最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●自己正当化(追記)

2009-06-11 07:14:53 | Weblog




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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●自己正当化(Self-Justification)

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なんだかんだと理由をこじつけて、
自分を正当化する。
そういうケースは、多い。
たとえば自分が失敗しても、「もともとは、
あいつが悪いから、こうなった」
「たまたま運が悪かっただけ」と。
が、それを悪いことと決めつけてはいけない。
(よくないことは、確かだが……。)

つまりそうすることで、人は、自分の心を
救済しようとする。
個人的なことというよりは、だれにでも
そういう傾向があるという意味で、
心理学の登場ということになる。

+++++++++++++++++

●投射

 ある夕方、A君(小3)の母親から電話がかかってきた。
話を聞くと、A君が、「林先生(=私のこと)が、ぼくを嫌っている」と言っているという。
しかし私には、そんな気持ちは、まったくない。
そこで話をよく聞くと、こういうことだった。

 A君が勉強から逃げ始めたのは、その数か月ほど前からのことだった。
理由はわからない。
たぶん過剰負担からではなかったか。
学習中も、やる気なさそうに、時間をつぶすことが多くなった。
そこで私はそのつど、こまかく、A君を注意した。
が、それがよくなかった。
A君はやがて私を避けるようになり、ついで、私を嫌うようになった。
A君が、(私ではなく、A君が)、私を嫌った。

 心理学の世界にも、「投射」という言葉がある。
自分の感情を相手に投射させて、「自分が悪いのは、相手のせいだ」と、責任を回避する
ことをいう。

 たとえばこのばあいも、A君は、(勉強がいやだ)→(林先生がぼくにきびしい)
→(だからぼくは、林先生が嫌い)→(林先生がぼくを嫌っているからだ)と、
自分の気持ちを、私に投射してしまった。

 わかりやすく言えば、たとえばあなたがBさんならBさんを嫌いだったとする。
そのときあなたは、こう言って、自分の感情を正当化する。
「私がBさんを嫌いなのは、私が悪いからではない。
Bさんが、私を嫌っているからだ」と。
つまり私には責任はない。
そういうふうに思わせているのは、Bさんのほうだ、と。

●老人心理

 私もその仲間に入って、おもしろいことに気づきつつある。
老人世界という(仲間)である。

 相手が幼児のばあいも、それがよくわかる。
しかし相手が老人だと、さらにそれがよくわかる。
老人になればなるほど、人はまさに、心理学の教科書どおりの行動をするようになる。
それに気づきつつある。

 老人といっても、いろいろある。
老人のなり方も、人によって、みな、ちがう。
しかし老人になればなるほど、その人の内なる「私」が、モロに表に出てくる。
たとえばフロイトは、「性的エネルギー」という言葉を使った。
ユングは、「生的エネルギー」という言葉を使った。
そうしたエネルギーは、老人を見れば、よくわかる。
それこそ車椅子に座ったままの生活をしているような老人が、一日中、「飯(めし)、
よこせエ(=くれ)」と叫んでいる。

 そういう姿を見ていると、生きる力のものすごさを感ずる。
と、同時に、「ああ、これがユングの説いた、生的エネルギーなんだ」とわかる。
もちろん色恋沙汰も、多い。
近くの老人ホームで働く女性が、こう教えてくれた。
「80代の女性たちが、1人の男性を取りあって、とっくみあいの喧嘩を
していますよ」と。
老人だから、そういうことに興味をなくすと考えるのは、まったくの誤解。
むしろ若いときより、はげしくなる。

 つまりこういう形で、老人たちは、人間の心理を、そのまま表現してくれる。
(あるいはフロイトやユングは、老人を見ながら、心理学をまとめたのかもしれない?
今、ふと、そんな疑念がわいてきた。)
ともかくも、老人たちを見ていると、相手が幼児ではわからなかったようなことが、
わかることがある。
「老人」といっても、私自身も含めての話だが……。

●嫌う

 話を戻す。
「嫌う」という感情は、ものすごいエネルギーを消耗する。
仏教の世界には、四苦八苦の一つとして、『怨憎会苦(おんぞうえく)』という言葉
さえある。

 人を嫌うのも、たいへんということ。
疲れる。
扱い方をまちがえると、心が腐る。
それゆえに、人は、(嫌う)という感情を、いろいろな形で、自分から発散させようとする。
そのひとつが、「投射」ということになる。
「私があの人を嫌うのは、私が悪いからではない。あの人が私を嫌っているからだ」と。

