最前線の育児論byはやし浩司(Biglobe-Blog)

最前線で活躍するお父さん、お母さんのためのBLOG
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●電子マガジン10月19日号より

2009-10-19 07:19:29 | Weblog
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 子育て最前線の育児論byはやし浩司      10月   19日号
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【1】(子育てのこと)□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

●「実家」離れ

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「親離れ」「子離れ」という言葉がある。
同じように「実家離れ」というのもある。
50歳を過ぎても、60歳を過ぎても、
「実家」「実家」と、何かにつけて、
実家に入り浸りになる。

 背景には、未熟な精神性があるのだが、
マザコンというケースも少なくない。
概して、女性に多い。

(「マザコン」というと、男性だけの問題
と考える人も多いが、女性にも多い。
同性であるだけに、外からは、わかりにくい。)

+++++++++++++++++

●嫁ぎ先?
 
 Mさん(現在55歳、女性)は、結婚してすでに30年以上になる。
夫は公務員で、代々つづいた「家」を守っている。
しかしMさんにとっては、自分の生まれ育った実家が、「家」。
傍から見ていると、そんな感じがする。

 ことあるごとに実家に足を運び、実家を守る弟氏(現在50歳)に、あれこれと指示す
る。
冠婚葬祭は言うに及ばず、実家の母親(実母)の世話の仕方にまで、口を出す。
墓参りにしても、嫁ぎ先の墓参りよりも、実家の墓参りの回数のほうが多い。
ときどき弟氏が、「お前は、H家に嫁いだのだから、H家の人間だ」といくら諭しても、そ
れが理解できない。
理解できないばかりか、他人には、こう言う。

「N夫(=その女性の弟氏)は、私に頼ってばかりいる」「N夫は、自分では何もできない」
「先祖をきちんと供養していない」と。

●実家意識

 「実家」意識の強い人は多い。
ことあるごとに「実家」という言葉をよく使う。
これも「家族自我群」の一種ということになる。
「家族」というしがらみが、無数に「私」にからんでくる。
その呪縛感を「家族自我群」という。

 その家族との関係が良好な間は、家族自我群も、よい方向に作用する。
が、どこかでその歯車が狂う。
そういうケースも多い。
とたん家族自我群は、その人を苦しめる(責め具)として機能する。
「家」に縛られ、「家族」に縛られる。
その呪縛感の中で、もがき苦しんでいる人は多い。

●マザコン

 Mさんのケースは、やや特殊である。
結婚して、H家に嫁いではみたものの、そのH家には同化できなかった。
もともと望んだ結婚ではなかった。
それもあった。
が、それ以上に、Mさんは、マザコンだった。
親を絶対視しながら、同時に親離れできないまま成人になった。
40歳を過ぎても、「母ちゃん」「母ちゃん」と言っては、実家に帰っていた。
50歳を過ぎても、「母ちゃん」「母ちゃん」と言っては、実家に帰っていた。

 が、そういう自分を、「孝行娘」と誤解していた。

●特徴

 このMさんというのは、架空の女性である。
いくつかの例を、ひとつにまとめてみた。
しかしこういう例は、多い。
地方の農村部へ行けば行くほど、似たような話を耳にする。

 特徴としては、つぎのようなものが、あげられる。

(1)嫁いでも、嫁ぎ先と同化できない。
(2)嫁いでも、実家意識が強く、実家への帰趨(きすう)本能が強い。
(3)実家を絶対視する。
(4)ものの考え方が、権威主義的。
(5)家父長意識、上下意識が強く、「先祖」という言葉をよく使う。

 本来なら、結婚し、相手の夫の側に籍を入れたら、少なくとも夫側の「家」と自分の実
家を同等にみる。
あるいは「家」意識そのものを、平等に否定する。
さらに言えば、親が子離れし、子どもが親離れするように、「家」離れをする。
その上で、親子という関係であっても、一対一の人間としての人間関係を築く。

●G・ワシントン

 どうであるにせよ、今どき、「家」意識をもつほうが、おかしい。
江戸時代の昔ならいざ知らず。
今は、そういう時代ではない。
また人間が、「家」に縛られる時代ではない。

