周囲のあらゆるものを、どんどんと自分の脳の中に蓄積している。

 その子どもの外見的な様子に、だまされてはいけない。
まわりの様子に無頓着で、無関心に見えるからといって、「注意を払っていない」と考えて
はいけない。
親の立場、あるいは教師の立場から言うと、けっして、油断してはいけない。

 たとえばあなたが今、車を運転しているとする。
子どもは助手席に座って、ゲーム機器をいじっている。
そんなとき、携帯電話の呼び鈴が鳴った。
あなたは携帯電話を手にすると、「まあ、いいか」という思いで、携帯電話で相手と話し始
める。

 横を見ると、子どもは、どうやら気づいていないようだ。
相変わらず、ゲームに夢中になっている。
が、実際には、そうではない。

 子どもは、見えない目、見えない耳で、あなたの行動すべてを観察している。
それを脳の中に、しっかりと焼きつけている。
つまりこうしてあなたの子どもは、あなたという人間の人物像を、少しずつだが、つくり
あげていく。
「ママ(パパ)は、ずるい人間」と。

 が、それだけではない。
そうした人間像は、そっくりそのまま、その子どもの人間像となって、反映されるように
なる。

●赤ん坊の記憶

 こう書いても、まだ私の話を信用しない人がいるかもしれない。
しかしこんな話を書けば、どんなに疑い深い人だって、私の話に納得するだろう。

 実は、あの生まれたての赤ん坊にしても、まわりの様子をどんどんと記憶している。
それを証明したのは、ワシントン大学のメルツオフという人だが、まさに怒涛のごとく記
憶している。

 仮にこの時期、子どもが人間の手を離れ、たとえば動物によって育てられたとすると、
その子どもは、そのまま動物になってしまう。
インドで1920年代に発見された、オオカミ姉妹の例をあげるまでもない。
で、ここが重要だが、この時期、一度、動物になってしまうと、仮に再び人間によって育
てられたとしても、人間に戻ることはない。
オオカミ姉妹にしても、同じころ、フランスで見つかった、ビクトールという少年にして
も、人間らしさを取り戻すことはなかった。

 ここで登場するのが、「臨界期」という言葉になる。
D・H・ヒューベルとT・N・ヴィーゼルという2人の科学者が、子ネコについて行った
実験で、世に知られるようになった※。
つまり人間というのは、(ほかの動物もそうだが)、その時期において、適切な指導や刺激
を受けないと、脳の機能が変化してしまうことをいう。

 「赤ん坊には記憶はない」と考えるのは、誤解というより、まちがい。
赤ん坊は赤ん坊で、まわりの様子を、猛烈な勢いで吸収、それを記憶にとどめている。

●母の心

 私はこんな経験もした。
最後の2年間を、母は、この浜松市で過ごした。
1年たったころ、脳梗塞を起こしてからは、そういうことはなかったが、私の家に来たこ
ろは、頭の働きも達者で、冗談をたがいに言いあうほどだった。

 そんなある日、母が、親類の人たちの話を始めた。
「あの人は、いい人や」「あの人は、悪い人や」と。
その話を聞いて、私は、驚いた。
話の内容に、驚いたのではない。
母は、私が子どものころにもっていた印象と、まったく同じことを口にしたからだ。

 たとえば私は、子どものころ、Aさんという親類の男性が嫌いだった。
あるいはBさんという親類の女性が好きだった。
そのAさんについて、「あのAさんは、タヌキ(=うそつき)だった」とか、「Bさんは、
やさしい人だった」とか、言った。

 私は私がもっていた印象は、何のことはない、子どものころ、母によって作られたこと
を知った。
つまり親子というのは、そういうもの。
「以心伝心」という言葉もある。
「魚心あれば、水心」という諺もある。
親がもっている心は、そっくりそのまま子どもに伝わる。
あなたという親が、言葉として、何も話さなくても、伝わる。
それを見たり、聞いたりするのが、冒頭に書いた、「別の脳」ということになる。

●核心

 いよいよ子育ての核心部分ということになる。

 あなたは今、子育てをしている。

「ほら、算数だ」「ほら、英語だ」「ほら、ひらがなだ」と。
それを(表の子育て)とするなら、(裏の子育て)がある。
「教えずして教えてしまう」のが、(裏の子育て)ということになる。
そして実は、その(裏の子育て)のほうが、実は重要で、かつ比重的には、(表の子育て)
よりも、はるかに大きい。
もちろん子どもに与える影響も、はるかに大きい。

 たとえば私は子どものころ、たいへん小ずるい子どもだった。
ずるいことが平気でできた。
しかしそのほとんどは、私が母から受け継いだものだった。
もし私があのまま、郷里の町で、生活していたら、その小ずるさそのものに気づくことも
なかったかもしれない。
幸か不幸か、私は郷里を離れた。
その結果として、私は私自身を、客観的に見る機会を得た。
外国の人たちと、自分を、比較することもできた。
そして(あの世界)が、全体として、その(小ずるさ)で成り立った世界であることを知
った。

 母とて、その中のワンノブゼム(多数の中の1人)に過ぎなかった!

