最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●運命vs智力

2009-01-06 15:48:42 | Weblog
●運命vs智力

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私には、(自分で気がついている部分)と、
(自分で気がついていない部分)がある。
一般的には、自己中心性の強い人ほど、
(自分で気がついている部分)が小さく、
(自分で気がついていない部分)が大きい。

問題は、その(自分で気がついていない部分)。
この部分が、その人をして、その人の望まない
方向に操ってしまう。

人にねたまれる。
人にうとまれる。
人に嫌われる。
それが重なっている間に、気がついてみると、
自分がとんでもない立場にいるのを知る。

それを避けるためには、どうしたらよいのか。
その方法は、あるのか。

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●運命

1人の人には、無数の(糸)がからんでいる。
生い立ち、過去、経験の糸。
家族、親類、社会、国の糸。
家庭環境、文化、伝統の糸。
性格、性質という糸もある。
性差(男女)という糸、
さらには肉体、健康という糸もある。

そういう無数の糸がからんで、時として、その人の進むべき方向を決めてしまう。
自分の意思で何とかなるばあいもあるが、そうでないときのほうが、多い。
私は、それを「運命」と呼んでいる。
どこかの頭のおかしいオバチャンが説く、あの運命論とは、中身がちがう。

たとえばいくら「私は自由だ」と叫んだところで、そこには限界がある。
仕事もしなければならない。
家族のめんどうもみなければならない。
その(限界)が無数に積み重なって、ここでいう(運命)となることもある。
今の(私)にしても、あくまでもその結果でしかない。

で、ここではさらに話を先に、一歩進める。

そういう無数の(糸)の中に、(自分で気がついていない部分)もある。
自分では気がつかないうちに、原因は自分の中にあるにもかかわらず、自分の意図した
方向とは別の方向に、自分が進んでしまうことがある。

●愛人がいない?!

こんなことがあった。
あるとき、あるところで、40年ぶりくらいに、ある男性に出会った。
で、しばらく話していると、その男性が、自分の失敗談をあれこれと話してくれた。
その中のひとつに、愛人の話があった。

「いやあ、愛人ができてしまってね。別れるのに、苦労したよ」と。

で、驚いたことに、そのあとその男性が、こう言った。
「なあ、林君、君にも、愛人の1人や2人はいるだろう」と。
まるでたたみかけるような、言い方だった。

そこで私が「いない……」と答えると、その男性は、私が驚いた以上に驚いた表情を
見せながら、「いないだってエ?!」と。

男「いない? そんなはずはないだろ! お前にいないはずが、ないだろ!」
私「いないよ」
男「バカ言え。信じられない!」と。

そこで私はその男性と会っていたころのことを思い浮かべた。
結婚する前のことで、そのころの私は、遊びまくっていた。
ガールフレンドも、つねに3、4人はいた。
その男性と、あちこちへいっしょに遊びに行ったこともある。
スケベな話もよくした。
その男性には、私がよほどのプレイボーイに見えたらしい。

が、そんな私が大きく変わったのは、ある事件があってからのことである。
それについて書くのは、ここで目的ではないので、また別の機会にするが、
ともかくも、そのころ、その男性は、私への印象を決めてしまったようだ。

●原因はその女性自身に

逆に、こんな例もある。
少し前、親類のある女性から、ひんぱんに電話がかかってきた。
話を聞くと、兄弟どうし、たがいにはげしく、いがみあっているという。
一方的な話だったが、その女性は、「私は悪くない」「兄弟たちが悪い」というような
ことを訴えた。

しかしその女性が、兄弟たちと仲が悪いのは、その女性に原因があった。
自分勝手で、わがまま。
他人との協調性が、まったくなかった。
話といっても、ここにも書いたように一方的。
ギャーギャーと騒ぐといったふうで、こちらが何かを答えようとする間もなく、
話題がどんどんと変化していった。

が、その女性は、けっして自分に原因があるとは思っていなかった。
自分が、他人から見て、どんな人間に見られているか、それにすら気づいていなかった。

●自分勝手な相談

もうひとつ、わかりやすい例で説明しよう。

もう20年近くも前のことだが、こんなこともあった。
そのときも、ある女性(当時70歳くらい)から電話がかかってきた。
内容は、「息子が離婚することになったが、どうしたらいいか」というものだった。