 名前(姓)にしても、そうだ。
私の知人の中には、「ルーツさがし」と称して、家系図づくりに熱中している人がいる。
人、それぞれ。
しかしあの福沢諭吉は、アメリカで、こんなことに驚いている。

 福沢諭吉が、G・ワシントンの子孫についてたずねたときのこと。
まわりにいた人たちが、みな、「知らない」と答えた。
当時の日本では考えられなかった。
今の日本でも、考えられない。
「G・ワシントンの子孫がどうなっているか、わからないだと!」と、まあ、福沢諭吉は、
そんなふうに驚いたにちがいない。
つまり日本の常識は、けっして世界の常識ではない。

 ちなみに私の祖父は、百姓の出。
一度、祖父は私を、祖父の生家へ連れていってくれたことがある。
土壁むきだしの、窓もないような粗末な家だった。
私が小学6年生か、中学1年生のときのことである。

 だからこれは私のひがみかもしれない。
家系を誇る人に出会うたびに、内心では、「ごくろうさま」と思う。

 今、「私」がここにいる。
ここに生きている。
それでじゅうぶん。


Hiroshi Hayashi++++++++++Sep 09++++++++++++++はやし浩司

●自己認知力

+++++++++++++++++

自分を、自分で、評価する能力があるかないか。
その能力のことを、「自己認知力」という。
ピーター・サロベイの説く「社会適応性」、つまり
EQ論(人格の完成度論)でも、重要なキーワードの
ひとつになっている。

自分で自分を評価する能力の高い人を、自己認知力の
高い人という。
そうでない人を、低い人という。

が、一般的には、自分のもつよい能力を、正当に評価する
能力のことを、「自己認知力」という。
あるいは「私の能力はすぐれている」と信ずる能力のことを、
「自己認知力」という。

この自己認知力には、2種類ある。

(1)能力があり、それを評価する能力がある。
「自分にはどのような能力があるか」を知る能力をいう。
(2)能力がないのに、それを評価する能力がない。
「自分には、どのような能力がないか」を知る能力をいう。

ふつう「自己認知力」というときは、前者をいう。
が、後者のケースも少なくない。
最近、私は、こんな話を聞いた。

+++++++++++++++++

●ある葬儀で

 義兄がある葬儀に参列した。
そこでのこと。
亡くなったのは、87歳の女性。
喪主は、その女性の長男、60歳。
ところが、である。
その長男の嫁(58歳)の様子が、異様だったという。
義兄は、こう話してくれた。

「だんなは昔から、静かな人だった。
そのこともあって、嫁が、ひとりではしゃいでいた」と。

私「はしゃいでいた?」
義「そう、はしゃいでいた。キャッキャッと笑ったり、大声で世間話をしていた。ハイに
なっていた。みな、眉をひそめていたよ」と。

●「私が主人公」

 何かにつけ、自己中心性の強い人は、自分が目立たないと気がすまない。
俗にいう「目立ちたがり屋」というのが、それ。
義兄が言うには、その女性(嫁)が、そうだったという。

 火葬場で火葬を待っているときも、三日目、初七日の法事のときも、「まるでクラブのホ
ステスのように、みなのところを回り、世間話を繰り返していた」と。

「ふつうなら、親(義母)の葬式だから、嫁というのは、しおらしくしているもの。
しかしその女性(嫁)は、まるでパーティでの主人公のように振舞っていました。
で、驚いたのは、火葬が終わって、一度祭事会館へ戻ったときのことです。
最後の焼香というところで、みなの前で、オロオロと泣き崩れてしまったのです。
あれには、みな、あっけに取られました。
というのも、亡くなった女性(姑)とその女性(嫁)とは、昔からうまくいっていなかっ
たことを、みな、知っていたからです」と。

●現実検証能力

 「自分が今、どういう状況に置かれているか」「自分が今、みなに、どう思われているか」。
それを「現実検証能力」ともいう。
しかし「自己認知力」と「現実検証能力」の境目が、よくわからないケースも少なくない。
その女性(嫁)を例にあげて、考えてみよう。

