最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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2/2マガジン(過去版)2003年6月ごろ

2011-05-11 11:15:50 | Weblog

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これに関連して書いた原稿が、つぎの原稿(中日新聞発表済み)である。
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親が過去を再現するとき

●親は子育てをしながら過去を再現する 

 親は、子どもを育てながら、自分の過去を再現する。そのよい例が、受験時代。それまではそうでなくても、子どもが、受験期にさしかかると、たいていの親は言いようのない不安に襲われる。受験勉強で苦しんだ親ほどそうだが、原因は、「受験勉強」ではない。受験にまつわる、「将来への不安」「選別されるという恐怖」が、その根底にある。それらが、たとえば子どもが受験期にさしかかったとき、親の心の中で再現される。

つい先日も、中学一年生をもつ父母が、二人、私の自宅にやってきた。そしてこう言った。「一学期の期末試験で、数学が二一点だった。英語は二五点だった。クラスでも四〇人中、二〇番前後だと思う。こんなことでは、とてもS高校へは入れない。何とかしてほしい」と。二人とも、表面的には穏やかな笑みを浮かべていたが、口元は緊張で小刻みに震えていた。

●「自由」の二つの意味

 この静岡県では、高校入試が人間選別の重要な関門になっている。その中でもS高校は、最難関の進学高校ということになっている。私はその父母がS高校という名前を出したのに驚いた。「私は受験指導はしません……」と言いながら、心の奥で、「この父母が自分に気がつくのは、一体、いつのことだろう」と思った。

 ところで「自由」には、二つの意味がある。行動の自由と魂の自由である。行動の自由はともかくも、問題は魂の自由である。実はこの私も受験期の悪夢に、長い間、悩まされた。たいていはこんな夢だ。……どこかの試験会場に出向く。が、自分の教室がわからない。やっと教室に入ったと思ったら、もう時間がほとんどない。問題を見ても、できないものばかり。鉛筆が動かない。頭が働かない。時間だけが刻々と過ぎていく……。

●親と子の意識のズレ

親が不安になるのは、親の勝手だが、中にはその不安を子どもにぶつけてしまう親がいる。「こんなことでどうするの!」と。そういう親に向かって、「今はそういう時代ではない」と言ってもムダ。脳のCPU(中央処理装置)そのものが、ズレている。親は親で、「すべては子どものため」と、確信している。

こうしたズレは、内閣府の調査でもわかる。内閣府の調査(二〇〇一年)によれば、中学生で、いやなことがあったとき、「家族に話す」と答えた子どもは、三九・一%しかいなかった。これに対して、「(子どもはいやなことがあったとき)家族に話すはず」と答えた親が、七八・四%。子どもの意識と親の意識が、ここで逆転しているのがわかる。つまり「親が思うほど、子どもは親をアテにしていない」(毎日新聞)ということ。が、それではすまない。

「勉強」という言葉が、人間関係そのものを破壊することもある。同じ調査だが、「先生に話す」はもっと少なく、たったの六・八%! 本来なら子どものそばにいて、よき相談相手でなければならない先生が、たったの六・八%とは! 先生が「テストだ、成績だ、進学だ」と追えば追うほど、子どもの心は離れていく。親子関係も、同じ。親が「勉強しろ、勉強しろ」と追えば追うほど、子どもの心は離れていく……。

 さて、私がその悪夢から解放されたのは、夢の中で、その悪夢と戦うようになってからだ。試験会場で、「こんなのできなくてもいいや」と居なおるようになった。あるいは皆と、違った方向に歩くようになった。どこかのコマーシャルソングではないが、「♪のんびり行こうよ、オレたちは。あせってみたとて、同じこと」と。夢の中でも歌えるようになった。……とたん、少しおおげさな言い方だが、私の魂は解放された!