 先のA君(小3)のケースでいうなら、「ぼくが勉強を嫌いになったのは、林先生が
ぼくを嫌っているからだ」と。
そこでこういうケースのばあい、たいてい先手を打って、A君は、私の悪口を言い始める。
「林先生は、えこひいきをする」
「林先生は、まちがえると怒る」
「林先生は、ていねいに教えてくれない」と。

 つまりそういう形で、親を誘導する。
親をして、「そんな教室なら、やめなさい」と思うようにしむける。
子どもがよく使う手である。
だからこのタイプの子ども(プラス親)は、やめ方がきたない。
ある日突然、電話一本で、そのままやめていく。
「今日でやめます!」とか、など。

●「私」はどこに?

 こうして人の心というのは、集約され、普遍化される。
つまりどの人も、「私は私」と思って行動しているかもしれないが、その実、
ある一定のパターンで行動しているのがわかる。
それが「普遍化」ということになる。
わかりやすく言えば、北海道のスズメも、沖縄のスズメも、スズメはスズメ。
同じように、アラスカに住む人間も、タスマニアに住む人間も、人間は人間。
大きく違うようで、それほど違わない。
あるいはまったく同じ。

 言い換えると、その(同じ)という部分を抜け出さないかぎり、人は「私」を
つかむことはできない。
そのためには、まず人間の心理を知り尽くす。
その上で、「では、私はどうあるべきか」を考える。
その操作を怠ると、それこそハイデッガー※の言った、『ただの人』になってしまう。
ハイデッガーは、軽蔑の念をこめて、『ただの人』という言葉を使った。
が、それはとりもなおさず、「個人の死」を意味する。
「人生の敗北」を意味する。
 余計なことかもしれないが……。

(注※)ハイデッガー(マルティン・ハイデッガー)……1889~1976、
ドイツの哲学者。20世紀最大の哲学者と評されている。
「自分の未来に不安をもたず、自己を見失ってだらだらと生きる堕落人間を、
ひと(das Mann)と呼びました」(「哲学」宇都宮輝夫・PHP)とある。

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【2】(特集)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「抑圧」の恐ろしさ(Another Room in the Mind)

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よく兵士、あるいは元兵士の残忍行為が問題になる。
最近でも、アメリカの収容所で、アメリカ兵が
イラク軍捕虜に対して暴力、暴行を繰り返したという事件が
問題になった。

こう書くからといって、アメリカ兵を擁護するわけではない。
が、こうした問題は、常に戦争について回る。
戦時中には、日本軍もした。
ドイツ軍もした。
その多くはPTSDに苦しみ、さらには心そのものを
病んでしまう兵士も珍しくない。
昨年見た映画の、『アナザー・カントリー』も、そうした兵士を
題材にした映画だった。

が、こうした問題も、心理学でいう「抑圧」を当てはめてみると、
理解できる。

++++++++++++++++++++

●抑圧

 自分にとって都合が悪い記憶があると、人はそれは心の別室を用意し、そこへそれを
押し込めてしまう。
そうすることで、自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。
こうした現象を、心理学の世界では、「抑圧」という。
「隠ぺい記憶」と言う人もいる。

 もともとは乳幼児期の不快な思い出や記憶について起こる現象を説明したものだが、
もちろんおとなになってからも、ある。
何かのことで失敗したり、いやなことがあったりすると、それをできるだけ早く
忘れようと、心の別室を用意し、その中に押し込んでしまう。

●上書きされない

 ふつう記憶というのは、どんどんと上書きされていく。
たとえば不愉快なことがあっても、そのあと楽しいことがつづくと、過去の記憶を
忘れてしまう。

 が、心の別室に入った記憶には、その(上書き)という操作が働かない。
別室に入ったまま閉じ込められているから、修正されるということもない。
だから何かの拍子に表に出てくる。
たとえば高校生になった子どもが、5年前、あるいは10年前にあったことを持ち出し、
「あのとき、テメエは!」と言って、親に対してどなり散らすことがある。

 また最近聞いた話では、ともに70歳前後の夫婦なのだが、喧嘩するたびに、30年前、
40年前の話を持ち出して、たがいに責めあうという。
それを横で聞いていた娘(50歳くらい)は、こう言った。
「どうしてそんな昔の話をして、喧嘩するのでしょう。
頭がボケてきたのでしょうか」と。

