最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●ニヒリズムの原点

2007-08-05 15:34:57 | Weblog
●ニヒリズムの原点

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昨夜遅く、いつもの通りを歩いて
帰ると、そこに、いつものホームレス
の男性が、道路わきで、三角座りで
座っていた。

見ると全身(露出した腕、脚)に、5円玉
大の斑点が現れていた。

斑点の色は、血が死んだように
黒かった。

私は、心底、ゾーッとした。本当に、
ゾーッとした。

私は子どものころから、斑点模様を
見ただけで、鳥肌が立つ。色の淡い
水玉模様でもだめ。体が、生理的に
受けつけない。

しばらくしてから、つまり通り過ぎてから
しばらくしてから、その男性は、そういう
形で、自分の病状を訴えていたのでは
ないかと思った。

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●ニヒリズム

 もし道路わきで、1人の病人が倒れていたら、そしてもしあなたが、それを見たとしたら、あなたはどうするだろうか。どう思うだろうか。

 当然、あなたは声をかけるにちがいない。「どうか、しましたか?」と。

 しかしもしそれが、いつも見慣れたホームレスの人だったとした、どうだろうか。私ははからずも、そういう場面に、昨夜遅く、出くわした。ワイフと深夜の映画を見て、駐車場にもどる途中のことだった。

 そこには1人の男性がいた。その男性の様子は、冒頭に書いたとおりである。私はその男性の様子を、今、思いだすだけでも、ゾーッとする。理由も、そこに書いた。

 しかし私は、あえて自分の心を押し殺して、足早にして、その場から離れた。離れながら、その男性のことを忘れようとした。

 こういうのをニヒリズムと呼ぶ。「虚無主義」と訳す。「無関心で冷酷な様」(日本語大辞典)とある。

●ニヒリズムの原点

 私たちは日常的に、(欲望)と(反欲望)の世界で生きている。(~~したい)という欲望と、(~~したくない)という反欲望。(~~したくない)というのは、(~~してはだめ)という、「抑制」とはちがう。

 たとえば「お金がほしい」というのは、(欲望)。「人のものを盗んではいけない」というのは、(抑制)。それに対して、「めんどうなことはしたくない」というのは、(反欲望)ということになる。

 その反欲望の世界で、私たちはいつも、自分を犠牲にして生きている。たとえば仕事。

 好きでその仕事をしている人もいるかもしれない。しかし大半の人は、生活のため。したくもない仕事をしながら、じっとがまんしている。

 このがまんから、ニヒリズムが生まれる。もう少し先を言えば、がまんから解放されたいという欲求から、ニヒリズムが生まれる。

 たまたま昨夜も、こんなことがあった。

 家に帰ると、留守番電話が入っていた。夜中の12時半ごろだった。それを聞くと、兄が入院したという、姉からの連絡だった。兄は、このところ数か月おきに、肺炎を起こしている。何かのことで咳きこんだとき、肺のほうへ食べ物を送ってしまうためらしい。

 しかし兄の世話は、今に始まったことではない。私は23、4歳のときから、自分の収入の約半額を、実家に納めてきた。親子関係や兄弟関係が良好であれば、まだ救われる。しかしその関係にキレツが入った状態で、それをするのは、つらい。

 経済的負担はともかくも、それから受ける精神的負担には、相当なものである。私は身をもって、それを体験した。

 だから母はともかくも、仕事らしい仕事もせず、のんべんだらりとした生活をしている兄を見ると、いつも心のどこかで腹立たしく思っていた。ほんの1、2年前のことだが、兄の健康診断書を見たときも、驚いた。

 頭こそ、ボケてしまってどうしようもないが、それを除けば、数値は、すべて「健康」を示していた。9歳若い私より、すべてよかった。それを見たとき、ワイフも思わず、こう言った。「兄さんは、苦労してないから……」と。