●一度、自分を冷静に見つめてみる

 たいていの親は、自分の過去を再現しながら、「再現している」という事実に気づかない。気づかないまま、その過去に振り回される。子どもに勉強を強いる。先の父母もそうだ。それまでの二人を私はよく知っているが、実におだやかな人たちだった。が、子どもが中学生になったとたん、雰囲気が変わった。そこで……。あなた自身はどうだろうか。あなた自身は自分の過去を再現するようなことをしていないだろうか。今、受験生をもっているなら、あなた自身に静かに問いかけてみてほしい。あなたは今、冷静か、と。そしてそうでないなら、あなたは一度、自分の過去を振り返ってみるとよい。これはあなたのためでもあるし、あなたの子どものためでもある。あなたと子どもの親子関係を破壊しないためでもある。受験時代に、いやな思いをした人ほど、一度自分を、冷静に見つめてみるとよい。
(030614)※

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【4】フォーラム(今、考えていること)∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

未来と過去

 未来を思う心と、過去をなつかしむ心は、満五五歳くらいを境にして、入れかわるという。ある心理学の本(それほど権威のある本ではない)に、そう書いてあった。しかしこれには、当然、個人差がある。

 七〇歳になっても、あるいは八〇歳になっても、未来に目を向けている人は多い。反対に、四〇歳の人でも、三〇歳の人でも、過去をなつかしんでいる人は多い。もちろんどちらがよいとか、悪いとかいうのではない。ただ満五五歳くらいを境に、未来を思う心と、過去をなつかしむ心が半々くらいになり、それ以後は、過去をなつかしむ心のほうが大きくなるということらしい。

 が、私のばあい、過去をなつかしむということが、ほとんど、ない。それはほとんど毎日、幼児や小学生と接しているためではないか。そういう子どもたちには、未来はあっても、過去は、ない。

が、かといって、その分私が、未来に目を向けているかというと、そういうこともない。今度は、私の生きザマが、それにかかわってくる。私にとって大切なのは、「今」。一〇年後、あるいは二〇年後のことを考えることもあるが、それは「それまで生きているかなあ」という程度のことでしかない。

 ときどき、「前世や来世はあるのかなあ」と考えることがある。しかし釈迦の経典※をいくら読んでも、そんなことを書いてあるところは、どこにもない。イエス・キリストも、天国の話はしたが、前世論や来世論とは、異質のものだ。

(※釈迦の生誕地に残る、原始仏教典『スッタニパータ』のこと。日本に入ってきた仏教典のほとんどは、釈迦滅後四、五〇〇年を経て、しかもヒンズー教やチベット密教とミックスされてできた経典である。とくに輪廻転生、つまり生まれ変わり論を、とくに強く主張したのが、ヒンズー教である。)

 今のところ、私は、「そういうものは、ない」という前提で生きている。あるいは「あればもうけもの」とか、「死んでからのお楽しみ」と考えている。本当のところはよくわからないが、私には見たこともない世界を信じろと言われても、どうしてもできない。

 本来なら、ここで、「神様、仏様、どうか教えてください」と祈りたいところだが、私のようなものを、神や仏が、相手にするわけがない。少なくとも、私が神や仏なら、はやし浩司など、相手にしない。どこかインチキ臭くて、不誠実。小ズルくて、気が小さい。大きな正義を貫く勇気も、度胸もない。小市民的で、スケールも貧弱。仮に天国があるとしても、私などは、入り口にも近づけないだろう。

 だからよけいに未来には、夢を託さない。与えられた「今」を、徹底的に生きる。それしかない。それに老後は、そこまできている。いや、老人になるのがこわいのではない。体力や気力が弱くなることが、こわい。そしてその分、自分の醜いボロが出るのがこわい。

 個人的な意見としては、あくまでも個人的な意見だが、人も、自分の過去ばかりをなつかしむようになったら、おしまいということ。あるいはもっと現実的には、過去の栄華や肩書き、名誉にぶらさがるようになったら、おしまいということ。そういう老人は、いくらでもいるが、同時に、そういう老人の人生観ほど、人をさみしくさせるものはない。