 もちろん頭はボケていない。
(あるいはボケとは関係ない。)
抑圧された記憶というのは、そういうもの。

●子どもの世界でも

 「いい子ほど心配」とは、教育の世界では、よく言う。
先生や親の言うことに従順で、すなお。
ハイハイと指示や命令に従う……。
しかしこのタイプの子どもほど、あとあと心をゆがめやすい。
(あるいはその過程で、すでに心をゆがめている。)
思春期前夜、あるいは思春期になると、突然変化することも珍しくない。
はげしい家庭内暴力や、引きこもりにつながることもある。
何かのことで突発的に爆発して、こう叫んだりする。
「こんなオレにしたのは、テメエだろう!」と。

 心の別室には、キャパシティ(容量)というものがある。
そのキャパシティを超えると、隠ぺいされた記憶が、そこから突然、飛び出す。
本人ですらも、コントロールできなくなる。

 そんなわけで、子どもを指導するとき大切なことは、子どもに、
心の別室を作らせないこと。
まず言いたいことを言わせる。
したいことをさせる。
常に心を開放させる。
それが子どもの心をゆがめないコツということになる。

●兵士のばあい

 話を戻す。
もちろん私には戦争の経験はない。
ないが、おおよその見当はつく。
つまり兵士たちは、戦場では、慢性的に恐怖感にさらされる。
そのとき兵士は、その恐怖感を、心に別室を作り、そこへ押し込めようとする。
その上で、勇敢な兵士を演じたりする。

 が、これが心をゆがめる。
何かのきっかけ、たとえば相手が捕虜であっても、敵の顔を見たとたん、隠ぺい
された記憶が暴走し始める。
それは「記憶の暴走」と言うような、簡単なものではないかもしれない。
暴走させることによって、心の別室にたまった、恐怖感を解消しようとするの
かもしれない。
それが捕虜への、暴力や暴行へとつながっていく。

●教授の殺害事件

 今年(09)に入ってから、ある大学で、ある大学の教授が、元学生に殺害
されるという事件が起きた。
動機はまだはっきりしていないが、その学生は教授に対して、かなりの恨みを
もっていたらしい。

 この事件も、「抑圧」という言葉を当てはめてみると、説明できる。
というのも、その元学生のばあいも、元学生とはいっても、大学を卒業してから、
すでに10年近くもたっている。
ふつうなら、いろいろな思い出が上書きされ、過去の思い出は消えていてもおかしく
ない。
が、先にも書いたように、一度心の別室に入った記憶は、上書きされるということは
ない。
いつまでも、そのまま心の中に残る。
そこで時間を止める。

●心の別室

 ところで「心の別室」という言葉は、私が考えた。
心理学の正式な用語ではない。
しかし「抑圧」を考えるときは、「心の別室」という概念を頭に描かないと、どうも
それをうまく説明できない。
さらに「心の別室」という概念を頭に描くことによって、たとえば多重人格性などの
現象もそれで説明ができるようになる。

 人は何らかの強烈なショックを受けると、そのショックを自分の力では処理することが
できず、心の別室を用意して、そこへ自分を押し込めようとする。
「いやなことは早く忘れよう」とする。
しかし実際には、「忘れる」のではない。
(その記憶が衝撃的なものであればあるほど、忘れることはできない。)
だから心の中に、別室を作る。
そこへその記憶を閉じ込める。

●では、どうするか

 すでに心の別室を作ってしまった人は、多いと思う。
程度の差の問題で、ほとんどの人に、心の別室はある。
暗くてジメジメした大倉庫のような別室をもっている人もいる。
あるいは物置小屋のような、小さな別室程度の人もいる。

 別室が悪いと決めつけてはいけない。
私たちは心の別室を用意することによって、先にも書いたように、
自分の心が不安定になったり、動揺したりするのを防ぐ。

 が、その別室の中の自分が、外へ飛び出し、勝手に暴れるのは、よくない。
その瞬間、私は「私」でなくなってしまう。
ふつう心の別室に住んでいる「私」は陰湿で、邪悪な「私」である。
ユングが説いた「シャドウ」も、同じように考えてよい。
あるいはトラウマ(心的外傷)も、同じように考えてよい。
そこで大切なことは、まず自分自身の中にある、心の別室に気がつくこと。
そしてその中に、どんな「私」がいるかに気がつくこと。

 シャドウにしても、トラウマにしても、一生、その人の心の中に残る。
消そうとして消えるものではない。
だったら、あとは、それとうまく付きあう。
うまく付きあうしかない。
まずいのは、そういう自分に気がつかないまま、つまり心の別室にきがつかない
まま、さらにはその中にどんな「私」がいるかに気がつかないまま、その「私」に
振り回されること。
同じ失敗を、何度も繰り返すこと。

