●東洋哲学と西洋哲学の融合
2006-11-29 11:45:25 | Weblog【東洋哲学と西洋近代哲学の融合】
●生・老・病・死
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生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。
四苦八苦の「四苦」である。
では、あとの4つは、何か?
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生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。では、あとの4つは何か。
(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。
(1) 別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦しみをいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間の心身を構成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが盛んになりすぎることから生まれる苦しみをいう。
こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後するが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。
(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。
(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかといえば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ねはん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。
以前、八正道について書いたことがある。八正道というのは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つのことをいう。
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●八正道(はっしょうどう)……すべて「空」
大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もない、と。
この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世界かもしれない。
たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの光の信号が集合されているだけ。
私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。
しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。
こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われている。釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。
ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経典も、できあがっている。
しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何もないのではないか、と。
たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私なのかと思ってしまう。
同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのではないか。
こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。
さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。
そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。
私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。
●自分をみがく
そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。
が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。
八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。
しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではないか。
で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。
大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。
その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。
だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。
私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともするかもしれない。
しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる意味がある。
今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみたい。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)
2006-11-29 11:45:25 | Weblog【東洋哲学と西洋近代哲学の融合】
●生・老・病・死
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生・老・病・死の4つを、原始仏教では、
四苦と位置づける。
四苦八苦の「四苦」である。
では、あとの4つは、何か?
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生・老・病・死の4つを、原始仏教では、四苦と位置づける。四苦八苦の「四苦」である。では、あとの4つは何か。
(1) 愛別離苦(あいべつりく)
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)
(3) 求不得苦(ぐふとっく)
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)の、4つと教える。
(1) 別離苦(あいべつりく)というのは、愛する人と別れたり、死別したりすることによる苦しみをいう。
(2) 怨憎会苦(おんぞうえく)というのは、憎しみをいだいた人と会うことによる苦しみをいう。
(3) 求不得苦(ぐふとっく)というのは、求めても求められないことによる苦しみをいう。
(4) 五蘊盛苦(ごうんじょうく)というのは、少しわかりにくい。簡単に言えば、人間の心身を構成する5つの要素(色=肉体、受=感受、想=表象の構成、行=意思、識=認識)の働きが盛んになりすぎることから生まれる苦しみをいう。
こうした苦しみから逃れるためには、では、私たちは、どうすればよいのか。話は少し前後するが、原始仏教では、「4つの諦(たい)」という言葉を使って、(苦しみのないよう)→(苦しみの原因)→(苦しみのない世界)→(苦しみのない世界へ入る方法)を、順に、説明する。
(1) 苦諦(くたい)
(2) 集諦(しゅうたい)
(3) 滅諦(めったい)
(4) 道諦(どうたい)の、4つである。
(1) 苦諦(くたい)というのは、ここに書いた、「四苦八苦」のこと。
(2) 集諦(しゅうたい)というのは、苦しみとなる原因のこと。つまりなぜ私たちが苦しむかといえば、かぎりない欲望と、かぎりない生への執着があるからということになる。無知、無学が、その原因となることもある。
(3) 滅諦(めったい)というのは、そうした欲望や執着を捨てた、理想の境地、つまり涅槃(ねはん)の世界へ入ることをいう。
(4) 道諦(どうたい)というのは、涅槃の世界へ入るための、具体的な方法ということになる。原始仏教では、涅槃の世界へ入るための修道法として、「八正道」を教える。
以前、八正道について書いたことがある。八正道というのは、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つのことをいう。
+++++++++++++++
●八正道(はっしょうどう)……すべて「空」
大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もない、と。
この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世界かもしれない。
たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの光の信号が集合されているだけ。
私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。
しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。
こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われている。釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。
ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経典も、できあがっている。
しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何もないのではないか、と。
たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私なのかと思ってしまう。
同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのではないか。
こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。
さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。
そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。
私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。
●自分をみがく
そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。
が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。
八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。
しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではないか。
で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。
大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。
その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。
だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。
私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともするかもしれない。
しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる意味がある。
今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみたい。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)