 そうそう釈迦は、原始仏教典の中でも、「精進(しょうじん)」という言葉を使って、「日々に前進することこそ、大切だ」と教えている。しかも「死ぬまで」と。わかりやすく言えば、仏の境地など、ないということになる。そういう釈迦の教えにコメントをはさむのは許されないことだが、私もそう思う。人間が生きる意味は、日々を、懸命に、しかも前向きに生きるところにある。過去ではない。未来でもない。「今」を、だ。

 一年前に書いた原稿だが、少し手直しして、ここに掲載する。

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前向きの人生、うしろ向きの人生

●うしろ向きに生きる女性
 毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまい。偉そうなことは言えない。しかし私とて、いつそういう人生を送るようになるかわからない。しかしできるなら、最後の最後まで、私は自分の人生を前向きに、生きたい。自信はないが、そうしたい。

 自分の商売が左前になったとき、毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる女性(七〇歳)がいた。その一五年前にその人の義父がなくなったのだが、その義父は一代で財産を築いた人だった。くず鉄商から身を起こし、やがて鉄工場を経営するようになり、一時は従業員を五人ほど雇うほどまでになった。が、その義父がなくなってからというもの、バブル経済の崩壊もあって、工場は閉鎖寸前にまで追い込まれた。(その女性の夫は、義父のあとを追うように、義父がなくなってから二年後に他界している。)
 
 それまでのその女性は、つまり義父がなくなる前のその女性は、まだ前向きな生き方をしていた。が、義父がなくなってからというもの、生きザマが一変した。その人には、私と同年代の娘(二女)がいたが、その娘はこう言った。「母は、異常なまでにケチになりました」と。たとえば二女がまだ娘のころ、二女に買ってあげたような置物まで、「返してほしい」と言い出したという。「それも、私がどこにあるか忘れてしまったようなものです。値段も、二〇〇〇円とか三〇〇〇円とかいうような、安いものです」と。

●人生は航海のようなもの
 人生は一人で、あるいは家族とともに、大海原を航海するようなもの。つぎからつぎへと、大波小波がやってきて、たえず体をゆり動かす。波があることが悪いのではない。波がなければないで、退屈してしまう。船が止まってもいけない。航海していて一番こわいのは、方向がわからなくなること。同じところをぐるぐる回ること。もし人生がその繰り返しだったら、生きている意味はない。死んだほうがましとまでは言わないが、死んだも同然。

 私の知人の中には、天気のよい日は、もっぱら魚釣り。雨の日は、ただひたすらパチンコ。読む新聞はスポーツ新聞だけ。唯一の楽しみは、野球の実況中継を見るだけという人がいる。しかしそういう人生からはいったい、何が生まれるというのか。いくら釣りがうまくなっても、いくらパチンコがうまくなっても、また日本中の野球の選手の打率を暗記しても、それがどうだというのか。そういう人は、まさに死んだも同然。

 しかし一方、こんな老人(尊敬の念をこめて「老人」という)もいる。昨年、私はある会で講演をさせてもらったが、その会を主宰している女性が、八〇歳を過ぎた女性だった。乳幼児の医療費の無料化運動を推し進めている女性だった。私はその女性の、生き生きした顔色を見て驚いた。「あなたを動かす原動力は何ですか」と聞くと、その女性はこう笑いながら、こう言った。「長い間、この問題に関わってきましたから」と。保育園の元保母だったという。そういうすばらしい女性も、少ないが、いるにはいる。

 のんびりと平和な航海は、それ自体、美徳であり、すばらしいことかもしれない。しかしそういう航海からは、ドラマは生まれない。人間が人間である価値は、そこにドラマがあるからだ。そしてそのドラマは、その人が懸命に生きるところから生まれる。人生の大波小波は、できれば少ないほうがよい。そんなことはだれにもわかっている。しかしそれ以上に大切なのは、その波を越えて生きる前向きな姿勢だ。その姿勢が、その人を輝かせる。

●神の矛盾
 冒頭の話にもどる。
 
信仰することがうしろ向きとは思わないが、信仰のし方をまちがえると、生きザマがうしろ向きになる。そこで信仰論ということになるが……。

 人は何かの救いを求めて、信仰する。信仰があるから、人は信仰するのではない。あくまでも信仰を求める人がいるから、信仰がある。よく神が人を創(つく)ったというが、人がいなければ、神など生まれなかった。もし神が人間を創ったというのなら、つぎのような矛盾をどうやって説明するのだろうか。これは私が若いころからもっていた疑問でもある。