 たとえば夫婦喧嘩にしてもそうだ。
(私たち夫婦も、そうだが……。)
もうとっくの昔に忘れてしまってよいはずの昔の(こだわり)を持ち出して、
周期的に、同じような喧嘩を繰り返す。
「あのときお前は!」「あなただってエ!」と。

 もしそうなら、それこそ「愚か」というもの。
が、もし心の別室に気がつき、その中にどんな「私」がいるかを知れば、あとは
時間が解決してくれる。
5年とか、10年はかかるかもしれないが、(あるいは程度の問題もあるが)、
時間が解決してくれる。

 あとは心の別室を静かに閉じておく。
その問題には触れないようにする。
心の別室のドアは、開かないようにする。
対処の仕方は、シャドウ、もしくはトラウマに対するものと同じように考えてよい。

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Hayashi 林浩司 BW BWきょうしつ 心の別室 はやし浩司 抑圧 抑圧と
心の別室 シャドウ はやし浩司 トラウマ)

(付記)

 心の別室といっても、けっしてひとつではない。
そのつど人は、様々な大きさの別室を、作る。
作って、自分の心を救済しようとする。

 ……と考えていくと、心の別室というのは、脳の問題というよりは、習慣の問題
ということになる。
心の別室を作りやすい人と、そうでない人がいるということ。
何かあるたびに、心の別室を作り、そこへ自分を閉じ込めようとする人もいれば、
そのつど自分を発散させ、心の別室を作らない人もいる。
だから「習慣の問題」ということになる。

 もちろんできれば、心の別室など、作らないほうがよい。
そのつど自分を発散させたほうがよい。

(追記)

 同じような原稿を、この3月にも書いた。
あわせて読んでほしい。

『●「抑圧」(pressure)

+++++++++++++

昨日、「抑圧」について書いた。
強烈な欲求不満がつづくと、人(子ども)は、
その欲求不満を、心の中の別室に押し込んで、
それから逃れようとする。
が、それでその欲求不満が解消されるわけではない。
10年とか、20年とか、さらには40年とか、
50年たっても、それが何らかのきっかけで、
爆発することがある。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

++++++++++++++++++

が、こうした「抑圧」は、形こそちがえ、また
大小のちがいもあるが、だれにでもある。
あなたにもある。
私にもある。

だから、何かのことで不満を感じたら、そのつど、
外に向かって吐き出すのがよい。
けっして、心の中にためこまない。
徒然草の中にも、『もの言わぬは、腹ふくるるわざなれ』※
とある。
「言いたいことも言わないでいると、腹の中がふくれてくる」
という意味である。

が、その程度ですめばよい。
ひどいばあいには、心に別室ができてしまう。
本来なら楽しい思い出が上書きされ、不愉快な思い出は消える。
しかし別室に入っているため、上書きされるということがない。
そのまま、それこそ一生、そこに残る。
そして折につけ、爆発する。

「こんなオレにしたのは、お前だろう!」と。

そして10年前、20年前の話を持ち出して、相手を責める。

こうした抑圧された感情を解消するためには、2つの
方法がある。

ひとつは、一度、大爆発をして、すべて吐き出す。
もうひとつは、原因となった、相手が消える。
私のばあいも、親に対していろいろな抑圧があるにはあった。
しかし父は、私が30代のはじめに。
母は、昨年、他界した。
とたん、父や母へのこだわりが消えた。
同時に、私は抑圧から解放された。

親が死んだことを喜んでいるのではない。
しかしほっとしたのは、事実。
それまでに、いろいろあった。
ありすぎてここには書ききれないが、それから解放された。
母は母で、私たちに心配をかけまいとしていたのかもしれない。
しかしどんな生き方をしたところで、私たちは、それですまなかった。
「では、お母さんは、お母さんで、勝手に生きてください。
死んでください」とは、とても言えなかった。

人によっては、「朝、見に行ったら死んでいたという状態でも
しかたないのでは」と言った。
が、それは他人のことだから、そう言える。
自分の親のこととなると、そうは言えない。
いくらいろいろあったにせよ、家族は家族。
いっしょに生きてきたという(部分)まで、消すことはできない。

話が脱線したが、抑圧は、その人の心までゆがめる。
そういう例は、ゴマンとある。
大切なことは、心の別室を作るほどまで、抑圧をためこまないこと。
言いたいことも言えない、したいこともできないというのであれば、
すでにそのとき、その人との人間関係は終わっていると考えてよい』。

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