 起きたいときに起き、寝たいときに寝る。めんどうなことは、いさい、しない。もちろん「苦労」とは無縁。30代のころから、まさに年金生活者のような生活をしていた。

 そういう兄だから、姉から入院したという連絡を受けたときも、「そう……」「また何かあったら、連絡してほしい」で終わってしまった。こういうケースのばあい、「兄弟だから……」という『ダカラ論』ほど、アテにならないものはない。私は子どものころから、兄といっしょに遊んだ記憶すらない。

 つまり私は、こと兄とのことに関して言うなら、反欲望の世界で生きてきたことになる。それが今の私のニヒリズムにつながっている。

●ホームレスの男性

 私たちは今の生活を維持するために、懸命にもがいている。それだけで精いっぱい。そしてその一方で、いつも何かを、自分の中で押し殺している。

 ときどきふと、こう思う。「ホームレスのような人の生き方をしたら、どんなに気が楽になることか」と。本当はそうではないのかもしれない。ホームレスの人たちは、ホームレスの人たちなりに、もがいているのかもしれない。苦しんでいるのかもしれない。

 それは別として、その(押し殺している部分)で、私たちは、ホームレスの人たちに、ある種のニヒリズムをもつようになる。ときにふと、あまった小遣いを分けてやろうと思うことはあるが、(実際、若いころは、よくそうしたが……)、それに自らブレーキを、かけてしまう。

 「そんなことをしたら、かえって彼らのためにならない」と。

 しかしこれは自己弁護にすぎない。もし本当に彼らがもつ孤独感やさみしさを理解できたとしたら、そんな言いわけ程度で、自分を正当化することは無理だろう。やろうと思えば、この私にだって、ホームレスの人たちを救済する運動なり、活動ができるはず。

 食事の炊き出しだってよい。

 しかし実際には、私は、何もしていない。何もしない。ただそういう人たちを見て見ぬフリをして、その場を立ち去るだけ。

●博愛とは……

 ニヒリズムを「悪」と位置づけるなら、その反対側にあるのが、「博愛」ということになる。それを教えたのが、イエス・キリストということになる。私たちは、そんなわけで、いつも心の中で、ニヒリズムと博愛のはざまで、迷う。行ったり来たりする。「揺れ動く」と表現してもよいのかもしれない。

 今の私がそうだ。

 兄は現在、グループホームに身を寄せているが、その費用だけでも、月額12~3万円はかかる。入院したりすれば、さらにかかる。すべて私の負担である。加えて母の介護費用もある。けっして楽な額ではない。

 姉は心のやさしい女性だから、それを連絡しながらも、「あなたも心配でしょう」と、言外でそれをにおわす。しかし、今の私は、そういう気持ちは、ほとんどない。あるとすれば、何かあれば、母のほうが心配するだろうから、そういう心配を、母にはかけたくないという思いだけ。

 仮に兄に万が一のことがあったとしても、私は母には、そのことを話さない。

 かといって、自分の心を偽るのも苦しい。それほど心配もしていないのに、口じょうずに、それを表現するのもつらい。心配しているというフリをするのは、さらにつらい。だから私はだまって、姉の報告を聞くだけ。

 一方、「そうであってはいけない」という自分が別のところにいて、自分を責める。「お前の家族ではないか」「もしお前の息子だったら、どうする」と。

 こんなとき私は、ニヒリズムと博愛の間で、揺れ動く。「なるようにしかならない」という思いと、「弟としてお前は冷たい人間だ」と自分を責める思い。その間で揺れ動く。

 博愛……同じく日本語大辞典には、こうある。「だれでも平等に愛すること」と。

 しかしそんなことは、本当に可能なのだろうか。博愛でないにしても、(部分愛)でもよい。少なくとも身内や、道路で見かけた人でもよい。その範囲の人を、自分のワイフや息子たちと同じように、愛することでもよい。

 しかし今の私には、その自信はない。つまり私も、その程度の人間ということか。

 欲望と闘うことは、むずかしい。しかし反欲望と闘うことは、もっとむずかしい。いま、それを再発見した。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 欲望論 反欲望論)

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