 人類は数万年後か、あるいは数億年後か、それは知らないが、必ず絶滅する。ひょっとしたら、数百年後かもしれないし、数千年後かもしれない。しかし嘆くことはない。そのあと、また別の生物が進化して、この地上を支配することになる。たとえば昆虫が進化して、昆虫人間になるということも考えられる。その可能性はきわめて大きい。となると、その昆虫人間の神は、今、どこにいるのかということになる。

 反対に、数億年前に、恐竜たちが絶滅した。一説によると、隕石の衝突が恐竜の絶滅をもたらしたという。となると、ここでもまた矛盾にぶつかってしまう。そのときの恐竜には神はいなかったのかということになる。数億年という気が遠くなるほどの年月の中では、人類の歴史の数十万年など、マバタキのようなものだ。お金でたとえていうなら、数億円あれば、近代的なビルが建つ。しかし数十万円では、パソコン一台しか買えない。数億年と数十万年の違いは大きい。モーゼがシナイ山で十戒を授かったとされる時代にしても、たかだか五〇〇〇年~六〇〇〇年ほど前のこと。たったの六〇〇〇年である。それ以前の数十万年の間、私たちがいう神はいったい、どこで、何をしていたというのか。

 ……と、少し過激なことを書いてしまったが、だからといって、神の存在を否定しているのではない。この世界も含めて、私たちが知らないことのほうが、知っていることより、はるかに多い。だからひょっとしたら、神は、もっと別の論理でものを考えているのかもしれない。そしてその論理に従って、人間を創ったのかもしれない。そういう意味もふくめて、ここに書いたのは、あくまでも私の疑問ということにしておく。

●ふんばるところに生きる価値がある
 つまり私が言いたいのは、神や仏に、自分の願いを祈ってもムダということ。(だからといって、神や仏を否定しているのではない。念のため。)仮に一〇〇歩譲って、神や仏に、奇跡を起こすようなスーパーパワーがあるとしても、信仰というのは、そういうものを期待してするものではない。ゴータマ・ブッダの言葉を借りるなら、「自分の中の島(法)」(スッタニパーダ「ダンマパダ」)、つまり「思想(教え)」に従うことが信仰ということになる。キリスト教のことはよくわからないが、キリスト教でいう神も、多分、同じように考えているのでは……。

生きるのは私たち自身だし、仮に運命があるとしても、最後の最後でふんばって生きるかどうかを決めるのは、私たち自身である。仏や神の意思ではない。またそのふんばるからこそ、そこに人間の生きる尊さや価値がある。ドラマもそこから生まれる。

 が、人は一度、うしろ向きに生き始めると、神や仏への依存心ばかりが強くなる。毎日、毎晩、仏壇の前で拝んでばかりいる人(女性七〇歳)も、その一人と言ってもよい。同じようなことは子どもたちの世界でも、よく経験する。たとえば受験が押し迫ってくると、「何とかしてほしい」と泣きついてくる親や子どもがいる。そういうとき私の立場で言えば、泣きつかれても困る。いわんや、「林先生、林先生」と毎日、毎晩、私に向かって祈られたら、(そういう人はいないが……)、さらに困る。もしそういう人がいれば、多分、私はこう言うだろう「自分で、勉強しなさい。不合格なら不合格で、その時点からさらに前向きに生きなさい」と。
 
●私の意見への反論
 ……という私の意見に対して、「君は、不幸な人の心理がわかっていない」と言う人がいる。「君には、毎日、毎晩、仏壇の前で祈っている人の気持ちが理解できないのかね」と。そう言ったのは、町内の祭の仕事でいっしょにした男性(七五歳くらい)だった。が、何も私は、そういう女性の生きザマをまちがっているとか言っているのではない。またその女性に向かって、「そういう生き方をしてはいけない」と言っているのでもない。その女性の生きザマは生きザマとして、尊重してあげねばならない。

