●子どものことは、子どもに聞く
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子どもの教育で、わからなかったことが
あったら、子どもに聞けばよい。
子どものことは、子どもに聞く。
それが子どもの教育の大鉄則でもある。
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人間といえども、自然の一部でしかない。そんなことは、当然のことではないか。だから自然
学者が、何か、わからかないことがあったとき、自然にたいして、直接、問いかけるように、子
どものことで、何か、わからないことがあったら、直接、子どもに問いかければよい。
あのダーウィンも、ファーブルも、自然にたいして、直接、問いかけた。そして今に残る業績を
あげた。
私が嫌いのは、子どもを直接、教えたこともないような学者たちが、研究室の奥で積み重ね
たような教育論である。そうした教育論は、読めば、すぐわかる。先日も、こんな教育論を目に
した。
最近の子どもたちの「荒れ」についての意見だが、こうあった。「社会の変革期における過渡
期的な現象である。子どもたちは、学校に反抗することで、社会の変革を促している」と。日本
でも有名な評論家の意見である。
しかし一読して、「?」。子どもたちが、そんな高邁(こうまい)な意識をもって、(あるいは無意
識でもよいが)、行動しているとは、とうてい考えられない。またそんな視点からでは、いくら考
えても、問題は、解決しない。
「荒れ」の問題は、……というのを書くのが、ここでの目的ではないので、省略するが、こうし
た例は、多い。
ほかにも、たとえば、不登校について、ある学者は、こう述べている。
「不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)無気
力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられている。
またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境
の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている」
(「日本K新聞」より、原文のまま)と。
こうした分類をしたところで、どれほどの意味があるというのか。問題の解決に役立つのか。
不登校児をもって苦しんでいる親の立場で、ものを考えてみればよい。もしその親に向かっ
て、だれかがこう言ったとする。
「あなたの子どもの不登校は、学校生活起因型です。原因は部活動の不適応が原因です」
と。
多分、その親は、こう叫ぶにちがいない。「そんなことは、わかりきったことではないか!」「今
さら、そんな説明などしてもらわなくて、結構!」と。
だからといってもちろん、研究としての学問を否定しているのではない。しかしその一方で、
子どもを忘れた教育など、いくら考えても意味がない。もうひとつ、こんな例もある。
児童向けの英語教育が話題になり始めたころのこと。どこかの学者が、「シャワー方式」なる
名前の英語教育法を考えた。シャワー方式というのは、わかってもわからなくても、子どもの耳
に向かって、英語を録音したテープを聞かせつづけるというものである。
つまりシャワーのように、子どもに英語を流しつづけるから、「シャワー方式」という。
そこである雑誌社が、その方式を応用して、学習用テープを作った。が、これほど、子どもた
ちに不人気の教材はなかった。つまり、まったく売れなかった。
これも考えてみれば、当然。
もしあなたにそれがわからなければ、BS放送か何かで、ドイツ語の番組を見てみればよい。
ビデオでもよい。あなたは、10分もたたないうちに、イライラしてくるはず。そしてすぐ、あなた
はこう言うだろう。「もう、やめてくれ!」と。
ついでに言うなら、言葉というのは、実際、使ってみてはじめて身につく。毎日、ドイツ語の放
送を聞いたからといって、ドイツ語が話せるようにはならない。
……などなど。私も子どものことでわからないことがあったときは、まず、子どもの顔を見る。
そして子ども自身に問いかける。すべてはそこから始まり、そこで終わる。子どもを忘れた教育
には、意味がない。そう断言するのは危険なことかもしれないが、それほどまちがってはいな
いと思う。で、もし教育論なるものがあるとするなら、その教育論なるものは、そのあとについて
やってくる。決して、子どもの先を行くものではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育
