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もう一作、八正道について書いた
原稿を、再収録します。
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●正精進
釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」ということになる。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。
が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中正」の「正」である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味である。
怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほどほど」が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんという意味でもない。
で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正念、(7)正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努力、思念、瞑想」とある。
このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というのは、日々の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられたような緊迫感がともなう。その緊迫感を大切にする。
ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進についても、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦は、そう説いている。
方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんばる。が、そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重要なのは、自分の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得た情報も、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。
しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝に、ジョギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のうちにも、考えるという行為を避けようとする。
このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「やる!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中には、となりの子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。
子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その考えるという行為は、その人の習慣となって、定着する。
考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生活の中でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちがいが、10年、20年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。
ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人からは、愚かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、利口な人がわからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考える人がわからない。
日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思っていないだろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサをよこせと、キーキーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。
つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心の中で感ずる差のことをいう。
さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、カルト教団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自分たちは絶対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切って捨てる。
こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。とくに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)
【補足】
子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするかが、一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすればよい。
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話をもとにもどす。
あのサルトルは、「自由」の追求の中で、最後は、「無の概念」という言葉を使って、自由であることの限界、つまり死の克服を考えた。
この考え方は、最終的には、原始仏教で説く、釈迦の教えと一致するところである。私はここに、東洋哲学と西洋近代哲学の集合を見る。
そのサルトルの「無の概念」について書いた原稿が、つぎのものである。