この世界、つまり信仰の世界では、「あなたはまちがっている」と言うことは、タブー。言ってはならない。まちがっていると言うということは、二階の屋根にのぼった人から、ハシゴをはずすようなもの。ハシゴをはずすならはずすで、かわりのハシゴを用意してあげねばならない。何らかのおり方を用意しないで、ハシゴだけをはずすというのは、人として、してはいけないことと言ってもよい。

 が、私がここで言いたいのは、その先というか、つまりは自分自身の将来のことである。どうすれば私は、いつまでも前向きに生きられるかということ。そしてどうすれば、うしろ向きに生きなくてすむかということ。

●今、どうしたらよいのか?
 少なくとも今の私は、毎日、思い出にひたり、仏壇の金具の掃除ばかりするようになったら、人生はおしまいと思っている。そういう人生は敗北だと思っている。が、いつか私はそういう人生を送ることになるかもしれない。そうならないという自信はどこにもない。保証もない。毎日、毎晩、仏壇の前で祈り続け、ただひたすら何かを失うことを恐れるようになるかもしれない。私とその女性は、本質的には、それほど違わない。

しかし今、私はこうして、こうして自分の足で、ふんばっている。相撲(すもう)にたとえて言うなら、土俵際(ぎわ)に追いつめられながらも、つま先に縄をからめてふんばっている。歯をくいしばりながら、がんばっている。力を抜いたり、腰を浮かせたら、おしまい。あっという間に闇の世界に、吹き飛ばされてしまう。しかしふんばるからこそ、そこに生きる意味がある。生きる価値もそこから生まれる。もっと言えば、前向きに生きるからこそ、人生は輝き、新しい思い出もそこから生まれる。……つまり、そういう生き方をつづけるためには、今、どうしたらよいか、と。

●老人が気になる年齢
 私はこのところ、年齢のせいなのか、それとも自分の老後の準備なのか、老人のことが、よく気になる。電車などに乗っても、老人が近くにすわったりすると、その老人をあれこれ観察する。先日も、そうだ。「この人はどういう人生を送ってきたのだろう」「どんな生きがいや、生きる目的をもっているのだろう」「どんな悲しみや苦しみをもっているのだろう」「今、どんなことを考えているのだろう」と。そのためか、このところは、見た瞬間、その人の中身というか、深さまでわかるようになった。

で、結論から先に言えば、多くの老人は、自らをわざと愚かにすることによって、現実の問題から逃げようとしているのではないか。その日、その日を、ただ無事に過ごせればそれでよいと考えている人も多い。中には、平気で床にタンを吐き捨てるような老人もいる。クシャクシャになったボートレースの出番表を大切そうに読んでいるような老人もいる。人は年齢とともに、より賢くなるというのはウソで、大半の人はかえって愚かになる。愚かになるだけならまだしも、古い因習をかたくなに守ろうとして、かえって進歩の芽をつんでしまうこともある。

 私はそのたびに、「ああはなりたくはないものだ」と思う。しかしふと油断すると、いつの間か自分も、その渦(うず)の中にズルズルと巻き込まれていくのがわかる。それは実に甘美な世界だ。愚かになるということは、もろもろの問題から解放されるということになる。何も考えなければ、それだけ人生も楽?

●前向きに生きるのは、たいへん
 前向きに生きるということは、それだけもたいへんなことだ。それは体の健康と同じで、日々に自分の心と精神を鍛錬(たんれん)していかねばならない。ゴータマ・ブッダは、それを「精進(しょうじん)」という言葉を使って表現した。精進を怠ったとたん、心と精神はブヨブヨに太り始める。そして同時に、人は、うしろばかりを見るようになる。つまりいつも前向きに進んでこそ、その人はその人でありつづけるということになる。

 改めてもう一度、私は自分を振りかえる。そしてこう思う。「さあて、これからが正念場だ」と。
(030613)

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Hiroshi Hayashi, Japan∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞

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