 その女性(嫁)の言動は、たしかに「ふつうではなかった」(義兄談)。
しかしその女性(嫁)は、自分が他人にどう思われているか、それが判断できなかった。
つまり自分を客観的に評価する能力に、欠けていた。
最後の焼香のところで、オロオロと泣き崩れてしまったときも、(横にいた夫が、体を支え
たが)、みなはあっけに取られ、言葉を失った。

 が、そこは葬儀の場所。
現実を正確に知る能力があれば、態度ももっと別のものになっていたはず。

●まるで自分のことがわかっていない

 「あの女性(嫁)はね、一族の中でも、変わり者ということになっていますよ」と、義
兄は話してくれた。
「ところが、自分では、よくできた嫁と思い込んでいるのですね。みなに好かれ、尊敬さ
れていると思い込んでいるのですね」とも。

 そういう人は、少なくない。
まるで自分のことがわかっていない。
自己中心性が肥大化した人を、自己愛者という。
その自己愛者の症状とも似ている。
完ぺき主義で、他人の批判を許さない。
まちがいを指摘されると、それだけでパニック状態になってしまう。
ギャーギャーと泣きわめく。
あるいは激怒する。

 他人に心を許さない。
許さない分だけ、心の中はいつも緊張状態。
ささいなことでカッとなりやすい。

●自己認知力

 こういうケースも、「自己認知力」という能力で判断する。
自分にその能力がないのに、それを客観的に評価できない。
あとは思い込みと過信、独断と偏見だけで、ふつうではない行動を繰り返す。

 この話をワイフにすると、ワイフはすかさず、こう言った。
「そういう人って、意外と多いわよ」と。

私「ぼくだって、そうかもしれない」
ワ「そうね、あなたにも、そういうところがあるわね」
私「だろ……」
ワ「ほら、学者とか、研究者と言われる人の中にも多いということよ」
私「そうだね。その分野のことはよく知っているけど、その外の世界を知らない。教師の
世界も、似たようなものだよ」と。

●では、どうするか

 「自分は他人から、どう見られているか」。
それをいつも自分に問いかける。
(だからといって、他人に迎合しろということではない。誤解のないように!)
私も最近、こんな経験をときどきする。
「私のことを好意的に思ってくれているはず」と信じている人に、裏切られるようなケー
スである。
それに気づいて、「ああ、ぼくって、そんなふうに思われていたのだ」と、驚いたりする。
最近でも、生徒(中学生)に、こう言われたことがある。
「先生(=私のこと)って、キレやすい」と。

 また反対に、意外な人に、高く評価されているということもある。
つまり自分が他人にどう見られているかを、的確に判断するのは、それくらい難しいこと
でもある。

●自己中心性

 自己認知力は、このように一方で、その人の自己中心性と深く結びついている。
が、ある程度、自己認知力を高めるためには、ある程度、自己中心的でなければならない。
「私はすばらしい」という思い込みが、その人の自己認知力を高める。
その人を伸ばすということもある。

 が、同じ自己認知力でも、「まるで自分のことがわかっていない」という自己認知力は、
いただけない。
自分に能力がないのに、それに気づいていない。
プライドばかり強くて、箸にも棒にもかからない。
さらに愚かなことをしながら、それを愚かなこととさえ気がつかない。
そういう人のことを、俗世間では、「バカ」という。
(「バカなことをする人を、バカという。頭じゃないのよ」(フォレスト・ガンプ)。)
 
【補記】

●加齢とともに……

 私の印象では、加齢とともに、自己中心性が強くなっていく人と、反対に『老いては』
に従え』式に、自己中心性が弱くなっていく人がいるように感ずる。
そしてそれは、脳の働きとも、密接に関連している(?)。

 たとえば認知症か何かになると、極端に自己中心性が強くなる人がいる。
人格そのものが、崩れるというか、変化する人も珍しくない。
心の余裕がなくなり、思慮深さが消える。
ささいなことでピリピリと反応し、ときに激怒したり、泣き叫んだりする。

 要するに、これは習慣の問題ということになる。
能力ではなく、習慣。
日ごろから、考えるクセがあるかないかということ。
考えるクセが身についていれば、あえて「自己認知力」などという言葉は使わなくても、
自分のことを正当に評価できるようになる。
そうでなければ、そうでない。
その(ちがい)は、老齢期になると、さらにはっきりとしてくる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hay
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イ EQ論)



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