論)
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子どもの教育で、わからなかったことが
あったら、子どもに聞けばよい。
子どものことは、子どもに聞く。
それが子どもの教育の大鉄則でもある。
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人間といえども、自然の一部でしかない。そんなことは、当然のことではないか。だから自然
学者が、何か、わからかないことがあったとき、自然にたいして、直接、問いかけるように、子
どものことで、何か、わからないことがあったら、直接、子どもに問いかければよい。
あのダーウィンも、ファーブルも、自然にたいして、直接、問いかけた。そして今に残る業績を
あげた。
私が嫌いのは、子どもを直接、教えたこともないような学者たちが、研究室の奥で積み重ね
たような教育論である。そうした教育論は、読めば、すぐわかる。先日も、こんな教育論を目に
した。
最近の子どもたちの「荒れ」についての意見だが、こうあった。「社会の変革期における過渡
期的な現象である。子どもたちは、学校に反抗することで、社会の変革を促している」と。日本
でも有名な評論家の意見である。
しかし一読して、「?」。子どもたちが、そんな高邁(こうまい)な意識をもって、(あるいは無意
識でもよいが)、行動しているとは、とうてい考えられない。またそんな視点からでは、いくら考
えても、問題は、解決しない。
「荒れ」の問題は、……というのを書くのが、ここでの目的ではないので、省略するが、こうし
た例は、多い。
ほかにも、たとえば、不登校について、ある学者は、こう述べている。
「不登校の態様は、一般に教育現場では、(1)学校生活起因型、(2)遊び非行型、(3)無気
力型、(4)不安など情緒混乱型、(5)意図的拒否型、(6)複合型に区分して考えられている。
またその原因については、(1)学校生活起因型(友人や教師との関係、学業不振、部活動な
ど不適応、学校の決まりなどの問題、進級・転入問題など)、(2)家庭生活起因型(生活環境
の変化、親子関係、家庭内不和)、(3)本人起因型(病気など)に区分して考えられている」
(「日本K新聞」より、原文のまま)と。
こうした分類をしたところで、どれほどの意味があるというのか。問題の解決に役立つのか。
不登校児をもって苦しんでいる親の立場で、ものを考えてみればよい。もしその親に向かっ
て、だれかがこう言ったとする。
「あなたの子どもの不登校は、学校生活起因型です。原因は部活動の不適応が原因です」
と。
多分、その親は、こう叫ぶにちがいない。「そんなことは、わかりきったことではないか!」「今
さら、そんな説明などしてもらわなくて、結構!」と。
だからといってもちろん、研究としての学問を否定しているのではない。しかしその一方で、
子どもを忘れた教育など、いくら考えても意味がない。もうひとつ、こんな例もある。
児童向けの英語教育が話題になり始めたころのこと。どこかの学者が、「シャワー方式」なる
名前の英語教育法を考えた。シャワー方式というのは、わかってもわからなくても、子どもの耳
に向かって、英語を録音したテープを聞かせつづけるというものである。
つまりシャワーのように、子どもに英語を流しつづけるから、「シャワー方式」という。
そこである雑誌社が、その方式を応用して、学習用テープを作った。が、これほど、子どもた
ちに不人気の教材はなかった。つまり、まったく売れなかった。
これも考えてみれば、当然。
もしあなたにそれがわからなければ、BS放送か何かで、ドイツ語の番組を見てみればよい。
ビデオでもよい。あなたは、10分もたたないうちに、イライラしてくるはず。そしてすぐ、あなた
はこう言うだろう。「もう、やめてくれ!」と。
ついでに言うなら、言葉というのは、実際、使ってみてはじめて身につく。毎日、ドイツ語の放
送を聞いたからといって、ドイツ語が話せるようにはならない。
……などなど。私も子どものことでわからないことがあったときは、まず、子どもの顔を見る。
そして子ども自身に問いかける。すべてはそこから始まり、そこで終わる。子どもを忘れた教育
には、意味がない。そう断言するのは危険なことかもしれないが、それほどまちがってはいな
いと思う。で、もし教育論なるものがあるとするなら、その教育論なるものは、そのあとについて
やってくる。決して、子どもの先を行くものではない。
(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 教育
論)