が、会話がどうもかみあわない。
その女性は、「離婚しても、構わない」と言いつつ、「(嫁と子どもたちが)、
家から出て行かないから困っている」と。
だから「どうすれば、追い出せるか」と。

で、よくよく話を聞くと、結局は、嫁と子どもたちに財産を取られたくない。
そのためには、どうしたらよいかという相談であることがわかった。

しかし常識で考えても、そんな道理は通らない。
当時、子どもたち(=その女性の孫)は、中学生と小学生だった。
慰謝料と養育費の支払いは、当然のことである。
嫁はそれまで働いていて、生活費を、その家に入れていた。
いくら離婚でも、裸で嫁と子どもたちを追い出すわけにはいかない。
そのこともあるから、嫁と子どもたちは、家を出ず、がんばっていた。
そこで私が、あいまいな返事をしていると、その女性は、怒ってそのまま電話を
切ってしまった。

あとで、(5、6年もたってからのことだが)、人づてにその後のことを聞くと、
その女性が、私の悪口を言っているのを知った。

「あの林は、私が相談したのに、親身になってくれなかった」と。

●都合のよい部分vs悪い部分

「私は、こういう人間だ」。
「私は、こういう性格だ」。
「だから、他人にはこう見られている」。
「他人は、私のことをこう思っている」。

……これが(自分で気がついている部分)ということになる。
しかし(私)というのは、それだけがすべてではない。
むしろ(自分で気がついていない部分)のほうが、大きい。

さらにわかりやすくするために、もうひとつの例をあげてみよう。

以前、(してやった部分)と、(してもらった部分)には、大きな差があるという
内容のエッセーを書いたことがある。

人というのは、(自分が他人にしてやった部分)については、過大評価する傾向がある。
一方、(他人からしてもらった部分)については、過小評価する傾向がある。
だから「私は、あの人のめんどうをよくみてやったのに、あの人は何もしてくれない」
と、なる。

つまり自分で自分を評価するとき、人というのは、自分にとって都合のよい部分に
ついては、拡大視する傾向がある。
一方、自分にとって都合の悪い部分については、反対に目を閉じてしまう傾向が
ある。

こういう作業を長い時間繰り返しながら、その人は、自分の中に自分像を作り
あげてしまう。
そしてそれが結果として、(自分で気がついていない部分)を増大させてしまう。

●自己認識能力

そこで(自分で気がついていない部分)を知るには、どうしたらいいかということに
なる。

そこで登場するのが、自己認識能力ということになる。
発達心理学の用語だが、その一例をあげる。

AD・HD児だった男子(当時、中3)がいた。
たいへんなAD・HD児で、幼稚園の先生も、小学校の先生も、そして私も苦労をした。
が、AD・HD児でも、小学3、4年生くらいから、急速に落ち着いてくる。
自己管理能力が育ってくるためである。
この時期を過ぎると、持ち前のバイタリィティがよいほうに作用し、学習面やスポーツ
面で飛躍的に伸びることがある。
その中学生もそうだった。
そのとき浜松市内でも、いちばんという進学校に合格していた。

そこである日、その中学生に、私はこう聞いた。
「君は子どものころ、みんなにめいわくをかけたが、覚えているか?」と。
すると、その子どもは、平然とこう言ってのけた。

「ぼくは、何も悪いことはしていない。
みんなが、ぼくを目の敵(かたき)にして、いじめた」と。

何度か確かめてみたが、彼には、みなに迷惑をかけたという意識は、まったくなかった。
つまり、(自分を知る)ということは、それほどまでに、むずかしい。

●帰宅拒否児

私にことを書く。
私が、子どものころ、帰宅拒否児であったということは、この世界に入って
はじめて知った。

私は小学生のころ、学校からまっすぐ家に帰ったということは、ほとんどなかった。
道草を食うなどということは、当たり前。
それがそのまま、日課になっていた。

だからある日、年長女児をもつ母親から、道草の相談を受けたときには、正直言って、
少し面食らった。
「そんなこと、どうでもいいではないですか」と言いかけたが、それは言わなかった。
で、話を聞いていくと、どうやら家庭に原因のある、帰宅拒否児ということがわかった。
不登校児、あるいは学校恐怖症の子どもの反対側にいる子どもと理解するとわかりやすい。

で、そのとき気がついた。
私自身も、実は、帰宅拒否児だった、と。
それは私にとっては、大きなショックだった。
私は意識しないまま、毎日、自分の行動を決めていた。
(家へ帰るのがいや)という思いがどこかにあって、それが道草に
つながっていた。