●別の心

 子育てをするときは、常に子どもの中で、どのような(裏の心)が作られているかに注
意する。
たとえば私のばあい、幼児に文字を教えたとする。
そのとき重要なのは、その幼児が、(文字を書けるかどうか)(文字を書けるようになった
かどうか)ということよりも、(文字を楽しんだかどうか)ということになる。

 (できる・できない)は、別。
もっとわかりやすく言えば、その子どもの中に、(文字に対する前向きな姿勢ができたかど
うか)ということになる。

 これは文字の話だが、こうした指導法は、幼児の指導法の原点ということになる。
文字、数などの学習面にかぎらない。
行動、情緒、知育、性格、性質など、あらゆる部分に及ぶ。
さらには、人間性にまで及ぶ。
先に書いたオオカミ姉妹の例を、もう一度、思い浮かべてみてほしい。
オオカミ姉妹にしても、その適切な時期に、適切な刺激を受けなかったため、生涯にわた
って、人間らしさを取り戻すことはできなかった。

 「私は私」と思っている、あなた。
「私のことは、私がいちばんよく知っている」と思っている、あなた。
今一度、あなたの中にいる、別の(あなた)を、探索してみてほしい。
そこに本当の(あなた)がいる。

(注※……臨界期)(理化学研究所のHPより、転載)

『ヒトを含む多くのほ乳類の大脳皮質視覚野神経細胞は、幼若期に片目を一時的に遮蔽す
ると、その目に対する反応性を失い、開いていた目だけに反応するよう変化します。この
変化は、幼若期体験が脳機能を変える例として、これまで多くの研究が行われてきました
が、このような変化は「臨界期」と呼ぶ生後発達の一時期にしか起きないと報告され、脳
機能発達の「臨界期」を示す例として注目されてきました。

(中略)

サル、ネコ、ラットやマウスなどの実験動物で、生後初期に片目を一時的に遮蔽すると、
大脳皮質視覚野の神経細胞がその目に反応しなくなり、弱視になることが1960年代に発見
され、その後、生後の体験によって脳機能が変化を起こす脳の可塑性の代表的な例として、
多数の研究が行われてきました。さらに、片目遮蔽によって大脳皮質にこのような変化を
起こすのは生後の特定の期間だけであったことから、鳥類で見つかった刷り込みと同じよ
うに、この期間は「臨界期」と呼ばれるようになりました。

この「臨界期」の存在は、その後ヒトでも報告されたことや、視覚野だけでなく脳のほか
の領域にも認められたことから、「臨界期」における生後環境あるいは刺激や訓練の重要性
を示す例として、神経科学のみならず発達心理学や教育学など、ほかの多くの分野にも影
響を与えてきました。その中で、例えば、脳機能発達には「臨界期」が存在することを早
期教育の重要性の科学的根拠とする主張も出現してきました。

最近になって、成熟脳でも可塑性のある脳領域が存在することや、「臨界期」を過ぎた大脳
皮質でも可塑性が存在することを示唆する研究が報告されました(Sawtell et al., Neuron
2003)。しかし、大脳皮質視覚野の「臨界期」後に可塑性が保持されるのかどうか、保持さ
れるとすればどの程度なのかは不明のままでした。

研究チームは、大脳皮質神経回路を構成する興奮性と抑制性の2群の神経細胞を区別して、
それらの左右の目への光刺激に対する反応を記録することで、「臨界期」終了後の可塑性の
解明に挑みました』(以上、「理化学研究所」HPより)。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 
BW はやし浩司 臨界期 別の心 別のあなた 本当の私)

(注)この原稿は、心理の発達段階論と、臨界期をやや混同、誤解している部分がありま
す。
その点をご理解の上、お読みください。
近く、改めて、この原稿を書き改めてみます。
(2010-2-19記)

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