●自分を知るために

そこで心理学の世界では、いろいろな方法を使って、(自分で気がついて
いない部分)を、さぐろうとする。
面談方式とか、対話方式というのも、考えられている。
が、いちばん手っ取り早い方法は、親しい友人に、自分のことを語ってもらう
というのがある。
そういう意味では、多くの友人をもつということは、大切なことでもある。
友人が多ければ多いほど、自分の姿が、その中から浮かびあがってくる。
「お前なア、お前のここんとこ、おかしいよ」と言ってくれる友だちがいれば、
すばらしい。
妻でも、子どもでもよい。

が、もうひとつの方法は、心理学の本を読みながら、自己分析していくというもの。
私自身も、自分が、うつ気質であるのを知るのに、ずいぶんと時間がかかった。
それには、こんなエピソードがある。

そのとき私は、不眠に悩んでいた。
朝早く目が覚めてしまい、それが重なって睡眠不足状態になっていた。
仕事にしても、1週間ほど前から気になってしかたなかった。
そこである医院(内科)へ行き、あれこれ相談すると、その医師が、
ズバズバと私の症状を言い当ててくれた。

「さすが、ドクター!」と感心していると、そのドクターはこう言った。
「いや、林さん、実は私もそうなのですよ」と。

●ためこみ屋

(自分で気がついていない部分)といっても、もちろん2種類ある。
(好ましい部分)と、(好ましくない部分)である。

そこでひとつのケースを考えてみたい。

最近、私はある知人(65歳くらい)の男性の家を訪れてみて、たいへん
驚いた。
玄関先から、モノ、モノ、モノであふれかえっていた。
出入りも、そのモノをさけて、しなければならなかった。
天井からも無数の衣服が、つりさげられていた。

いわゆる「ためこみ屋症候群」と呼ばれる、行為障害のひとつである。
このタイプの人は、ひどくなると、ゴミですら、捨てられなくなる。

そこでもしあなたがその場にいたとしたら、あるいはその人の友人で
あるとしたら、あなたはどうやって、その人にその(好ましくない部分)を、
知らせることができるだろうか。
自分で気がつかせるだろうか。

さあ、どうするだろうか?

……といっても、その方法はむずかしい。
実際、私はその知人には、何も言えなかった。
「あなたは、おかしいですよ」などとは、ぜったいに、言えない。
その人は、その人。
だれかに迷惑をかけているわけではない。
その知人は、自分の家の中で、そうしていた。
で、私はそのまま黙って、家に帰った。

が、もしその知人が、ほんの少しでも、自分で本を読む能力と機会が
あったら、どうだろうか。
私のHP、もしくはBLOGでもよい。
どこかで「ためこみ屋」という言葉を見つけるかもしれない。
そしてそれをきっかけに、自分のことを知るかもしれない。

●智力との闘い

こうして考えていくと、(自分で気づかない部分)を知るための最大の武器は、
「智力」ということになる。
知恵、知性でもよい。
そしてその知力は、東洋医学では、つぎのようにして生まれる。
(はやし浩司著、「目で見る漢方診断」より。)

(意)→(志)→(思)→(慮)→(智)と。

なお東洋医学では、精神活動も、肉体活動と密接不可分のものとして
考える。
霊的な、いわゆるスピリチュアルな(精神)というものは、認めていない。
わかりやすく言えば、肉体も病むように、精神もまた病むということ。
(詳しくは、「はやし浩司のHP」より、「目で見る漢方診断」へ。)

そしてその智力が、その人の運命を変えていく。
また運命を変える、武器となりえる。

言いかえると、私たちが日夜肉体の健康を維持するように、精神の健康を
維持する努力を怠ってはいけないということになる。
運命というのがそこにあるとしても、健全な精神があってこそ、私たちは、
それと闘うことができる。

けっして、運命に翻弄(ほんろう)されてはいけない。

……とまあ、大上段な書き方をしてしまったが、大筋ではまちがって
いないと思う。
ともかくも、(自分で気がついていない部分)を知るということは、大切なこと。

そのためのひとつの方法として、精神の健康を保ち、智力をみがく。
結局は、それが運命と闘う、もっとも効果的な方法ということになる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司
運命論 運命 自分を知る 精神の健康 智力 自己認識能力)


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